第9話 陶器の王
大陸歴一四〇七年 三月十二日
夜は深く、谷には川音だけが絶えず流れていた。
焚火は小屋から少し離れた場所で燃えている。火は小さく、赤い。昼のうちに集めた薪はほとんど灰になり、残った炭だけが静かに熱を吐いていた。ときおり乾いた音が弾け、火の粉がふっと闇の中へ消えていく。川から吹く冷たい風が煙を押し流し、谷を囲む林の上へ薄く広げていた。
背後には小屋がある。
戸は閉ざされていた。中の気配は外まで届かず、誰が起きているのか、誰が眠っているのかも分からない。
アルスは焚火の向こうに座るゼダンを見ていた。
腕を組み、炎を見つめている。赤い光が皺の刻まれた顔を照らしているが、その表情はほとんど変わらない。
いつも通りだった。
何かを判断するとき、この男は感情を表へ出さない。ただ目の前の事実を拾い、最も厳しい可能性から考える。
アルスはしばらく火を眺めていたが、やがて口を開いた。
「どう見る」
ゼダンはすぐには答えなかった。
足元へ落ちていた小枝を拾い、炭を軽く突く。崩れた灰の奥から赤い光が覗き、火がわずかに明るくなった。
「逃げにも見えますな」
低い声だった。
ぱちり、と焚火が弾ける。
「土器と知った。館は焼けた。そこへ若が現れた。戻る理由ができた。……出来すぎている」
「そうだね」
アルスは否定しなかった。ティムのことはよく知っている。
勢いがあり、真っ直ぐで、思いついたことへ全力で向かう男だ。三年前、突然「陶器の王になる」と言い出した時も、周囲は笑った。
だが、あの目だけは本物だった。本気で夢を追っていた。
だからこそ、今の状況には引っ掛かるものがあった。
夢を追って離れた男が、その夢が思うようにいかなかった直後に主家の危機を知り、戻ろうとしている。
偶然と言えばそれまでだが、あまりにも都合が良すぎる。
「それでも力はあるんだよな」
アルスは火を見つめたまま言った。
「あの男の弓なら、まだ鈍っていないと思う」
ティムの腕は知っている。
ふざけた言動が多い男だが、弓を持った時だけは別人だった。
ゼダンは視線を上げずに答える。
「ですが、あいつ自身の腹が決まっておるでしょうか」
川音だけが流れる。焚火の炎が小さく揺れた。
アルスはゆっくり息を吐く。
「決まっていなければ、決めさせるだけだよ」
ゼダンの目がわずかに細くなった。
「退路を断たせるべきですな」
声は低く、しかし迷いがなかった。
「一度、出奔した者です。戻すのであれば、今度は道を一つにする必要がある。落ち着いた頃に、また別の道へ進まれては困ります」
ゼダンらしい考え方だった。
人は二つの道を同時には歩けない。何かを選ぶなら、何かを捨てなければならない。
アルスは静かに頷く。
「……そうだね」
家をもう一度築くなら、軽さは残せない。
夢を見ること自体が悪いわけではないが、主家に仕えると決めた者には、それ相応の覚悟が必要になる。
火は静かに燃え続けていた。
その赤い光を見つめながら、アルスの脳裏に三年前の光景が浮かび上がる。
まだ館があり、父がいて、何も失っていなかった頃の記憶だった。
三年前。
まだ館が健在で、庭に春の光が落ちていた頃だった。
大陸歴一四〇四年 初夏。
アルスが思い出すのは、穏やかな夜だった。
その日の広間には、酒の香りが満ちていた。昼の務めを終えた家臣たちが長卓を囲み、杯を交わしながら思い思いに声を上げている。
焼いた肉の香ばしい匂いと、葡萄酒の甘い香りが混ざり合う。奥では楽師が弦をゆっくりと奏でていた。
戦はなく、領内も静かだった。
家臣たちはそれぞれの務めを終え、酒を飲みながら疲れを癒やしていた。
ミュラー家にとって、珍しくもない夜。
少なくとも、あの頃のアルスにはそう思えていた。
