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第2話 狼煙の向こう

大陸歴一四〇七年三月九日


 昨日と変わらぬはずの朝だった。北からの風は冷えをわずかに含み、山脈の稜線は淡く霞んでいる。居館の窓から見下ろせば、中央の平野を貫く街道が細い線となって南北へ伸び、その先で森に吸い込まれていた。あの道が、ミュラー領と外を結ぶほとんど唯一の動脈だと、アルスは幼いころから教えられてきた。


 穏やかは奇跡だと、母は言った。


 その言葉を思い出した矢先だった。


 鐘が乱れた。


 それは昨日聞いた正午の整った響きとは違った。短く続けざまに、間を失った打ち方。石壁を震わせる鋭い音が、朝の空気を切り裂いた。


 アルスは自室を飛び出た。胸の奥が先に理解する。これは日常の鐘ではない。


 廊下を駆ける足音が重なる。扉の向こうで誰かが叫んだ。


 「北街道より急使!」


 その一言で、視界が狭まる。


 広間へ下りると、泥にまみれた兵が膝をついていた。外套は裂け、靴にはまだ湿った土がこびりついている。夜明け前から走り通してきたのだろう。肩が荒く上下し、それでも顔は上げていた。


 正面に立つサエルの声は低い。


 「申せ」


 「領境北方に軍勢を確認。街道を南下中。数、三百以上」


 広間の空気がわずかに止まる。


 三百。


 ミュラーの常備兵を明らかに上回る数。街道は一本。退けば平野を通り、やがてこの居館へ至る。


 「旗は」


 「黒地に白の紋。エリクセンに相違ありません」


 なぜ、という言葉が喉元まで上がる。昨日自分はあの街道を見下ろしていた。森へ吸い込まれる細道を、ただ静かなものとして。アルスの思考は追いつかない。ただ数字と距離だけが重く沈む。


 だがサエルは一拍も置かなかった。


 「境で受ける。街道の狭窄地に布陣。居館へは近づけさせぬ」


 その声に迷いはない。決断はすでに形を持っている。


 ファビオが前へ出る。「私が先陣を務めます。道幅は広くない。槍隊で押さえれば、数の差は削れます」


 「任せる」


 短い応答で十分だった。


 セアドはすでに周囲へ目を走らせている。「後詰は二列目に。負傷者の退路を確保しておけ。水と乾糧を先に送れ、焦って積むな、落とせばそれこそ無駄になる」


 声は静かだが、兵たちは自然とそれに従う。


 ジョナスが堪えきれず踏み出した。「俺も行く。三百だろうと道は一本だ、押し返せる!」


 若さゆえの熱がそのまま言葉になっている。


 アルスは反射的に口を開いた。「やめろ、まだ――」


 だがその先が続かない。なぜ駄目なのか、理で説明できない。ただ胸の奥で嫌な予感が暴れるだけだ。


 ジョナスが睨む。「兄上は行かぬのか」


 問いに答えられない。拳を握ると、指先がわずかに震えているのが分かる。


 「形を崩すな」


 セアドが低く言った。「今は決められた位置を守れ。前へ出ることが勇ではない」


 理はそちらにあった。ジョナスは歯を食いしばりながらも、引き下がる。


 その隅に、カミルが立っていた。顔色は白い。早朝から描いていたのだろう、北へ続く街道の風景らしき紙片をまだ握っている。


 「本当に……来るのか」


 昨日は海を描いていた手が、わずかに震える。戦の現実は、絵の中にはなかった。


 アルスは何か言おうとしたが、確かな言葉が見つからない。


 サエルの視線が、最後にアルスへ向けられた。


 「お前は居館に残れ。門と町を見ておけ。混乱が広がれば、それだけで負ける」


 命令は簡潔だった。


 守れ、と言われる。


 だが何を、どうやって守るのか。兵を率いる立場でもなく、采配を振るう権限もない。ただ見ているしかない自分が、ひどく場違いに思えた。十四の三男に出来ることは限られている。


 「……はい」


 返事がわずかに遅れた。


 鎧を締める音が重なり、角笛が鳴る。低く長い響きが広間を震わせる。兵の列が整い、門へ向かう足並みが揃う。


 エリーゼが静かに現れ、サエルの前に立つ。「ご無事で」


 それだけを言う。多くを求めない声音だった。


 ファビオが振り返り、アルスを一瞬だけ見る。何か言いかけ、やめる。


 「任せろ」


 短く残し、背を向けた。


 門が開き、兵たちが北へ向かう。街道の先、森へと続く細道へ吸い込まれていく。土煙が立ち、やがて門が重い音を立てて閉じられた。


 広間に残るのは、女たちと年若い者、そしてアルス。


 北の空に、細い煙が上がっている。境からの狼煙だ。昨日と同じはずの空が、どこか鈍く見える。


 風は北から吹いていた。


 穏やかは奇跡だと、母は言った。


 ならばいま、その奇跡は試されている。


 だがそれを支える力が、自分の手の中にないことだけは、はっきりと分かっていた。



 鐘は止まらなかった。昨日まで時を刻んでいたはずの音が、いまは乱れ、打ち急ぎ、町の空気を震わせている。アルスは館の石段を降りながら、その響きの違いを理解しようとしたが、胸の奥がざわつくだけで答えには辿り着けない。


