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第11話 何者でもなく

大陸歴一四〇七年 三月十九日 


 バウムゼンの町門をくぐったとき、アルスは肩にかかっていた力が、ゆっくりとほどけていくのを感じた。


 人の声と荷車の軋む音とが、朝の空気の中でいつものように混じり合っている。門の脇では番兵が退屈そうに槍に寄りかかり、出入りする荷車を漫然と眺めているだけだった。誰がどこから来たかなど、いちいち確かめる様子もない。


 町は、生きていた。


 門をくぐった途端、耳に入ってくるのは商人の呼び声と、値切る女の声、荷車を急がせる御者の罵声ばかりである。


 通りには、すでに朝の往来が生まれている。穀物袋を積んだ荷車がゆっくりと軋みながら進み、その脇を小さな荷を担いだ行商人がすり抜ける。軒先には干した布が揺れ、鍛冶屋の奥では早くも槌の音が響きはじめていた。


 人が多い。


 山の中を歩いてきた者の目には、それだけで少し眩しいほどだった。


 アルスは歩きながら、ふと足を緩めた。人の流れの中に身を置くと、かえって自分の姿が薄くなるような気がする。山では、十人ほどの集まりは遠くからでもすぐ目立つが、町ではそうはいかない。人が多いということは、それだけで隠れ場所になる。


 そのことを、ゼダンも同じように感じていたらしい。ゼダンは通りを一度ゆっくりと見渡し、低い声で言った。


「まずは宿を。寝床が必要です」


 振り返りもせずに言った言葉だったが、兵たちは黙ってうなずいた。


 路銀は多くない。逃げ出すとき、掴めた分だけだ。袋の中身は決して軽くはないはずだが、それでも町の中では頼りなく思える。人の多い場所では、金はあっという間に姿を消すものだからだ。


 アルスは門の外から続く広い通りを一度見やり、それから視線を横の路地へ移した。表通りは人が多すぎる。目立たぬ方がいい。


「表は避けよう」


 そう言うと、レオンがすぐにうなずいた。


「宿も裏の方が安い」


 簡潔な言葉だったが、それで十分だった。ローザも黙って後ろにつく。


 彼ら三人が通りを外れると、兵たちも自然に足を動かした。そうした動きがすでに染みついているらしい。


 路地へ入ると、町の音は少しだけ和らいだ。石畳はところどころ欠け、壁は古い煉瓦の色をむき出しにしている。だが人の気配は途切れない。窓からは洗濯物が垂れ、二階の窓辺では女が水を捨て、地面に細い水の筋を作っていた。子どもが石を蹴りながら走り去る。


 アルスは歩きながら、胸の奥に小さな軋みを感じた。世界というものは、こういうものなのだろう。誰かの終わりがあっても、別の場所ではただ朝が来る。それだけのことなのかもしれない。


 やがて路地の奥に、斜めに傾いた看板が見えた。風に揺れるたび、錆びた鎖がかすかに鳴る。看板に描かれた絵は色が褪せて、何の宿なのかもはっきりしない。


 レオンが足を止めた。


「……ここ聞いてみるか」


 扉の蝶番は黒く歪み、壁の板もところどころ反っている。外から見ただけで、立派な宿ではないことが分かった。


 ローザが小さく眉を寄せる。


「……ここ」


 その声には、隠しきれない戸惑いがあった。レオンは肩をすくめるようにして答える。


「聞いてからだ」


 それだけ言うと、扉に手をかけた。


 扉を押すと、乾ききらぬ麦の匂いが鼻を打った。酒場と宿を兼ねたような造りらしく、薄暗い広間の奥には粗い木の卓が並び、壁際には空の樽がいくつか積まれている。朝だからか客は少なく、隅の卓で二人の男が眠そうに杯を傾けているだけだった。


