第4話 迷う
大陸歴一四〇七年三月十日
霧は低く、山肌に重く貼りつき、世界の輪郭を押し潰していた。谷を離れて半日、尾根に出たはずだったが、視界は腕一本分の長さもなく、木々も岩も白に溶け、距離も高さも感覚から消えていく。霧の向こうに道があるのか、ただの斜面なのか、アルスには判然としなかった。
肩に食い込む外套の重みを感じながら、少年は立ち止まる。胸の奥で、心臓が高鳴る。鼓動が背中にまで伝わり、まるでその音が、霧を震わせているかのようだった。風はなく、鳥も鳴かず、ただ自分たちの呼吸と、湿った土を踏む足音だけが、霧の中で濁ったリズムを刻む。
後ろの五名の兵たちは、幼い頃から顔を知る者たちだ。足音の微かな乱れ、荒い呼吸、恐怖の震え。アルスの無意識の感覚は、濃く立ち込める白の中でも、それらを確かに捕らえていた。まだ歩ける。まだ、踏み止まれる。だが胸の奥に、焦りがじわりと染み込む。進むべきか、立ち止まるべきか、迷いが霧に溶けるように広がった。
「右へ折れたはずです」
傅役ゼダンの低い声が、霧を割るように届く。その男は、汗一つ見せず、視線を先に固定する。その目は、霧に隠れた尾根の先を切り取るかのように鋭かった。少年はその背中を見つめ、無言の覚悟を受け取る。恐怖を押さえ、現実を受け止める姿が、進むべき道を示していた。
「たぶん、折れた」
アルスは短く返した。言葉に確信はなく、指先に伝わる外套の湿り、足元の土のぬかるみ、踏み込むごとに膝へ返る振動――そのすべてを寄せ集めた判断だった。霧は地形を削ぎ落とし、方向だけを残す。それすら頼りなく、一歩ごとに不安と決意が重なっていく。
木々の間に、わずかに差す光が揺れる。湿った葉と苔の匂いが鼻を刺し、意識を引き戻した。立ち止まれば、胸の奥に溜まった焦燥が一気に押し寄せる。踏み出すことでしか、迷いは押し返せない。
後方から、足を傷めた兵の息遣いが届いた。歯を食いしばり、剣帯を杖に歩いているが、歩みは明らかに遅い。その姿が胸を締めつける。それでも、前に出るしかないと理解させる。
止まれば冷える。進めば削られる。それでも、進むしかない。
アルスは小さく息を吐き、視線を戻した。霧は白く濃く、世界を覆い尽くしている。尾根か斜面か、それすら判然としない。だがその中で、ひとつだけ確かなものがあった。
前に進むことでしか、自分も、背後の兵も守れない。
靴底にまとわりつく泥、枝が耳元で擦れる音。現実は消えていない。その感触だけが、意志を支える。
霧の中で、少年の足は止まらなかった。
その兵の足は、昨夜すでに痛めていた。
谷を離れる直前、湿った斜面で足を滑らせ、踏みとどまった瞬間に強くひねったのだ。転倒は免れたが、その代償に足首を捻挫した。腫れはまだ浅く、歩けぬほどではなかった。だからこそ、誰も立ち止まらなかった。本人もまた、「行けます」と言った。
だが、山は甘くない。
霧に包まれた尾根道は、踏み固められた街道とは違う。浮石があり、根が張り出し、湿った苔が靴底を奪う。痛みを庇いながらの一歩は、踏み込みが浅くなる。浅くなれば、体勢を崩す。崩せば、さらに足首に負担がかかる。
悪循環だった。
後方から、鈍い息が混じる。
アルスは振り返らずにそれを聞いた。荒く、短い呼吸。痛みを押し殺すときの、喉の奥で擦れるような音。霧が音を吸い込むはずなのに、その苦しさだけははっきりと伝わる。
「……若様」
かすれた声が届く。
振り返ると、兵の顔色は明らかに変わっていた。額に汗が浮き、唇がわずかに白い。剣帯を杖代わりにしているが、踏み出すたびに肩が揺れる。
「腫れが増しているな」
ゼダンが静かに言う。
兵は否定しなかった。ただ一度、足を地につけた瞬間、表情が歪む。それで十分だった。
止まるか。
その考えが、重く一行を包む。
だが止まれない。湿気を含んだ風はなくとも、汗が奪われ、筋肉が固まる。動き出すまでにさらに時間を要する。その時間が、方向感覚を失った尾根では致命的になり得る。
「少し歩幅を詰めて。足を高く上げない。擦るように進もう」
アルスはそう言った。命令というより、祈りに近い。
