第19話 道なきところへ
大陸歴一四〇七年三月二十八日
坂は、思っていたより長かった。
急ではない。ただ、終わらない。
昨日アルスが口にした「焦らず進む」という言葉は守られている。列は乱れず、歩幅も揃っている。だが揃っているがゆえに、疲労は均等に積もっていった。
荷車の軋みが、昨日よりも低く、長く響く。壊れる気配ではない。ただ、重さを訴える音だった。
アルスは振り返り、その響きを受け止めてから前を向いた。ゼダンが横に並ぶ。
「少し落としますか」
短い問いに、アルスはすぐには答えない。坂の先を見やる。空は薄く、風は弱い。兵の息は荒いが、崩れてはいない。
「……落としすぎない程度に」
そう言ってから、わずかに言葉を継ぐ。
「速くは行かないと決めた。だから今さら焦らない。ただ、崩れない速さでいい」
ゼダンは重く頷いた。
「分かっています」
「分かってるよね。でも、俺も言っておきたい」
少し照れたように付け足すと、ゼダンはそれ以上何も言わなかった。
そのとき、荷車の後ろで木枠がわずかに揺れた。孤児の兄が身をかがめ、妹を抱え直そうとしている。
アルスは足を止めた。
「どうした」
兄は首を振る。
「大丈夫です」
だが妹は、小さく首を横に振った。
「……降りる」
兄が驚く。
「無理だ」
「私だけ荷物はやだ」
責める響きはない。ただ事実だった。
アルスは荷車の軋みを聞く。昨日より低く、長く響く音。
「歩けるか」
静かな問い。妹はうなずく。
「歩ける」
アルスは兄を見る。
「支えられるな」
少年は一瞬迷い、それでも強くうなずいた。
アルスは短く息を吐く。
「なら歩こう。ただし隠すな。痛みは言え。言わなければ止める」
妹は「うん」と答え、荷車から降りた。
地面に触れた足が石を踏む。小さな音が列に混じる。
列の後ろで、幼い妹は自分の足で歩き出す。兄の袖を掴み、黙って坂を上る。歩幅は短いが、止まらない。
アルスはその様子を確かめてから、声を張らずに言った。
「水はまだ飲むな。頂まで行ってからにしよう。喉が渇いても、今は我慢できるはずだ。……できるな?」
誰かが小さく「はい」と返す。
命令というより確認に近い。それでも足並みは揃っている。
速すぎない。遅すぎもしない。
均衡した歩みは、逆に体力を削る。叫びも争いもない。ただ消耗だけが積もっていく。
坂の半ばで、アルスは息を整えながら呟いた。
「急がないっていうのは、楽をすることじゃないな」
ゼダンが聞き取る。
「この経験は無駄になりません」
アルスは小さく頷く。
「そのほうが長く歩ける。……たぶん、俺たちはそれを選んでる」
答えは誰も示さない。ただ列は崩れずに進む。山は何も言わない。荷車は軋み続け、三頭の馬は重い息を揃えきれぬまま坂を引く。足音だけが規則正しく重なっていく。
何かが削れ始めている。まだ形は崩れていない。だが確かに、少しずつ。アルスはその感触を言葉にせず、胸の奥に留めたまま坂を上り続けた。
中天に達し、短く休みを入れる。だが立ち上がった瞬間、痛みははっきりと姿を現した。
声に出す者はいない。それでも腰を伸ばす動きは鈍く、足を踏み出すまでにわずかな間が生まれる。均等に積もっていた疲労が、休みを挟んで形になったのだとアルスは思った。
自分の脛も重い。足裏が熱を持っている。それでも顔には出さない。出さないことが強さだとは思っていない。ただ、余計な波を立てたくなかった。
列が動き出す前に、アルスは荷車と馬のそばへ行く。三頭の馬は首を低くし、鼻息が荒い。先ほどより明らかに重い呼吸だ。
ゼダンが近づく。
「馬に乗りますか。一頭減らしても動かせます」
問いは静かだが、試す色がある。
アルスは馬の首筋に手を置き、その呼吸を数える。
「いや、歩く。だが、長くは無理だな」
ゼダンは頷く。
「同感です」
アルスは手を離し、列を見渡す。まだ日は高く、進める時間はある。だが、進めるから進むでは消耗を重ねるだけだと分かっていた。
「今日は早めに止める」
わずかに開けた場所を見て、後ろへ手を広げる。
ゼダンが目を上げる。
「まだ歩けますが」
「歩けるね。だから止める」
言い切ってから、少しだけ言葉を足す。
「痛みが出たまま進めば、明日はもっと遅くなる。速すぎないと決めたなら、削れ方も選ばないといけない。……違うかな」
ゼダンは小さく息を吐いた。
「違いません」