その広間の中央で、ティムが立ち上がった。少し前まで、誰かと笑いながら杯を交わしていたはずだった。
だが突然、表情を変え卓へ手を置き、背筋を伸ばした。
そして、広間全体へ響く声で言った。
「陶器の王に俺はなる!」
一瞬、広間の音が止まった。
杯を口へ運びかけていた者の手が止まり、弦を弾いていた楽師の指も止まる。
だがすぐに、あちこちから小さな笑い声が漏れた。
「陶器の王?」
「どうした。今度は土弄りがしたくなったか」
「そのうち鍋王にもなるんじゃないか」
軽口が飛び交う。ほとんどの者は、酒の席での冗談だと思っていた。
ティムという男は、昔からそうだった。
思いついたことを勢いのまま口にし、周囲を驚かせる。だが、その突拍子のなさも含めて、皆が彼の性格を知っていた。
また何か始まったと、誰もが、そんな顔をしていた。
だがアルスはティムが笑っていないことに気付いていた。
からかわれていることなど気にせず、ただ真っ直ぐ前を見ている。
その視線の先にいたのは、父サエルだった。
サエルは杯を手にしたまま、立ち上がった家臣を静かに見ていた。
笑みもなければ呆れた様子もなく、ただ続きを待っている。
その姿を見て、ティムはさらに言葉を続けた。
「土を焼き、器を極めます」
広間の空気が少しだけ変わる。
「いつか、誰もが認める陶器を作ります。そうなれば、陶器の王と呼ばれてもおかしくないでしょう」
言葉だけを聞けば、やはり突拍子もなかったが、声には冗談ではない真剣さがあった。
アルスは今でもあの時のティムの目を覚えている。
笑われていることなど、最初から関係なく、自分が進みたい道だけを見ていた。
サエルはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと杯を卓へ置く。
「陶器の王か」
低い声だった。
「はい」
ティムは迷いなく頷いた。
その表情には、周囲の笑いを気にする様子などなく、ただ自分の考えを主へ伝えることだけを考えているようだった。
広間が少し静かになる。
サエルはしばらくティムを見つめ、それから口を開いた。
「……良いじゃないか」
止めなかった。
笑う者はまだいたが、主が認めた以上、それ以上の茶化しは続かなかった。
広間は再び元の空気へ戻っていく。
楽師が弦を鳴らし始め、杯がぶつかり合う音が響く。
誰かが笑い声を上げ、別の場所ではまた新しい話題が始まった。
いつもの夜だった。
だが、父の傍でその場にいたアルスは覚えている。
あの時、ティムが見ていたものは酒席の浮かれた空気ではなかった。
夢と呼ぶしかないものだった。
笑われても、呆れられても、それでも追いかけたいと思えるもの。
少なくとも、あの時のティムは本気だった。
本気で夢を見ていた。
大陸歴一四〇七年 三月十三日
夜が明け、薄い光が谷を淡く照らしていた。
焚火はすでに熾火となり、赤い炭がかすかな熱を残している。川音は冷たく、朝の空気を通して谷全体へ響いていた。
アルスは小屋の外へ出ると、焚火の前に立つティムの姿を見つめた。
ティムは昨日と同じ壺を手にしていた。
いや、壺ではなく土器だと告げられた焼き物を、ティムは黙ったまま見下ろしている。
床へ転がっていたそれは、割れてはいなかった。
だが、昨日まであれほど誇らしげに語っていた男は、もう何も言わない。
アルスはその姿を見ながら、ゆっくりと歩み寄った。
隣にはゼダンがいる。この先の問いをするのは、アルスではなくゼダンの役目だった。
ゼダンは静かに声を落とす。
「ティム。昨夜の話を覚えているか」
ティムは顔を上げた。
一度だけ息を整える。
「はい」
「今、この場で主に仕える覚悟はあるか」
短い問いだったが、その意味は重い。
