第4話 迷う
大陸歴一四〇七年三月十日
霧は低く垂れ込め、山肌へ重く貼りついていた。
谷を離れてから半日ほど歩いたはずだった。そろそろ尾根へ出ていてもおかしくない。だが濃い霧が木々も岩も白の中へ溶け込ませており、今踏みしめている場所が本当に尾根なのかさえ、アルスには確かな判断がつかなかった。
耳へ届くのは、自分たちが湿った土を踏みしめる足音と、冷えた空気を吸い込む呼吸ばかりである。山全体が息を潜めているかのような静けさに包まれていることが、かえって霧の向こうに何かが潜んでいるのではないかという落ち着かない思いを胸の内へ広げていった。
アルスは歩みを止め、白く閉ざされた周囲へゆっくりと視線を巡らせた。
後ろには五人の兵が続いている。その全員が幼い頃から顔を知る者たちであり、館庭で稽古を見てもらったこともあれば、幼い自分を肩へ乗せて笑っていた者もいる。
誰一人として弱音を吐こうとはしなかったが、足音の僅かな乱れや次第に荒くなり始めた呼吸を聞いているだけでも、皆が不安を押し殺しながら歩いていることは十分に伝わってきた。
「右へ折れたはずです」
前を歩くゼダンが、霧の奥を見据えたまま静かに言う。
「たぶん、折れた」
そう答えながらも、アルスには確信がなかった。
頼れるものといえば地面の傾きや足裏へ伝わる感触くらいしかなく、そのわずかな手掛かりさえ容赦なく奪い去っていく。それでも前へ進むという選択だけは変えるわけにはいかないと、自分へ言い聞かせるように足を動かし続けていた。
その時、不意に後方から苦しげな息遣いが耳へ届く。
昨夜、谷を離れる直前に足を滑らせ、踏みとどまった拍子に足首をひねった兵だった。
あの時は歩けなくなるほどではないと本人も言い、自分もその言葉を信じて出発を決めた。しかしこの山道では、歩き続けるほど痛みが強くなっていくことは目に見えていた。
「……若様」
呼ばれて振り返る。
兵の顔色は昨夜よりも明らかに悪く、額には汗が浮かび、剣帯を杖代わりにしながら進む姿を見れば、無理を重ねていることは説明されるまでもなかった。
「腫れが増しているな」
ゼダンの言葉を、兵は否定しなかった。
このまま進ませるべきか、それとも休ませるべきかという問いがアルスの胸へ重くのしかかる。
だが、休めば楽になるとは限らないことも分かっていたし、方向も定かでないこの山の中では、僅かな遅れが却って命取りになりかねない。
「歩幅を狭くして、足を擦るように進もう」
少しでも足首へ負担を掛けずに済む方法を探しながら、アルスはそう告げた。
兵は再び足を前へ運び始めたものの、庇うような足運びが霧の中でもはっきりと分かった。
その様子を見れば、直に隊の速度が落ちていくことも理解していた。
やがて、その兵の膝が不意に折れた。兵は地面へ手をつき、苦しげに息を吐き出す。
「申し訳ありません……昨夜より、少し」
言葉は最後まで続かなかったが、それだけで十分だった。顔色はさらに悪くなり、状態が悪化していることは誰の目にも明らかであった。
歩けるという言葉を信じ、このまま出発しようと決めたのはアルスである。あの時、無理をさせずに休ませるべきだったのではないかとも思う。
だが、あの谷へ留まるという選択肢もまた考え難かった。
追手が来るかもしれない状況で足の回復を待つ余裕などなく、あの場では進むしかなかったのだ。それでも、こうして目の前で兵の苦しむ姿となって突き付けられると、その決断の重さだけは簡単に割り切ることができなかった。
「立てるか」
問い掛けると、兵は悔しそうに歯を食いしばりながら顔を上げる。
「……歩けます。ただ、少しだけ時間を」
アルスは霧の向こうへ視線を向けたが、どこに何があるのかさえ何一つ分からない。
ここで休めば兵は幾分楽になるかもしれない。だが追手などの周囲の状況はさらに悪くなる可能性もある。
どちらを選んでも代償は避けられない。
「息を整えろ。ただし長くは取らん」
ゼダンが静かに告げる。
「体が冷え切る前に動く」
兵は小さく頷いた。
その姿を見つめながら、アルスは自分が迷っていたものの正体をようやく理解した。
問題は、この兵が歩けるかどうかではない。
この状態の兵を連れて進むのか、それとも別の決断を下すのか。その答えを決める者は自分しかおらず、その責任も自分へと帰結する。
その決断が何をもたらすのか。それが怖かった。
だが負傷兵の痛みは現実として目の前にあり、今更引き返す訳にもいかない所まで来てしまったのは自分の責任だと、アルスはそれを既に受け入れていた。
アルスは足を止めると、近くに生えていた若木へ歩み寄り、腰に残っていた剣帯の余りを裂いて細い革紐を作り、それを枝へしっかりと結びつけた。
