第20話 北西の石壁
大陸歴一四〇七年四月一日
道なき道を進んで、三日目だった。
街道を外れてから、まだ三日しか経っていない。だが舗装された道の硬さも、轍の規則も、すでに遠いもののように思えた。木々の間を縫う足取りは一定ではない。根が浮き、土は柔らかく、ときにぬかるむ。荷車はそのたびに傾き、押し、支え、引き直す。その繰り返しが、ゆっくりと体力を削っていく。
森は湿っていた。落ち葉はまだ水気を含み、踏みしめるたびに鈍い音を立てる。幹には苔が張りつき、枝葉は光を細く裂いて地面へ落としていた。乾いているのは空気ではない。喉の奥と、水袋の内側だった。
水袋を揺らすと、音が軽い。
以前なら意識にも上らなかった重みの差が、いまははっきりと分かる。誰も口には出さないが、歩幅がわずかに短くなっているのも、そのせいだと知れていた。
三頭の馬の呼吸が変わっている。
荒れてはいない。ただ、深い。鼻先を低く保ち、湿った土の匂いを探るように歩いている。手綱を引く兵は、それに逆らわなかった。ここでは人よりも獣の方が正確なことがある。
会話は少なかった。
無理に黙っているのではない。必要がないのだ。枝を払う音、荷の軋む音、足元を確かめる小さな声。それで足りる。誰かが転びかければ手が伸び、荷が傾けば自然に支える。焦りはない。だが、余裕もない。
逼迫している。崩れてはいない。その均衡を保つように、隊は進んでいた。
最初に足を止めたのは、馬だった。鼻先を上げ、耳を立て、わずかに首を振る。三頭の動きが揃わず、気配を探るように間を置く。手綱を握っていた兵が怪訝な顔をするより先に、ゼダンが視線を上げた。
「……待て」
低い声だった。
風向きが、ほんのわずかに変わっている。湿り気の中に、別の匂いが混じる。動きのない森の奥から、かすかな音が重なってくる。葉擦れではない。獣の気配とも違う。
アルスも足を止めた。耳を澄ます。最初は分からない。ただ、森の奥に空間がある。閉じた緑の連なりのどこかが、わずかに開いている。音が落ちている。
やがて、それは形を持った。水だ。
岩に触れてほどける、細い流れの音。誰も歓声は上げない。ただ、いくつかの肩がわずかに下がる。水袋の軽さを思い出していた喉が、同時にひりついた。
アルスはすぐには動かなかった。
「位置を確かめる。先に出るな」
静かに告げると、ゼダンが頷く。二人が先に進み、視界の開ける場所を探る。森は相変わらず湿っている。だがその奥に、確かな流れがある。
街道を外れて三日目。まだ持ちこたえている。だが、水は待ってはくれない。
森を抜けきる前に、流れは姿を現した。
細い沢だった。岩肌に沿って落ち、白くほどけ、浅い流れとなって木々の根元を縫っていく。幅は広くない。だが水は澄み、濁りも淀みもない。山の命を育む音だった。
それでも、誰もすぐには近づかなかった。
ゼダンが手を上げる。隊が止まる。左右に目を走らせる兵が二人、静かに散る。枝の裏、倒木の陰、獣道の先。人の気配はないか、踏み荒らされた跡はないか、火の痕はないか。森は変わらず湿っている。だがその湿りは自然のもので、滞ったものではない。
伏せて耳を当てる兵の姿が、土と同じ色に沈む。しばらくして、小さく首が振られた。アルスは頷き、ようやく前に出る。
沢の縁まで歩み寄り、膝を折る。掌を水に浸す。冷たい。深くはないが、底は固い。流れは途切れず、上流も見える。
「順に汲め。飲むのはそのあとだ。馬を先に」
声は低いが、急かさない。水袋が差し出され、慎重に満たされていく。溢れさせない。零さない。三頭の馬が順に鼻を寄せ、短く水を啜る。呼吸が、わずかに整う。
そのとき、小さな影が水面を横切った。
