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第13話 喉元

大陸歴一四〇七年三月二十日


 朝の光は容赦がなかった。町の上に、乾いた音だけが先に満ちていく。


 昨夜の酒場の灯りも、父の名も、傭兵の低い声も、そのすべてを平らに押し流すように、淡く乾いた光が窓から差し込んでくる。バウムゼンの空は高く、雲は薄い。春先の空気はまだ冷たいが、町はすでに動き始めていた。


 この町は朝が早い。


 商人の町とはそういうものだと、アルスは思った。夜のうちに着いた荷は夜のうちに仕分けられ、朝になればもう次の道へ流れていく。止まるものは少ない。金も、荷も、人も、すべては動きながら形を変える。


 アルスは窓際に立ち、しばらく黙ってその音を聞いていた。


 目に見えるものだけが、この町を動かしているわけではない。昨夜、酒場の卓を囲みながら、ふとそんな気がした。人の口から口へ渡る噂、商人が袖の下で交わす約束、どこからともなく流れてくる品物。そうしたものが、石畳の下の水脈のように町のあちらこちらを結んでいる。


 見えないが、確かにある。金も、荷も、噂も、流れ方は同じだ。形が違うだけで、辿れば必ず行き着く先がある。


 ならば、その流れはどこへ向かっているのか。


 アルスは窓から通りを見下ろした。荷車の一台が塩樽を積んだまま、ゆっくりと坂を下っていく。樽の側面には焼印があるが、遠目にはもう読めない。だが、この町に集まる品の多くは、どこかの家の紋章を消され、あるいは塗りつぶされて、別の場所へ流れていくのだろう。


 名を隠して動くものは、人だけではない。


 やがて背後で扉が鳴った。ティムが顔を出す。


「若」


 短く声をかけただけだったが、用件は分かる。


 アルスは振り返り、小さく頷いた。


「午前のうちに散ろう。昨日と同じだ」


 命じるというより、確かめるような言い方だった。兵は頷き、すぐに姿を消す。


 やがて宿の廊下に足音が増えた。鎧の鳴る音、戸を開け閉めする音。ゼダンの低い声が一度聞こえ、それから静かになる。


 兵たちは町へ散っていく。ヨアヒムたち五人。町は広くはないが、耳は多くない。噂は金と同じく巡る。


 それを見送り、アルスも宿を出た。


 ゼダンは兵を見ると言って別れた。レオンとローザも市場の方へ向かっていく。


 朝のバウムゼンはすでに昼の顔に近い。石畳の通りには荷車が並び、荷を下ろす男たちの声があちこちで飛び交っている。木箱が打ちつけられる音、縄を引く音、帳簿を抱えた商人の早足の足音。町の空気はまだ冷たいが、その動きだけは忙しい。


 ティムが隣を歩いていた。


「戦が始まると、まず塩が動く」


 軽い口調だったが、目は荷を見ている。


「肉を干すにも魚を漬けるにも要るからな。兵が増えりゃ、腹も増える」


 通りの角では別の荷車が停まっていた。板の上には細長い肉が並び、粗い塩が振られている。干し肉にする前のものらしい。近くの店先には燻製にした魚を吊るす棚もあった。まだ朝だというのに、煙の匂いが町の上に薄く漂っている。


 アルスは再び歩き出した。


 通りを外れると、少し静かな道へ出る。倉庫が並ぶ一角だった。厚い扉を持つ建物が石壁のように続き、軒先には積み上げられた樽と箱が並んでいる。見張りの男が一人、腕を組んで立っていた。


 ティムが低く言う。


「倉庫街だ。大きい商会は大体ここに持ってる」


「見張りは多いな」


「金になる荷だからな」


 男たちは町の人間らしいが、腰に短剣を差している者もいる。


 倉庫の扉が一つ開き、荷役の男たちが樽を二つ外へ転がした。側面の焼印は削られ、焦げた跡だけが残っている。


 アルスはその跡を一瞥し、すぐ視線を外した。この町では珍しくないのだろう。名を消して流れる品物など。



 やがて昼近くになり、通りの人の流れがさらに増えた。市場では野菜の籠が並び、露店では肉を焼く煙が上がっている。香ばしい匂いが風に乗り、通りを歩く者の足を止める。


 ティムが笑った。


「腹が減る匂いだ」


「確かに」


 アルスは頷いた。


 だが立ち止まらず、そのまま通り過ぎる。兵たちもそれぞれ別の道へ散っていったはずだ。門、倉庫、市場。


 町は広くはないが、見て回る場所はいくらでもある。噂は人の集まるところに落ちる。それを拾うには、歩くしかない。


 夕刻、再び集まった。





 宿の奥の小部屋である。窓は小さく、外からは覗けない。卓の上には油皿の灯りが一つだけ置かれ、その脇の炭がわずかに赤く光っている。町の喧騒はまだ遠くで続いているはずだが、この部屋の中だけは静かだった。