「若様?」
兵が怪訝そうな声を上げる。
「戻っていないか確かめるんだ。同じ場所へ出れば、この紐が残っている」
自分たちが本当に前へ進めているのか、それとも同じ場所を巡っているのかさえ分からない時に、それを確かめる手段が一つあるだけで人の心は違うはずだとアルスは考えた。
結び終えた革紐へ目を向けると、ゼダンが静かに頷く。
「良い考えです。目に見える証があれば、人は落ち着けます」
その言葉を聞きながら、アルスも小さく息を吐いた。
もし再びこの若木へ戻ってくれば、自分たちは霧の中で迷っていることになる。逆に戻らなければ、前へ進めていると分かる。そのわずかな確かさだけでも足を動かし続ける理由としては十分だった。
「行こう」
一行は再び歩き始める。
やがて革紐は霧の向こうへと消え、それきり二度と姿を現さなかった。そのことに小さく胸をなで下ろす自分がいる一方で、それだけで状況が好転するほど甘くないことも分かっていた。
負傷兵の足はなお悪化を続けていた。
歩幅はさらに狭くなり、足を着くたびに体勢を崩しかける場面が目につくようになる。
再度兵の膝が深く折れた時、今度はすぐには立ち上がれなかった。
痛みに耐えるように歯を食いしばる姿を見れば、限界を迎えたことをアルスも認めざるを得なかった。
「若様、置いていってください」
絞り出すような声だった。
「このままでは皆まで危うくなります」
アルスは答えず、その兵の顔を見つめた。
自分一人を切り捨てることで皆を生かそうという覚悟が伝わってきて、胸の奥へ重いものが静かに沈んでいく。
ここまで歩き続けてきたのは、生き延びるためだった。だから前へ進むと決めてきた。
それでも、そのために仲間を置いていくのかと考えた瞬間、どうしても切り捨てるという選択ができなかった。
「ご決断を」
ゼダンが静かに言う。
「時間は待ってくれません」
そこに責める響きはなく、あるのは目の前の現実だけだった。
アルスはゆっくりと息を吸う。
居るか居ないか分からない追手の存在を量るより、今この場で目にしているものから目を逸らすことだけはしたくなかった。
「置いていかないよ。担いで行こう」
兵が驚いたように顔を上げる。
「若様、私は重いです」
「それがどうした。それを決めるのは俺だ」
その言葉を口にした瞬間、不思議なくらい迷いは消えていた。
アルスは外套を解き、腰の剣をゼダンへ預ける。
「道を見てて。俺は背を使うから」
兵の前へしゃがみ込み、静かに背中を向ける。
「掴まって」
兵はなお躊躇していたが、やがて遠慮がちに腕を肩へ回した。
重みが背中へ乗った瞬間、思わず息が詰まる。
想像していたより、はるかに重い。
雨と霧を吸った鎧も衣服も容赦なく重量を増し、そのすべてが肩へ深く食い込み、立ち上がるだけで脚が震えそうになる。それでも歯を食いしばって身体を起こし、一歩だけ前へ踏み出した。
泥が靴の下で沈み込み、その重さが膝へと伝わる。
それでも足は止まらなかった。
ここで一人を置いていけば、次も置いていけるようになる。そうして一人、また一人と切り捨てていけば、最後には守るものなど何も残らない。
守るとは何なのか。
その答えは理屈ではなく、今、自分の背中にあった。
重さごと背負って、それでも前へ進むこと。
それが今の自分にできる、ただ一つの答えだった。
「速度は落とさないで。列を詰めて」
「承知」
ゼダンが短く答え、一行は再び霧の中を歩き始めた。
背中の重みは変わらず、歩みも決して速くはない。それでも止まりさえしなければ前へは進めるのだと、自分へ言い聞かせるようにアルスは足を運び続けた。
アルスは負傷兵を背負ったまま、その後を皆が続いてくる気配を背中で感じていた。
相変わらず先は見えず、霧も深いままだったが、それでも先ほどまでとは少しだけ違っていた。
霧の向こうに何が待っているのかはまだ分からない。それでも、見えないというだけで足を止める理由にはならないのだと、アルスは少しだけ思えるようになっていた。
深く息を吸い、冷えた空気が肺へ満ちるにつれ、乱れていた思考も少しずつ静まっていく。
「行こう。前だ」
背後で列が動く気配がした。
返事はない。
それでも、皆が自分についてきていることだけは分かる。
背中の重みも、霧の深さも、何一つ変わってはいない。
それでも、この道を進むと決めるのは自分であり、たとえ進む先が見えなくとも、その一歩を踏み出す役目だけは誰にも譲れないのだと、アルスは背中の重みを支え直しながら、山の奥へ向かって歩き続けた。
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