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第9話 陶器の王

大陸歴一四〇七年 三月十二日 深夜


 夜は深く、川音だけが絶えず流れていた。


 焚火は小屋から少し離れた場所で燃えている。火は小さく、赤い。昼に集めた薪はほとんど灰になり、残った炭が静かに熱を吐いていた。ときおり乾いた音が弾け、火の粉がふっと闇へ消える。川からの冷たい風が煙を押し流し、谷の林の上へ薄く広げていった。


 背後には小屋がある。


 戸は閉まっていた。中の気配は外まで漏れてこない。誰が起きているのか、誰が眠っているのか、それもわからない。


 火の向こうにゼダンが座っていた。


 腕を組み、炎を見ている。赤い光が皺の刻まれた顔を照らしていたが、その表情はほとんど動かない。


 アルスはしばらく火を見つめ、それから口を開いた。


「どう見る」


 ゼダンはすぐには答えなかった。足元の小枝を拾い、炭を軽く突く。火がわずかに明るくなる。


「逃げにも見えますな」


 低い声だった。火がぱちりと弾ける。


「土器と知った。館は焼けた。若がここにいる。戻る理由ができた。……整いすぎている」


「そうだね」


 アルスは否定しなかった。


 夢が砕けた夜に、主家が滅びた知らせが届く。偶然と言えばそれまでだが、出来すぎているとも言える。


 だが。


「力はあるんだよな」


 アルスは火を見つめたまま続けた。


「あの男の弓は鈍っていないだろう」


 ゼダンは視線を上げずに応える。


「ですがが、あいつの腹が決まっておるでしょうか」


 川音が流れる。焚火が小さく揺れた。


 アルスはゆっくり息を吐く。


「決まっていなければ、決めさせるだけだよ」


 ゼダンの目がわずかに細くなった。


「退路を断たせるべきですな」


 低く、はっきりした声だった。


「一度出奔した者です。戻すなら、今度は道を一つに。落ち着いたころまた二股に割れかねん。欲張らせてはなりません」


 人は二つの道を同時に歩けない。ゼダンはそういう男だった。アルスはゆっくり頷く。


「……そうだね」


 家を再び築くなら、軽さは削がねばならない。夢を見ることと、仕えることは別だ。


 火は静かに燃え続けている。


 その赤い光を見ながら、アルスの脳裏に三年前の光景がよみがえった。




 三年前。


まだ館が健在で、庭に春の光が落ちていた頃だった。


大陸歴一四〇四年 初夏


 その夜、館の広間には酒の匂いが満ちていた。昼の務めを終えた家臣たちが長卓の周りに集まり、杯を交わしながら思い思いに声を上げている。肉の焼ける香りと葡萄酒の甘い匂いが混ざり、奥では楽師が弦をゆるやかに弾いていた。館では珍しくもない夜である。戦もなく、領内も静かで、家臣たちはそれぞれの疲れを酒で流していた。


 その中央で、ティムが立ち上がった。


 誰かと笑いながら杯を交わしていたはずだったが、ふいに真顔になり、卓に手をついたまま胸を張った。そして広間の空気を裂くような声で言った。


「陶器の王に俺はなる!」


 広間の音が一瞬だけ止まった。


 杯を口に運びかけていた者の手が宙で止まり、弦を弾いていた楽師の指も止まる。次の瞬間、あちこちからくすくすと笑いが漏れた。


「陶器の王?」


「どうした。今度は土弄りがしたくなったか」


「そのうち鍋王にもなるんじゃないか」


 軽口が飛び交う。酒の席の冗談として受け取った者がほとんどだった。ティムという男は勢いのある性格で、思いついたことをそのまま口にすることも多い。誰もが、また何か始まったという顔をしていた。


 だが当の本人は笑っていなかった。


 ティムはまっすぐ前を見ている。その視線の先には、サエルがいた。


 サエルはしばらく黙っていた。杯を手にしたまま、立ち上がった家臣を見ている。その顔には笑みも呆れもなかった。ただ静かに、言葉を待っている。


「土を焼き、器を極めます」


 ティムは続けた。


「いつか、誰もが認める陶器を作ります。そうなれば、陶器の王と呼ばれてもおかしくないでしょう」


 広間の笑いがまた少し広がる。言っていることは突拍子もない。だが、声には妙な真剣さがあった。


 サエルは杯をゆっくり卓に置いた。


「陶器の王か」


 低く言う。


「はい」


 ティムは頷いた。からかい半分の空気など気にしていない様子だった。ただ自分の言葉を主に届けることだけを考えているように見えた。


 広間は少しだけ静かになっていた。サエルはしばらく黙り、それから言った。


「……良いじゃないか」


 止めなかった。


 笑う者もいたが、主がそう言った以上、それ以上の茶化しは広がらない。広間はすぐに元の酒席へ戻り、楽師が再び弦を鳴らし始める。杯がぶつかり合う音が戻り、誰かがまた笑い声を上げた。


