第16話 門を越えて
大陸歴一四〇七年三月二十四日
夜の冷えが、まだ土に残っていた。空は明るみかけているが、陽はまだ塀の向こうに隠れたままだった。湿り気を帯びた空気の中に、革と鉄の匂いがかすかに混じる。
出立の朝だった。
兵たちは声を抑え、荷をまとめている。布袋の口を結ぶ音、革紐を引き締める軋み。昨夜のうちに粗方は整えたはずだったが、いざ背負う段になると、不要に思えた物が惜しくなり、必要と思った物が重く感じられる。逃げるのか、籠るのか――その定まりきらぬ迷いが、荷の形にも滲んでいた。
アルスは黙ってそれを見ていた。急かされているわけではない。それでも、急がねばならぬ朝だった。追手がいつ動くかは分からない。今日か、明日か、それとも既に。考えれば足は速くなるが、備えを削れば後で詰む。焦りと慎重が、胸の内で静かにせめぎ合う。
山へ入る。背は軽い方がいい――それは正しい。だが、どれほどの日数を見ればよいのかが定まらない。三日か、五日か、それとも十日か。補給の当てはない。
食糧の袋を前に、アルスはわずかに眉を寄せた。
その横で、一人の兵が袋の口を開き、干し肉を指で折る。
「これは塩が強い。持ちます」
別の袋を開ける。
「こっちは燻しが浅い。三日もすれば臭います」
誰かが小さく呟く。
「お前、妙に詳しいな」
兵は肩をすくめた。
「輜重隊で食材管理をしていたからな」
その言葉に数日前までの日常を思い出したのか、顔を上げる者は少なかったが、手は止まった。
横で、ゼダンが淡々と言う。
「不足は、争う理由になる。理由は後から付く」
声は低く、抑揚もない。ただ事実を置くような響きだった。領主の館で見た冬と、戦場で見た陣を、そこに重ねているのだろう。
山に入れば、敵は外にいる。腹が減れば、敵は内に生まれる。
アルスはしばし無言で袋の重みを量り、やがて短く言った。
「……まだ持てるよ」
金は減る。背は重くなる。それでも、足りぬよりはいい。
兵の一人が小さく息を吐き、別の者が黙って買い足しに走る。塩も、豆も、干し肉も、幾分多く袋に収まっていく。紐がきつく締め直され、肩にかければずしりと食い込んだ。
軽やかな出立にはならない。だが、それは崩れぬための重みだった。
ようやく陽が塀の端を染めはじめる。淡い光が差し込み、積み上げられた荷の輪郭を静かに浮かび上がらせた。
朝は静かに、しかし確かに動き出していた。
昼頃には門へ向かっていた。
バウムゼンの北門は半ば開かれ、出入りの商人がまばらに行き交っていた。
アルスたちは門の脇に集まり、荷はまとめてある。
昨日の会議で決まったとおり、今日のうちに町を出る。身の危険を感じた以上、躊躇はない。拠点を整え、家族を迎えられるだけの場所を先に作る。それが今できる最善だった。
「……ヨアヒムは?」
誰ともなく呟いた。姿がない。
兵の一人が小さく舌打ちをした。露骨ではないが、空気にわずかな棘が混じる。寄せ集めだ、とアルスは思う。
まだ声を荒げるほどの不満ではない。だが、誰かが遅れれば全員が待つ。その当たり前を、当たり前として共有できているわけでもない。
後方から軋む音が近づいてきた。
振り向くと、ディートリヒが誰かと荷車を押してくるところだった。古いが、車輪はしっかりしている。馬に繋ぐための革の帯も束ねて持っていた。
「無いよりはいいだろう」
そう言って、荷車の側板を軽く叩く。
「付き合いのある酒屋が新しいのを入れたと聞いてな。古いのを貰ってきた。まだ使える。適当に釘や使い古しの鎌なんかの道具類と、野菜の種とか使えそうなものも積んどいた」
アルスは素直に頭を下げた。
「ディートリヒさん。色々とありがとうございます」
男は少し眉を動かし、それから肩をすくめる。
「今後はディーでいい。長い」
軽い調子だった。恩を売る響きはない。ただ、対等に並ぶ者の声だった。
その後ろから、ひと組の夫婦と思われる者たちが進み出る。
「ふたりとも大工仕事ができる」とディーが言った。
