閑話1 レオン、料理に挑む
大陸歴一四〇七年 三月十九日
宿の奥の小部屋には、油皿の灯りが一つだけ置かれていた。炭の赤がかすかに揺れ、卓の上に淡い影を落としている。
報告は一通り終わっていた。
門の兵数、荷の流れ、塩と乾物、北へ向かう動き。誰もが短く、必要なことだけを述べた。余計な言葉はない。
最後の沈黙が落ちる。
アルスは卓の上に視線を落とし、指先で軽く木を叩いた。
見えぬ流れは掴めた。
ならば次は、それをどう扱うかだ――そう思いかけて、ふと顔を上げる。
視線が、一人に止まった。
レオンだった。
「ところで」
アルスが言う。
「昨夜、レオンとローザはどうしていた。置いて行ったが、飯は食ったのか」
レオンの口元が、わずかに歪む。
「……食いました」
一拍。
「厨房を借りることができましたので」
その言葉に、ゼダンの眉がわずかに動いた。
「ほう」
「詫びは、厨房の掃除で手を打つことができました」
静かな声だった。
だが、その言葉の中に、妙な引っ掛かりがある。
「詫び?」
ゼダンが繰り返す。
アルスも同じ違和感を覚えていた。
「礼ではなく、詫びなのか。何かあったか」
レオンは答えない。
代わりに、横からローザが口を挟んだ。
「ええ。お詫びです」
はっきりと言い切る。
「正直、宿を追い出されると思いました」
室内の空気がわずかに止まる。
アルスは軽く首を傾げた。
「……状況を、掻い摘んで話してくれるか」
レオンは一度だけ目を伏せる。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「実は――」
厨房を借りることができた。
パンはあった。ならば肉を焼けばよい。それだけの話だった。
レオンはそう考えた。
「たまには俺が作ろう」
そう言ったのは、自然な流れだった。
母が出て行ってから、食事はずっとローザが用意していた。ならば、自分も何かできるようになるべきだ。
若の供として動く以上、それくらいは当然のことだと考えた。
「簡単なものでいいよ」
ローザはそう言った。
レオンもそのつもりだった。
だから、肉を焼くだけにした。
そこまではよかった。
だが、そのとき一つ、思い出したことがあった。
肉に直接火を当てる調理法がある――そんな話を、どこかで聞いた覚えがあった。ふら……何と言ったか。
「……ならば」
レオンは考えた。
火を当てるなら、火は近い方がいい。
鍋の外からだけでなく、中からも当てれば、より効率的ではないか。
レオンは鍋の中に薪を入れた。
肉の上に、薪を積む上げ、竈の火を整え、鍋を据える。
理屈は通っている。
だが、薪にはすぐ火が回らない。
「燃えやすくすればいい」
レオンはそう判断した。
油を足した。肉が浸るほどに。
足らないかと思い、さらに少し。
これで火は回る。
そう思い火を入れる。鍋の中へと直接。
次の瞬間、鍋の中で炎が跳ね上がった。
「おお……」
一瞬、見入る。
だが、炎は止まらない。
鍋の縁を越え、上へ伸びる。
「……これは」
まずい、と判断したときには、もう遅かった。
「レオン兄!!」
ローザが飛び込んでくる。
「何してるの!!」
「火が強い」
「見れば分かるよ!!」
炎はさらに大きくなる。
鍋の中で油が揺れ、火が巻き上がる。
このままでは危険だ。
レオンは即座に行動した。
近くの水がめから水を掬い、鍋へと投げ入れる。
正しい判断だと思った。
その瞬間。
爆ぜた。
音とともに炎が弾け、油が飛び散り、火が広がる。
「レオン兄!!」
ローザが叫ぶ。
鍋に蓋を叩きつけ、火を押さえる。周囲の火を布で潰し、踏み消す。
煙が上がり、焦げた匂いが広がる。
やがて、騒ぎを聞きつけた宿の女が現れた。
「何やってんだいあんたら!!」
怒号。
レオンとローザは同時に頭を下げた。
事情を説明し、謝罪し、さらに頭を下げる。
結果として、追い出しは免れたが、代わりに厨房の掃除を命じられた。
その夜、二人は食事を取ることなく、煤と油にまみれた床を磨くことになった。
「――と、いうことがありまして」
レオンが言い終える。
小部屋に沈黙が落ちた。
アルスは一度、目を伏せる。
「……宿は無事なんだな」
「はい」
「ならいい」
短く頷く。
だが、その直後。
「良くありません」
ローザが即座に言った。
ゼダンが静かに口を開く。
「一つ確認したい」
全員の視線が向く。
「その肉は――爆ぜたのか」
「……はい。鍋ごと」
ゼダンはわずかに頷いた。
「なるほど」
短い沈黙。
「新しい兵器か」
「違います」
「携行できるのであれば、敵の補給に紛れ込ませることも可能だ」
「違いますってば!!」
アルスは小さく息を吐いた。
「……レオン」
「はい」
「もう料理はするな」
間。
「はい……」
ローザが低く言う。
「というか火も触らせないでください」
アルスはわずかに視線を落とした。
戦場では判断一つで命が飛ぶ。
だがどうやら、厨房も同じ命を懸ける戦場だったらしい。
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