第10話 森の中、町の中
大陸歴一四〇七年 三月十三日
朝の慌ただしさがようやく収まり、山の空気が再び静けさを取り戻しはじめた頃だった。
アルスはティムが建てた家の中で、ゼダン、ティム、レオンと向かい合って座っていた。
粗削りな造りの家だった。
木を組み合わせただけの柱や梁は、よく見ればわずかに歪んでいる。壁の板にも隙間があり、そこから差し込む昼の光が床へ細い筋を落としていた。
それでも、屋根と壁に囲まれているというだけで、山中での野営とは違う落ち着きがある。
それだけのことが、今のアルスには大きな違いに感じられた。
外では、ローザが水を汲みに川へ下りているようだった。桶が石に触れる乾いた音が、ときおり風に乗って聞こえてくる。
兵士たちの気配も外にあった。この家に残っているのは、アルスを含めた四人だけだった。
昨夜のうちに、ティムは戻る覚悟を決め、レオンも自分の隣に立つことを選んだ。ローザも同じだった。
ならば、次に決めるべきなのは――これからどう動くかだ。
ミュラー家の館は焼け落ちた。
戦場へと向かった家臣たちは、今どこにいるのかも分からない。
残っているのは、この家にいる者たちと、外にいるローザ。それに五人の兵士だけ。
再起しようにも数はあまりにも少ない。だが、その現実を口にする者はいなかった。
皆が理解しているからこそ、静かな緊張がこの場を包んでいた。
アルスは三人の顔を順に見た。
ティムは膝の上で手を組み、真っ直ぐこちらを見ている。
三年前、自分の夢を追うために家を離れた男とは思えないほど、その目には迷いがなかった。
レオンは若いながらも落ち着いた表情をしている。
幼い頃から知る友だが、昔のままではない。家を失った今も、考え、迷い、それでも自分の立つ場所を決めた顔だった。
ゼダンはいつも通り穏やかな表情で壁にもたれ、黙っている。だが、その目は全てを見ていた。
山を越え、偶然のような再会を果たした。しかし、それだけで状況が良くなったわけではない。
むしろ今、ようやく本当の意味で立ち止まったのだ。
これからどこへ向かうのか。何を目指すのか。何を取り戻すのか。
それを決めなければならない場所に、自分たちは立っている。
アルスはその事実を胸の奥で噛みしめた。
館にいた頃なら、こうした場で自分が口火を切ることはなかっただろう。
決めるのは父であり支えるのは老臣や兄たちだった。
自分はその背中を見ていればよかった。
だが、その背はもうない。
あの日、炎に包まれた館とともに、守られていた時間も終わった。だからこそ、今ここで決めるのは自分でなければならない。
アルスはゆっくりと息を吐いた。
「これからのことを決めようか」
短い言葉だったが、それで十分だった。
ティムの背筋がわずかに伸びレオンも視線を上げる。ゼダンは壁にもたれたまま、小さく頷いた。
この先どこに身を置き何を優先するのか。誰を頼りどこから立て直すのか。それを決めなければ、我々は風に流される木の葉のように消えてしまう。
「館は焼かれ家族も散った。俺に残っているのは、ここにいる者だけだね」
一度言葉を切る。
「多いとは言えない数だけど、逆に言えば動き方を決めるのも早いはずだよね」
三人は誰も目を逸らさなかった。
ならば、ここから始められる。
「まず聞きたい」
静かに問いかける。
「今の状況で、何を優先すべきだと思う」
それは、ただ意見を求める言葉ではなく、この先の道を決めるための、最初の一歩だった。
四人による小さな会議が、こうして始まった。
アルスの問いが落ちると、家の中にはしばし静かな間が生まれた。
外では川の水音が細く聞こえる。時おり、兵士たちが荷を動かす気配も混じっていた。
だが、この狭い家の中では、四人の視線だけがゆっくりと行き交っている。
やがて、ティムが口を開いた。
「まずは身を隠すべきだな」
膝の上で手を組み直し、落ち着いた声で続ける。
「館が焼けた以上、生き残りがいないか確かめに来る。あの混乱で逃げ延びた者がいることぐらい、向こうも分かっているはずだ」
ティムは一度言葉を切る。
「今、下手に動けば追手にぶつかるだけだ。まずは人目の届かぬ場所へ身を潜め、敵の動きが落ち着くのを待つ。それが一番堅いと思う」
アルスは黙って聞いていた。
ティムらしい考え方だった。勢いで突き進むこともある男だが、戦いや生き残るための判断では現実をよく見ている。
今の自分たちは勝者ではなく敗者だ。急げば何かを得られるどころか、全てを失う可能性がある。