 帳場の向こうから、太い腕をした女が顔を出した。年の頃は四十前後だろう。エプロンで手を拭きながら、アルスたちを一度に見渡す。


「泊まりかい」


 レオンが一歩前に出た。


「十人だ。部屋はあるか」


 女は少し眉を上げる。十人という数は、この宿にはやや多いらしい。


「あるよ。藁床だが文句は言うな」


「ああ。寝れれば文句はない」


 女は腕を組んだ。


「何泊だい」


 レオンは振り向き、こちらを見るも何も言わず、また女へと向き直る。


「まず今夜だ」


 それ以上は言わない。


 女も深くは聞かなかった。値を告げ、レオンが袋から銭を出す。掌に落ちた金の音を女が指で確かめると、鍵代わりの木札を卓の上に置いた。


「二階の奥だ。勝手に使いな」


 それだけ言うと、女は奥へ引っ込んだ。ローザは広間を見渡した。


 床板は黒ずみ、壁には古い染みが残っている。梁には煙の色が深く染みつき、上の階からは誰かのいびきが遠慮なく響いていた。


「……ここに泊まるのね」


 小さな声だった。レオンは肩をすくめる。


「想像通り安かった」


 ローザはすぐには答えなかった。視線を床に落とし、しばらく黙っている。


 やがて、息をひとつ吐いた。


「……分かったわ」


 納得したわけではない。ただ、それ以上言う意味がないと知っている声だった。


 兵たちはすでに荷を下ろし始めていた。誰に命じられるでもなく、重い荷袋を壁際へ寄せ、武具をまとめ、部屋の様子を確かめる。


 やがて一人の兵が戸口の外をちらりと見て、別の兵に顎を振った。二人が通りへ出る。しばらくして、別の一人も姿を消した。


 散っていく。だが、ばらばらではない。


 酒場、鍛冶屋、門番の詰所、荷運びの溜まり場――町の空気を知るには、そうした場所を歩けばいい。


 ゼダンがその様子を見ていた。止めもしないし、命じもしない。ただ視線を一度巡らせただけで、兵たちの動きを受け入れている。


 やがてティムも戸口へ向かう。


「少し歩いてくる」


 振り返りもせずに言った。


 広間には、アルスとレオン、ローザ、それにゼダンだけが残った。


 アルスは窓の外へ目を向ける。


 ここでは、自分は何者でもない。そのことを、静かに受け入れていた。




 アルスたちが宿を出ると、昼の光が通りに満ちていた。


 レオンが言った。


「市場が近いです。町の様子を見るには、まずあちらでしょう」


 アルスはうなずき、歩き出した。ローザが静かに後ろに続く。


 屋台の並ぶ通りへ入ると、匂いが変わった。焼いた肉の脂、乾いた香草、塩魚の生臭さ、それに果実の甘い匂いが混じり合い、昼の空気に重く漂っている。


 商人が声を張る。布を広げた台の上には袋詰めの穀物や乾いた豆、陶器の皿や壺が並び、値札の板が紐で吊られて風に揺れていた。


 アルスは足を止め、パンの山を見た。値は高くない。


 兵が動けば穀物が集められ、商人はそれを見越して値を上げる。そういう町をアルスはこれまでいくつも見てきた。


 だが、この町の市場には、そうした揺れが見えなかった。秤は静かに動き、人はただ物を売り買いしている。


 ミュラー家が滅びたところで、この町の秤は揺れないのだろう。


 そのとき、路地の向こうから見覚えのある影が現れた。


 足に巻いた包帯の上から靴を履き、片手には焼き串を持っている。串の肉はすでに半分ほどなくなっていた。


「……ヨアヒム」


 ゼダンが呆れた声を出す。ヨアヒムは悪びれもせず、串を掲げた。


「市場調査です」


 そう言って残りの肉を口へ押し込み、油の光る口元で笑う。


「仕事と成れば仕方ない。痩せるのは明日からにします」


 一瞬、ローザの肩が揺れた。笑いをこらえたのだろう。


 アルスも思わず口元が緩んだ。山道で倒れ、背に担いだときと同じ顔だった。


 ヨアヒムの言い訳を聞きつつ、流れ行く周囲の景色を見て思う。山に隠れるのではない。人の中に紛れる。


 その方が、この世界では深く身を隠せるのかもしれない。





市場の喧騒がやや落ち着き始めたころだった。西に傾きかけた日が屋台の布や吊された板札を斜めに照らし、通りの影を長く引き延ばす。昼の勢いはまだ残っていたが、商人の呼び声にはどこか息をついた調子が混じり始めていた。


