第7話 抜ける
大陸歴一四〇七年 三月十二日
山道にはまだ夜の湿り気が残っていた。
足元の土は柔らかく、踏みしめるたびに靴底へ重みが返ってくる。夜半の冷えを越えたばかりの森は静かで、聞こえるのは枝を擦る風と、遠くから響く川の音だけだった。
一行は言葉少なに山道を下っていく。
負傷兵は昨夜熱を出してしまい、まだ歩ける状態ではない。今は列の中央でゼダンが背負っていた。
何度か担ぎ手を交代したが、結局一番揺れが少なかったのはゼダンだった。一定の歩幅で黙々と歩くその背なら、負傷兵も余計な力を使わずに済むのだろう。
アルスは前を歩くレオンの背へ視線を向けた。
木の根を避け、枝を払い、迷いなく曲がり角を選んでいく。その歩みに躊躇はなく、この山を知り尽くしているかのようだった。
「ずいぶん迷いがないな」
声を掛けると、レオンは振り返らずに答えた。
「このあたりは、だいたい見て回った」
「三年前に来てからか」
「ああ。最初は川を探すためだったが、そのまま奥まで歩くようになった」
枝を軽く払いながら、レオンは続ける。
「山の上にばかりいると、息が詰まる。だから谷を下りて、川沿いを歩いて、また登る。そういうことを何度もしていた」
淡々とした口調だった。
だが、その声を聞いていると、この山で過ごした日々を思い返しているようにも感じられた。
「この先に谷が開く。川も太くなる。そこから先は道が緩い」
アルスは小さく頷く。
歩きながら周囲へ目を向けると、木々の間隔が少しずつ広がり始めていた。湿った冷気の中には土の匂いも混じり、山の空気が少しずつ変わってきている。
そのとき、レオンが足を止める。
「アルス」
アルスは歩み寄った。
「どうした」
レオンは木立の向こうを顎で示す。
「もう少しだ」
その先は森がわずかに明るい。
「川が見えるはずだ。そこまで行けば、もう山は終わりだ」
そう言うと、レオンは再び歩き始めた。
アルスもその背を追う。
三年前、レオンは父や母、妹と共にこの山へ入った。今歩いているこの道も、そのとき歩いた道なのかもしれない。
焼け落ちた館から逃れてきた自分たちを、昔の友が先頭に立って導いている。
奇妙な巡り合わせだと思う。
それでもレオンの歩みに迷いはなく、その背を見ていると、不思議と道を疑う気にはならなかった。
やがて森の奥から川音がはっきりと聞こえ始める。
長かった山越えも、ようやく終わろうとしていた。
下りるにつれ、森の空気が変わっていくのをアルスは感じていた。
冷たい湿り気の中へ柔らかな土の匂いが混じり始める。やがて木々の間が大きく開け、視界の先に川が現れた。
幅はそれほど広くないが、水は澄み、石へ当たるたびに細かな音を立てている。両岸には低い草地が広がり、その向こうにはまばらな林が続いていた。
レオンが振り返る。
「ここだ」
アルスは川へ目を向けた。
浅い流れの底には石が透けて見え、水に洗われた丸い石が穏やかな光を返している。山の岩肌とは違う景色だった。
レオンが再び歩き出す。
「家はこの先だ。川を少しだけ下る」
「遠いのか」
「いや。歩いてすぐだ」
アルスはその後を追い、川岸の細い道へ入った。
草の匂いが濃くなり、踏みしめる土も山道とは違ってどこか温かさが感じられた。
しばらく歩くと、林の向こうに低い屋根が見えてきた。
近付くにつれ、それは家というより掘っ立て小屋と呼ぶ方が近いように思えた。太さの揃わない丸太を組み、隙間を板で塞いだだけの壁に、藁を載せた屋根もところどころ歪んでいる。
三年前にティムが、子供だったレオンに手伝わせながら半ば勢いだけで建てた家らしい。
雨風を完全に凌げるかは怪しい出来だが、それでも人が暮らす場所としてはどうにか形に成っていた。
レオンが家の前で足を止める。
「ただいま」
声を掛けると、戸の向こうで物音がした。やがて戸が開き、一人の少女が姿を現す。髪を後ろでまとめ、袖をまくった腕には土が付き、手にはまだ湿った粘土が残っていた。
十二歳になった少女は三年前より少し背が伸びていた。
少女は一瞬きょとんとした顔でレオンを見た。
「レオン兄?」
レオンは肩をすくめるように笑う。
「ローザ、急で悪いが客だ」
