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第1話 崩れる前の空

大陸歴一四〇七年三月八日


 ミュラー領の領都ローデンは、海と平野の境に築かれた小さな町である。西には天然の入り江を抱き、その水面は外洋の荒波から半ば守られている。水深も足り、風向きも悪くない。本来ならば商船が帆を連ねても不思議ではない地形だった。


 だが、いまは漁船が数隻、潮に揺れているだけだ。


 海は、ひと晩のうちに磨かれたように静まっていた。春を越えたばかりの潮はまだ冷たさを含みながらも、頬を刺すほどではなく、入り江に差し込む光をやわらかく返している。ミュラー領西岸の小さな湾には、白い帆を張った漁船が二隻、少し離れてもう一隻、潮に身を任せるように揺れていた。帆柱の軋む音も、櫂を立てる水音も、遠くで鳴く海鳥の声に溶けて、ひどく穏やかな朝だった。


 港と呼ぶには控えめな造りである。石を積み上げ板を敷いただけの桟橋が一本、潮に洗われて角を丸くし、その背後に板張りの倉が二棟並ぶ。干した魚の匂いと、湿った網の塩気が混じり合い、風が動くたびにゆっくりと流れていく。賑わいとは縁遠いが、荒れた様子もない。ここには、ここなりの時間がある。


アルス=ミュラーは外套の襟をゆるめ、桟橋の先まで歩いた。板の継ぎ目に染み込んだ潮の跡を踏みながら、水平線へ目をやる。海はどこまでも平らで、遠くに薄い雲が一筋、空と水の境を曖昧にしていた。


 「今日は潮の具合も悪くありませんな」


 声をかけたのは、網を膝に広げて繕っていた漁師だった。節くれだった指が器用に麻糸を送り、破れ目を埋めていく。


 「風も素直です。沖へ出るには、ちょうどいい日でしょう」


 アルスは海から視線を外さずに答える。


 「そう聞くと安心するね。船が素直に進むのを見るのは気分がいい。風に遊ばれる船は見たくない」


 漁師は喉の奥で笑った。


 「若様は風も潮も読まれるのかと思っておりましたが、案外、そういうところを気にされる」


 「読めるなら苦労はしないよ。読めないから、見ているんだ」


 名を呼び合うことはない。だが顔を見かけるといつも声を掛け合う。この入り江で生きる者同士の、そして若様と呼ばれても三男と言う気軽な立場相手の余計な飾りを持たない距離だった。


 アルスはしばらく黙って海を眺めた。入り江は外海から半ば隠れるように湾曲し、波を受け止める岩壁に守られている。父はよく、この地形を指でなぞりながら語ったものだ。


 ――いずれここは良港になる。


 潮の流れは素直で、水深も足りる。外洋に出るまでの風向きも悪くない。ただ一つ足りないのは、往来する相手だ、と。


 「相手さえいればな」


 そう付け足すときの父の声には、嘆きよりも算盤を弾くような冷静さがあった。港は造るものだが、商いは呼び込むものだ、と。


 今はまだ、三隻の漁船が行き来するだけの静かな湾である。だが帆は確かに風を待ち、倉には塩と干魚が積まれている。何もないわけではない。ただ、動きが小さいだけだ。


 桟橋の先で立ち止まったまま、アルスはゆっくりと息を吐いた。入り江の海は外海よりも波がやわらぎ、光を受けて穏やかに揺れている。表面だけを見れば、今日という日は昨日の続きでしかない。


 「若様」


 漁師が声をかける。「沖へ出れば潮の流れも速くなります。外は、ここより風も強い」


 「そうだろうね」


 アルスはうなずく。


「だからこそ、この入り江をどう使うかを考えないと……。静かなままにしておくのか、それとも、風を呼び込むのか」


 言葉にしてから、自分でもわずかに苦笑する。まだ何も動かしてはいない。ただ、海を見ているだけだ。


 潮は相変わらず穏やかに桟橋を打ち、帆はゆるやかに揺れている。空は高く、雲は薄い。崩れる気配など、どこにも見えなかった。


 桟橋を離れ、湾を見下ろす坂を上ると、潮の匂いは次第に土と草の匂いへと変わっていった。春を越えたばかりの小麦はまだ青く、風が吹くたびに畑一面が波のようにうねる。振り返れば、入り江は掌に収まるほどの静けさで横たわり、その向こうに外海が淡く光っている。海は遠くない。だが、ここからは槍の届く範囲のことを考えねばならなかった。


 訓練場にはすでに兵が列を作っている。乾いた土を踏み固めた広場の中央で、長兄ファビオが槍を構えていた。肩の力は抜け、穂先だけがまっすぐ前を向く。その姿は派手さこそないが、軸がぶれない。


 「足を止めるな。突くときほど前へ出ろ。引く足を惜しむな、腰が遅れる」


 声は低く、よく通る。兵たちが一斉に踏み込むと、地面が鈍く鳴った。穂先が揃う様は整然としており、乱れはすぐに修正される。長兄ファビオは一人の若い兵の槍尻を軽く叩き、「力むな、押すのではなく通せ」と短く告げた。その言葉に、兵は顔を赤らめながらも素直にうなずく。


