第3話 落ちる
大陸歴一四〇七年三月九日
落ち延びよ――。
父の言葉として伝えられたその言葉は、庭に集まった者たちの上へ重く落ちたまま、しばらく誰一人として次の言葉を続けることができなかった。
ミュラーの軍が谷に出てくると敵に読まれており、左右の高地は先に押さえられていた。それが何を意味するのか、アルスにも分かる。
父たちは地の利があるからこそ迎え撃てると考えていた。それなのに、その地の利ごと先回りされたということは、迎撃そのものが崩されたということでもあった。
それを聞いても誰も声を上げない。だが庭の空気は確かに変わっていた。
父が殿を務めるというその言葉を聞いた瞬間から、使用人たちの表情はわずかに強張り、兵たちも口数を失っている。
殿とは何か。アルスも知らないわけではなかった。
退く者たちを逃がすために最後まで残る役目であり、場合によっては戻らないことすらある役目である。
家人や使用人、兵たちが集まる輪の中で、誰もそれを口にはしなかったが、沈黙が長く続いていること自体が十分な答えのように思えた。
庭の端では既に動き始めている者もいる。
誰かを呼びに走る者がおり、小声で何事かを告げられたまま立ち尽くしている者がおり、何を持ち出すべきか決めきれないまま周囲を見回している者もいる。
まだ何らかの命令が出された訳ではない。それでも皆が、言葉にならない緊張を感じ取っているように見えた。
その沈黙を破ったのはサエルの亡き側室カルラの父であるニコラスだった。
老いてなお背筋は真っ直ぐに伸び、その眼差しには少しも迷いが見えない。
「カミル様と共に、北東へ向かいます」
その言葉に、ヨシュアの眉がわずかに寄った。
「フォーゲル家のある方角だな」
問いと言うより、確認するような声だった。
だがニコラスは表情を変えない。
「ええ、だからこそです。幼い血を守るのであれば、素直に動くより裏をかくべきです。よもや敵の方角へ動くとは思いますまい」
そう言いながら向けられた視線の先にはカミルがおり、その傍らにはカルラが遺した異母弟たちも立っている。
ニコラスが何を考えているのか、アルスには全てまでは分からないがそれでも、その眼差しが揺らいでいないことだけは見て取れた。
「兵を三名、連れていきます」
再び沈黙が落ちる。
ヨシュアはしばらく何も言わず視線を伏せていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……好きにしろ」
その言葉を聞いた瞬間、ニコラスは静かに頷いた。
北東へ向かう者たちが決まったのだと、アルスはそこで理解した。
続いて口を開いたのはヨシュアだった。
「我らは西だ。海へ出る。ジョナスを連れて行く」
その傍らには、二人の若い従兄弟が控えている。
ジョナスもまた何も言わなかった。
ただ唇を引き結び、叔父の言葉を黙って聞いている。
「陸路は既に抑えられている可能性がある。迎撃地点まで把握されていた以上、方角が違うというのを根拠に動くのは危うい」
低い声だったが、迷っているようには聞こえない。
アルスには軍のことを全て理解できるわけではなかったが、迎撃地点まで読まれていたという報告がどれほど重い意味を持つのかだけは分かっていた。
父たちは待ち構えるつもりでいたのだが、敵はさらにその先を読んでいた。
もし本当にこちらの動きが漏れているのだとすれば、簡単に想定できる行動では危険だというヨシュアの言葉にも納得がいく。
「兵は四名、私に」
誰も異を唱えなかった。
ヨシュアは静かに頷き、その場の何人かが互いに視線を交わす。
西へ向かう者たちが決まったのだと、アルスは理解した。
そして次に向けられた視線の先には母がいた。
エリーゼは慌てる様子もなく、その場に立っている。
周囲では不安を隠しきれない者たちもいるというのに、母だけはいつもと変わらないように見えた。
「私は南へ向かいます」
静かな声だったが、その声は不思議なほどはっきりと庭に響いた。
アルスは思わず母を見る。
その隣にはアルビーナが立っていた。
幼い妹は状況をどこまで理解しているのか分からない。それでも母の傍を離れまいとしていることだけは伝わってきた。
「兵は、先ほど戻った伝令兵三騎を連れて出ても構いませんか」
母の言葉に叔父は短く頷く。
