第12話 見えぬ財
大陸歴一四〇七年三月十九日
夜のバウムゼンは、昼とは別の町の顔をしていた。喧騒は引き、闇が静かに降りる。それでも火の消えぬ場所はある。
通りの奥の古い酒場だった。
煤に染まった戸口をくぐると、灯りは油皿がいくつかあるだけで、奥は薄暗い。だが入口の様子はよく見える。
ゼダンは迷わずその席を選んだ。
壁を背にし、入口を正面に置く。座る前に一度だけ広間を見渡す。客の数、主人の位置、裏口――それだけで十分だった。
三人は奥の卓につく。
「やれやれだな。町の酒場ってのは、やっぱり落ち着く」
そう言って卓を軽く叩くと、先ほど棚の前で酒瓶を並べていた男が、傍に寄ってくる。
古傷の残る頬、剃り上げた頭、無駄のない体つき。鎧はないが、腰の落とし方が違った。
ティムは椅子を少し引き、男の肩を軽く叩く。
「若、こいつはディートリヒだ。昔、同じ戦場で飯を食った」
「大袈裟な言い様だ。ただの傭兵だよ」
声は低いが、乾いた響きがあった。盃を持ち上げ、灯りに透かすようにして中を見ている。気負いはない。だが手の置き方ひとつに、刃と共に生きてきた癖が残っていた。
アルスは小さく頭を下げる。
「アルスです」
「ああ」
短い返事だった。ディートリヒは盃を口へ運び、ゆっくりと一口飲む。それから盃を卓へ置く。
「戦場より、こっちの方が長生きできる。そう思って降りてきたんだがな」
言いながら、盃を指先でゆっくり回す。油皿の灯りが、その縁に鈍く映った。
そしてふと視線を上げる。その目が、アルスに止まった。ほんのわずかな沈黙が落ちる。
酒場の奥では別の卓で笑い声が上がっていたが、この卓の周りだけは、不思議と音が遠かった。
ディートリヒはしばらく何も言わず、アルスを見ている。顔ではなく、別のものを量るような目だった。
ゼダンはその視線の意味を、黙って見ていた。
「……そうか」
ディートリヒはそれだけ言った。
それ以上の言葉は続かなかったが、その一言のあとも視線はすぐには外れない。アルスは盃に触れたまま、その視線を受け止めていた。
ディートリヒは、再び盃を持ち上げ、飲む。
「まあいい」
低く言う。
「話はさっき、ティムから聞いた。サエルの旦那がなあ。エリクセンとフォーゲルか」
問いではない。ただ耳に入った事実を、そのまま卓の上へ置いただけの口ぶりだった。
アルスは言葉を返さない。
自分の名より先に、父の名が出る。当然なのだが、こうして静かな席で言われると、胸の奥で何かがかすかに軋む。
ティムが肩をすくめた。
「まあ、いろいろあったってわけだ」
「見りゃ分かる」
ディートリヒはそう言って、もう一度盃を取った。
入口、梁、奥の酒樽、隅の客。視線はすぐ戻るが、その短い巡り方に、アルスは気づいた。
ゼダンがその様子を横目で見て、小さく息を吐く。
「昔の戦場の顔が、こんな町の酒場で揃うとはな」
ディートリヒは盃を指先で回し、しばらく黙っていた。
「昔、坊主の父親のサエルと同じ戦に出たことがある」
「北の森での戦だ」
それだけ言って、ディートリヒは盃を口に運んだ。少し飲み、卓へ戻す。
「勝ち戦だった」
アルスは顔を上げる。ディートリヒは小さく肩をすくめた。
「いや、ほんとにな。数も地形も、こっちが上だった。敵は砦に籠もってるだけで、野に出て戦う気配もない。だからまあ、傭兵連中は皆のんびりしてた。勝った後の取り分の話ばかりしてな」
酒場の奥で誰かが笑った。木の卓が鳴り、盃が触れ合う音がする。その賑やかさの中で、ディートリヒの声だけが静かに続く。
「森へ入ったのは昼過ぎだった。北の森は暗く、列は長く伸びていた」
盃を少し傾ける。
「で、森の陰から矢が来た」
「最初の一本は、誰も気にしなかった。森の戦じゃ珍しくもないからな。だが次が来た。三本、四本、まとめて飛んできた。そこでようやく皆が顔を上げる」
ディートリヒは手を軽く振った。