そのころ、ティムが戻ってきた。通りの向こうからふらりと現れ、いつもの調子で歩いてくる。手ぶらだったが、顔には妙に愉快そうな色が浮かんでいた。


ティムはゼダンの姿を目に入れると、軽い調子で口を開く。


「面白い顔を見かけたぜ」


アルスが視線を向ける。


「知り合いか」


「まあな」


ティムは通りの奥を指で示す。


「酒場をやってる。俺も最初は気づかなかったが、向こうが先に気づいた。世の中は狭いもんだ」


ティムは笑い、少し身を乗り出すようにして続けた。


「ゼダンの旦那も知った顔だぜ」


ゼダンの眉がわずかに動いた。


「昔の戦場で知った男だ。今は剣より酒瓶を持ってるがな」


ティムの声には無邪気な誇りが混じる。


アルスは少し考えた。町へ入ってまだ半日も経っていない。誰と繋がるか、どこへ顔を出すか。その一つ一つが、この先の動きに影を落とす可能性がある。しかし、町で生きていくには人の縁もまた、欠かせないものだ。古い縁がひとつでもある方が、何もないよりは良い。


「行ってみよう」


アルスはさらに続ける。


「レオン、お前は戻れ。ローザと宿へ帰って飯を食っておけ」


レオンはわずかに目を瞬かせた。


「ですが——」


「町に入ったばかりだ。全員で動く必要はない」


静かな声だった。命令というほど強くはないが、否定は許さない調子が含まれていた。レオンは短く息を吐いた。


「……分かりました」


帰りゆく者たちの背を少し見送って、ティムが肩をすくめた。


「さて、こっちも行くか」


三人は市場の通りを外れ、少し広い石畳の道へ出る。昼の喧騒とは違い、このあたりは酒場や宿が並び、夕刻の灯を待つ店が静かに口を開けている。やがてティムが足を止めた。一軒の酒場の前だ。看板は古く、木の表面は雨風で白み、しかし扉はよく磨かれ、真鍮の取手が夕日の光を鈍く返している。


中へ入ると、木の匂いと酒の香りが混じる。広間の奥で、ひとりの男が杯を布で拭いている。男は顔を上げ、坊主頭に頬の古い傷、肩幅の広い体つきは年を重ねても崩れていなかった。


男はティムを見つけると、低く声を出す。


「また来やがったか」


ティムは笑った。


「まあ、そう邪険にするな。客を連れてきたぜ」


棚へ向けた視線が横へ動き、ゼダンを見る。ほんの一瞬、目を細めて一言だけ言った。


「……見たことある顔だな」


そしてアルスに目を向ける。


店主の目はしばらく動かない。威圧ではない。ただ、測るような、静かな眼差しがアルスの胸を貫く。


「サエルの倅だ」


ティムの声に、アルスの肩に自然と力が入る


店主の男は一呼吸置き、低く続けた。


「目が……親父に似てるな」


アルスは喉をわずかに鳴らす。静かだが重みのある声だった。


「だが、目だけだな。あの男は、もっと怖かった」


男の視線はゆっくりアルスから外れ、また棚へ。父とは違い、自分はまだただの坊主だという事実が胸に落ちる。


「……そうですか」


アルスの声は小さく、それだけが出た。


男は鼻で笑った。


「だがな、目は悪くねぇ」


棚から瓶を取り、卓の上へ置く。


「まず食え。話はそれからだ」


外では町の灯が一つ、また一つと点り始め、バウムゼンの夜が静かに降りてきた。滅びた家の名など、この町では誰も気にしない。アルスはまだ何者でもない。ただ、この町の灯の下に立っているだけの存在だった。

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