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第18話 回る車輪

大陸歴一四〇七年 三月二十七日


 焼け跡を越えたあたりから、列の間隔は自然と狭まっていった。


 誰が命じたわけでもない。だが足並みは揃い、視線は前後へ細かく行き交う。先頭のアルスはわずかに歩幅を広げ、後ろもそれに応じた。荷車の軋みが、先ほどよりも早い調子で鳴る。


 風向きは変わらない。空も同じ青さを保っている。それでも、景色だけが一段くすんで見えた。


 兵のひとりが、何度目かの振り返りをする。林の奥を見据え、枝の揺れに目を細める。何もないと分かっても、視線はすぐには戻らない。


 ゼダンは歩きながら地面を追っている。轍の乱れや足跡の重なりを拾おうとするが、街道は固く乾き、痕跡を残さない。


 誰も口にはしない。だが、焼けた荷車はまだ背後にある。


 アルスは速度を落とさない。止まらぬことが、今は最も安全だと判断している。休むなら見通しの利く場所で。囲まれる地形は避ける。頭の中で地図が静かに引き直されていく。


 昼を過ぎ、陽が傾き始めたころ、小さな沢に差しかかった。水は浅く、石を踏めば渡れる程度だ。いつもならここで足を止め、水袋を満たし、馬にも飲ませる。


 だが今回は違った。


「短く。すぐ発つ」


 低い声。


 兵がすぐに動き、水袋を差し出す。孤児の兄妹も膝をつくが、口にする量はわずかだ。三頭の馬の鼻先を順に水へ向け、すぐに引き上げる。革袋の口を結ぶ手つきが、どこか急いている。


 水音だけがやけに大きく響いた。ローザが顔を上げ、何か言いかけて言葉を飲み込む。ティムは沢の向こうの林を見たままだ。


 再び歩き出す。


「ここは通過する。立ち止まらない」


「若様、少し慌てすぎですぞ。急いては、見えるものまで見落とします」


 ゼダンが危惧を伝えるが、アルスは歩みを緩めない。


 レオンが三頭の手綱をまとめて引き、荷車の歩調を合わせようとする。だが足並みはわずかに揃いきらない。ひとつが踏み出せば、もうひとつが遅れる。そのずれを埋めるように、車輪が石を踏んで跳ねる。軋みが鋭くなる。孤児の妹が小さく声を漏らす。