ローザは初めて兄の後ろへ目を向けた。兵たち、ゼダン、そして最後にアルスを見る。
その視線が止まった。
しばらく見つめたあと、小さく首を傾げる。
「……アルス兄?」
昔と変わらない呼び方だった。
アルスは小さく頷く。
「久しいな、ローザ」
ローザは一瞬だけ目を見開いた。驚いた様子は見せたものの、大きく取り乱すことはない。
静かに息を吸い、それから尋ねた。
「……どうしたんですか」
レオンがわずかに目を伏せる。
アルスは短く答えた。
「館が焼かれた」
ローザは何も言わなかったが、アルスからレオンへ、そして兵たちへ視線を移す。汚れた服も疲れた顔も、山を越えてきたことを物語っていた。
やがてローザは小さく息を吐く。
「そうですか」
それだけ言うと、戸口から半歩下がった。
「中、空いてます。広くはないですけど」
その声は落ち着いていた。驚きは隠せていなかったが、それでも受け止めようとしている強さが感じられる。
レオンが少し笑う。
「助かる」
ローザは兄を軽く睨んだ。
「助かるじゃない。こんな人数、急に」
「まあ、なんとかなるだろ」
「なんとかするしかないでしょう」
そう言ってもう一度アルスを見る。その目は、先ほどよりもまっすぐこちらを見返していた。
川の音が静かに流れ続けている。
煙の匂いはない。焼け跡の焦げた臭いもない。代わりに鼻へ届くのは、湿った土と水の匂いだった。
ようやく人の暮らす場所へ辿り着いた。そう思うと、自然に息が漏れた。
レオンは桶を持って川へ向かい、その後ろをゼダンが静かについて行く。先ほどまで背負われていた兵は家の中へ運ばれ、残る兵たちも思い思いの場所へ腰を下ろし始めていた。長い山道を越えてきた身体には、地面へ座れるだけでも十分な休息になるのだろう。
その様子を眺めながら、アルスはもう一度息をついた。
森は抜けた。しかし、まだ気を緩められる状況ではない。それでも山中で夜を明かすよりは、ずっと落ち着いていられる。
足元の土を踏み直したとき、不意に背後で気配が止まった。
「アルス兄」
振り返ると、ローザが立っていた。腕にはまだ粘土が残っている。作業の途中だったのだろう。
「先ほどのこと……教えてください」
静かな声だった。
責めるわけでもなく、取り乱すわけでもない。ただ事実を知ろうとしている。
「ああ」
アルスは頷いた。
「四日前のことだ。エリクセンに急襲された。迎撃や逃走で、皆バラバラだ。俺以外がどうなったか、民がどうなったか、何も分からない」
それ以上は言わなかった。
ローザもまた、それ以上は尋ねず、少しだけ俯き足元の土を見つめる。
やがて小さく息を吐いた。
「レオン兄が、煙を見たって言っていました」
「ああ。山の上からでも見えただろう」
ローザは静かに頷く。
「父はきっと驚きます」
「ティムか。元気にしてるか」
「ええ。今は川向こうへ出ていますけど、夕方過ぎには戻ると思います」
「そうか」
アルスは短く答え、川へ視線を向けた。
昼過ぎの日差しを受け、水面が細かく揺れている。山から流れてきた水はまだ冷たそうで、その音は谷へ下りてから絶え間なく耳へ届いていた。
その流れを見つめていると、不思議と胸の奥が静かになっていく。
もう四日も経ったのか。それとも、まだ四日しか経っていないのか。思い返すたびに、その感覚だけが曖昧になっていた。
水音を聞いているうちに、自然と別の川を思い出した。館の裏手、森を抜けた先に流れていた大きな川だった。
冷たい水だったが流れは穏やかで、訓練が終われば、レオンと二人でよく飛び込んだ。
訓練は決まって厳しかった。
踏み固められた庭で木剣を握り、何度も打ち合う。腕が重くなっても、ゼダンは構えを崩すことを許さなかった。
『腰を落とせ』
低い声が飛ぶ。
『腕だけで振るな。体ごと動かせ』
踏み込み、木剣をぶつける。弾かれては打ち込み、また弾かれる。
向かってくるレオンも同じだった。
二人とも動きは粗く、隙だらけだったが、それでも力いっぱい木剣を振るっていた。
土に足を取られ、転び、立ち上がる。息を整える間もなく、また木剣が迫る。
『足の運びが遅い!』
ゼダンの声が飛ぶ。
『剣を振る前に足を出せ!』
『聞いてるか、アルス!』
レオンが笑う。
『お前が遅いんだ』