兵は頷き、言われた通りに歩こうとする。だが痛みは隠せない。足首を庇うために重心が傾き、その傾きがまた別の筋を軋ませる。
後続の兵たちの息遣いが変わる。焦りが混じる。誰も口には出さないが、理解している。このままでは速度が落ちる。落ちれば、迷いが深まる。
霧の中では、距離も時間も曖昧だ。進んでいるのか、同じ場所を巡っているのかも分からない。そんな中で速度を失うことは、不安を増幅させることと同義だった。
足を痛めた兵の膝が、ふいに折れた。
地面に手をつき、低く息を吐く。
「申し訳、ありません……昨夜より、少し」
昨夜より悪い。言い切らずとも分かる。
アルスの胸が締めつけられる。無理をさせたのは自分だ。歩けると言った言葉を、そのまま受け取ったのも自分だ。
正しかったのか。
あの時、谷を離れる前に休ませるべきだったのではないか。
だが、あの場で留まる選択肢はなかった。追手が来るかもしれぬ状況で、夜明けを待つことは出来なかった。
どの時点で選んでも、何かが削られる。
それが、今だ。
「立てるか」
アルスはしゃがみ込み、兵の目を見る。
兵は悔しげに歯を食いしばる。
「……歩けます。ただ、少しだけ時間を」
時間。この霧の中で最も曖昧なものだ。
少年は立ち上がり、周囲を見回す。白しかない。尾根か斜面かも分からぬ世界で、彼らはただ呼吸しているだけだ。
止まれば冷える。進めば削られる。どちらも逃れられない。
アルスは自分の手を見た。わずかに震えている。寒さだけではない。判断を迫られる重みが、指先にまで及んでいる。
「息を整えろ。ただし長くは取らん。体が冷え切る前に動く」
ゼダンは静かに告げる。兵は小さく頷いた。その頷きが、ひどく頼りなく見えた。
少年は胸の奥で理解する。これは偶然の怪我ではない。山が与えた試しだ。進むと言った自分の言葉が、今、重さを持って返ってきている。
歩けるかではない。歩かせるかだ。
霧は相変わらず濃く、世界を削り続けている。だがその中で、アルスの迷いは、痛みという形を得て現実になっていた。
兵に短い休息を与えたのち、一行は再び歩き出した。だが霧は少しも薄れない。白は均質で、空も地も区別を失い、さきほど踏みしめたはずの土の感触さえ、既視のものかどうか判然としなくなる。
同じ場所を巡っているのではないか。
その疑念が、足取りよりも先に胸を重くした。尾根を進んでいるはずだという確信はある。だが確信とは、目に見えぬときほど脆い。霧の中では、理屈よりも感覚が揺らぐ。
アルスは立ち止まり、近くの若木に手を伸ばした。枝は湿り、指先に冷たい水気が絡む。外套の内側から革紐を一本抜き取る。剣帯の余りを裂いて作った細い紐だった。
「若様?」
背後の兵が怪訝そうに問う。
「戻っていないか、確かめる。もし同じ場所に出れば、この紐がある。なければ、前に進んでいる」
声は平静を装っていたが、自分でも分かるほど慎重だった。疑いを言葉にすることは、本来なら避けたい。だが曖昧な不安は、口に出したほうが制御できる。霧に呑まれる前に、形を与える。
枝に革紐を固く結ぶ。二重に巻き、引き、ほどけぬように締める。小さな動作だが、指先に力を込めるほど、胸の内の揺れもまた締め直されていく気がした。
ゼダンが静かに頷く。「良い考えです。目に見える証は、人の心を落ち着かせます」
アルスはわずかに息を吐いた。目印ひとつで山の霧が晴れるわけではない。地形が明瞭になるわけでも、痛めた足が癒えるわけでもない。それでも、確かめる術を持つという事実が、進む理由を与える。
もし再びこの枝の前に立てば、自分たちは迷っていると認められる。認めた上で、道を探せばいい。だが紐が現れぬなら、それは前進の証だ。
迷いは消えない。だが、迷いに名を与え、対処を定めることはできる。
「行こう」
短い言葉とともに、アルスは再び歩き出す。革紐は風もない霧の中で、静かに垂れている。
それは山を変える力ではない。ただ、前に進むと決めた心の印だった。