 その様子を、少し離れた場所でサエルが腕を組んで見ていた。温厚な顔立ちで、目尻には常に柔らかな皺が寄っている。だが一度戦場に立てば、誰よりも前に出る男であると、アルスは聞いている。若い兵の動きに視線を走らせながらも、息子たちの立ち位置を自然と測っている目だった。


 アルスが近づくと、サエルは視線を外さぬまま口を開いた。


 「港はどうだった」


 「潮の具合は悪くありません。風も素直で、ちょうどいい日だそうです」


 「そうか」


 サエルは小さくうなずく。


 「いつもどおりか。……それが一番だ」


 穏やかな口調だが、そこには確かな重みがある。何も起きないことの価値を知っている声だった。


 しばらく槍の列を眺めたあと、サエルは思い出したように言う。


 「カミルはどうした。今日は姿を見ぬな」


 アルスはわずかに笑いを含ませて答えた。


 「先ほど港で、倉の壁にもたれて絵を描いていました。帆の形が気に入らぬと、何度も描き直していましたよ」


 サエルの眉がわずかに動く。


 「……いつもどおりか」


 「それが一番なんですよね」


 アルスは父を揶揄うように言う。


 「……うむ」


 サエルは小さく息をつき、一言で応じた。その声音には、四男の奔放さに苦虫を噛みつつ、肯定するという複雑さが混じっている。


 そのとき、列の端から小さな影が飛び出した。


 「兄上、見ていろ!」


 末弟ジョナスである。槍を握る手はまだ細いが、踏み込みは速い。勢いに任せて突き出した穂先が、わずかにぶれる。


 「足元が空いている」


 ファビオが半歩寄り、軽く槍尻で払う。ジョナスは体勢を崩しかけながらも、転ばずに踏みとどまった。


 「もう一度だ!」


 悔しさを隠そうともせず、再び構える。その荒さは未熟さでもあり、同時に熱でもあった。


 広場の端では、次兄セアドが書板を手にその様子を見ている。槍を持つことは少ないが、兵の動きや消耗を冷静に記している。


 「午後は馬だ。無駄に力を使うな、ジョナス。倒れれば、誰が運ぶと思っている」


 「うるさい!」


 即座に返る声に、兵の何人かが苦笑する。だがセアドは眉一つ動かさない。


 「声を荒げる暇があるなら、礼節を覚えろ。怒鳴るのは戦場だけで足りる」


 言葉は静かだが、刺さる。ジョナスは唇を尖らせながらも、再び槍を構え直した。


 その一連を眺めながら、アルスは自分の立ち位置を思う。前へ出る兄がいて、後ろを整える兄がいる。書画を好む弟がいて、真っ先に突っ込む弟がいる。そして、そのすべてを見渡す父がいる。


 ミュラー家の重心は、まだ揺らいでいない。


 土を踏む音、槍が風を切る音、時折交わされる短い叱責。訓練場の空気は張りつめているが、どこかで均衡が保たれている。誰かが崩れても、別の誰かが支えるだろうという無言の了解があった。


 サエルは腕を解き、ゆっくりと広場の中央へ歩み出る。


 「今日はここまでにしろ。形は悪くない。だが形だけでは足りん。互いの呼吸を覚えろ。槍は一人で振るうものではない」


 兵たちが一斉に応じる。ファビオが穂先を下ろし、ジョナスはまだ名残惜しそうに地面を蹴る。セアドは書板を閉じ、静かに息を吐いた。


 その光景を見ながら、アルスはふと、先ほどの海を思い出す。穏やかであることは、力がないことではない。力を使わずに済んでいるだけだ。


 空は高く、雲はゆっくりと流れている。訓練場にも、まだ崩れる兆しはない。ただ、それぞれの役目がそこにあり、当たり前のように回っているだけだった。


 訓練場を離れると、土煙の匂いはやがて薄れ、代わりに町の気配が近づいてきた。坂を下るにつれて、乾いた土の色は石畳の灰色へと変わり、家々の軒先から漂う匂いが風に乗ってくる。焼き上がったばかりのパンの甘い香り、煮込まれた豆の湯気、そして遠くから規則正しく響く鍛冶の槌音。いずれも強すぎず、だが確かにこの地が息づいていることを知らせていた。


 町は広くはない。大通りと呼べるほどの道は一本だけで、その両側に石と木を組み合わせた家屋が並ぶ。扉は開け放たれ、窓辺には布が干され、子どもたちが行き交う。賑わいというより、続いている生活の音だった。


 アルスは外套の前を軽く整え、歩みを緩めた。誰もが彼に気づくが、道の中央を空けて平伏する者はいない。軽く会釈をする者、手を止めて帽子を取る者、視線だけを向けてすぐ作業に戻る者。名を呼ぶ声はない。「若様」とさえ、ここではほとんど聞かれなかった。


