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第15話 囲いなき場所

大陸歴一四〇七年三月二十三日


バウムゼンの町は、煙に満ちていた。鍛冶場の煤、陶工の窯、煮炊きのかまど。朝から絶えず立ちのぼる白や灰の筋が、空を薄く曇らせ、屋根の上に淡い影を落とす。人の声と荷車の軋みが重なり、往来は絶え間なく動いていた。ここでは誰もが忙しく、他人に構っている余裕などない。


その雑踏の中にいれば、紛れ込める。町はそういう場所だった。


安全ではない。だが、動きを隠す余白はある。


借り受けた裏手の広間に、アルスは皆を集めた。板床は乾き、壁は薄いが風を防ぐ。山中とは違う、人の匂いのする空間だった。


「新しい話は何か聞けた?」


円になった兵たちが視線を交わし、やがてマティアスが進み出た。


「あります」


腰の小袋から折り畳んだ紙片を取り出し、細かい字を確かめながら報告する。


「南西から下ってきた交易商人と話をいたしました。その者が申すには、街道沿いで、武装した騎馬の一団が聞き回っていると」


部屋の空気がわずかに締まる。


「五、六騎ほど。数は多くありません」


「何を聞いていた」


「年若い主と、その供回り。山越えの痕跡があったか、と」


沈黙が落ちた。


「以上です」


誰かが小さく息を吐く。


「だが、ここは町だ。人も多い。いちいち当たってはおられまい」


希望を探す声音だった。


「町であるからこそ、です」


マティアスは視線を落としたまま続ける。


「宿屋、酒場、荷駄場、どこでも金を払い、話を聞いていると」


町の喧騒が遠くに感じられる。ここは安全だと、誰もが思った。だが同時に、情報は人とともに集まり、そして流れていく。


アルスが促す。


「他には?」


別の兵が前に出る。


「市場で聞いた話ですが……このバウムゼンと言う街は、バウム領の生産物を一度すべて集め、値付けをして売りに出すという方法で栄えているそうです」


「荷運びの親方が、最近は人足の仕事を求めるものが増えている。人が余り気味だと言っていました」


様々な情報が集まる。


やがてヨアヒムが手を挙げた。


「俺も聞きましたぞ」


場の空気がわずかに緩む。彼はいつもどこか調子が外れている。


「東の露店で売っていた串焼きが――」


「ヨアヒム」


低い声で止められ、彼は肩をすくめる。


「……南門のあたりに、焼き菓子の屋台も出ておりました。蜂蜜が――」


誰かが小さく笑ったが、すぐに消える。安全だと思っていた足場が、ゆっくりと崩れていく感覚があった。


「町に紛れていれば、やり過ごせる」


一人の兵が口を開いた。


「ここで戦は起こせまい」


頷きが広がる。


だがゼダンは首を振った。


「戦はせぬだろう」


そして続ける。


「だが、人は消せる」


その一言で、場の空気が凍った。


大軍で攻める必要はない。夜陰に紛れ、金で口を割らせ、目立たぬまま人を消す。そうしたやり方なら、町の中でもいくらでも出来る。


誰かが低く言った。


「ならば、どうする」


声には苛立ちが混じっていた。


「また山へ戻るか」


「逃げ続けるのか」


言葉が重なり、やがて別の火種が顔を出す。


「移るというなら、家族はどうなる」


広間の空気がぴんと張った。兵の中には家族を残し追従している者もある。


山へ戻れば、町は遠くなる。町に残れば、人の目は増える。どちらを選んでも、完全ではない。


アルスはすぐには答えなかった。皆の顔を一度見渡し、静かに息を置く。


「町に紛れていれば安全だ」


そう言う者もいる。だがそれは、半ば希望に近い。


追手は少数だ。だからこそ町は隠れ蓑にもなる。だが同時に、狩場にもなる。人が多い場所では、情報もまた多く流れるからだ。


アルスは短く言った。


「完全な安全はないよ」


そして続ける。


「だが、今すぐ危険というわけでもない」


ここは危険ではない。だが安全でもない。その中間にある場所だ。重要なのは、そこではない。


アルスは言葉を区切り、ゆっくり続けた。


「ただ相手が動く前に、こちらが選ぶべきだね」


先手とは、逃げることではない。


場所を選ぶことだ。


アルスは視線を落とさずに言った。


「山中戻り隠れるのも一つだ。だが、ただ潜むだけでは長くは持たない」


