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第17話 街道の焼け跡

大陸歴一四〇七年 三月二十七日


 進む街道は、思っていたよりも静かに流れていた。


 夜明けの冷えはまだ残っているが、陽はすでに山の端を越え、ゆるやかな光が道をなぞっている。冬の名残をわずかに含んだ風が、三頭の馬のたてがみを揺らし、荷車の幌をかすかに鳴らした。


 門を出たときの緊張は、日が昇るにつれて薄れ、もう背の奥へと沈んでいる。


 進んでいる――その事実だけで、人の胸は思いのほか軽くなるものだった。


 先頭を歩くアルスは振り返らない。ただ歩幅を一定に保ち、道の起伏と空の色を測るように進む。その後ろでゼダンが周囲を見、レオンが三頭の手綱をまとめて引き、荷車を導いていた。


 兵たちの足並みも揃い、軋む音はあるが、まだ不安を孕むほどではない。


 孤児の兄妹は荷台に並んで座り、落ち着かぬ様子で視線をあちこちへ走らせている。


 ローザが荷車の横を歩きながら言った。


「水が湧くなら、畑が作れますね。少しずつでも」


 畑、という響きに、兵の一人が振り返る。


「山だ。獣は出るだろうな」


「なら柵もいるな」


 誰かが続ける。形の定まらぬ将来が、歩く足並みの間にこぼれていく。


 設計図ではない。ただ、そこに“あるかもしれない生活”の話が続いていた。


 アルスは空を仰ぐ。雲は薄く流れ、視界は遠い。


 追手がいる可能性も、消えたわけではない。エリクセンの捜索がどこまで及んでいるかも分からない。


 だが今は、道が続いている。それで足りる。


 荷車が小さく跳ねた。三頭の力がわずかに揃わず、引きが一瞬だけぶれる。レオンが手綱を引き直す。


「まだ大丈夫だ」


 誰にともなく呟く。声は静かだが、迷いはない。


 軋む音は、かえって確かな存在感を与える。壊れていない証だ。少なくとも、まだ進める。


 後ろで孤児の兄が言った。


「砦って、高いんですか」


 問いは素朴だった。だが、この集団にとっては意味のある問いでもある。


 ゼダンが振り向きもせず答える。


「どうだろうな。だが囲いがあるらしい。それだけで違う」


「囲い……」


「敵からも風からも守ってくれる。生きる上で大事なことだ」


 淡々とした説明だったが、実戦を知る者の言葉だった。


 その言葉に、兵の一人が小さく笑う。


「まずは飯を食うことからだ。生きるには、こっちの方が先だ」


 言葉は軽い。だが、どこかに気遣いがある。笑いはすぐに消える。だが、消える前に確かにあった。



 陽はさらに昇り、街道はゆるやかに北西へと伸びている。まだ遠い。だが向かう先がある。その事実が、歩みを揃えさせる。


 影は短い。さきほどまでの会話も、歩調に溶けて途切れがちになっている。荷車の軋みと、馬の鼻息、革具の擦れる音だけが一定に重なっていた。


 そのときだった。


 前方の道の端に、何かがある。最初にそれを“物”として認めたのはレオンだった。手綱を握る手がわずかに強まる。


「……あれは」


 誰にともなく漏れた声に、アルスは視線を上げる。


 遠目には、ただ黒ずんだ塊に見えた。荷を覆う幌が崩れ落ちたようにも、木材を積み上げたまま放置したようにも見える。街道にしては不自然な位置だ。道の脇に寄せられてはいるが、片付けられた様子はない。


 風向きが変わる。鼻を刺す匂いが、遅れて届いた。焦げた木の匂い。アルスは声を落とす。


「少しゆっくり」


 一行の列が、自然とわずかに広がる。ゼダンが前へ出る。兵の二人が左右へ散る。


 近づくにつれ、形がはっきりする。荷車だった。


 車輪は片方が崩れ、もう片方も半ばまで焼け落ちている。幌は骨だけを残し、黒い布片が風に揺れていた。積まれていたであろう荷は、ほとんど残っていない。焦げた箱の破片と、割れた樽の輪だけが地面に転がっている。


 火は、自然に出たものではない。焼き尽くそうとした跡だ。


 アルスは荷車の周囲を見渡す。道の轍は乱れている。いくつかの足跡が踏み重なり、土は固く押し固められていた。血の色は見えない。だが、それは無かったという意味にはならない。


 ローザが息を呑む音がした。孤児の妹が、兄の袖を握る。誰のものかを示す紋章も、旗もない。焦げ跡に埋もれているのか、最初から無かったのか。分からない。


 商人か、それとも別の一団か。だが、それは今は重要ではない。ここで襲われた。それだけが、はっきりしている。


 ゼダンは焼け落ちた車輪の縁に触れた。炭化した木片が、指先で崩れる。


「最近だな」


 その一言に、場の空気がさらに沈む。


 兵の一人が周囲の林を睨む。


「このあたりですか」


 ゼダンは首を振らない。ただ、視線を巡らせる。そのとき、ゼダンの背後で、一人の兵が低く言った。


「足を止めるなら、道そのものに細工を加えます」


 言葉は短い。だが意味は明確だった。アルスは焼け跡から視線を上げる。


「この道は一度止められていると言う事か」


 静かな確認だった。その兵は軽く首を振る。


「いえ、これは違いますね。誘引したんです。その場所で待てば良いので。動けばかかります」


 戦の話をしているのに、声音は職人のそれに近い。アルスは一拍置いて言う。


「他人の進路って変えられるのか」


 同じ兵が続ける。


「誘えば良いのです。切欠を作り、相手に対処させるのです。その場所は限られます」


 アルスは短く頷いた。


「覚えておくよ」


 それだけだった。ゼダンが膝をつき、地面を指でなぞる。


「荷は抜かれている」


「死体は」


「見えませぬ。連れて行かれたか、逃げたか」


 淡々としたやり取りの最中、風が灰を舞い上げる。黒い粉が、街道の白い土に混じっていく。


 数日も経っていない。雨が降れば灰は流れる。だが焦げ跡はまだくっきりと残っている。


 林は静かだ。鳥の声が遠くで響く。風はあるが、人の気配はない。


 だが、静けさは安心ではない。街道は安全ではない。それが、形を持って目の前に置かれている。


 ローザが焦げた木片を拾い上げ、すぐに落とす。黒が指に移る。


 ティムは壊れた車輪を見つめ、何も言わない。孤児の兄は、唇を引き結び、焼け跡から目を逸らさなかった。


 誰も騒がない。叫ばない。ただ、理解する。


 アルスはゆっくりと立ち上がる。


「進もうか」


 短い命令。


 ここで止まる理由はない。立ち尽くすことに意味はない。


 ゼダンが頷き、レオンが手綱を引く。荷車をわずかに外側へ寄せる。


 焼けた荷車の横を通り過ぎるとき、風がまた灰を巻き上げた。黒い粉が、一行の足元に降りかかる。


 さきほどまで語られていた柵や畑や火の話は、誰の口からも出なかった。


 未来は消えたわけではない。道は同じように続いている。


 陽も変わらず照っている。それでも、空気は明らかに違っていた。足音が、先ほどよりも硬い。街道は静かだ。


 静かなまま、現実だけを残している。


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