列に向き直り、アルスは声を抑えて告げる。
「日が落ちる前に止まる。そこで足を見る。痛みは隠すな。今は隠すほうが損だ」
兵たちの顔に、わずかな安堵が走る。それを見て、アルスは胸の奥で息をついた。止める判断は甘さではないと、自分に言い聞かせる。
馬が前脚を鳴らす。アルスは再びそばへ行く。
「手綱を引きすぎるな。坂では荷を無理に押すな。声をかけてからにしろ」
兄妹のほうを見る。
「お前は馬の後ろに回るな。蹴られたら終わりだ。分かるな?」
兄は真剣に頷き、妹の手を強く握る。
列がゆっくりと動き出す。
痛みは消えない。だが進み方は昨日と違う。止めることを前提にした歩き方だ。息の乱れを確かめ、足の置き場を選び、馬の歩幅に合わせる。
脇にわずかに開けた場所を見つけ、アルスは手を上げた。
「ここで止まろう」
誰も異を唱えない。馬の背を撫で、水を量り、足を確かめる。妹が靴を脱ぎ、赤くなった踵を見せると、アルスは表情を変えずに言った。
「よく歩いたな。今日はもう無理はさせない」
少し考えてから、付け足す。
「その分、明日は無理させる。安心しろ」
冗談のつもりはなかったが、何人かが小さく笑った。
その笑いを聞きながら、アルスは水袋の重さを量る。昨日より軽い。だが減り方は計算の内だ。
勢いで進むのではない。痛みを数え、削れ方を選ぶ。止めることもまた、進むことと同じだけの決断だと、ようやく理解し始めていた。
山は変わらず黙っている。だが列の歩みは、昨日よりも確かに整っていた。
大陸歴一四〇七年三月二十九日
朝から空は高かった。雲は薄く、陽は柔らかい。にもかかわらず、進む足取りだけが重い。街道は昨日までと変わらず伸びている。
その整った線が、かえって目に刺さった。
道中で痛めた足の痛みは消えていない。それでも列は、静かに整っている。
アルスは歩きながら、振り返らなかった。振り返れば、遠くまで続く街道が見える。それは安全の象徴であり、同時に追手のための導線でもある。整えられた道は、誰にでも優しい。味方にも、敵にも。
前を行くゼダンが足を止めた。わずかな高まりに立ち、視線だけで周囲を測っている。風が草を撫で、その音が街道の静けさに細く入り込む。
「この先、分かれ道がある。だがどちらも街へ続く。街へ出れば、噂も目も避けられん」
低い声は、叱責でも忠告でもない。ただ事実を置く響きだった。
アルスは頷き、ゆっくりと道の脇へ視線を滑らせる。木々の繁る先に、ゆるやかな起伏が重なっている。地図の上では空白に近い場所。名もない丘陵。整えられていない地形。
「街道を外れれば、馬車は段々と難しくなります」
ゼダンが続ける。戻るのも容易ではない。それでも外れるか――その確認だった。
アルスはしばらく黙っていた。風が吹くたび、街道の土埃がわずかに舞い上がる。細かな粒子が陽に光り、見えない糸のように道の先へ引かれていく。
その光を見た瞬間、胸の奥にあった曖昧な揺らぎが静まった。
「整えられた道を進む限り、俺たちは誰かの目の中にいる。隠れるなら、踏み固められていない場所へ行くべきだ。時間はかかっても、足を削っても、痕跡の薄い方を選ぶ」
声は穏やかだった。焦りも虚勢もない。ただ選択の重さだけが滲んでいる。
ゼダンは短く息を吐いた。
「ならばここか。聞いていた場所でしょう」
アルスは一歩、街道の縁へ踏み出す。硬い土から、林の中へ。足裏の感触が変わる。その違いが、はっきりと境界を告げた。
後ろで誰かが息を呑む。三頭の馬が鼻を鳴らし、荷車の車輪がわずかに軋んだ。
アルスは一度だけ振り返る。
街道は遠くまでまっすぐ伸びていた。整えられた道だ。速く進める。迷わず歩ける。だが、誰でも通れる。
アルスは視線を切った。
「ここから道はない」
それは決意の宣言ではなく、ただ事実を確かめるような声だった。
踏み固められた線は背後に残る。前には、名もない起伏と、風に揺れる枝葉だけが広がっている。
だが、その何もない中にこそ、選び取る余地があった。
隊は静かに街道を離れる。轍はそこで途切れ、草がゆっくりと倒れ、やがて元に戻る。
整えられた世界から、足跡の残りにくい世界へ。陽は高く、空はまだ明るい。
それでも、彼らの背後でひとつの道が終わった。
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