 誰も叱らない。だが、緩めもしない。


 兵のひとりが道脇の茂みに一瞬足を向ける。小動物が走り去っただけだと分かっても、しばらく視線は離れない。


 頭に置くのは距離の計算だ。次の曲がり角までどれほどか。坂を越えれば視界は開けるか。


 アルスの中で選択肢が細く削られていく。焼け跡は新しかった。ならば近い――そう考えるのは自然だ。自然であるがゆえに、思考は偏る。


 街道はわずかに上りへ変わる。乾いた土が靴裏を滑らせ、荷車の重みが後ろへ引く。マティアスが歯を食いしばり肩で押す。兵がひとり、無言で加わる。


 三頭の馬はそれぞれに息を鳴らし、力のかけ方がわずかに違う。前へ出ようとするもの、踏みとどまるもの。その差を、レオンが手綱でまとめきろうとする。


 押し上げる。止まらない。止まれば、周囲の静けさに呑まれる気がした。


 ゼダンが一度だけアルスを見る。速度が出すぎている。その視線を、アルスも感じている。


 だが、足は緩めない。


 焼けた荷車の黒が、まだ脳裏に残っている。灰が舞う光景が、まぶたの裏に貼りついて離れない。


 安全は幻想だ――そう理解した瞬間、人は速くなる。冷静であろうとするほど、動きは鋭くなる。


 ティムは荷車の車輪を見つめながら、無言で歩く。軋みの音は、先ほどよりも高く乾いている。


 坂を越え、視界が開ける。何もない。ただ道が続いているだけだ。


 それでも足取りは重い。焦りは声にならず、呼吸だけが浅くなる。


 判断は速くなるが、余白は削られていく。アルスはようやくわずかに歩幅を詰めた。だが列の緊張は解けない。


 前へ、前へ。


 進むこと自体が目的になりかけている。その兆しが、誰の胸にも薄く広がっていた。


 アルスは自分に言い聞かせるように言う。


「焦らず進むぞ」


 坂の先は緩やかな下りだった。


 見通しは悪くない。左右に低木が続き、遠くに岩肌がのぞく。危険な地形ではない――そう判断しても不自然ではない場所だった。


 だが、昨夜わずかに降った雨が土の色を変えていた。


 乾いて見える路面はところどころ黒く沈み、踏めばわずかに沈む。


 アルスは足裏でそれを感じる。一瞬、止めるべきかという考えがよぎる。


 だが列はすでに下りに入っていた。勢いがある。荷車の重みが前へと押し出す。


「緩めて」


 低い声。


 レオンが三頭の手綱を強く引き、兵が左右に寄る。車輪がぬかるみを踏む。わずかな抵抗。


 すぐに抜ける。その繰り返し。軋みが続く。ティムの視線が車軸へ落ちる。


 三頭の馬が、それぞれに鼻を鳴らす。足の運びが揃いきらない。前へ出ようとする力と、踏みとどまる力がぶつかり、手綱の先でわずかにばらつく。


 荷の重みだけが、前へとかかる。


 レオンが踏ん張る。兵が後ろから押さえる。


 そのときだった。


 嫌な音がした。乾いた、裂けるような音。木が、悲鳴を上げる音。


 一瞬、誰も動かなかった。音が何であるか、理解するまでの間。


 次いで衝撃。荷車が片側へ傾いた。幌が揺れ、積んだ荷がずれる。箱がぶつかり合う鈍い音。


 荷台の板が軋み、孤児の兄妹が弾かれるように飛び降りる。三頭の馬が一斉に首を振り、それぞれに違う方向へ力を逃がそうとする。レオンが必死に抑える。


「止めろ」


 アルスの声は低いが鋭い。兵が荷車に取りつき、支える。だが、もう遅かった。


 車輪が、外れていた。


 軸から抜け、ぬかるみに半ば沈んでいる。留め具が飛び、車体は片側を擦りつけて傾く。


 静まり返る。風だけが幌を鳴らす。


 レオンは手綱を握ったまま動かない。馬の荒い息だけが大きく響く。兵は支えた姿勢のまま固まる。


 アルスはゆっくり近づき、外れた車輪を見る。焦りが、ここに形を持っている。


 ゼダンが膝をつき、車軸を確かめる。歪みを指で測る。表情は変わらない。


 ティムが車輪のそばにしゃがみ込み、泥に沈んだ輪を起こす。深く息を吸う。


 孤児の兄妹は少し離れて立ち尽くす。ローザは荷に手を伸ばしかけ、止めた。


 誰も責めない。分かっているからだ。急いだ。止まらなかった。


 削った余白が、この一瞬に集まっている。


 アルスは車体に手をかける。思った以上に重い。


 沈黙がさらに重さを増す。風が止み、道だけが静かに続いている。


 ここで動けなくなれば――思考は最後まで形にならない。


 ゼダンが顔を上げる。責めない視線で現実を渡す。アルスは短く頷く。


 車輪は外れた。事実は変わらない。


 だが空はまだ明るい。


 沈黙の中で、最初に動いたのはティムだった。


 外れた車輪を両手で抱え上げ、泥を払う。軸穴の摩耗を覗き込み、留め具の飛んだ位置を拾い集める。


 言葉はない。


 だが、その目はすでに作業に入っている。


 ローザが、傾いた車体の脇に立った。崩れかけた荷を抱え直し、これ以上重みが片側に寄らぬよう支える。細い腕だが、迷いはない。


 兵が二人、無言で位置を取る。マティアスは車体の下に肩を差し入れ、ヨアヒムは斜面の下側に回り込む。支点を作るように、足場を踏み固める。


 ゼダンは地面の硬い場所を選び、石を運ぶ。車軸を持ち上げるための仮の台だ。


 アルスは全体を見渡し、短く告げる。


「荷を半分降ろす。重い箱からだ。軸を真っ直ぐに戻す。馬は外して」


 命令は静かで、無駄がない。レオンが馬具を解き、手綱を引いて距離を取る。馬はまだ落ち着かぬ息をしているが、暴れはしない。


 荷が降ろされるたび、車体がわずかに軽くなる。マティアスが肩に力を込める。ローザが足場を確かめる。ゼダンが石を差し込み、高さを調整する。


 大工の女は車輪を見つめたまま、やがて顔を上げた。


「割れてはいない」


 それだけを言う。その女は車輪の木目を指でなぞり、静かに言った。


「木は、こういう力のかかり方をすると、まず軸から緩む」


 兵のひとりが、短く頷く。


「林で切った材なら、もっと粘ります。乾きすぎていると、こうなります」


 それだけだった。誰も深くは聞かない。だが、材の性質を知る者がいる。それが分かれば十分だった。


 アルスが頷く。


 大工の女は夫に視線を送る。男は無言で腰の道具袋を解き、小木槌と楔を取り出した。状況を見て、必要なことを理解している顔だ。


 薄い楔を打ち込み、輪を締め直す。飛んだ留め具の代わりに、持ち合わせの鉄釘を選ぶ。完全ではない。だが、今は走れればいい。


 木槌の音が、斜面に響く。乾いた、確かな音。焦りはない。急ぎはするが、荒れない。


 アルスは兵に合図する。


「持ち上げるよ」


 息を合わせる。肩に力が集まり、車体がわずかに浮く。ゼダンが石を抜き、軸の高さを合わせる。大工の女が車輪を抱え、軸に通す。


 一瞬、噛み合わない。だが、次の瞬間、すとんと収まる感触があった。留め具を打ち込む。もう一度、小木槌が鳴る。


 静寂。


 誰もすぐには手を離さない。大工の女がゆっくりと車輪を押す。泥を巻き込みながら、輪は半回転する。


 きしむ。だが、回る。もう一度、押す。今度は、わずかに軽い。


 アルスは視線で合図を送り、兵がそっと車体を下ろす。荷を戻す。馬を繋ぐ。


 準備が整うまで、誰も声を上げない。レオンが手綱を引き、荷車をゆっくりと前へ出す。


 車輪が、斜面の土を踏む。回る。きしみはある。だが、止まらない。


 ひとり、またひとりと肩の力が抜ける。歓声はない。笑いもない。ただ、息が整う。アルスは最後に車輪を一瞥する。


 完全ではない。だが、進める。それで十分だ。


 夕陽が、斜面を淡く染めている。影が長く伸び、修理の跡を静かに覆う。


 一行は再び歩き出す。今度は、速すぎない。足並みは揃い、荷車は確かに道を踏む。


 車輪は回っている。それだけで、十分だった。


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