そのことをティムは理解していた。
だが、その言葉にレオンがわずかに首を振った。
「隠れることは必要でしょうが、、隠れてばかりでは何も変わりません」
静かな声だった。
「このまま山に潜んでいるだけでは、いずれ食べ物も尽きます。拠点が要ります。腰を据える場所がなければ、人は集まりませんし、家も立ちません」
レオンの言葉を聞き、アルスは少し意外に感じた。
ただ逃げ延びることではなく、その先を考えている。
昔からそうだった。レオンは物事を一つ先まで考えようとする。だからこそ、時々必要以上に難しく考えてしまうところもある。
今もきっと、隠れるべき理由と進むべき理由、その両方を頭の中で並べているのだろう。
ゼダンがそこで口を挟んだ。
「どちらも、もっともですな」
壁に背を預けたまま、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「身を隠さねば捕まる。だが、隠れているだけではいずれ消える。拠点も要るでしょうし、人も要る。今の人数では、とても家とは呼べませぬ」
ゼダンは少し間を置いた。
「仲間を集めねばなりませんな。生き残り身を隠した家臣たちもいるでしょうし、外にも力を貸してくれる者はいるはずです。しかし、十人では何も守れませぬ。せめて、もう少し人の数が要る」
アルスは黙って三人の話を聞いていた。
隠れるべきだという意見。拠点を持つべきだという意見。仲間を集めるべきだという意見。
どれも間違っていない。むしろ、どれも必要なことだった。
だが問題は、どれも簡単にはできないということだ。
誰が生き残り、誰がどこへ向かったのかも分からない。敵の軍勢がどこまで伸びているのかも、今のアルスたちには見えていなかった。
つまり、自分たちはほとんど何も知らないまま、これからの道を決めようとしている。
アルスは口を開いた。
「情報がないな」
三人の視線が集まる。
「敵がどこまで来ているのかも、家臣たちがどこへ向かったのかも分からない。どこが味方なのかさえ、今は見えていないよね」
それは、目隠しをされたまま道を選ぶようなものだった。
しばらく沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのはゼダンだった。
「つまり」
わずかに口元を緩める。
「全部必要ということですな」
ティムが小さく笑った。
「欲張りだな」
「欲張らねば立てぬ状況だ」
ゼダンは肩をすくめる。
「隠れねば捕まり、拠点がなければ家は立たず、人がいなければ守れない。しかも敵の動きも知らねばならぬ。どれも欠かせぬ話です」
アルスはゆっくり息を吐いた。
確かにその通りだった。
どれ一つ欠けても、この先は立ち行かない。だが、全てを同時に進めることはできない。
まず何から始めるのかの順番を決める必要がある。
アルスは顔を上げた。
「順を決めようか」
三人の視線が静かに集まる。
ここで迷えば、また流される。それでは駄目なのだろう。
アルスは言った。
「まずは身を隠す」
ティムが小さく頷く。
だが、アルスはそこで言葉を切らなかった。
「ただし――山ではない」
その言葉に、三人の視線がわずかに動いた。
身を隠す。そこまでは誰も異論がない。問題は、その場所だった。
山に潜むことは、敗れた者がまず思いつく手だ。人の少ない場所へ退き、追手の目から逃れる。それは昔から変わらぬやり方だった。
だが、アルスははっきりと否定する。
「山ではない」
家の中に静かな間が生まれた。
ティムが腕を組む。
「……山が駄目な理由は何だ」
疑う声ではなく、確かめる声だった。
アルスはゆっくり答える。
「山は人が少ない。だから、隠れるには都合がいいように思える」
一度、言葉を置く。
「だけど、今の俺たちには向かないんじゃないだろうか」
三人は黙って聞いている。
「人数が中途半端に多いんだ」
アルスは続けた。
「一人や二人なら、山でも姿を消せるかもしれない。でも十人もいれば話は別だよ。食べ物も要る。火も焚く。人の動きはどうしても残る」
山は広いが、そこで暮らす者は人の痕跡に敏い。煙の匂いや踏み跡、それに伐られた枝。そうした小さな変化から、見慣れぬ人間の存在を察する。山を知る者ほど、そのことを知っている。
レオンが静かに言った。
「確かに……山村はよそ者を嫌います。流民や山賊の噂は、すぐ広まる」
ゼダンも頷いた。
「山に入れば安全、というほど単純なものでもありませぬな」
