第6話 歩幅
大陸歴一四〇七年三月十一日
霧は夜を越えても山を離れなかった。谷筋から立ちのぼった白い靄が尾根に絡みつき、視界を奪いはしないが、輪郭を曖昧にする。足元の土は湿り、踏みしめるたびに鈍い音を吸い込んだ。吐いた息は白くほどけ、すぐに霧の中へ紛れていく。湿った苔と落葉の匂いが、谷の底からゆっくりと押し上げてくる。
七つの影が、その中を進んでいる。
先頭を行くのはレオンだった。右手に短槍、腰に山刀。足を高く上げず、踏み込まず、置く。踏み跡が必要以上に残らぬよう、石と根を選んでいく。歩幅は一定で、迷いがない。急ぐでもなく、遅れるでもない。山を知る者の歩き方だった。
その後ろをアルスが続いていた。兵を背負っている。兵の左脚は布で固く巻かれ、力を失っていた。歩行はできない。だが目は覚めている。
兵の腕はアルスの肩に回されていた。握る力は弱いが、離そうとはしない。体温が背を通して伝わる。熱はない。だが力は確実に落ちている。
「……重く、ありませんか」
背から掠れた声が落ちた。
「何度も重いと言ったよね」
アルスは前を見たまま苦笑する。二人分の重みが加わっても、列との間隔を保とうとする。踏み出すたび、兵の体がわずかに揺れる。だが歩幅は乱れない。
さらに後ろに四人の兵。最後尾にゼダンがいる。歩幅が乱れていないかと、視線は常に全体を測っていた。言葉を発さずとも、その眼差しが隊を整えている。
レオンは振り返らない。ただ右手をわずかに上げ、足場の悪い石を示す。合図は最小限。後続はそれを理解し、同じように足を置く。
しばらく進んだところで、ゼダンが低く言った。
「……あの頃より、静かになったな」
声は前へ届く距離で止まる。レオンは歩みを緩めもせず、応じた。
「教えたのは、あなたです」
それ以上は続かない。霧の中に言葉だけが残る。
四人の兵が、わずかに目を上げた。事情を知らぬ者でも、そこに何かがあると感じ取る程度の静かな応酬だった。アルスは何も言わない。ただ背の重みを受け止めながら、歩幅を保つ。
道は次第に細くなる。右は切り立ち、左は木々の密生する斜面。湿った根が浮き、石が不安定に転がる。枝が擦れ、風のない山がかすかに鳴った。
背の兵の呼吸が荒くなった。揺れが大きくなる。
「……若……」
言いかけて、兵は口を閉ざす。
「気にするな」
アルスは短く言い、歩を進める。その直後、後方の兵の一人が声を上げた。
「代わります」
別の兵が続く。
「次は私が」
アルスは首を振る。
「大丈夫。まだ行ける」
しかし坂は急になる。足場は崩れやすく、重みが一人に集中すれば転倒の危険も増す。
ゼダンが静かに言った。
「歩幅が乱れます」
それだけだった。
アルスは一瞬だけ考え、足を止める。背の兵の腕を解き、地に下ろす。すぐに別の兵が前へ出る。さらにその後ろの兵が支えに入る。自然な流れだった。
「頼むね」
アルスが言う。
「はっ」
短い応答。
交代は滞りなく済んだ。列は再び動き出す。今度はアルスが二番手に近い位置へと移る。前方を見やすくなり、隊全体の動きを把握できる。
歩幅が整う。
レオンはその間、一度も口を挟まなかった。ただ、ほんのわずかに速度を落としていた。後続が乱れぬよう、距離を測る。
歩幅は変わらない。長すぎず、短すぎない。後ろの兵はそれに合わせる。誰かがわずかに遅れれば、前がほんの少しだけ緩む。声に出さずとも、列は自然に整えられていく。
アルスが石に蹴躓き、大きく転びかけたが何とか堪える。
「――アル……」
レオンが振り向く。
一瞬、言葉が途切れる。後方の兵たちを視界に入れ、呼吸を整える。
「アルス。右に根がある」
敬称はつかない。声音も抑えられている。アルスは小さく頷き、足を置き直す。
「わかった」
短い応答。
四人の兵が、そのやり取りを聞いている。何も言わないが、空気はわずかに変わる。主従でもない曖昧な位置に二人の名が置かれる。
レオンがふと足を止め、わずかに息を吐く。
「……昔、似たような場所で」
言いかける。続けるか迷うような間。
「足を滑らせたな」
短く言い切る。アルスの目が細まる。
「ああ。お前が笑っていた」
「転ぶ前からな」