妹が身を乗り出すようにして沢を覗き込む。陽の裂け目が水底を照らし、石の間を銀色が走る。次の瞬間、水が弾けた。細い魚が跳ね、光を散らす。
「……!」
声になりかけた息を、隣の兄が慌てて袖で制する。少女は口を押さえたまま、目だけを大きく開いた。恐れではない。驚きと、ほんのわずかな喜びだった。
兵の一人が低く言う。
「静かに」
アルスは顔を上げ、その様子を見たが、叱らなかった。
魚は再び水底へ消え、沢は何事もなかったように流れ続ける。
水がある。そして魚もいる。それは大きな獲物ではない。だが、この山が空ではないことの証だった。
水袋が満ちる。喉の渇きがわずかに和らぐ。それでも、ここが終点ではないことは誰もが知っている。
アルスは立ち上がり、沢の流れを上流へと辿るように視線を向けた。
「ディーは、沢が曲がる先に岩があると言っていたな。角張った、大人二人分ほどの高さのやつだ。そこから山に入る、と」
ゼダンが応じる。
「見たことはない。ただの伝聞だと言っていた。だが、目印になるほどの岩なら、隠れはしない」
流れに沿って少し進むと、やがて沢は緩やかに折れた。曲がり角の先で、木々の間に灰色が覗く。岩だった。
苔をまといながらも、明らかに他の石より大きい。角が立ち、上部が平らに削がれている。自然のものにしては、目につく形をしていた。
アルスはその前で足を止める。
「……これだな」
誰に向けたというより、自分に確かめるような声だった。
だが、その先を見渡しても砦は見えない。木々は重なり、山はただ奥へと続いている。開けた気配も、石積みの影もない。
希望はある。だが確証はない。
ディーが聞いただけの話。見たことのない砦。地図にほとんど空白としか記されていない山。
それでも、戻る理由はない。
アルスは岩に手を触れ、指先に残る冷たさを確かめると、静かに言った。
「ここからだ」
声は強くなかった。だがその言葉は、沢の音よりもはっきりと、森の奥へと伸びていった。
岩を越えた先で、地面ははっきりと傾きを増した。
沢から離れるにつれ、土は締まり、根が露わになる。荷車の車輪はすぐに引っかかった。押せば進むが、引けば傾き、軸が軋む。もはや無理に通せる地形ではないことは、誰の目にも明らかだった。
アルスは一度、荷車を振り返った。
街道を外れてからも、これがあったからこそ運べたものがある。食料、道具、布、鍋。生き延びるための余剰。それをここで失えば、山での生活はすぐに痩せる。
「解くか」
兵の一人が車輪を見下ろしながら言う。解体して担ぎ上げるという意味だった。
ゼダンは首を横に振った。
「担げる量ではない。上に道がある保証もない」
アルスはしばらく黙って周囲を見た。沢はすぐ下にある。人の通う気配はなく、獣道は細い。木々は密で、上からの見通しも利かない。
「隠そう」
言ってから、ゆっくり続ける。
「ここは人の来る山じゃない。砦があるなら、いずれ買い出しも要る。そのとき荷車は必要になる。解体すれば戻せない。なら見つかりにくい場所に伏せておく。上に拠点を作るなら、いずれ道も整える」
ゼダンは短く頷いた。
「隠し通路、ですか」
「時間はかかるが、不可能じゃない」
戻ることを前提にしない言い方だった。
兵たちは無言で動き出す。沢から少し離れた窪地を選び、枝を払い、落ち葉を寄せる。車輪を外し、横倒しにし、上から木を被せる。遠目には倒木と見分けがつかない形へ整えていく。
作業は静かだった。誰も「戻るときに」とは言わない。
隠し終えた荷車を見下ろし、アルスはわずかに息を吐いた。これで、下へ引き返す理由が一つ減った。
三頭の馬の手綱を取り直す。乗ることはできない。足場が悪すぎる。だが引くことはできる。馬たちは鼻を鳴らし、地面を確かめながら、一歩ずつ斜面を上がる。
登りは、言葉を奪う。
