表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

13/18

第12話 見えぬ財

大陸歴一四〇七年三月十九日 


 夜のバウムゼンは、昼とは別の町の顔をしていた。喧騒は引き、闇が静かに降りる。それでも火の消えぬ場所はある。


 通りの奥の古い酒場だった。


 煤に染まった戸口をくぐると、灯りは油皿がいくつかあるだけで、奥は薄暗い。だが入口の様子はよく見える。


 ゼダンは迷わずその席を選んだ。


 壁を背にし、入口を正面に置く。座る前に一度だけ広間を見渡す。客の数、主人の位置、裏口――それだけで十分だった。


 三人は奥の卓につく。


「やれやれだな。町の酒場ってのは、やっぱり落ち着く」


 そう言って卓を軽く叩くと、先ほど棚の前で酒瓶を並べていた男が、傍に寄ってくる。


 古傷の残る頬、剃り上げた頭、無駄のない体つき。鎧はないが、腰の落とし方が違った。


 ティムは椅子を少し引き、男の肩を軽く叩く。


「若、こいつはディートリヒだ。昔、同じ戦場で飯を食った」


「大袈裟な言い様だ。ただの傭兵だよ」


 声は低いが、乾いた響きがあった。盃を持ち上げ、灯りに透かすようにして中を見ている。気負いはない。だが手の置き方ひとつに、刃と共に生きてきた癖が残っていた。


 アルスは小さく頭を下げる。


「アルスです」


「ああ」


 短い返事だった。ディートリヒは盃を口へ運び、ゆっくりと一口飲む。それから盃を卓へ置く。


「戦場より、こっちの方が長生きできる。そう思って降りてきたんだがな」


 言いながら、盃を指先でゆっくり回す。油皿の灯りが、その縁に鈍く映った。


 そしてふと視線を上げる。その目が、アルスに止まった。ほんのわずかな沈黙が落ちる。


 酒場の奥では別の卓で笑い声が上がっていたが、この卓の周りだけは、不思議と音が遠かった。


 ディートリヒはしばらく何も言わず、アルスを見ている。顔ではなく、別のものを量るような目だった。


 ゼダンはその視線の意味を、黙って見ていた。


「……そうか」


 ディートリヒはそれだけ言った。


 それ以上の言葉は続かなかったが、その一言のあとも視線はすぐには外れない。アルスは盃に触れたまま、その視線を受け止めていた。


 ディートリヒは、再び盃を持ち上げ、飲む。


「まあいい」


 低く言う。


「話はさっき、ティムから聞いた。サエルの旦那がなあ。エリクセンとフォーゲルか」


 問いではない。ただ耳に入った事実を、そのまま卓の上へ置いただけの口ぶりだった。


 アルスは言葉を返さない。


 自分の名より先に、父の名が出る。当然なのだが、こうして静かな席で言われると、胸の奥で何かがかすかに軋む。


 ティムが肩をすくめた。


「まあ、いろいろあったってわけだ」


「見りゃ分かる」


 ディートリヒはそう言って、もう一度盃を取った。


 入口、梁、奥の酒樽、隅の客。視線はすぐ戻るが、その短い巡り方に、アルスは気づいた。


 ゼダンがその様子を横目で見て、小さく息を吐く。


「昔の戦場の顔が、こんな町の酒場で揃うとはな」




 ディートリヒは盃を指先で回し、しばらく黙っていた。


「昔、坊主の父親のサエルと同じ戦に出たことがある」


「北の森での戦だ」


 それだけ言って、ディートリヒは盃を口に運んだ。少し飲み、卓へ戻す。


「勝ち戦だった」


 アルスは顔を上げる。ディートリヒは小さく肩をすくめた。


「いや、ほんとにな。数も地形も、こっちが上だった。敵は砦に籠もってるだけで、野に出て戦う気配もない。だからまあ、傭兵連中は皆のんびりしてた。勝った後の取り分の話ばかりしてな」