 北門の上から、白い煙が見える。


 火ではない。炎も見えない。ただ、細く、まっすぐに空へ昇る一本の狼煙。それが何を意味するのか、訓練で教わってはいた。領境に敵影あり。交戦中。増援不要――いや、違う。あれは二度目の合図だ。意味を思い出そうとするほど、記憶は指の間から零れ落ちる。


「エリクセンだ……本当に来たんだ」


 誰かがそう呟いた。否定する声はなかった。


 城門が軋む音を立てて閉ざされる。兵が走る。女たちが子を抱えて路地へ消える。昨日まで穏やかだったローデンが、急に見知らぬ町のように動き始める。だが炎はまだ見えない。敵の姿も見えない。ただ、遠くで何かが起きているという事実だけが、空の色を変えていた。


 父と兄たちは、いま領境にいるはずだ。北の平野を越えたその先で、敵を止めているはずだ。そう信じればよいのに、胸は軽くならない。狼煙は消えず、二本目が上がる。意味が分からない。分からない自分が、急に小さく感じられた。


 終わるかもしれない。


 だが、終わらせるわけにはいかない。


 アルスは立ち尽くしたまま、空へ伸びる白煙を見上げる。あの向こうで何が起きているのか、自分には知る術がない。ただ、昨日までの世界が音を立てて軋み始めていることだけが、確かな現実として迫っていた。


 

 二本目が上がった直後に、門前に蹄の音が乱れ打った。鞍から半ば転げ落ちるようにして兵が石畳に崩れ、泥に濡れた手で地を掴む。肩が大きく上下し、言葉がすぐには続かなかった。

「ご報告……谷へ入った時には……既に敵が布陣……左右の高地も押さえられ……」

息が続かない。峡道は今朝決まったはずだった。誰もが有利と疑わなかった地形だ。


 さらに騎兵がなだれ込み、背に矢を受けたまま旗を落とす。黒地に白。フォーゲルの紋が翻ると、庭に押し殺したざわめきが広がった。

「谷の出口にフォーゲル勢を確認……回り込まれています」

敗色という言葉が、誰の口からともなく滲む。


 「フォーゲル……なぜフォーゲルが居る」

その一言は、皆の疑問でもあった。声に出した者を責める者はいない。ただ、同じ戸惑いが、広間の底で静かに広がった。



 三人目の伝令が膝をついた。まだ若いが、その目だけが妙に澄んでいる。

「サエル様より。……落ち延びよ、と。町は捨てよ、と。御自らは殿を務める、と」

短い文言だけが残され、父と兄の名はそれ以上続かなかった。


 静寂ののち、石段の陰から年嵩の男が歩み出る。娘を側室としてこの家に入れたニコラスが、静かに前へ出る。声は低く、乱れない。

「聞きましたな。まず家人を集めましょう。荷は軽く、順を決めて抜けるのです」


 その言葉に、すぐさま反論は出なかった。家中で顔の利く者の言葉でもある。カミルが一瞬だけその横顔を見上げると、ニコラスは柔らかく頷く。

「急ぐが、走らずに。崩れれば終わります」


 ニコラスは続ける。

「門は退路として残しましょう」


 その言葉に、数瞬の沈黙が落ちた。叔父のヨシュアが何か言いかけ、しかし飲み込む。混乱の中で反論は火種になる。誰も賛同は口にしなかったが、否定もまた出なかった。混乱は寸前で踏みとどまる。父の姿はここにない。それでも命は下り、家は動き出す。アルスはその輪の外で立ち尽くし、胸の奥が冷えていくのを感じていた。自分の名は呼ばれない。守る側に回されることすら、まだ告げられない。ただ、家というひとつの形が、父の不在のまま組み替えられていく。


 ローデンは健在だ。だが父の言葉は帰還を約さなかった。落ち延びよ――その一言が、ミュラー家の最終形を静かに定めた。


 そのとき、館の奥で鐘が鳴った。低く、重く、途切れずに三度。


 火の合図ではない。招集でもない。町に残る者へ向けた、最後の知らせだった。


 「……避難だ」


 誰かが呟く。鐘はもう一度鳴る。意味は明確だった。ここに留まるな。散れ、という合図である。



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