表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

18/19

第16話 門を越えて

大陸歴一四〇七年三月二十四日


 夜の冷えが、まだ土に残っていた。空は明るみかけているが、陽はまだ塀の向こうに隠れたままだった。湿り気を帯びた空気の中に、革と鉄の匂いがかすかに混じる。


 出立の朝だった。


 兵たちは声を抑え、荷をまとめている。布袋の口を結ぶ音、革紐を引き締める軋み。昨夜のうちに粗方は整えたはずだったが、いざ背負う段になると、不要に思えた物が惜しくなり、必要と思った物が重く感じられる。逃げるのか、籠るのか――その定まりきらぬ迷いが、荷の形にも滲んでいた。


 アルスは黙ってそれを見ていた。急かされているわけではない。それでも、急がねばならぬ朝だった。追手がいつ動くかは分からない。今日か、明日か、それとも既に。考えれば足は速くなるが、備えを削れば後で詰む。焦りと慎重が、胸の内で静かにせめぎ合う。


 山へ入る。背は軽い方がいい――それは正しい。だが、どれほどの日数を見ればよいのかが定まらない。三日か、五日か、それとも十日か。補給の当てはない。


 食糧の袋を前に、アルスはわずかに眉を寄せた。


 その横で、一人の兵が袋の口を開き、干し肉を指で折る。


「これは塩が強い。持ちます」


 別の袋を開ける。


「こっちは燻しが浅い。三日もすれば臭います」


 誰かが小さく呟く。


「お前、妙に詳しいな」


 兵は肩をすくめた。


「輜重隊で食材管理をしていたからな」


 その言葉に数日前までの日常を思い出したのか、顔を上げる者は少なかったが、手は止まった。


 横で、ゼダンが淡々と言う。


 「不足は、争う理由になる。理由は後から付く」


 声は低く、抑揚もない。ただ事実を置くような響きだった。領主の館で見た冬と、戦場で見た陣を、そこに重ねているのだろう。


 山に入れば、敵は外にいる。腹が減れば、敵は内に生まれる。


 アルスはしばし無言で袋の重みを量り、やがて短く言った。


 「……まだ持てるよ」


 金は減る。背は重くなる。それでも、足りぬよりはいい。


 兵の一人が小さく息を吐き、別の者が黙って買い足しに走る。塩も、豆も、干し肉も、幾分多く袋に収まっていく。紐がきつく締め直され、肩にかければずしりと食い込んだ。


 軽やかな出立にはならない。だが、それは崩れぬための重みだった。


 ようやく陽が塀の端を染めはじめる。淡い光が差し込み、積み上げられた荷の輪郭を静かに浮かび上がらせた。


 朝は静かに、しかし確かに動き出していた。



 


 昼頃には門へ向かっていた。


 バウムゼンの北門は半ば開かれ、出入りの商人がまばらに行き交っていた。


 アルスたちは門の脇に集まり、荷はまとめてある。


 昨日の会議で決まったとおり、今日のうちに町を出る。身の危険を感じた以上、躊躇はない。拠点を整え、家族を迎えられるだけの場所を先に作る。それが今できる最善だった。


「……ヨアヒムは?」


 誰ともなく呟いた。姿がない。


 兵の一人が小さく舌打ちをした。露骨ではないが、空気にわずかな棘が混じる。寄せ集めだ、とアルスは思う。


 まだ声を荒げるほどの不満ではない。だが、誰かが遅れれば全員が待つ。その当たり前を、当たり前として共有できているわけでもない。


 後方から軋む音が近づいてきた。


 振り向くと、ディートリヒが誰かと荷車を押してくるところだった。古いが、車輪はしっかりしている。馬に繋ぐための革の帯も束ねて持っていた。


「無いよりはいいだろう」


 そう言って、荷車の側板を軽く叩く。


「付き合いのある酒屋が新しいのを入れたと聞いてな。古いのを貰ってきた。まだ使える。適当に釘や使い古しの鎌なんかの道具類と、野菜の種とか使えそうなものも積んどいた」