伝令兵たちも何も言わず、その場で命を受け入れていた。更に侍女と小者を二名ずつ連れていくという話も受け入れられた。
侍女たちが顔を見合わせ、小者たちも荷のことを考えているのか落ち着かない様子で立っている。
その姿を見ながら、アルスは胸の奥に奇妙な重さが広がっていくのを感じていた。
母と別れる。アルビーナとも別れる。
今まで同じ屋敷の中で暮らしていた家族が、気づけば皆別々の方角へと散ろうとしている。
南へ向かう者たちもまた、そこで決まったのだった。
三つの行き先が決まったあと、庭には再び沈黙が落ちた。
風が吹くたびに外套の裾が揺れ、遠くでは金属が触れ合う微かな音も聞こえてくる。
誰も急かしてはいないが、立ち止まっていられる時間も長くはないのだろう。
アルスは庭を見渡した。
カミルは北東へ向かい、ジョナスは西へ向かう。
母とアルビーナは南へ向かう。
それぞれの行き先が決まった今になって初めて、自分の行く先だけ未だ決まっていないことに気づく。
「四方に割れるべきかもしれませんね」
視線が集まったが、不思議と声は震えなかった。
アルスはゆっくりと息を吐いた。
皆が別々に動くのは決して良いことではないのだろうが、一つの場所へ集まっていれば万一追われる事に成ったら全てが終わる。
ならば散った方が、少なくとも誰かは生き残れる可能性は高まる。
すると南東しか選択肢は存在しない。
山へ続く細い道で、幼い頃から何度も見てきた方角である。
追撃を散らすための一助となる道。
そこまで考えたところで、自然と口が開いていた。
「南東の山へ入ります。道は多く、足を止めずに進むこともできるでしょう」
一度言葉を切る。
皆の前で自分が口に出した瞬間が、別離の始まりだと理解していた。だからこそ胸の奥がわずかに重くなる。
それでも引っ込める気にはならなかった。
「……では、私は南東へ向かいます」
言い終える。
誰かを説得したかったわけではなく、誰かと競いたかったわけでもない。ただ残されている道がそこにあり、自分が行くべきなのだろうと思っただけだった。
そのとき、背後からゼダンの声が聞こえた。
「残った五名の兵は、すべて連れていきましょう」
振り返らなくても分かる、慣れ親しんだいつもの位置だった。
ゼダンはいつも半歩後ろにいる。
剣を教わったときも馬に乗ったときも父に叱られたあとも、気づけばいつもそこにいた。
妻子を失いサエルに見出されて以降、アルスの傅役として常に半歩後ろに立ち続けてきた男としての揺るぎない位置がそこなのであった。
その声を聞いたとき、胸の奥に張りつめていたものがわずかに緩む。
一人ではない。そんな当たり前のことを改めて思い出した。
ヨシュアはアルスを見た。
しばらく何かを考えるような間があったが、やがて静かに頷く。
「よい。散れ。命を繋げ」
短い言葉だった。
その言葉が発せられた瞬間、庭の空気が動いた。
直後、角笛が鳴ると門番が駆け出し、鎖が外される音が響く。
もう動くのだと、アルスは理解した。
北東へ向かう者たちが動き出す。カミルの姿が見え、異母弟たちの姿も見え、共にニコラスもいる。外套を翻しながら門へ向かう背中は、思ったよりも早く遠ざかっていった。
西へはヨシュアとジョナスが向かう。ジョナスは何度かこちらを見ようとしているようにも見えたが、結局は前を向いたまま歩き続けていた。
南へ向かう母の周囲では、侍女たちが慌ただしく荷を整えている。アルビーナは母の手を離さない。その姿を見ているうちに、胸の奥が少しだけ苦しくなった。
母は歩き出しかけてから一度だけ振り返った。
「皆、どうか……」
言葉は最後まで続かなかったが、何を言おうとしたのかは分かる。
だから誰も続きを求めなかった。
やがて母も歩き出し、アルスはその背中を見送った。
もう追いかけることはできないという事実だけが静かに胸へ沈んでいく。
「若様」
ゼダンの声がする。後ろには五名の兵がいた。
皆、幼い頃から屋敷で見てきた者たちであり、彼らもまた不安を抱えているはずなのに、誰もそれを口にはしない。
アルスは小さく頷いた。
父は戦場へ向かい、兄たちも共にその場所にいる。生きて戻るかもしれないし、戻らないかもしれない。
考え始めても際限がないのだから今は進むしかない。
門は開かれたままだった。
閉じれば誰かが詰まり、開いていれば誰かが生き延びる。
