第5話 影
大陸歴一四〇七年三月十一日
霧は、まだ動いていた。
夜明け前の山は白く閉ざされている。濃くなったかと思えば薄れ、わずかに山肌の輪郭が浮かび上がったかと思うと、また白の中へ溶けていく。風はほとんど感じない。それでも霧だけは静かに流れ、谷の方へと吸い込まれるように落ちていた。
アルスは足を止め、小さく息を吐く。
背中には負傷した兵の重みがあった。一昨日に足を捻った兵である。肩越しに伝わる息遣いは浅く、身体から伝わる熱だけが、まだ痛みに耐え続けていることを教えていた。
後ろにはゼダンたちが続いている。
誰も口を開かない。耳へ届くのは湿った土を踏む足音と、ときおり枝葉が擦れ合う微かな音だけだった。
昨夜から、列はずっとこんな調子だった。話すことがないわけではない。それでも誰も口を開こうとしないのは、この静けさを壊す言葉が見つからないからなのかもしれない。
湿った空気を吸い込みながら、アルスはゆっくりと歩き出そうとした。
その時、背中の兵がわずかに身じろぎする。
「……申し訳、ありません」
呼吸の合間に押し出すような小さな声だった。
「喋るな」
強く言ったつもりはなかったが、兵は素直に口を閉ざした。
背中の重みは決して軽くない。
それでも降ろそうとは思わなかった。歩けない者を置いていくという選択は、少なくとも今のアルスには考えられなかったからだ。
その時、霧の向こうで枝が揺れる音がした。ゼダンがわずかに視線を動かし、後ろの兵たちの空気も張り詰める。
アルスも白く霞む先へ目を凝らした。
何かいる。
白の中に、人の形をした影が立っていた。
距離はそれほど離れておらず、じっとこちらを見ているようにも思える。
山で人と出会うこと自体は特に珍しい話ではないのだろうが、今は違う。
この状況で姿を現した以上、真っ先に浮かぶのは追手だった。
アルスは背中の兵がずり落ちないよう体勢を支え直し、足元へ意識を向ける。湿った土は柔らかく、ここで踏み外せば二人まとめて崩れかねない。
ゼダンが静かに一歩前へ出る。
「そこで止まれ」
低い声が響くと、影はゆっくりと片腕を持ち上げる。
後ろで兵の一人が剣を半ばまで抜き、金属が鞘を擦る乾いた音が短く響いた。
影の手には槍があった。
長槍ではなく、山道でも扱いやすい短い槍であることが遠目にも分かった。
男は慌てることなく、その槍を地面へ突き立てる。
その姿は敵意を見せるでもなく、威嚇するでもない。
ただ、その動作だけで十分だった。
流れた霧の向こうから、男の顔がゆっくりと姿を現した。
アルスは小さく息を吐いた。
「……レオンか」
男はわずかに目を細めた。
名乗ることも、否定することもない。ただ静かにアルスを見返している。
まさかこんな場所で会うとは思ってもいなかったのだが、目の前にいるのは間違いなくレオンだった。
レオンはしばらくアルスたちへ視線を向けていたが、やがて霧の流れる斜面へ目を移した。
「そのまま進めば、崖に出る」
短い一言であり理由も説明もない。ただ事実だけを告げる。
続けて右を指差した。
「こっちだ。低い尾根がある」
そう言うと槍を引き抜き、肩へ担ぐ。
後ろで兵が小さく尋ねた。
「信用するのですか」
アルスはレオンの背を見たまま答える。
「崖へ向かうよりはましだよ」
兵はそれ以上何も言わなかった。
レオンはすでに歩き始めている。
斜面を横切るように進む足取りには迷いがなく、どこへ足を置けばいいのか最初から分かっているようだった。
アルスも背中の兵を支え直し、その後を追うが湿った土は足を取る。それでもレオンの選ぶ道は歩きやすく、列は黙ったまま続いていった。
しばらく進いたところで、背中の兵が小さく息を吐く。
「……重いですよね」
「重い」
思わず即答すると、背中で兵が小さく笑った。
「明日から痩せます」
まだ余裕はありそうだと、アルスは少しだけ肩の力を抜く。
「軽口を叩く元気があるなら、大丈夫だ」
レオンは振り返らない。
それでも歩幅は自然とこちらに合っていた。急な斜面を避け、滑りやすい場所を外しながら、迷いなく先へ進んでいく。