アルスは続ける。
「木を隠すなら森の中という言葉があるよね」
少し間を置く。
「人を隠すなら――町の中だ」
ティムが顔を上げた。
しばらく沈黙が落ちる。
山とは逆に町には人が多いし、よそ者もまた珍しくない。そういう場所では、一人ひとりの顔を覚えている者などほとんどいない。人の流れそのものが、隠れ蓑になる。
最初に口を開いたのはレオンだった。
「町……ですか」
「人が多くて流れもある。商人も旅人もいる。顔を覚えられる前に、溶け込めるんじゃないか」
アルスは続けた。
「山に十人いれば目立つ。でも町に十人いても、誰も気にしないと思うんだ」
ティムは腕を組んだまま考えていた。
やがて、ゆっくり頷く。
「なるほど……理屈は分かる」
そして小さく笑う。
「確かに山に十人もいれば、敵兵に問われた時に思い当たる数だ」
ゼダンが静かに言った。
「町ならば、逆にその程度の数、誰も気にせぬ」
「そういうことだよ」
アルスは答える。
「人が多いところでは、よそ者も日常の一部だ。十人程度なら、紛れてしまえば終わりだ」
レオンはゆっくり頷いた。
「隠れる場所としては……確かに理にかなっています」
だが、そこでゼダンが言った。
「ただ、町にも問題はありますな」
アルスは視線を向ける。
「噂です。人が多いところほど、話も広がる。身元を詮索する者もいるでしょう」
「だからこそ」
アルスは言った。
「町は選びたい」
三人の視線が集まる。
「敵との繋がりが有りそうな土地では駄目だ。逆に、完全に味方の土地だと敵も疑って目が厳しい。どちらにも属さない場所がいい」
ティムがすぐに答えた。
「あるな」
アルスが顔を向ける。
「バウム領の領都――バウムゼン」
ティムは言った。
「西部四十八家の一つ。規模はそれほど大きくないが、交易は盛んで、人の出入りも多い。それに……」
少し言葉を区切る。
「昔から、四十八家内に限ってだが、どこに対しても表向きは中立を守っている土地だ」
中立。
その言葉が家の中に静かに落ちた。
敵でもなく味方でもない。だが、だからこそ紛れる余地がある。
アルスはゆっくり頷いた。
「そこへ入ろうか」
言葉は迷いなく出た。
「町に紛れ情報を集める。敵の動きも町に入れば必ず耳に入る。拠点を探すのも、その中でやればいい」
ティムが頷き、レオンも同意するように息を吐いた。
ゼダンはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと言った。
「……悪くない」
それは、彼なりの賛成だった。
こうして四人の進む方向は、ようやく一つに定まった。
夜は静かだった。
谷を流れる川の音だけが、細く長く続いている。
昼間は気にならなかったはずの音が、夜になると妙にはっきり聞こえた。人の声が消えると、山はすぐに本来の静けさを取り戻す。
明朝、ここを出ることが決まった。
兵士たちはそれぞれ黙々と荷をまとめている。持てるものは限られている。だから武具も食料も、必要最低限しか持ち出せない。
それでも、矢束を整え、革紐を締め直し、剣の刃を確かめる手つきには、もう逃げる者の姿はなかった。
つい先ほどまで、彼らはただ生き残るために山へ逃げ込んだ、敗残の者だったのだが今は違う。
向かう場所が決まり、やるべきことが見えた。人は行き先を持つだけで、こうも変わるものなのか。
小屋の中では、ローザが静かに荷をまとめていた。その動きには迷いがなく、旅へ出る者の手つきだった。
レオンは戸口に腰を下ろし、外の闇を眺め時おり川の方へ視線を向ける。明日から向かう町のことを考えているのだろう。
人の流れの中へ入り込むということは、山とは違う難しさがあるとか悩んでいるのか。その姿も懐かしく、思わず笑みが浮かんでしまう。
外を見ればゼダンが焚火の前に座っていた。
火は大きくしていない。細い枝をくべるたび、赤い火が短く息を吹き返す。煙は夜気へ溶け、闇の中へと消えていく。
その火のそばに、ティムが座っていた。
手にしているのは、あの土器だった。
アルスは少し離れた場所から、それを見つめるティムの姿を見る。昼の光の下で見た時より、夜の火に照らされた土器は、さらに歪んで見えた。口はわずかに傾き、胴は不自然に膨らみ、底も完全には平らではない。器として見れば、決して出来の良いものではない。
それでも三年前にティムが初めて焼き上げた時は、きっと宝物のように感じたのだろう。