「そのときにはもう遅い。横の茂みから槍が出た。前の列が崩れる。後ろから怒鳴り声が上がる。気づいたときには退路にも敵がいた」
アルスは黙って聞いている。ディートリヒはその視線を一度受け、また盃へ目を落とした。
「包囲だ。森の中でな。ああいうのはな、数がどうとか関係ない。列が伸びてるところを噛まれると、人はすぐ散る。傭兵なんて特にそうだ。命あっての稼ぎだからな」
肩をすくめる。
「誰もが頭のどこかで思ってたよ。こりゃ死ぬな、ってな」
しばらく言葉が途切れた。油皿の火が小さく揺れる。
「そのときだ」
ディートリヒが言う。
「前の方が妙に騒がしくなった」
ティムが笑う。
「来たな」
「ああ」
ディートリヒは頷いた。
「馬の音がした。枝を払う音と、怒鳴り声が重なる」
盃を持ち上げ、軽く振る。
「将だよ」
アルスの目がわずかに動く。
「将なのに、一番前にいる」
ディートリヒはそこで小さく笑った。
「普通は後ろだ。旗のそばで怒鳴ってるもんだ。だがあの人は違った。気がつくと前に出てる。しかも槍を振り回してな」
ティムが頷く。
「大将の悪癖だな。兵の間を馬で抜けて、前の列まで出ていく。で、敵を見た瞬間に声を張る」
低く、少し掠れた声で言った。
「『退け。生きろ』ってな」
一拍
「変な言葉だろう」
ディートリヒは肩をすくめた。
「将がそんなこと言うか普通。だが言ったんだ。しかも自分は退かない。馬首を返して、そのまま前へ出る」
盃を卓に置く。
「兵はな、ああいうのを見ると放っておけない」
静かな声だった。
「逃げようと思ってた奴も、つい足を止める。気がつくと後ろから押されてる。で、そのまま前へ出る」
ティムが笑った。
「気づいたら突っ込んでたんだろ」
「そういうことだ」
ディートリヒは言う。
「前ではあの人が槍を振ってる。後ろから兵が続く。横から敵が来る。森の中でぐちゃぐちゃだ」
手を軽く振る。
「だが一点だけ空いた。槍の先が作った隙間だ。そこへ皆が雪崩れ込む」
少し間を置く。
「で、抜けた」
それだけ言った。
酒場の奥で笑い声が上がる。誰かが卓を叩き、盃が鳴る。
ディートリヒは盃を持ち上げ、ゆっくり飲んだ。
「振り向けば、敵はまだ後ろにいた。包囲を全部破ったわけじゃない。だが一点だけ抜いた。それで十分だった」
盃を置く。
「勝った気でいるところを噛まれると、崩れる。あの森もそうだった。あの人が前に出なきゃ、たぶん半分は残らなかった」
アルスは黙っている。ディートリヒは少し首を傾けた。
「で、だ」
盃を指先で回す。
「戦が終わって見たらな」
少し笑う。
「あの人に傷一つなかった」
ティムが声を出して笑った。
「いつものことだ」
「鎧に泥はついてたが、それだけだ。矢も槍も、かすりもしちゃいない」
ディートリヒはアルスを見る。
「だがな」
ほんのわずか、口の端が上がる。
「兵は、ああいう将を覚える。戻った俺に、あの男は言った」
ディートリヒの視線は卓へ落ちた。少しだけ間を置く。
「『勝ち戦ほど死にやすい』」
短い沈黙が卓の上に落ちる。
「それだけだ。殴りもせず、褒めもせず」
だが、と低く続けた。
「あれで分かった。あの男は前を見てた。俺は自分しか見てなかった」
アルスの胸の奥に、重いものが沈む。父の姿を、自分はどれだけ知っているのか。
酒場の灯りが静かに揺れていた。
ディートリヒの語りが終わってから、卓の上にはしばらく言葉がなかった。
やがて、そのゼダンがゆっくり盃を持ち上げた。一口だけ飲み、静かに卓へ戻す。
「そんなこともあったな」
低く言った。
「なるほど。あの時の傭兵か」
ディートリヒが肩をすくめる。
「お前が語ると、やけに大将が格好よく聞こえるな」
ティムが笑いながら言う。
「俺は見たままを言ってるだけだ」
ディートリヒは短く答えた。そのやり取りのあと、ゼダンがわずかに息を吐く。
「我々は今、追われていると思う」
声は静かだったが、酒場のざわめきの中でもはっきり届く。
「必要なのは感傷ではない」