やがて霧がわずかに薄れ、白の向こうになだらかな尾根が浮かび上がった。
「もう少しで低い尾根に出る」
レオンの声に、アルスは黙って足を前へ運んだ。
尾根へ足を乗せた途端、地面の感触が変わり、ぬかるみに沈み込んでいた足裏が、ようやく硬い土を踏み締める。
後ろからも、小さく息をつく気配が聞こえた。
レオンは歩みを緩めない。
「音が消えたら、霧が晴れるのも近い」
振り返ることなく言う。
アルスは背中の兵の様子を気に掛ける。
呼吸はまだ浅い。それでも先ほどより身体へ力が戻ってきたようにも感じられた。
「追手は……来ないかもしれません」
背中から小さな声が聞こえた。
アルスは首を横へ振る。
「かも知れないが、来る時は来る」
それ以上言葉は続けず、列は再び黙ったまま歩き続ける。
やがて尾根を越えると、霧の流れが変わった。
森はなお深かったが、足元は根の張った硬い土へ変わり、滑る心配も少なくなっていた。
その頃になって、レオンがようやく足を止める。
「ここで少し整えるか」
アルスは頷き、背負っていた兵をゆっくりと降ろした。
肩から重みが離れた途端、張り詰めていた力が一気に抜け、疲労が身体の奥から浮かび上がってくる。
「歩けるか」
兵は少し考え、小さく首を横へ振った。
「まだ無理みたいです。ですが、昨日よりは」
アルスは黙って頷く。
そして山の稜線を眺めている、背へ向かってアルスは尋ねる。
「なぜここにいる」
レオンはすぐには答えず、ゆっくりと山の上へ目を向ける。
「高い場所は、よく見える」
それだけだった。
理由になっているようで、なっていない。
横に居たゼダンが静かに問い返す。
「この霧で、何が見える」
「霧は流れます」
短く答えたあと、レオンは続けた。
「流れれば、視界が開きます。居館も、煙も。あの煙を見たので今日も来ました」
居館。
その一言に、アルスの胸がわずかに締めつけられる。
レオンはアルスへ目を向けた。
「数ヶ月に一度登る」
そう言うと、また山の方へ視線を戻す。
「生まれた場所は、上から見る方が静かだ」
その言葉を聞いて、アルスは返事ができなかった。
何を思って山へ登り続けていたのかまでは分からないが、故郷を忘れられないという気持ちだけは理解できた。
自分もまた、あの館への思いを捨て切れてはいなかったからだ。
やがてレオンは槍を持ち直す。
「ここから下る」
アルスは短く息を吐いた。
「分かった」
それだけ答え、再び歩き出す支度を始めた。
レオンは頷きもせず、そのまま歩き出した。
アルスも背中の兵を支え直し、その後を追う。
下りは足が前へ出るぶん進みやすいが、一度踏み外せば、そのまま斜面を転げ落ちかねない。重心を前へ預けながら、一歩ずつ足場を確かめて進んでいく。
やがて細い沢へ出た。
石の間を縫うように水が流れている。
「ここを渡る」
レオンはそれだけ言って先へ進む。
アルスも続こうとした時、背中の兵がわずかに身体を強張らせた。
「落ちます」
「落ちたら転がすから大丈夫だ」
そう答えると、背中で一瞬動きが止まる。
「えっと……若。冗談ですよね」
アルスは返事をしなかった。
その代わり、背中へ回された腕に少しだけ力が入ったのを感じる。
沢を渡ると、レオンは流れに沿うように谷を下り始めた。
槍を肩へ担いだまま、ときおり立ち止まっては進むべき先を確かめ、また迷いなく歩き出す。その後ろ姿を追いながら、アルスも黙って足を運び続けた。
「……静かですね」
背中から小さな声が届く。
「山だからな」
「そういう意味ではないです」
兵は少しだけ笑った。
何を言いたいのかは聞かなくても分かった。
昨夜まで胸の中を埋めていた張り詰めた空気が、いつの間にか少しだけ和らいでいる。
この先に何が待っているのかは、まだ分からない。
それでも今は、あの背中を追って進むしかないと、アルスは足を止めることなく歩き続けた。
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