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第3話 落ちる

大陸歴一四〇七年三月九日


 落ち延びよ――その言葉が庭に沈んでなお、誰も動けずにいた。


 地の利は疑いなかった。そこが読まれ、左右の高地を押さえられたという。庭の空気が一段冷える。殿を務める、と父は告げた。殿とは、退くために立つ者の名だ。戻らぬ覚悟を含む。


 家人と主だった使用人、それに兵士が十二名集まる。更に伝令として戻った騎兵の三名も続く。


 まだ誰も指示を出していない。だが、庭の周縁ではすでに人の動きが生まれつつあった。呼びに走る者、耳打ちを受けて立ち尽くす者、何を持つべきかも定まらぬまま視線だけを交わす者。言葉は形にならないまま、しかし確実に外へと伝わり始めている。


 最初に口を開いたのはニコラスだった。サエルの亡き側室カルラの父。老いてなお目は鋭い。


「カミル様と共に北東へ向かいます」


「フォーゲル家のある方角だ」


ヨシュアの眉は険しくなるが、ニコラスは表情を変えずに応じる。


「だからこそです。幼い血を守るには、動くしかない」


 声は淡々として揺れない。視線はカミルへ、さらにカルラが遺した二人の孫へと移る。サエルの血だ。


「兵を三名連れていきます」


 短い沈黙ののち、ヨシュアが低く息を吐く。


「……好きにしろ」


 北東。第一の分離が決まる。


 ヨシュアは続ける。


 「我らは西だ。海へ出る。ジョナスを連れて行く」


 その傍らに、二人の若い青年が無言で立つ。ヨシュアの息子たちだ。


 「陸は読まれている可能性がある。迎撃地点が読まれていた」


 疑念は消えない。内に耳があるなら、同じ道は踏まぬほうがいい。


 「兵四名、私に」


 西。第二の分離。


 次は母エリーゼだった。彼女は乱れぬ声音で言う。


 「私は南へ向かいます」


 理由は述べなかった。だがその声は、すでに退路を断った者の響きを帯びていた。隣に幼い妹アルビーナが立つ。


 「兵は先ほど戻った伝令兵を三騎連れ出て良いですか」


 侍女二名と小者二名に、兵は騎兵三名。過不足なく、過大でもない。南。第三の分離。


 三方向が定まり、庭に沈黙が落ちる。角笛はまだ鳴らない。だが時間は薄くなっている。遠くで金属の触れ合う響きがかすかに混じる。残る方角は一つ。南東。山地へ続く細道。


 アルスはゆっくりと視線を上げた。突出した才はない。だが場の温度と人の目の動きを読むことには、誰よりも敏い。北東へ西へと弟たちは散る。南は、母の選んだ方角だ。ならば残る道は、追撃を散らす道だ。


「四方に割れれば、敵は迷います」


 声は高くない。


 「南東は山に入ります。道は多い。足を止めずにいられる。……では、私は南東へ」


 誰の決定も否定しない。誰とも競わない。ただ、残った道に理を与え、引き受ける。


 ゼダンが半歩後ろから低く言う。


 「残った五名、すべて連れていきましょう」


 決断はしない。ただ現実を整える。その顔に迷いはない。妻子を失い、サエルに見出され、アルスの傅役となって以来、常に半歩後ろに立つ男だ。剣も槍も馬も一流。だが今は、主の言葉に重みを足す役目だけを果たす。