息は荒くない。ただ深い。枝が顔を掠め、足元が滑るたびに、手が自然と伸びる。振り返れば、沢はもう見えない。
戻らない選択が、足裏に沈んでいく。
斜面を越えた先で、森の匂いが変わった。
湿りの中に、獣の匂いが混じる。
ゼダンがしゃがみ込み、土を指でなぞる。柔らかい地面に、二つに割れた跡が残っている。
「鹿だな。新しい」
蹄の跡は斜面を横切り、さらに上へ続いている。草は食いちぎられ、若い枝の先が折れている。食痕は低い位置に集中していた。
その声に応じるように、木立の奥で影が跳ねる。灰色の小さな体が、倒木を越えて消えた。
ウサギだ。
誰かが矢に手をかけかけるが、アルスは首を振る。
「今はいい。位置を優先する」
腹は減っている。だが焦って仕留める必要はない。この山には獣がいる。それだけで十分だった。
アルスは視線を上げる。木々の間から、わずかに空が広がっている。高くなるにつれ、風が抜ける場所があるはずだ。
生きられる。その感触が、言葉にせずとも隊の間に広がっていく。
やがて斜面はさらに複雑になった。岩が増え、木立が入り組み、視界が短く切れる。
アルスは立ち止まり、周囲を見渡す。
「このまま一団で進めば時間がかかる。だが散りすぎれば見失う」
ゼダンが視線で同意する。
「三組に分ける。距離は声が届く範囲まで。高所を探れ。開けた場所があるはずだ。半刻で戻る。戻らぬ場合はここへ集まる」
命令というより確認だった。
兵たちが頷く。
「ゼダンは右を」
「承知」
短い応答。迷いはない。
馬はその場に繋ぐ。三頭とも、鼻先を低くして落ち着きを取り戻しつつあった。
隊は三つに分かれ、それぞれ木立の中へ消えていく。
森は再び湿った匂いを取り戻す。だが今度は、その奥に何かが待っている。
三手に分かれてから、しばらくは同じ森が続いた。
足場は不安定で、岩が増え、根が絡み合う。視界は幹と枝に遮られ、数歩先が曖昧に滲む。ときおり遠くで鳥が鳴き、別の組の気配がわずかに動く。だが、確かな兆しはまだない。
アルスは斜面を斜めに取りながら、ゆるやかに高度を上げていた。
そのとき、風が変わった。
森の内側を巡っていた湿った空気が、ふっと抜ける。葉擦れの音が薄れ、代わりに遠くへ抜ける気配が生まれる。音が逃げていく。
一歩、また一歩。
木々の間隔がわずかに広がる。枝の密度が減り、足元の根が途切れる。視界の先に、緑ではない色が差した。
次の瞬間、森は途切れた。
唐突だった。押し広げたわけでも、切り開いたわけでもない。ただ木々が尽き、空間が現れる。
広い。
息を吸い込んだとき、胸の奥まで空気が通る。
草地が緩やかに広がり、その中央に低い起伏が浮かんでいる。上を遮る枝はなく、空がそのまま落ちてきている。風は遮られず、真っ直ぐに吹き抜ける。
アルスは足を止めた。歓声は上がらない。ただ森の縁に立ったまま、その広がりを見ていた。
やがてゼダンが姿を現し、同じ光景を見た。
「……あるな」
低い声だった。
誰も走らない。慎重に足を進め、草を踏み分ける。地面は思ったより柔らかく、傾斜も緩い。視界を遮るものも少ない。
近づくにつれ、起伏の正体が見えてくる。それは自然の盛り上がりではなかった。
崩れた石積みが、低く連なっている。苔に覆われ、ところどころ崩れ落ちているが、直線を保っている。意図のある形だった。
アルスはゆっくり歩み寄る。
足元に、加工された石が転がっている。角が削られ、面が整えられている。積まれ、そして崩れた跡。
低い壁の向こうに、さらに石の塊が見える。櫓の基部だろう。上部は失われ、半ばから折れたまま空を背負っている。
「……砦だな」
兵が低く言う。
「崩れてる」
「だが囲いは残っている」
「使える」
ゼダンが短く言った。