革紐を結んだ枝は、やがて見えなくなった。戻ってはいない。だが進みは遅い。足を痛めた兵の歩幅はさらに狭まり、擦るように出した足が地を捉えきれず、幾度も体勢を崩しかける。そのたびに周囲の兵が息を呑み、列が歪む。尾根は緩やかに傾き、片側は見えぬ斜面へ落ちているはずだった。転べば、止まれる保証はない。
やがて、兵の膝が深く折れた。今度は立ち上がるまでに時間がかかる。歯を食いしばり、地を掴む指が震えている。足首は靴の上からでも腫れが分かるほどに膨らみ、踏み込むたびに痛みが走っているのは明白だった。
「若様、置いていってください。私は遅れますが、必ず追いつきます。ここで速度を落とせば、皆が危うい」
その言葉は、覚悟というより祈りに近い。自分を切り捨てることで隊を守ろうとする声だった。
アルスはその顔を見つめる。幼い頃から城庭で顔を合わせてきた男だ。剣の握り方を教わり、馬の手綱を引いてもらった記憶がある。その男が、今、自らを荷と呼ぼうとしている。
胸の奥で、何かが軋んだ。
進むことでしか守れない。そう思ってきた。止まれば冷え、迷えば削られ、追われれば潰される。だから前へ出ると決めた。だが前へ出るとは、誰かを置き去りにすることなのか。
ゼダンが低く言う。
「ご決断を。時間は待ってくれません」
その声音に焦りはない。ただ事実だけがある。
アルスはゆっくりと息を吸った。霧は変わらず濃い。地形は見えない。だが今、見えるものがある。目の前で痛みに耐える兵の姿だ。
「置いていかないよ」
静かに、しかし迷いなく告げる。
兵が顔を上げる。
「若様、私は重いです。若の時間を、命を奪いかねません」
「奪わせないし、決めるのは俺だよ」
アルスの声ははっきりしていた。
外套を解き、剣をゼダンに預ける。
「道を見て。俺は背を使うから」
兵の前にしゃがみ込む。湿った土の匂いが濃い。
「掴まって。遠慮は要らないよ。落ちれば二人とも終わる」
兵は首を振るが、やがて観念したように肩へ腕を回す。その重みが、ずしりと背に乗る。想像より重い。鎧と湿った衣が水を含み、体温がじわりと伝わる。
立ち上がる瞬間、膝が震えた。
成人の兵の全重がのしかかる。呼吸が浅くなり、視界の白が一瞬揺らぐ。それでも足を踏み出す。土が沈み、背の重みがさらに食い込む。
だがそれは、肉の重さだけではなかった。
すべてが、この背に乗っている気がした。ここで一人を置けば、次も置ける。そうして削っていけば、最後には何も残らない。
進むことでしか守れない。だが守るとは、共に進むことだ。
一歩。
足裏に泥が吸いつく。体が前に傾き、重さが肩を圧す。
二歩。
息が荒くなる。だが背中の兵は声を出さない。ただ必死にしがみついている。その沈黙が、責任の重みをさらに増す。
「速度は落とさないで、列を詰めて」
出す声が低くなる。
「承知」
ゼダンは振り返らずに短く答える。
霧の中を迷いを押し潰してながら進む。歩みは遅くとも、確かに前へ出ている。
革紐の印はもう見えない。だが今は、確かに分かる。戻ってはいない。
背に人を負いながら、それでも進むと決めたその瞬間から、退路は失われたのだから。
重みは肩から腰へと沈み込み、呼吸のたびに肋を軋ませる。それでも歩を緩めぬよう意識を前へ縫い止める。止まれば冷え、迷えば削られると知っているからだ。
やがて、前方の白がわずかに揺れた。
霧の濃淡が変わっただけかもしれない。だが、そこに縦の影が立ったように見えた。細く、揺れ、こちらを向いているような形。
列の空気が張り詰める。
「……見えますか」
ゼダンの低い声が届く。
「人影のように見える」
アルスは答えながら、自分の鼓動が早まるのを感じた。敵か。追手か。それとも山に棲む誰かか。あるいは、疲労が生んだ錯覚か。霧は形を与え、同時に奪う。確かな輪郭を持たぬものほど、人の不安を映す。
背中の兵が息を呑むのが伝わる。肩越しにかかる腕がわずかに強まる。恐怖が伝播する。
影は動かない。だが、こちらが一歩進むと、わずかに大きくなった気がする。距離が縮んだのか、霧が薄れたのか、それすら分からない。
別の影が、その背後に浮かぶ。低く横に広がる暗がり。山肌か。岩か。それとも伏せた兵か。
「散開はしない。列を保って。音を立てないように」