そのためなのだろう。
アルスは最後に庭を見渡した。
つい先ほどまで皆がいた場所には、もう誰もいない。
同じ屋根の下で暮らしていた家族が、それぞれ別の方角へと歩き出している。
再び集まれるのか、そもそも全員が生き残れるのかも分からない。
それでも時間だけは止まらない。
アルスは門をくぐった。
南東へ続く土道の先には山並みが横たわっている。
その先に何があるのか、ここからは見えない。ただ一つだけ確かなのは、もう皆と同じ道を歩くことはできないということだった。
南東へ続く道は畑の畦を縫うように伸びており、屋敷から離れるにつれて徐々に幅を失い、やがて低い灌木の間へと沈み込むように姿を変えていった。
馬は置いてきた。道なき道を行くならば邪魔にしかならない。荷も最低限だけ背に括りつけている。
それでも剣を帯びた腰は重く、背に括りつけた荷の紐は肩へ食い込み、歩くたびに身体のどこかが引かれるような感覚があった。
前後には兵たちがいて、その中央を歩きながら、アルスは一度も後ろを振り返らなかった。
振り返れば何を見ることになるのか分かっていたからである。
だから前だけを見る。
ただそれだけを繰り返しながら歩き続ける。
どれほど進んだだろうか、低い尾根へ出たところで不意に視界が開け、アルスは思わず足を止める。
その先にはローデンの街が望め、石造りの櫓も整然と並ぶ屋根も見えた。
遠目には何も変わっていないように見えた。
つい先ほどまで自分がいた場所がそこにあり、庭も門も、まだ同じ形のまま残っているように見える。
だが、その光景を見た瞬間に胸の奥が重くなる。
父や兄たちは今も戦っているのだろうか……そんな考えが自然と浮かぶ。
屋敷を離れた自分たちだけではなく、残った者たちもまた危険の中にいる。
それが分かっているからこそ、何も変わっていないように見える街並みがかえって現実味を失わせていた。
そのとき細い煙が一本、空へ立ち上る。
最初は誰かが火を使っているだけかと思ったのだが、そのすぐあとにもう一本の煙が上がる。
風に押されながら横へ流れ、その色が少しずつ濃くなっていく。
アルスは目を細めた。
狼煙ではなくどこかが燃えていると理解した直後、屋根の端に赤い光が見えた。
炎だった。
遠く離れているはずなのに、それでも分かる程に火が広がっていて、黒い煙が空へ昇り街の輪郭を少しずつ塗り潰していく。
胸の奥へ重いものが沈んでいくような感覚があった。
戻れば間に合うだろうかという考えが一瞬だけ頭をよぎる。
今ならまだ戻れる。
だが、その考えは長く続かなかった。
戻ったところで何ができるのか、自分一人が加わったところで何を守れるのか。
そもそも皆は散ったのだ。それぞれ別の方角へ向かい、誰かが生き残るために道を分けた。その中で自分だけが戻れば何のために散ったのか分からなくなる。
胸の内で揺れた感情は、結局そこへ行き着いた。
誰かが生き延びなければならない。
ならば今は進まなければならない。
「……進む」
言葉にすると、ようやく足が動いた。
ゼダンが隣で頷く。
「山に入れば追手の足は鈍ります。風も道も、我らにとって不利ではありません」
それは慰めではなく、ただ事実を並べただけの言葉だったのだろうが、今はその事実がありがたかった。
感情ではなく現実の話をしてくれる者が傍にいるということが、わずかに心を支えてくれる。
アルスは一度だけ振り返った。
炎はさらに広がり櫓の影も揺れて見える。
仮に皆が生き延びたとして、仮に再び会うことができたとしてもあの日までと同じ形で屋敷へ戻ることは、もうないのではないか。
その考えは不吉な予感というよりも、むしろ確信に近かった。
炎に包まれているのは家ではなく、これまで続いていた日々そのものなのだと、アルスは初めて感じていた。
「もう戻れない」
その言葉は口には出なかった。
ただ胸の奥で静かに形を取り、一度そこへ落ちてしまうと、もう覆すことのできない事実として沈んでいく。
後悔とも諦めとも違う。
ただ、自分は進む方を選んだのだという確認だけが、重みを伴って胸の内へ残り続けていた。
やがて林が深くなり、尾根から見えていた街並みも木々の向こうへ隠れていく。足元には湿った土があり、枝葉が行く手を塞ぎ、歩くたびに石が転がる。
それらだけが今の現実だった。
アルスは黙ったまま歩き続ける。