視線がディートリヒに向く。
「拠点と資金。それから、人だ。可能な範囲で構わん。援助を願いたい」
卓の上の灯りがその横顔を照らしている。軍人が作戦を述べる時の口調だった。
ゼダンの言葉にアルスは顔を上げた。
ディートリヒは盃を置く。
「命の借りは返さんとな」
短い。そして続けた。
「だが金はすぐは出せねぇ。突然現れた坊主に、袋で用意しておけるような神通力は持ち合わせてねえんだ」
口元がわずかに歪む。
「この町じゃ、金は理由がなきゃ動かない。まして敗残兵にいきなり貸す奴はいない」
ティムが笑う。
「言い方が辛ぇな」
「事実だ」
ディートリヒは肩をすくめた。
「三日待て。俺が動かせる分は用意してやる。貸しという形でいいならな」
ディートリヒはそう言い、盃を指先で軽く回した。
「それから人だな」
少しだけ目が細くなる。
「この町には色んなのが流れてくる。傭兵崩れや、夜逃げしてきた奴、追われている奴、他にも様々な理由で外れた連中だ」
ティムが鼻で笑う。
「お前みたいなのがな」
「うるせぇ」
ディートリヒは即座に返したが、すぐ真顔に戻る。
「だがああいう連中は扱いが難しい。世の中というものを、嫌になるほど身に刻んでいるからな。簡単に靡きそうだが、まともな奴ほど動かん」
視線がアルスへ向いた。
「若いうえに、何も持たないのが声を掛けたところで、なおさら知らんふりだろう」
アルスは言葉を返さない。
ディートリヒはそれを確かめるように一度頷いた。
「だが声はかけられる。気にはしておこう。中には奇特な奴もいるだろう」
ゼダンはそれを聞き、静かに頷く。
「十分だ」
そして言う。
「残るのは場所か」
ディートリヒは少し黙った。
盃を持ち上げ、灯りに透かす。
そのまま一口飲み、卓へ戻した。
「北西に面白い処がある」
ぽつりと言う。ティムが眉を上げた。
「北西?」
「街道から外れている。山は険しく、森は深い」
指先で卓を軽く叩く。
「確かめたことはないがな」
アルスは黙って聞いている。
だが、その言葉の端々から、アルスにも分かった。
網があるのだと分かる。目がある。耳がある。
そして、戦に敗れて流れ着いた者がどこへ消えるのかを把握する術を。
ざわめきの中で、ゼダンはゆっくり盃を持ち上げる。
「色々と世話になる」
静かな声だった。
アルスも盃を取る。
場所はある。金も、わずかだが動く。人も、集められる。それだけで十分だった。
ディートリヒが盃を卓へ置く。
「まずは三日後だ」
盃が卓へ戻されてからも、すぐには誰も立ち上がらなかった。酒場の灯りは油皿の中で静かに揺れ、木の卓の上に淡い影を落としている。奥の席では遅れて入ってきた客が笑い声を上げ、扉が開くたび夜気が細く流れ込んだ。だがこの卓だけは、先ほどまで戦の話をしていた余韻がまだ残っている。
ティムが盃を揺らしながら楽しげに言った。
「若を連れて顔を見せに来ただけのつもりだったんだが、思ってたよりも早く動けそうじゃねえか」
ディートリヒが鼻で笑う。
「焦ることはねえ」
盃を卓へ置き、ゆっくり続ける。
「この町はな、急いだ奴ほど転ぶ。荷を動かすにも順番があるし、人を集めるにも顔がいる。三日ってのは、そのくらいの時間だ」
ゼダンが頷く。
「若様、我々ももう少し、町を見ておきましょう。見る者によって町は姿を変えます」
アルスは小さく頷いた。
「そうする」
ディートリヒはそれを聞き、満足そうに頷いた。
「ならいい。また顔を出せ。金の話も、人の話も、その時にする」
アルスも椅子から立った。
酒場を出ると、夜気は冷たく、石畳に灯が並び、遠くの屋根から煙が細く流れている。
バウムゼンの夜は静かだった。この町はまだ、自分たちを知らない。
それでいい。
アルスは前を見る。
三日。
その時間だけが、闇の向こうに広がっていた。
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