 ヨシュアがアルスを見た。わずかな間ののち、頷く。


 「よい。散れ。命を繋げ」


 命令は簡潔で、過不足がない。角笛が短く鳴る。門番が駆け、鎖が外される。


 北東へ――カミルと異母弟たち、そしてニコラス。外套を翻し、石畳を踏みしめてフォーゲルの方角へ向かう。振り返らない背に、焦燥が混じる。


 西へ――ヨシュアとジョナス、二人の従兄弟。海の匂いが風に乗る。幼い肩に手が置かれ、若い血は唇を噛む。港へ続く坂を下る。


 南へ――母エリーゼと妹アルビーナ。侍女が裾を持ち、小者が荷を背に締め直す。理性の歩幅で、しかし急ぐ。振り向いたエリーゼの目は静かだ。


「皆、どうか……」


 言葉はそこで切れる。続きは要らない。


 南東へ――アルスとゼダン。兵が五名、前へ出る。荷は軽い。山の稜線が淡く横たわる。父は谷で殿を務める。強い人だ。兄もいる。生きて戻る可能性を、まだ捨ててはいない。だが最悪も想定する。胸の奥の冷えは、もう震えに変わらない。


 門が順に開く。門番には一つだけ命が残されていた。


「開けておけ」


 閉じれば詰まる。流せば、生き延びる者が出る。


 足音が分かれ、やがて町の音に紛れた。三方が道を急ぐ中、南東へ向かう者たちは振り返らず、山へ続く土道を選んだ。同じ屋根の下で育った者たちが、同じ方角を向かない。町の屋根はまだ整然と並んでいる。この日、ミュラー家は四方へ裂けた。




 南東へ延びる道は、畑の畦を抜け、やがて灌木の影へ沈んでいく。馬は置いてきた。荷は背に括りつけ、剣の重みが肩に食い込む。足音だけが乾いた土を踏む。若い兵が前後を固め、ゼダンは半歩後ろにいる。誰も振り返らない。振り返れば、足が止まることを知っている。


 低い尾根に出たところで、アルスは思わず立ち止まった。


 ローデンが見える。石の櫓は夕の光を受け尚、まだ白い。屋根は整然と並び、あの庭も、門も、遠目には何も変わらぬように見えた。兄たちはあの向こうで戦っている。父も谷で剣を抜いているはずだ。離れたのは弟たちと、母と妹。だが残った者も、決して無事ではない。


 胸の奥に、硬いものが沈む。


 父兄たちは戦場にいる。戻れば並べるかもしれない。いまなら、まだ間に合うのではないか――そんな考えが一瞬だけ頭をかすめる。


 だが同時に理解する。戻ったところで、守れるものは限られている。散らした者たちの道を、誰が繋ぐのか。母は南へ向かった。弟たちはそれぞれ別の方角へ消えた。誰かが生き延びなければならない。


 あの夕日の向こうが、昨日だ。


 「……進む」


 声は低く、ほとんど息に近い。それでも言葉にしなければ、足が前へ出ない。


 ゼダンが静かに応じる。


「山に入れば、追手の足は鈍ります。風も道も、我らに味方するでしょう」


 慰めではない。現実だ。その現実が、いまは救いだった。


 アルスは最後にもう一度だけ振り返る。


 櫓の影が揺らぎ、屋根が黒く縁取られていく。兄はまだ戦っている。父も剣を振るっている。信じるしかない。だが、たとえ生き延びたとしても、あの屋敷に同じ顔ぶれで集う日はもう来ないのだろう。