 兵たちは順に腰を下ろす。鎧を脱いだ者もいれば、そのままの者もいる。ゼダンは卓の端に座り、腕を組んでいる。レオンとローザもその近くにいた。


 アルスは一度だけ全員を見回した。


「では」


 短く言った。


 最初に口を開いたのは、門を見てきた兵だった。


「北門の様子です」


 言葉は簡潔だった。


「商売の町らしく、商人、旅人、傭兵など、様々な職の出入りが激しいです」


 ゼダンの眉がわずかに動く。


「南門は」


 違う兵が応える。


「同じですね。それに門番以外に巡回の兵士もいて、現状治安は悪くなさそうです」


 三人目の兵は少し言葉を選ぶようにして口を開いた。


「食糧の問屋を見てきました」


「干し肉が多いですね。燻した魚も増えていました。塩漬けの樽もあります」


 兵は卓を見ながら続ける。


「旅人相手の量ではありません。作り置きです」


「兵糧か」


 ゼダンが低く言った。


「その可能性があります」


 町の店先で干される肉も、棚に並ぶ燻製魚も、数が多い。今食うためではなく、北へ運ぶためのものだ。


 沈黙が落ちる。


 その沈黙を破ったのは、次の兵だった。


「一日半の確認ですので確定はできませんが」


 腰の小袋から折り畳んだ紙片を取り出す。灯りにかざし、視線を落としたまま言う。


「北門から入った荷駄は十六、うち十一が塩と乾物です。樽の焼印は削られましたが、ミュラー家の紋章の名残は確認できます。焦げ跡も残っています」


 ゼダンの目が細くなる。


「その上から通行印が押されています。北へと戻る形で門を出ています。買い手はフォーゲル領境に近い商会です」


 兵は紙片を指で押さえる。


「北方ではナユリ王国とフォーゲル家が以前より戦端を開いているとの話もあります。軍費のため、フォーゲル領では徴発が続いている模様です」


 淡々とした声だった。誇りも恐れもなく、ただ事実を並べるだけだった。


 レオンが口を開く。


「市場も見てきました」


 ローザが隣でうなずく。


「値は昨日と変わりません」


 ゼダンが腕をほどいた。


「練兵場を見ようと思った」


 短く言う。


「中には入れなかったが、兵の動きは見える。練度は並みより少し下だ。傭兵も混じっている。歩き方と持ち方で分かる」


 一拍置く。


「連携も含めると弱兵とまでは言わんが、強い軍でもない」


 誰も口を挟まない。アルスは卓の上に視線を落とす。


 塩。乾物。干し肉。燻製魚。北へ向かう荷。動かぬ市場。そして北の戦。


 フォーゲルは内陸だ。エリクセンも港を持たぬ。海を握るのは――ナユリ王国。


 沈黙のあと、最後にヨアヒムが咳払いをした。


「南通りに串焼きの露店が出ております」


 一瞬、卓の空気が止まった。


「豚の脂身に蜂蜜を垂らしており、外は焦げ、中は柔らかい。列ができていました」


 しばし、誰も何も言わなかった。


 アルスは視線を伏せる。報告は出揃った。最後の一つは脇へ置く。


 塩の樽、削られた焼印、北へ流れる荷、増える保存食、動かぬ値。流れは見えない。だが確かにある。


 アルスは静かに息を吐いた。


 卓の上を見つめ、炭の赤い光に照らされる紙片や樽を指で軽く叩いた。


「塩が動いている」


 独り言のような声だった。誰も口を挟まない。ゼダンは腕を組んだまま、静かに頷く。


「塩は兵の血です」


 低い声だった。


「兵は剣だけで戦うわけではない。歩き、食い、汗をかく。そのたびに塩がいる。塩が尽きれば、兵は動きません」


 ゼダンは続ける。


「北へ流しているということは、北に兵がいる」


 アルスはゆっくり息を吐いた。ナユリ王国だ。北で戦端が開かれているという噂は昨日今日のものではない。小競り合いは長く続き、徴発も増えている。塩を運び、干し肉を溜め、乾物を北へ流している。


 わずかに首を捻った。


「戦は長い」


 アルスが言った。ゼダンは頷く。


「短く終わる戦なら、奪えば済みます。ですがが奴らは流している。補給に組み込んでいるのでしょう」


 顎に手を当て、ゆっくりと言葉を続ける。


「つまり戦は泥に入った。長くなると判断した。だからミュラーを攻めた。……ローデンの塩ですな」


 部屋の空気がわずかに沈む。


 アルスは黙って卓を見つめ、指先を動かす。町の外、山裾を走る街道を思い描く。荷車が通る。塩樽を積み、乾物を積み、北へ向かう。


 流れだ。目には見えないが、確かにある。


「ならば」


 アルスは顔を上げた。


「その流れを濁せばよい」


 ゼダンの視線が動く。


「フォーゲルへ向かう交易路は山裾を通る。山から狙いますか」


 アルスは静かに続けた。


「街道は守れる。だが山は守れない。荷車が通る道も、休む場所も、全部を見張ることはできない」


 事故かもしれぬ。山賊かもしれぬ。理由はどうでもよい。だが荷は止まる。塩が止まれば、兵は止まる。


 ゼダンは黙ったまま、やがて低く言った。


「……できぬ話ではない」


 慎重な声だった。


 アルスはそれ以上言わない。卓の上の、地図のない地図を心の中でなぞる。バウムゼン。その北西。ローデンから続く、エリクセンとフォーゲルの間の道。街道が山裾をかすめる狭い場所がある。


 指が卓の上で止まった。喉元だ。そこを押さえれば、流れは止まる。


 しばらく誰も口を開かない。炭の赤い光がゆらぎ、油皿の灯りが卓を淡く照らす。卓の上には何も置かれていないが、皆が同じ地図を見ていた。

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