男は肩幅が広く、手は節くれ立っていた。年若くはない。まだ壮年に入る手前といったところか。
その手に握られているのは、太い木槌だった。
大工の道具に違いない。
ただし、柄は鉄で補強され、頭は妙に重そうだった。
若い女がその隣に立っている。女はしっかりとした目をしていた。
手にしているのは、丸太を削った棍棒だった。
表面には、数多の釘が打ち込まれている。
これも、おそらく大工道具なのだろう。
……おそらく。
さらに言えば、女の顔には濃い化粧が施されていた。
目の周りと頬に、紅と黒の線が走っている。
町の化粧とは、少々趣が違う。
少し間を置いてディーは続ける。
「ちょっと色々あってな。この町で暮らしにくくなった。連れて行ってやってくれ」
アルスは大木槌と釘の刺さった棍棒、そして女の顔を見た。
……確かに、色々ありそうだった。
アルスは二人を見た。男は静かに頭を下げ、女もそれに倣う。
「……お願いします」
それだけを言った。
二人と顔合わせをしていた、そのとき。
「お待たせしましたー」
間延びした声が響いた。全員が振り返る。
ヨアヒムが歩いてくる。手には串。焼きたてらしく、まだ薄く煙が上がっている。
「遅い。何していたんだ」
兵の一人が低く言う。ヨアヒムは串を持ち上げた。
「そこの店で買いました」
「そっちじゃない」
即座に突っ込まれる。ヨアヒムは少し考えてから言った。
「あ、1本しかないです。買ってきましょうか」
「それも違う」
ヨアヒムの後ろに、子供が二人いたのだ。男の子と、女の子。どちらも薄汚れた服を着ているが、目だけは妙に澄んでいる。
「……どうした?」
アルスがヨアヒムの背後に目を向けつつ問う。
ヨアヒムはその目線を追うように振り向き、不思議そうな面持ちで言う。
「物欲しそうに見てたので、一口ずつやったんですが。あれ、ついてきたんだ」
他人事のような口ぶりだった。兵の一人が額を押さえる。
「君たちは?」
アルスが静かに膝を折り、子供の目線に合わせる。
男の子が答えた。
「行く場所がない」
女の子が続ける。
「優しそうだったから」
それだけだった。
風が門を抜ける。誰もすぐには口を開かなかった。
大工の男が、ちらと荷車を見る。ディーは何も言わない。ただ顎を撫でている。
どうする、と空気が問う。
アルスは子供を見た。失ったばかりだというのに、もう新しいものが目の前に現れている。
選べる立場ではない。だが、選ばなければならない立場ではある。
アルスは一瞬だけ、門の外の道を見た。自分たちですら、行き先はまだ曖昧だった。
「……行くところがないなら」
少しだけ言葉を探す。
「俺たちも、まだどうなるかわからない」
小さく息を吐いた。
「それでもいいなら、一緒に来るか」
大仰な宣言ではない。許可でも、救済でもない。ただの確認だった。
男の子がうなずく。女の子も。兵の一人が肩をすくめる。
「どうせ大工も増えた。荷車もある」
「出だしに放るのは縁起が悪いな」
「まあ、荷台が空いている」
誰かが言うと、空気がわずかに緩む。
それで決まった。誰も反対はしなかった。
荷が積まれる。革帯が締められる。子供は荷車の端に並んで腰を下ろし、大工の女がその横に立つ。兵が周囲を見渡し、ゼダンは門の外の道を確かめる。
アルスは最後に町を振り返った。
石壁の向こうに煙が上がっている。朝の炊事の煙だ。焼け落ちた屋敷の煙とは違う。
ここもまた、誰かの暮らしの中だ。
「行こう」
短く言う。車輪が回る。門を越えたところで、もう振り返る理由はなかった。
古い車軸を軋ませ、荷車は町の外へ出る。まだ囲いはない。
だが、荷車の周りに自然と人が寄る。子供を囲むように歩き、外側に兵が位置を取る。誰が命じたわけでもない。
形が、わずかに見え始めていた。新しい拠点候補地へ向け、彼らは歩き出す。
背後で、門が遠くなっていった。
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