熾火の赤い光が、二人の影を地面へ長く伸ばしていた。
ティムは壺の縁へ指を触れる。
それは三年間追い続けた、夢の結果として残ったもの。
だが、もう迷いはないようだった。
顔を上げ、真っ直ぐゼダンを見る。
「はい」
静かな声だった。
「色々と遠回りしましたが、今の俺にあるのは、若に仕えることだけです」
言葉には軽さも言い訳もなかった。
昨夜、夢が砕けたことも。三年前、家を離れたことも。
全てを受け入れた上で出した答えだった。
ゼダンはゆっくり頷く。
「退路は断ったな」
その声は確認だった。
「二つの道は歩めぬ」
「必要ありません」
ティムの返事に迷いはなかった。
アルスはしばらくその顔を見ていた。
そして短く告げる。
「立って」
ティムは深く頭を下げる。そしてゆっくりと立ち上がり、背筋を伸ばした。
その背後から、足音が近づいてくる。レオンだった。
アルスは視線を向ける。
レオンは一瞬だけ足を止めた。その姿は迷っているようにも見えた。
妹を残して、自分も先へ進むべきなのか。それとも共に歩むべきなのか。まだ答えを出せずにいるのだろうか。
だが、やがてレオンは小さく息を吐いた。
そして、アルスを見る。
幼い頃から共に過ごしてきた。川で遊び、木剣を交え、叱られ、笑い合った日々。
いつも隣にいた友が、俺の名を呼ぼうとして、一瞬だけ迷う。
「アルス……」
だが、すぐに言葉を改めた。
「……いや、若」
その声には、決意が込められていた。
「俺も共に参ります」
レオンは膝をつき、ティムの後ろで頭を下げる。
その頃には迷っている風はなかった。
幼い頃から知る友が、家を失い、それでも立ち上がろうとしている。ならば、自分が隣に立つ理由はそれだけで十分だとか、レオンの事だ。相も変わらず難しくも優しいことを考えているのだろう。
アルスはわずかに目を細めるだけで、問いはしなかった。
胸の奥に、熱が広がる。
館を失った悲しみは、まだ消えていない。
父のことも、家臣たちのことも失ったものは、あまりにも大きかった。
それでもこうして、共に立ち上がってくれる者がいる。
その事実だけが、暗かった谷に少しだけ光を差し込ませていた。
その時、さらに足音が近づいた。ローザだった。
迷いのない歩みだった。
彼女はアルスたちの前まで来ると、二人の横に膝をつき、背筋を伸ばす。
「父さんとレオン兄が行くなら、私も行きます」
アルスはすぐに首を振った。
「ダメだ」
言葉は厳しかったが、突き放したわけではない。
今の混乱を知る者としての、静かな警告だった。
ローザの目が細くなる。
「遊びではないと分かっています」
その声の奥には確かな覚悟がある。
「私にも、覚悟はあります。だから、若と共に行きます」
アルスは言葉に詰まる。
「守れるとは限らない」
脳裏に浮かんだのは、炎に包まれた守れなかった館だった。
あの日、自分は何もできなかった。
ゼダンが静かに言葉を継ぐ。
「若。守るのは一人ではありませぬ」
ローザを見る。
「我らも共に守ります」
顔を上げたローザの目に恐れも迷いもない。
アルスはゆっくり息を吐いた。
そして、静かに告げる。
「……立て」
一拍置く。
「ついて来い」
ティム、レオン、ローザ。三人が並ぶ。
膝をつき、覚悟を示したその姿は、夜明けの赤い光に照らされていた。
焼けたのは館であって、家そのものではない。人はまだ残っている。
土器は床に転がったままだ。
それでも、灰の中から新しい火が生まれようとしていた。
失ったものだけではない。
これから築くものも、まだ残っている。
アルスはそう思いながら、静かに谷の朝を見つめていた。
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