 いつもの夜だった。だが父の傍で、参席していたアルスは覚えている。


 あのときティムの目は、酒席の浮かれた光ではなく、もっと別のものを見ていた。夢という言葉で片づけてしまえばそれまでだが、少なくとも本人は本気だった。


 本気で夢を見ていた。






大陸歴一四〇七年 三月十三日 


 夜が明け、薄い光が谷を淡く照らしていた。


 焚火はすでに熾火となり、赤い炭がかすかに熱を放つ。川音は冷たく、朝の空気を通して谷を満たしていた。


 ティムは焚火の前に立ち、昨日と同じ壺を持ち出し、見下ろす。転がったままの土器は、割れてはいなかったが、もう何も語らない。彼はじっとそれを見つめたまま、胸の内で思いを巡らせる。


 アルスがゆっくり前に歩み寄り、視線をティムに向ける。ゼダンもその横で静かに立っていた。


 ゼダンは声を落とす。


「ティム。昨夜の話を覚えているか」


 ティムは目を上げ、わずかに息を整える。


「はい」


「今、この場で、主に仕える覚悟はあるか」


 問いは重く、炭の赤い光が、二人の影を地面に長く伸ばしていた。


 ティムは短く息を吐く。指先で壺の縁に触れ、最後の迷いを振り切るように顔を上げた。


「はい。色々遠回りしましたが、今の俺にあるのは若に仕えることのみです」


 言葉には軽さも、言い訳もなかった。昨夜の混乱も、三年前の夢も、今は全て消え、ただ一つの誓いだけが残っていた。


 ゼダンがゆっくり頷く。


「退路は断ったな。二つの道は歩めぬ」


「必要ありません」


 言葉は静かだが、揺らぎはなかった。アルスは少し間を置き、短く告げる。


「立って」


 ティムは深く頭を下げ、背筋を伸ばした。その背後に、足音が近づく。レオンだった。


 彼は一瞬、立ち止まり、視線を揺らした。胸の奥で、父と妹を置いて単独で走ろうかという衝動が、まだ残っている。長く息を吐き、しばらく立ち尽くす。


 視線はアルスに向けられている。幼い頃から、川で遊び、木剣を交え、叱られ、笑い合った日々。いつも隣にはアルスがいた。親友として呼んできた名――アルス。

 

 小さく息を吐き、声を絞り出す。


 「アルス……いや、若」


 思わず、迷いを振り切るように声を出す。胸の奥が熱くなる。退路を断ったアルスの姿を見て、ようやく自分も選べると感じた。


 「俺も共に参ります」


 膝をつき、ティムの後ろで頭を下げる。その言葉に迷いはなかった。共に幼年を過ごした友の窮地だ、迷う理由がない。


 アルスはわずかに目を細めるだけで、それ以上の問いはなかった。ただ胸に、わずかに熱が上がる。家を焼かれた悲しみはまだ残る。だが、立ち上がる者がいる。それだけで、谷の朝が光を増すようだった。


 続いて、ローザの足音が近づく。迷いはない。彼女は二人の横に膝をつき、背筋を伸ばした。


「父さんとレオン兄が行くなら、私も行きます」


 アルスは首を振り、静かに言う。


「ダメだ」


 言葉は厳しい。だが、それは戦の覚悟を知る者の静かな戒めだった。


 ローザの目が細くなる。


「戦は遊びではないと解っています」ローザは静かに、しかし確かな声で言った。


「私も、その覚悟はあります。だから、若と共に行きます」


「守れるとは限らない」


 守れなかった。館を。


 ゼダンが静かに言葉を継ぐ。


「若。守るのは一人ではない。我らも共に守ります」


 ローザは顔を上げる。目は真っ直ぐで、恐れも迷いもない。


 アルスは深く息を吐き、声を落とす。


「……立て。ついて来い」


 ティム。レオン。ローザ。三人の背が揃う。膝をつき、覚悟を固めたその姿は、夜明けの赤に染まる谷で力強く光っていた。


 焼けたのは館だ。だが家ではない。人はまだ立っている。土器は床に転がったままだ。しかし確かに何かが燃え、灰の中から新たな覚悟が立ち上がったのだ。

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