 酒場の奥で誰かが笑った。木の卓が鳴り、盃が触れ合う音がする。その賑やかさの中で、ディートリヒの声だけが静かに続く。


「森へ入ったのは昼過ぎだった。北の森は暗く、列は長く伸びていた」


 盃を少し傾ける。


「で、森の陰から矢が来た」


「最初の一本は、誰も気にしなかった。森の戦じゃ珍しくもないからな。だが次が来た。三本、四本、まとめて飛んできた。そこでようやく皆が顔を上げる」


 ディートリヒは手を軽く振った。


「そのときにはもう遅い。横の茂みから槍が出た。前の列が崩れる。後ろから怒鳴り声が上がる。気づいたときには退路にも敵がいた」


 アルスは黙って聞いている。ディートリヒはその視線を一度受け、また盃へ目を落とした。


「包囲だ。森の中でな。ああいうのはな、数がどうとか関係ない。列が伸びてるところを噛まれると、人はすぐ散る。傭兵なんて特にそうだ。命あっての稼ぎだからな」


 肩をすくめる。


「誰もが頭のどこかで思ってたよ。こりゃ死ぬな、ってな」


 しばらく言葉が途切れた。油皿の火が小さく揺れる。


「そのときだ」


 ディートリヒが言う。


「前の方が妙に騒がしくなった」


 ティムが笑う。


「来たな」


「ああ」


 ディートリヒは頷いた。


「馬の音がした。枝を払う音と、怒鳴り声が重なる」


 盃を持ち上げ、軽く振る。


「将だよ」


 アルスの目がわずかに動く。


「将なのに、一番前にいる」


 ディートリヒはそこで小さく笑った。


「普通は後ろだ。旗のそばで怒鳴ってるもんだ。だがあの人は違った。気がつくと前に出てる。しかも槍を振り回してな」


 ティムが頷く。


「大将の悪癖だな。兵の間を馬で抜けて、前の列まで出ていく。で、敵を見た瞬間に声を張る」


 低く、少し掠れた声で言った。


「『退け。生きろ』ってな」


 一拍


「変な言葉だろう」


 ディートリヒは肩をすくめた。


「将がそんなこと言うか普通。だが言ったんだ。しかも自分は退かない。馬首を返して、そのまま前へ出る」


 盃を卓に置く。


「兵はな、ああいうのを見ると放っておけない」


 静かな声だった。


「逃げようと思ってた奴も、つい足を止める。気がつくと後ろから押されてる。で、そのまま前へ出る」


 ティムが笑った。


「気づいたら突っ込んでたんだろ」


「そういうことだ」


 ディートリヒは言う。


「前ではあの人が槍を振ってる。後ろから兵が続く。横から敵が来る。森の中でぐちゃぐちゃだ」


 手を軽く振る。


「だが一点だけ空いた。槍の先が作った隙間だ。そこへ皆が雪崩れ込む」


 少し間を置く。


「で、抜けた」


 それだけ言った。


 酒場の奥で笑い声が上がる。誰かが卓を叩き、盃が鳴る。


 ディートリヒは盃を持ち上げ、ゆっくり飲んだ。


「振り向けば、敵はまだ後ろにいた。包囲を全部破ったわけじゃない。だが一点だけ抜いた。それで十分だった」


 盃を置く。


「勝った気でいるところを噛まれると、崩れる。あの森もそうだった。あの人が前に出なきゃ、たぶん半分は残らなかった」


 アルスは黙っている。ディートリヒは少し首を傾けた。


「で、だ」


 盃を指先で回す。


「戦が終わって見たらな」


 少し笑う。


「あの人に傷一つなかった」


 ティムが声を出して笑った。


「いつものことだ」


「鎧に泥はついてたが、それだけだ。矢も槍も、かすりもしちゃいない」


 ディートリヒはアルスを見る。


「だがな」


 ほんのわずか、口の端が上がる。


「兵は、ああいう将を覚える。戻った俺に、あの男は言った」


 ディートリヒの視線は卓へ落ちた。少しだけ間を置く。


「『勝ち戦ほど死にやすい』」


 短い沈黙が卓の上に落ちる。


「それだけだ。殴りもせず、褒めもせず」


 だが、と低く続けた。


「あれで分かった。あの男は前を見てた。俺は自分しか見てなかった」


 アルスの胸の奥に、重いものが沈む。父の姿を、自分はどれだけ知っているのか。


 酒場の灯りが静かに揺れていた。


 ディートリヒの語りが終わってから、卓の上にはしばらく言葉がなかった。


 やがて、そのゼダンがゆっくり盃を持ち上げた。一口だけ飲み、静かに卓へ戻す。


「そんなこともあったな」


 低く言った。


「なるほど。あの時の傭兵か」


 ディートリヒが肩をすくめる。


「お前が語ると、やけに大将が格好よく聞こえるな」


ティムが笑いながら言う。


「俺は見たままを言ってるだけだ」


 ディートリヒは短く答えた。そのやり取りのあと、ゼダンがわずかに息を吐く。