山道と呼ぶには荒すぎる道で、枝は頬を掠め足元では石が崩れる。湿った土は靴底へまとわりつき、一歩ごとに身体が重くなり濡れた外套も肩へ張りついていた。
歩いているだけなのに妙に息が上がるのだが、それがありがたくもあった。身体の疲労を感じている間だけは、余計なことを考えずに済む。
後ろからは兵たちの足音が聞こえていた。
誰も弱音は吐かない。
だが足音の僅かな乱れや息遣いの変化だけでも、皆が緊張していることは伝わってきた。
自分だけではない。そう思う一方で、胸の奥では焦りのようなものも消えなかった。
これで良かったのだろうか、本当に南東で良かったのだろうかと、考え始めれば次々と浮かんでくる。だが答えを知る者はいない。
「若様、谷側は危険です」
不意に聞こえたゼダンの声にアルスは顔を上げる。
いつの間にか道は二つに分かれていた。一方は谷沿いを進む獣道、もう一方は尾根へ向かって緩やかに登っている道。ゼダンは既に地形を見ていたようで、その横顔には焦りも迷いもない、いつも通りの屋敷にいた頃と変わらない横顔だった。
だからこそ、その姿を見ると少しだけ落ち着く。
「尾根を目指そう。歩きやすい道を選ぶべきだ」
そう答える。考えたというより自然に出た言葉だった。
特別な才能はなく、父のような武勇もなければ兄たちのような強さもない。それでも状況を見て、今できる限りましな選択を積み重ねることだけは昔から続けてきた。
だから今もそうするしかない。
正しいかどうかは分からないが立ち止まるよりはいい。そのまま歩きながら、アルスは無意識に拳を握った。
父や兄は今もまだ戦っているのだろうか。
あるいは――。
そこまで考えかけて、アルスは思考を止めた。
分からないことを考えても仕方がない。今は進むしかない。
守れなかったものを数えるのではなく、生き延びることを考えなければならない。
そうしなければ、父たちが時間を稼いだ意味もなくなる。
アルスは前を向いた。
山道は細く険しく、その先に何があるのかも分からないが、それでも足だけは止めなかった。
「行こう」
アルスはそう告げると、そのまま歩き出した。もう後ろは見なかった。
見たところで何かが変わるわけではない。今さら立ち止まったところで取り戻せるものは何一つないのだから前へ進む。ただそれだけを繰り返すように足を動かし続ける。
歩きにくい道だった。少し気を抜けば転びそうになる。誰も余裕などないが、それでも歩いている。皆が歩いているのだから、自分も歩かなければならなかった。
胸の奥は重いままだった。
苦しくて、悲しくて、悔しくて、様々な感情が混ざり合っている。
だが、そのどれもが途中で消えることはなかった。
消えるどころか歩くたびに沈殿し、形を変えながら胸の奥へ積み重なっていく。
考えれば考えるほど答えのない問いばかりが増えていく。
それでも一つだけ確かなことがあった。
どれだけ時間が経っても、今日という日の事は忘れないだろうという事だ。
気づけば頬に冷たいものが伝っていた。涙だと気づいたのはしばらくしてからだった。拭おうとも止めようとも思わなかった。ただ流れるままにしておく。今はそれでよかった。
「ゼダン」
「は」
隣を歩く傅役が応じる。
「見たな」
「見ました」
短い返答だった。
それ以上の言葉は必要なかった。
二人とも同じものを見て、同じ景色を胸に刻んだ。
それだけで十分だった。
しばらく歩いたあと、アルスは前を向いたまま口を開く。
「……いずれ取り戻す」
独り言に近い声だった。
誰かへ誓ったわけではなく、聞かせるために言ったわけでもない。ただ胸の奥へ沈んでいたものが、そのまま言葉になって出てきただけだった。
家を。
名を。
父が守ろうとしたものを。
何をどうするのかは分からない。
どうやってそこへ辿り着くのかも分からない。
だが、それでも今はその言葉だけが、自分を前へ進ませてくれる気がした。
山道は細く険しく、先に何があるのかも見えないが、それでも足は止まらなかった。林はさらに深くなり、煙も炎も木々の向こうへ消えていく。
だが胸の奥には、あの光景だけが消えずに残り続けていた。
アルスは黙ったまま前を向く。
そして歩き続ける。
ただひたすらに。
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