 アルスは素直に頭を下げた。


「ディートリヒさん。色々とありがとうございます」


 男は少し眉を動かし、それから肩をすくめる。


「今後はディーでいい。長い」


 軽い調子だった。恩を売る響きはない。ただ、対等に並ぶ者の声だった。


 その後ろから、ひと組の夫婦と思われる者たちが進み出る。


「ふたりとも大工仕事ができる」とディーが言った。


 男は肩幅が広く、手は節くれ立っていた。年若くはない。まだ壮年に入る手前といったところか。


 その手に握られているのは、太い木槌だった。


 大工の道具に違いない。


 ただし、柄は鉄で補強され、頭は妙に重そうだった。


 若い女がその隣に立っている。女はしっかりとした目をしていた。


 手にしているのは、丸太を削った棍棒だった。


 表面には、数多の釘が打ち込まれている。


 これも、おそらく大工道具なのだろう。



 ……おそらく。



 さらに言えば、女の顔には濃い化粧が施されていた。


 目の周りと頬に、紅と黒の線が走っている。


 町の化粧とは、少々趣が違う。


 少し間を置いてディーは続ける。


「ちょっと色々あってな。この町で暮らしにくくなった。連れて行ってやってくれ」


 アルスは大木槌と釘の刺さった棍棒、そして女の顔を見た。



……確かに、色々ありそうだった。



 アルスは二人を見た。男は静かに頭を下げ、女もそれに倣う。


「……お願いします」


 それだけを言った。


 二人と顔合わせをしていた、そのとき。


「お待たせしましたー」


 間延びした声が響いた。全員が振り返る。


 ヨアヒムが歩いてくる。手には串。焼きたてらしく、まだ薄く煙が上がっている。


「遅い。何していたんだ」


 兵の一人が低く言う。ヨアヒムは串を持ち上げた。


「そこの店で買いました」


「そっちじゃない」


 即座に突っ込まれる。ヨアヒムは少し考えてから言った。


「あ、1本しかないです。買ってきましょうか」


「それも違う」


 ヨアヒムの後ろに、子供が二人いたのだ。男の子と、女の子。どちらも薄汚れた服を着ているが、目だけは妙に澄んでいる。


「……どうした?」


 アルスがヨアヒムの背後に目を向けつつ問う。


 ヨアヒムはその目線を追うように振り向き、不思議そうな面持ちで言う。


「物欲しそうに見てたので、一口ずつやったんですが。あれ、ついてきたんだ」


 他人事のような口ぶりだった。兵の一人が額を押さえる。


「君たちは?」


 アルスが静かに膝を折り、子供の目線に合わせる。


 男の子が答えた。


「行く場所がない」


 女の子が続ける。


「優しそうだったから」


 それだけだった。


 風が門を抜ける。誰もすぐには口を開かなかった。


 大工の男が、ちらと荷車を見る。ディーは何も言わない。ただ顎を撫でている。


 どうする、と空気が問う。


 アルスは子供を見た。失ったばかりだというのに、もう新しいものが目の前に現れている。


 選べる立場ではない。だが、選ばなければならない立場ではある。


 アルスは一瞬だけ、門の外の道を見た。自分たちですら、行き先はまだ曖昧だった。


「……行くところがないなら」


 少しだけ言葉を探す。


「俺たちも、まだどうなるかわからない」


 小さく息を吐いた。


「それでもいいなら、一緒に来るか」


 大仰な宣言ではない。許可でも、救済でもない。ただの確認だった。


 男の子がうなずく。女の子も。兵の一人が肩をすくめる。


「どうせ大工も増えた。荷車もある」


「出だしに放るのは縁起が悪いな」


「まあ、荷台が空いている」


 誰かが言うと、空気がわずかに緩む。


 それで決まった。誰も反対はしなかった。


 荷が積まれる。革帯が締められる。子供は荷車の端に並んで腰を下ろし、大工の女がその横に立つ。兵が周囲を見渡し、ゼダンは門の外の道を確かめる。


 アルスは最後に町を振り返った。


 石壁の向こうに煙が上がっている。朝の炊事の煙だ。焼け落ちた屋敷の煙とは違う。


 ここもまた、誰かの暮らしの中だ。


「行こう」


 短く言う。車輪が回る。門を越えたところで、もう振り返る理由はなかった。


 古い車軸を軋ませ、荷車は町の外へ出る。まだ囲いはない。


 だが、荷車の周りに自然と人が寄る。子供を囲むように歩き、外側に兵が位置を取る。誰が命じたわけでもない。


 形が、わずかに見え始めていた。新しい拠点候補地へ向け、彼らは歩き出す。


 背後で、門が遠くなっていった。

もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、ページ下部の☆を押して評価をお願い致します!


作者の励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