それを容易に想像できるからこそ、今こうして黙って見つめる姿が、アルスには少しだけ寂しく見えた。
やがてティムは、静かに焚火の明かりが届かない場所へ土器を置いた。暗がりに半ば沈みながら、それでもその形だけは残っている。
ゼダンはそれを横目で見ていたが、何も言わなかった。
しばらくして、ティムがぽつりと呟く。
「……上手くできると思ったんだけどな」
焚火が小さく鳴る。
「陶器の王に、本当になれると思っていた。俺ならできると、そう信じてたんだ」
自嘲するような笑いだったが、後悔しているようには見えなかった。
アルスには分かっていた。
ティムは夢を諦めたのではなく、三年間追い続けたものを、自分の手で終わらせたのだ。
ゼダンは火を見つめたまま口を開く。
「人の道とは、真っ直ぐなものばかりではない」
枝が一つ、ぱちりと弾けた。
「二股に分かれた道が、進んだ先でまた一筋の道へと転ずることもある」
ティムはしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「……そうだな」
その視線は、闇の中に置かれた土器へ向いていた。それを置いていったからといって、三年間が消えるわけではない。
失敗した時間でもなかった。
その三年があったからこそ、今のティムがここにいる。
アルスはそう思った。
火の赤が静かに揺れる。
山の夜は深く、雲の切れ間から星がいくつか覗いていた。
明日は早い。それでも、誰もすぐに眠ろうとはしなかった。恐らく町へ入れば、もうここで夜を迎えることはないだろう。
焚火はゆっくりと小さくなり、最後には赤い炭だけが静かに残った。
大陸歴一四〇七年 三月十四日
夜明けの東の空がわずかに白み始めた頃、最初に動き出したのは兵士たちだった。
火の残りを確かめ、水袋を整える。矢束を背に結び直し、武具の具合を確認する。その声は低く、動きに無駄はない。
出発の朝とは、こういうものなのかもしれない。
向かう場所が決まった者の身体は、自然とその方向へ整っていくのだと、アルスは感じていた。
負傷していた兵士の足は、昨夜より腫れが引いていた。
慎重に立たせ、ゆっくり歩かせてみる。まだ痛みは残っているようだったが、支えなしでも進めるという。
無理はさせないと決めて、荷を分けることにした。一人が遅れれば、隊全体の速さも落ちる。これから先は、ここにいる全員の歩幅が、そのまま道の速さになる。
小屋の外では、他の兵士たちがすでに支度を終えていた。疲労は残っているだろうが、見る限り誰の目にも諦めた色はなかった。
戸が開き、ローザが外へ出てくると、そのまま川へ向かって歩いていった。やがて、水を汲む音が静かに響く。
レオンはすでに弓を背に掛け、遠くを見ている。あの先が、今日から進む道になるとか考えているのだろう。
アルスは少し離れた場所から、その横顔を見て、その後周囲をゆっくりと見回す。
ここは逃げ続けるだけだった自分たちが、初めて足を止め、これから進む道を決めた場所だった。
ゼダンが近づいてくる。
「皆、支度は整っております」
アルスは小さく頷いた。
「では行こうか」
大きな声ではなかったが、それでも兵士たちはすぐに顔を上げる。
荷を背負い、武具を整え、自然と一つの列ができていく。
ティムは最後に小屋の前へ戻った。入口の脇の地面の端には、昨夜置いていった土器が残っている。火の明かりの外へ転がしたまま、夜露に濡れていた。
ティムはそれを拾わず、ただ一度だけ見つめ、静かに背を向ける。
歩き出したティムの横へ、レオンが並んだ。
「いいのか」
短い問いだった。
ティムは少しだけ笑う。
「いいんだ。あれは、あそこに置いていく」
レオンはそれ以上、何も聞かなかった。
アルスは先頭へ立つ。
この道を進めば、やがて山を下り、森を抜け、町へ至る。
バウムゼン。
これから自分たちが身を隠し、立て直すための場所だ。
アルスは一度だけ振り返った。
掘っ立て小屋はまだぼんやりと見えている。屋根は歪み、壁も真っ直ぐではない。
それでも、ここで過ごした夜は、自分たちにとって確かな意味を持っていた。
逃げるだけだった時間を終え、次へ進むための場所になった。
やがてアルスは前を向く。
「行くぞ」
一行はゆっくりと歩き出した。
十人の影は細い山道を下り、やがて森の奥へ消えていった。
町へ向かう道は、まだ誰のものでもなかった。
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