家族を呼び寄せること。火を起こす場所。雨をしのぐ屋根。囲い。


そうしたものがなければ、持久はできない。


沈黙が流れた。


アルスは地図上の点を指で押さえながら、静かに口を開いた。


「北西に石壁の残る廃砦があるらしい。街道から外れ、湧き水もあると聞く。屋根は崩れているが、壁は立っている。手を入れれば、十分に住める場所だ」


レオンの目が輝いた。


「そこなら家族も呼べるかもしれません。囲いもある。水もある。整えれば居場所になります」


ティムは地図から目を上げ、慎重に言葉を選んだ。


「屋根や木造部分は手を入れねばならぬが、道具と人手が揃えば十分に改修可能だ」


アルスは頷き、ゆっくりと口を開く。


「そこを単なる隠れ場所にしないことだよ。逃げ場ではなく、自分たちの居場所とすること。火を起こせる場所を確保する。そこに家族を迎え、兵を集い、秩序を築く」


レオンはさらに言葉を重ねる。


「石や木を組み、屋根を渡せば、生活も防御も両立できますね。戦うだけの場所ではなく、生活できる拠点として整える。ここで生き、ここから動くための基盤になります」


ティムが肩をすくめながら応じた。


「家族や仲間が安全に滞在でき、必要なら兵を迎えられる。拠点を整えれば、移動や隠れるだけでなく、行動の中心にもなる。兵や物資を効率よく配置できれば、少数でも十分に守ることができる」


アルスは声を低く落とす。


「整えるには時間と労力が要る。しかし、この地を支配すれば、誰も手を出せない場所になる。まずは足元から確実に整える。人も、物資も、順に集める。すべてはここから始まる。」


ローザはわずかに笑みを浮かべ、言った。


「北西の石壁は、ただの廃砦ではなく、私たちの場所になるのですね」


ゼダンも静かに頷き、応じる。


「屋根を直し、囲いを整え、火を絶やさぬ限り、ここは生き延びる場所になる」


アルスは再び地図を押さえ、指先で石壁の輪郭をなぞった。荒れた廃砦だが、整えれば確実に居場所となる。周囲の山と、森の深さを思い浮かべる。


風や雨の音までが、頭の中で形を取り始めていた。ここで人々が生き、行動を起こすための計画が、静かに形を取り始める。


「急な話だが、明日にも町を出るぞ」


アルスの言葉が終わると、広間には短い沈黙が落ちた。


誰もすぐには口を開かなかった。だが、それは迷いではない。これから自分たちが向かう場所と、そこで何を為すべきかを、それぞれが頭の中で静かに量っている時間だった。


やがて、マティアスが一歩前に出た。


彼はアルスの前まで進むと、迷いなく膝を折った。


「従います」


言葉は短い。だが声には揺らぎがなかった。


その姿を見て、隣にいた兵が同じように膝をつく。さらに別の者がそれに倣い、広間の板床に次々と膝が触れていく。


やがて円になっていた兵たちは、ほとんどが頭を垂れていた。


彼らは追われている。家も、館も、地位も失った。だが主を失ったわけではない。だからこそ、この場で改めて自分たちの立つ場所を選び直しているのだった。


アルスはそれを黙って見ていた。


十四歳の少年である。だが今、この場で最も多くの視線を受け止めている者でもある。彼はその視線から逃げず、ただ静かに頷いた。


そのときだった。一人だけ、まだ立ったままの男がいた。ヨアヒムである。


腕を組み、しばらく皆の様子を眺めていたが、やがて大きく息を吐き、ゆっくりと膝を折る。


その顔に、どこか真剣な表情を浮かべつつ言う。


「その砦に住むとなれば、うまい串焼きが食える場所にしましょう」


広間に笑いがこぼれる。


張り詰めていた空気が、わずかに緩んだ。


アルスも、わずかに口元を緩める。


兵たちは再び顔を上げる。先ほどまで胸を締めていた重さは消えてはいない。だが、それと並んで、別のものが生まれていた。


北西の石壁。


そこを整え、火を起こし、囲いを直し、人が暮らせる場所に変える。逃げるためではなく、守るための場所として。


広間の外では、町の喧騒がまだ続いていた。


バウムゼンの町は、相変わらず煙に満ちている。


白い筋が空へ伸び、夕暮れの空に溶けていた。


だが彼らの向かう先には、まだ煙はない。


だからこそ、そこへ行くのだ。


自分たちの煙を、初めて空へ上げるために。


北西の石壁へ向けて。

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