「十分だ」
焚火の痕はない。踏み荒らされた草もない。人の匂いがしない。完全に放棄されている。
アルスは櫓の残骸に手を触れる。
冷たい。
湿りを帯びながらも、芯は固い。崩れてはいるが、基礎は残っている。囲いは低いが、輪郭ははっきりしている。
ここに砦があった。そして今は、誰のものでもない。
崩れた石積みを巡り、平地の端へ出る。
その先で、視界が開けた。
山々の隙間に、細い線が走っている。
街道だ。
陽を受け、淡く光っている。あの線が人の流れであり、兵の動きであり、世界の動脈であることを、誰もが知っている。
アルスは黙ってそれを見下ろした。ここからは見える。だが、あそこからは見えない。
平地は森に包まれ、山の襞に隠されている。直に降りる道はない。斜面は急で、岩が張り出し、獣道がかろうじてあるだけだ。整えなければ往来は難しい。整えたとしても、限られた者しか通れない。
完全に孤立している。
ゼダンが隣に立つ。
「煙を上げても、街道からは気づかれにくいでしょう」
「火を気にせず使えるのは助かるな」
静かな声だった。
彼らは消えた。街道を外れ、森を抜け、山に入った。追う者があったとしても、この場所に辿り着くには偶然だけでは足りない。
だが、こちらからは見ている。
その構図が、言葉にせずとも形を持った。
戻る途中、ティムが足を止めた。
「……水の音がする」
沢ではない。もっと近い。
草の奥で、小さな流れが続いている。石の間から水が湧き、泉を作っていた。澄んだ水面が空を映している。
泉から細い流れが伸び、やがて斜面を下って森へ消える。
アルスは水面に手を触れた。
冷たい。
「下の沢は、これか」
ゼダンが頷く。
「山の内側で湧いている。枯れにくいでしょう」
水を運び上げる必要はない。ここに水がある。
それは、隠れるだけの場所ではないという証だった。
アルスは周囲を見渡す。
草地は広く、土は柔らかすぎない。水は湧き、流れは下へ続く。獣の痕も多い。森が近く、視界も確保できる。
完璧ではない。だが、条件は揃っている。
「ここにする」
ゼダンは短く頷いた。
孤児の妹は泉の縁から空を見上げている。枝に遮られない広さに、まだ驚きが残っている。
兵の一人が、その場に腰を下ろした。ようやく体の重みを地面に預ける。数日分の消耗が、遅れて押し寄せる。
アルスは石積みの中央へ歩み出る。
沈黙。風が草を揺らし、水面がかすかに震える。
「街道からは見えない。水はここで湧く。獣もいる。下へ出る道は難しいが、整えれば通せる。……守るにも、育てるにも、悪くない」
言葉を選びながら続ける。
「完璧ではない。だが、必要なものは揃っている」
そして短く言った。
「ここならやれる」
強くはない。だが、逃げ場のない響きだった。
ゼダンはしばらくアルスを見つめ、それから泉へ視線を移す。
「守りを組み、見張りを置けば持つでしょう。時間も稼げます」
反対はない。それで十分だった。
兵たちは互いに顔を見合わせ、小さく頷く。誰かが崩れた石を積み直しはじめ、別の者が草を刈る場所を見定める。
命じられてはいない。だが、もう動いている。
夕刻の光が、平地をやわらかく包む。
泉は空を映し、そこから流れ出た水がやがて森へ消えていく。その先に、あの沢があるのだろう。
まだ砦ではない。壁は崩れ、櫓は折れ、名もない平地にすぎない。
それでも、水はここで湧き、土は応え、風は抜ける。
アルスは最後に、遠い街道へ目を向けた。
細い線は、夕陽の中で静かに横たわっている。
彼らはそこから消えた。
だが、ここから見ている。
風は、途切れずに抜けていた。
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