ほんの一瞬だけ、レオンの口元が緩む。
それは山の男の顔ではない。かつて同じ歩幅で走った少年の顔だった。
アルスが言う。
「手紙は届いていた」
レオンはわずかに眉を動かす。
「数度だけだったがな。場所は書かれていなかった。だが生きていることは分かった」
緩やかな風が二人の間を流れる。
「……余計だったか」
レオンが小さく言う。アルスは首を振る。
「いや。必要だった」
それだけだった。だがそれも束の間、レオンの視線は再び前へ戻る。
「行くぞ。足場が崩れやすい」
声は平常に戻っている。七つの影が、再び動き出す。
歩幅は完全には揃わない。体格も重さも違う。だが列は崩れない。互いに合わせ、ずれを修正しながら、同じ方向へ進む。
アルスは前を見据える。
「任せる」
静かな言葉。レオンは振り返らない。ただ歩幅だけが、わずかに変わった。
先頭の歩みに、列の長さが合わされる。七つの影は、奥へと溶けていった。
緩い斜面へ降りたころ、光はすでに薄くなっていた。空は見えないが、森の色が静かに沈み始めている。
レオンが足を止めた。右手を軽く上げる。それだけで列は自然に止まる。
「ここで切ろう」
短い言葉だった。
見える沢は細いが、水は澄んでいる。流れは速すぎず、石も安定していた。斜面は緩く、背後には太い幹の樹が並ぶ。
野営地としては悪くない。アルスが周囲を見渡す。
「火は点けて」
「了解」
兵の一人が頷き、手早く準備をする。
四名の兵はそれぞれに動き始めた。枯れ枝を拾う者、沢で水を汲む者、地面の石を退かして寝場所を作る者。誰が指示を出すわけでもないが、仕事は自然に分かれていく。
負傷した兵は大き目な石のところで座らせる。
ゼダンは一度だけ周囲を見回し、何も言わず腰を下ろした。体を休めているようにも見えるが、視線は常に森の奥を測っている。
やがて小さな火が起こる。
湿った枝はすぐには燃えない。煙が多く、炎は低い。兵の一人が乾いた芯を選び、火の腹に差し込む。ぱちり、と小さく音がした。
赤い光がわずかに広がる。それだけで、森の色が変わった。影が生まれ、輪郭が戻る。
レオンは火の反対側に腰を下ろしていた。槍を横に置き、沢の音を聞いている。火を見ているわけでも、人を見ているわけでもない。ただ耳を澄ませているようだった。
アルスは兵の一人から木椀を受け取る。
中には薄い湯と、硬く乾いた肉が入っていた。山越えの間に残ったわずかな食料だ。味はほとんどない。だが温かさだけで喉は落ち着く。
兵たちは言葉少なにそれを口へ運んだ。誰も文句は言わない。火のそばに座り、湯気を吸い込み、噛む。それだけで十分だった。
沢の音が続いている。霧は低く流れ、木々の間を静かに漂っていた。
アルスは火を見つめた。その向こうで、レオンがふと口を開いた。
「山の火は、こういうものだ」
独り言のようだった。
「大きくすると煙が出る。遠くから見える」
アルスは頷く。
「館の火は、隠す気がなかったな」
誰も答えない。火がぱちりと弾ける。レオンは少しだけ視線を落とした。
「……山では、火も歩幅と同じだ」
「歩幅?」
アルスが聞き返す。
「大きすぎると崩れる。小さすぎると進まない」
レオンは炎を見ないまま言った。
「だから合わせる」
静かな言葉だった。兵たちは黙ってそれを聞いている。
火の周りの距離も、どこか整っていた。誰かが近すぎることも、遠すぎることもない。膝の間隔、背の向き、荷の置き方。意識して決めたわけではないが、互いに邪魔にならぬ場所に収まっている。
ゼダンが小さく笑った。
「覚えていたか」
レオンは答えない。ただ薪を一本、火へ入れる。
炎が少しだけ持ち上がる。夜は完全に降りていた。
星は見えない。沢の音と火の音だけが残る。
やがて最初の見張りが立ち上がった。
火から一歩離れ、暗い林の方へ歩いていく。歩幅は自然に揃っていた。足音はほとんど残らない。
残った者は、それぞれに身を横たえる。アルスは最後に火を見た。小さい。だが消えない。
八つの影がその火を囲みながら、静かに夜へ沈んでいった。
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