第14話 石の下の火
大陸歴一四〇七年三月二十三日
昼の酒場は、夜とはまるで別の顔をしていた。広間の床板に射し込む淡い光が、傷や年季を浮かび上がらせる。昨夜の喧騒の名残はあるものの、空気は澄み、火は落ち、鍋もかかっていない。酒の匂いのかわりに、木と石の匂いが静かに漂う。この場所は本来、夜のものだとアルスは思った。昼間の静けさは、別種の緊張が支配する。
アルスの後ろにはゼダン、さらにティムが続く。三人だけ。ほかの者たちは町に散ったままだ。
奥の卓に目をやると、ディートリヒが座っていた。昼の彼は声を張らない。卓の上に広げられた粗い地図を指で押さえ、低く言う。
「北西だ」
炭で描かれた山並みの奥、細い道がうねり、森の記号が重なる。その一点を押さえたまま、続けた。
「グライフ家の旧砦。百年以上前の石積みだ」
西部四十八家のひとつ。表向きはフォーゲルとも距離を置く小家だが、その実、影響下にあると見てよい。
アルスはわずかに視線を動かす。ゼダンが短く言った。
「放棄された」
ディートリヒは頷く。
「広い。広すぎる。土地は痩せ、人口も少ないあの家にあの砦は重荷だった」
指先が描く円は思ったより大きい。その広さが、逆に空白を示していた。
「山深い。道は悪い。霧も出る。遠目に見えにくい。昔は山賊が使ったこともある」
さらりとした口調だった。アルスが問う。
「今は?」
「空だ。だが住めるわけではない。石は残るが、手を入れねば雨も凌げん」
地図上の砦は静かに、誰のものでもないように見える。だが、誰のものでもない場所など、本当はない。ディートリヒの声が低くなる。
「忘れるな。見つかれば終わりだ」
グライフ家とて、領内に不穏があれば、必ず動く。疑われるということは、それだけで終わりに近づくという意味だ。
窓から差す光が、地図の山を淡く照らす。ゼダンの言葉がアルスの中で重なる。名もなき影。事故か、山賊か。だが喉元は押さえられる。
ここなら――
思考が形になる前に、ディートリヒが口を開いた。
「人は」
一拍置く。
「何人か話に乗りそうな奴はいる。しかし数だけ増やしても意味はない。今、お前に必要なのは何だ」
ティムが息を呑む。アルスは迷わなかった。
「共に策を練れる者だ」
酒場の空気がわずかに揺れた。武ではない。武は後からでも集まる。誤れば全員死ぬ。
ディートリヒは口の端をわずかに上げる。
「余りものにそんな逸材がいると思うか」
「思わない」
「正直だな」
だが否定はしなかった。
「探してはみよう。見つけ次第送る」
そして、指で卓を叩く。
「だが先に必要なのは大工だ。住めぬ砦は拠点にならん」
アルスは脳裏に歪な掘っ立て小屋を思い浮かべ、静かに息を吐く。
「……確かに、いない」
人を集める前に、まず場所を整える。石を積み、木を組み、雨を防ぐ。それがなければ何も始まらない。
ディートリヒはわずかに笑った。
「坊やだな」
からかうように言うが、責める口調ではない。
「手を入れれば拠点になる。石も木も人も、組み合わせ次第だ」
アルスは、北西の山並みを思い描く。崩れた砦。誰も住まず、手も入れていない。その静けさは、逆に自由を意味していた。
「拠点を整えろ。人はそのあとだ」
短い言葉だったが順序は明確だった。
ディートリヒは酒場の奥へ消え、布袋を抱えて戻ってきた。
「当面の資金だ」
卓に置かれたそれは、音もなく重みを伝える。
「貸しだ。忘れるな」
アルスは触れず、頷いた。それで十分だった。
続いて古びた武具が並べられる。使い込まれているが、刃は生きている。
そして外。
三頭の馬が繋がれていた。
「これまで手放せなくてな」
ディートリヒは肩をすくめる。
「馬には命を救われた。だから残していた」
アルスはゆっく確認する。布袋の金は、人を雇い、材料を揃えるために必要だ。武具は、戦の先手を打つために。馬は、情報や人材の移動を確実にするために。
ゼダンも黙って見ていた。口にせずとも、理解している。計画の全体像を思い描く目は、疲れた光ではなく、冷静な判断を示していた。
ディートリヒは静かに立ち上がる。
「生き延びる手伝いはしてやる」
その言葉が、重くもあり、軽くもある。行動の自由を示す一言であり、同時に責任の重さを告げる音でもあった。
外の光が淡く揺れ、酒場の静けさを包む。卓上の赤い炭が小さく瞬き、これから動くべき者たちの計画を、静かに見守っているようだった。
酒場を出ると、外は薄曇りの空が広がっていた。光は柔らかく、町の屋根や石畳に落ちる影を淡く描く。
足元の石畳を踏みながら、アルスは静かに呼吸を整える。
頭の中で拠点整備を思案する。雨風を凌ぎ、住む場所を整える。それがすべての起点になる。
アルスはゆっくりと視線を上げた。
新生ミュラー家の力を蓄える地がある。静かで、深く、広い場所。奪われるものがない、最初の舞台。
「あとはいつ動くか……それだけだ」
声は自分自身に向けられていた。光は弱く、影は濃い。始まりは、静かに、しかし確実に動き出していた。
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