アルスは抑えた声で告げる。背負ったまま戦うことは難しい。だが降ろせば、その瞬間に隙が生まれる。どちらを選んでも危うい。ならば、進むしかない。
胸の内に、あの疑念が蘇る。戻っているのではないか、同じ場所を巡っているのではないかという不安。もしこの影が、さきほど通り過ぎた木立の歪みであれば、自分たちは円を描いていることになる。
だが確かめる術はない。革紐の印はもう見えぬ。
あるのは、今、前に影があるという事実だけだ。
「若様……」
背の兵が小さく呼ぶ。その声には恐れだけでなく、信を託す響きがあった。自分がどちらへ踏み出すかで、彼らの運命が決まると知っている声だ。
迷いは、ここまで来ても消えない。消えぬまま、胸の奥で渦を巻く。だが渦の中心に、ひとつだけ動かぬものがある。
退かぬ、という意思だ。
敵であれ、味方であれ、錯覚であれ、立ち尽くせばここで終わる。立ち尽くすことこそが敗北だ。
アルスは背の重みを抱え直し、足場を確かめるように踏み出す。泥が沈み、体が前へ傾く。その動きに呼応するように、列もわずかに進む。
影はなおそこにある。
一歩。
距離が縮む。影の輪郭がわずかに揺らぐ。枝葉が風もないのに震えたように見える。
二歩。
縦の影が裂ける。二つに分かれ、また一つに戻る。霧が流れただけかもしれない。
三歩。
突然、影が崩れた。白の中に溶け、代わりに現れたのは、ねじれた老木と、その背後に張り出した岩肌だった。人の形に見えたのは、折れ曲がった幹と、苔に濡れた石の暗がりに過ぎない。
緊張が一気に解けるわけではない。だが、確かな敵ではなかったという事実が、わずかに息を通す。
錯覚だったのか。あるいは山が試したのか。
どちらでもいい。
重要なのは、立ち止まらなかったことだ。
アルスは老木の脇を抜ける。背の兵の体温がまだそこにある。列も続く。霧は依然として濃い。道は見えない。だが足は確かに前へ出ている。
迷いは消えぬ。恐れも尽きぬ。
それでも進む。
進むと決めたからこそ、影は影で終わる。
白に覆われた山の中で、少年は背に人を負いながら、なおも一歩を刻み続けた。
老木と岩を抜けても、霧は晴れなかった。白はなお濃く、尾根の先を呑み込み続けている。だが先ほどまでの押し潰す霧ではなくなっていた。形を持たぬ不安に怯えるだけの霧ではない。踏み出せば裂け、近づけば正体を現すものだと、身体が覚え始めている。
背の兵の呼吸は荒いが、規則を取り戻している。肩にかかる重みは消えない。それでもアルスの足取りは、先ほどよりわずかに確かだった。迷いはまだ胸にある。戻っているのではないかという疑念も、追手の影も、完全に消えたわけではない。
だが霧がどうあろうと、山が何を隠そうと、進むか避けるかを決めるのは自分だ。他の誰でもない。背にいる兵でも、後ろに続く五人でもない。
判断を誤れば、全員が落ちるかもしれない。だが決めねば、同じ場所で凍えるだけだ。
アルスは一度だけ深く息を吸い、湿った空気を肺に満たした。冷たさが胸の奥を刺す。その痛みが、逆に思考を澄ませる。
「行こう。前だ」
大きくはないが、はっきりとした声だった。
列が応じる気配が背後で動く。霧はなお厚い。それでも少年は視線を逸らさない。
進むか、避けるか、自分が決めるしかない。
その確信だけが、白に覆われた山の中で、揺るがぬ輪郭を持っていた。
背に負った兵の息が、かすかに首筋へ触れる。温もりは弱いが、確かにそこにある。軽くはならない。だが、その重みがあるかぎり、自分は止まれないのだと、アルスは思った。
足を運ぶたび、靴底の下で湿った土が鈍く軋む。その音だけが、自分がまだ進んでいる証だった。霧は相変わらず濃い。それでも、わずかに風の流れが変わり、白の奥に淡い濃淡が生まれている気がする。
道があるのかどうかは分からない。正しいかどうかも分からない。だが、選ばなければならない。選び続けなければならない。
進むか、避けるか――それを決めるのは、自分だ。
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