 それは直感ではなく、理解だった。


 「もう戻れない」


 はっきりと、胸の内で言う。


 後悔ではない。諦めでもない。選んだ道の重さを、自分で引き受けるための言葉だ。


 林が視界を閉ざす。街並みは枝葉の隙間に砕け、やがて見えなくなる。足裏に伝わる土の感触だけが確かだ。


 アルスは前を向く。


 山道は細く、険しく、先は見えない。


 それでも、止まらなかった。


 山の道――と呼ぶには、あまりにも荒く、狭く、湿っていた。


 枝が頬を掠め、石が崩れ、土が靴底に張りつく。十四歳のアルス=ミュラーの肩には、重く濡れた外套が貼りつき、血のように熱い心臓の鼓動が背中まで響いた。


 後ろの五名の兵は、幼い頃から顔を知る者たちだ。足音の微かな乱れ、息の詰まり、恐怖の震え――すべてをアルスは無意識に測る。


 まだ動ける。まだ、踏み止まれる。


 だが胸の奥で焦りがじわりと広がる。


「若様、谷側は危険です」


 傅役ゼダンの声は低く、冷たく、湿った風の中でもはっきりと届く。白髪交じりの壮年の男は汗ひとつ見せず、視線は先の道を切り取るように鋭かった。

ミュラー家に仕えて三十年。父サエルの傍らで幾度も境争いを見てきた男である。恐怖を押さえ、現実を受け止める背中が、少年に静かな覚悟を迫る。


「尾根を行こう。広い道を選ぶ。敵の数は多い」


 アルスは迷わず答える。

突出した才はない。だが、問われれば必ず平均以上の答えを返す。それだけが、幼い頃から培った唯一の取り柄だった。


 振り返ることは許されない。振り返れば、恐怖が現実になる。


 振り向いてはいけない。分かっている。だが、振り向いてしまった。



 木々の切れ目に、黒煙が立ち上っていた。


 最初は、ただの煙に見えた。だが次の瞬間、炎が屋根の端を舐め、見慣れた居館の輪郭が揺らぐ。


石壁。

厩舎。

中庭の井戸。

幼い頃から見慣れた庭木。


 そのすべてを、炎がゆっくりと呑み込んでいく。


 胸の奥が凍る。視界に収まるのは、屋根の一角を炎が舐める居館の姿。門は破られ、敵兵が雪崩れ込む。旗は我らのものではない。


 逃げ延びた領民も、抱える子も、倒れた兵も、すべては背後に消えた。

残るのは、無人になった屋敷と、広がる炎と、静寂に混じる敵の足音だけ。


 焦げる木の匂いと鉄の匂いが、風に乗ってここまで届く。


――戻れない。


 その言葉が、胸の奥で静かに形になる。


 父サエルと二人の兄は、迎撃に向かった。

領境で敵を止めるためだ。


 そして――まだ戻っていない。


 戻らなかったのか、戻れないのか。

アルスには分からない。


分からないまま、家は燃えている。


 恐怖と絶望が交錯する。

しかし同時に、冷たい決意が生まれる。少年の胸に、昔日への望郷心がうずく。


何を失ったのか。

何を守るべきなのか。


すべてが、今この瞬間に結晶する。


「行こう」


 それだけを告げ、アルスは居館に背を向けた。

山の奥へ、道なき道へ。


 風が頬を打ち、枝が耳元で擦れるたび、少年の心は一瞬立ち止まる。

しかし振り返ることはない。


 恐怖も、喪失も、胸の奥で炎に変え、前に進む。


 山道は狭く、土は濡れ、足元は滑る。石に躓くたび、後ろの兵の息遣いが乱れる。

だがアルスは歩を緩めず、視線を先に固定した。


これ以上、見てしまえば、前に進めなくなると知っていた。


 幼い背に肩を押し付ける重みは、決して外套だけではない。

家族の血、誇り、未来への責任。それが一挙に圧し掛かる。


胸を締めつける痛みが、怒りとなり、決意となり、足を前へ進めさせる。


涙が頬を伝う。

だがそれは、悲しみの涙ではなかった。


「ゼダン」


「は」


「見たな」


「見ました」


 確認の短い間に、二人の呼吸が重なる。

少年は、炎に焼かれる家を、失われた日常を、確かに胸に刻んだ。


ここから逃げることだけが、今自分にできる唯一のことだと理解した。


「……いずれ取り戻す」


声は震えていない。


家も。

名も。

父が守ろうとしたものすべてを。


 胸の奥の冷えた決意が、言葉となって溢れた。


ミュラー家三男、アルス=ミュラー。

この日、少年は流浪の身となった。


だが同時に、初めて覚悟を胸に刻んだ。


 炎は徐々に遠ざかる。煙は風に流れ、山の影に消えていく。

それでも胸の奥の熱は消えない。


前を向く。

山道は細く、険しく、先は見えない。


それでも、止まるわけにはいかない。



この少年の物語は、ここから始まる――。

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