「我々は今、追われていると思う」


 声は静かだったが、酒場のざわめきの中でもはっきり届く。


「必要なのは感傷ではない」


 視線がディートリヒに向く。


「拠点と資金。それから、人だ。可能な範囲で構わん。援助を願いたい」


 卓の上の灯りがその横顔を照らしている。軍人が作戦を述べる時の口調だった。


 ゼダンの言葉にアルスは顔を上げた。


 ディートリヒは盃を置く。


「命の借りは返さんとな」


 短い。そして続けた。


「だが金はすぐは出せねぇ。突然現れた坊主に、袋で用意しておけるような神通力は持ち合わせてねえんだ」


 口元がわずかに歪む。


「この町じゃ、金は理由がなきゃ動かない。まして敗残兵にいきなり貸す奴はいない」


 ティムが笑う。


「言い方が辛ぇな」


「事実だ」


 ディートリヒは肩をすくめた。


「三日待て。俺が動かせる分は用意してやる。貸しという形でいいならな」


 ディートリヒはそう言い、盃を指先で軽く回した。


「それから人だな」


 少しだけ目が細くなる。


「この町には色んなのが流れてくる。傭兵崩れや、夜逃げしてきた奴、追われている奴、他にも様々な理由で外れた連中だ」


 ティムが鼻で笑う。


「お前みたいなのがな」


「うるせぇ」


 ディートリヒは即座に返したが、すぐ真顔に戻る。


「だがああいう連中は扱いが難しい。世の中というものを、嫌になるほど身に刻んでいるからな。簡単に靡きそうだが、まともな奴ほど動かん」


 視線がアルスへ向いた。


「若いうえに、何も持たないのが声を掛けたところで、なおさら知らんふりだろう」


 アルスは言葉を返さない。


 ディートリヒはそれを確かめるように一度頷いた。


「だが声はかけられる。気にはしておこう。中には奇特な奴もいるだろう」


 ゼダンはそれを聞き、静かに頷く。


「十分だ」


 そして言う。


「残るのは場所か」


 ディートリヒは少し黙った。


 盃を持ち上げ、灯りに透かす。


 そのまま一口飲み、卓へ戻した。


「北西に面白い処がある」


 ぽつりと言う。ティムが眉を上げた。


「北西?」


「街道から外れている。山は険しく、森は深い」


 指先で卓を軽く叩く。


「確かめたことはないがな」


 アルスは黙って聞いている。


 だが、その言葉の端々から、アルスにも分かった。


 網があるのだと分かる。目がある。耳がある。


 そして、戦に敗れて流れ着いた者がどこへ消えるのかを把握する術を。


 ざわめきの中で、ゼダンはゆっくり盃を持ち上げる。


「色々と世話になる」


 静かな声だった。


 アルスも盃を取る。


 場所はある。金も、わずかだが動く。人も、集められる。それだけで十分だった。


 ディートリヒが盃を卓へ置く。


「まずは三日後だ」


 盃が卓へ戻されてからも、すぐには誰も立ち上がらなかった。酒場の灯りは油皿の中で静かに揺れ、木の卓の上に淡い影を落としている。奥の席では遅れて入ってきた客が笑い声を上げ、扉が開くたび夜気が細く流れ込んだ。だがこの卓だけは、先ほどまで戦の話をしていた余韻がまだ残っている。


 ティムが盃を揺らしながら楽しげに言った。


「若を連れて顔を見せに来ただけのつもりだったんだが、思ってたよりも早く動けそうじゃねえか」


 ディートリヒが鼻で笑う。


「焦ることはねえ」


 盃を卓へ置き、ゆっくり続ける。


「この町はな、急いだ奴ほど転ぶ。荷を動かすにも順番があるし、人を集めるにも顔がいる。三日ってのは、そのくらいの時間だ」


 ゼダンが頷く。


「若様、我々ももう少し、町を見ておきましょう。見る者によって町は姿を変えます」


 アルスは小さく頷いた。


「そうする」


 ディートリヒはそれを聞き、満足そうに頷いた。


「ならいい。また顔を出せ。金の話も、人の話も、その時にする」


 アルスも椅子から立った。


 酒場を出ると、夜気は冷たく、石畳に灯が並び、遠くの屋根から煙が細く流れている。


 バウムゼンの夜は静かだった。この町はまだ、自分たちを知らない。


 それでいい。


 アルスは前を見る。


 三日。


 その時間だけが、闇の向こうに広がっていた。

もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、ページ下部の☆を押して評価をお願い致します!


作者の励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