言い返した直後、体勢を崩して肩から転がった。
起き上がろうとすると、今度はレオンまで足を滑らせ、すぐ隣へ倒れ込んでくる。
二人とも泥だらけだった。腕も脚も土まみれになり、それでも木剣を拾って構え直す。
だが何度か打ち合ったところで、ゼダンが静かに言った。
『今日はここまでだ』
その瞬間だった。
『川だ!』
レオンが木剣を放り投げ、満面の笑みで振り返る。
『アルス、行くぞ!』
アルスも木剣を放り出し、その後を追った。
庭を抜け、林を駆け抜ける。枝が頬を掠め、草が足へ絡んでも止まらない。訓練で疲れていたはずなのに、不思議と足だけは軽かった。
木々が開けると、目の前へ大きな川が現れる。
『競争だ!』
『勝手に決めるな!』
そう言い返しながら、気付けば自分も全力で走っていた。
だが先に飛び込んだのはレオンだった。
大きな水しぶきが上がる。
『冷てぇ!』
笑い声が響く。
アルスも続けて飛び込み、泥と汗を一気に洗い流した。浮かび上がると、すぐ隣でレオンが笑っている。
『気持ちいいの間違いだろ!最初に飛び込んだくせに文句を言うな』
二人で水を掛け合い、足を滑らせ、また笑う。
そのときだった。
『レオン兄』
岸から小さな声が聞こえた。
振り向けば、幼いローザが草の中へ立っている。
『ローザも来いよ!』
レオンが呼ぶ。
だがローザは首を横へ振った。
『冷たい』
『平気だって』
『絶対冷たい』
言い切るような口調に、思わず笑ってしまう。
岸へ近づくと、ローザは少しだけ身を引いた。
『泥ついてる』
『今落としてる』
『まだついてる』
指を差され、自分の腕を見ると、確かに土が残っていた。
『うるさいな、お前』
レオンが笑う。
『レオン兄も泥だらけ』
『訓練だからだ』
ローザはそれ以上何も言わず、川岸の石へ腰を下ろして小石を投げ始めた。
その横で、自分とレオンは飽きることなく水を掛け合っていた。
少し離れた場所では、ゼダンが腕を組んで立っている。何も言わず、ただ見守っているだけだった。その姿があったからこそ、思い切り遊べたのかもしれない。
川の音だけは、あの頃も今も変わらず流れ続けていた。
アルスは静かに息を吐き、目の前の流れへ視線を戻す。
水は変わらず流れている。だがあの庭も、あの館も、もうない。
それでもレオンはいる。ローザもいる。ゼダンもいる。
アルスは静かに川から目を離した。
気付けば空は暗くなっていた。川のせせらぎだけが静かに耳へ届く。
森は静まり返り、湿った土の匂いの中に夜の冷気が混じり始めていた。
アルスはゆっくりと息を吸うと、ふと背後で気配が動いた。
振り返ると、ローザが立っていた。
薄暗がりの中でも、その目はまっすぐこちらを見ている。
どこか昔と変わらない顔だった。
小柄な妹分だった少女は背こそ伸びたが、その芯の強さだけは変わっていないように見える。
ローザは視線を下流へ向けた。
「あそこです」
指差した先には、小さな焚火の明かりが揺れていた。
「父さんです。川で身体を流してから戻ると言っていました」
アルスが頷くと、二人は並んで歩き出した。
木々の間を抜けるたび、焚火の明かりが少しずつ大きくなる。
やがて火の向こうに人影が見えた。
まだ顔までは見えない。それでも、薪を扱う仕草だけで分かる気がした。三年前と何も変わっていない無邪気さと真剣さが伺えた。
レオンがいて、ローザがいて、ティムがいる。
川で遊び、木剣を振り、ゼダンに叱られていた頃の顔ぶれが、そこに残っている。
焼かれた館も、失ったものも多いが、それでも全てが失われたわけではなかった。
「行きましょう、アルス兄」
ローザが言う。
アルスは小さく頷き、その横へ歩幅を合わせた。
二人の影が焚火の明かりへ伸びる。
ぱちり、と薪の弾けた音を聞きながら、アルスは小さく息を吐く。
――変わっていないな。
胸の奥でそう思った。
川の音は絶えず流れ、焚火は静かに燃えている。
焼け落ちた館の記憶が消えた訳ではないが、今だけはその火の温かさを受け入れてもいいような気がした。
夜は静かに更けていく。
火のはぜる音だけが、次の朝を待つように響いていた。
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