 パン屋の前を通ると、店主の女が炉から板を引き出しているところだった。焦げ目のついた丸いパンが湯気を立てる。


 「焼き上がったばかりです。今日は粉の具合がよくて、膨らみも悪くありません」


 女はそう言いながら、値を告げるでもなく、ただ出来を報告する。アルスは一つ手に取り、重さを確かめた。


 「香りが違うね。水を替えたのかな」


 「ええ、井戸の深いほうを使いました。浅いほうは少し濁りが出て」


 「なら浅井戸は洗い物に回してね」


 女は大げさに頭を下げることもなく、「助かります」とだけ応じた。その声音は礼というより、隣人への応答に近い。アルスは代金を置き、パンを半分に割ってひとかけを口に運ぶ。温かさとともに、小麦の甘みが広がった。


 通りを進むと、鍛冶場の前で火花が散った。槌が鉄を打つたびに、乾いた音が腹に響く。若い鍛冶師が腕を振るい、その背後で年嵩の男が腕組みをして見守っている。


 「刃先が甘い」


 年嵩の男が短く言う。


 「焦るな。冷ます時間を惜しむな」


 アルスは足を止め、しばらくそのやり取りを眺めた。やがて若い鍛冶師が気づき、軽く会釈する。


 「農具の注文が増えています。春先はどうしても」


 「畑が動いている証だよ。鉄が足りないようなら、倉の在庫を回せると思うよ。前借りという形になるのかな。セアド兄に聞いてみて」


 「わかりました」


 命令口調にはならない。だが曖昧にもならない。線を引くときは引く。それ以上は踏み込まない。アルスはそれを意識しているわけではないが、自然とそうしていた。


 広場では、荷を下ろす商人と、それを数える若い役人の姿がある。声を張り上げる者はいないが、動きは滞らない。誰かが過度に威張ることもなく、誰かが過度に媚びることもない。その均衡は、意図して築いたというより、長い時間の中で固まったものだった。


 「今日はお一人で」


 不意に声がかかる。振り向けば、顔なじみの老人が杖をついて立っている。


 「兄上方は訓練場ですか」


 「うん。槍の音が、ここまで届きそうだった」


 老人は喉の奥で笑う。「あの音が聞こえるうちは、まだ安心できますな」


 アルスは小さくうなずく。「聞こえなくなったら、困るんだけどね」


 老人は返事をせず、ただ目を細めた。その沈黙は否定ではない。


 若造の考えを笑うでもなく、かといって持ち上げるでもない。ただ、聞いたというだけの距離だった。


 通りの端まで歩き、振り返る。石畳の上を人が行き交い、湯気が立ち、槌音が一定の間隔で鳴る。名を呼ばれなくとも、ここにいることは知られている。だがそれは、過剰な敬意ではなく、日々の積み重ねの中に埋もれた認識だ。


 港を見て、訓練場を見て、そして町を歩く。どこにも大きな波は立っていない。父が守り、兄が鍛え、弟が荒れ、もう一人が筆を取る。そのあいだを、アルスは静かに行き来する。


 統べるというより、測っているのだと、ふと思う。足りないもの、余っているもの、崩れそうな箇所。声を荒げずとも、目を配り続ければ、ひびは早く見つかる。


 パンの匂いがまだ鼻腔に残っている。鍛冶の音が背後で鳴る。町は今日も、いつもどおりに回っている。

 

 どこにもひびは見えなかった。


 町を抜け、館へ戻るころには、日差しはわずかに傾いていた。石段を上がると、外の匂いとは違う、乾いた木と煮出した薬草の香りが迎える。戦や商いの話が届く前の、家の奥の空気だった。


 裏手の小庭では、母エリーゼが腰を下ろし、膝の上に白布を広げている。その傍らで、妹アルビーナが糸巻きを抱え、器用に糸を送り出していた。春先の柔らかな光が二人の肩に落ち、布目を淡く浮かび上がらせている。


 「お帰りなさい、アルス」


 エリーゼは針を止めずに言った。その声音は静かだが、外で何を見てきたかを問う響きがある。


 「港も町も、いつもどおりでした。水面は光り、槌音が響いていて、パンの匂いがしている」


 「それは良いことね」


 母は微笑む。「穏やかであることは、当たり前ではないのだから」


 アルビーナが顔を上げる。「兄さま、穏やかって、そんなにないの?」


 無邪気な問いに、アルスは一瞬言葉を探す。庭の外では兵の足音がかすかに響き、遠くで扉が閉まる音がする。それでもここには、糸が擦れる音しかない。


 「無い、というより……守らなければすぐに崩れるものかな」


 エリーゼは小さくうなずいた。「そう。穏やかは奇跡よ。誰かが怒鳴らずに済み、誰かが泣かずに眠れる夜は、それだけで十分に得難い」


 その言葉は重くはない。だが、軽くもない。戦場を知る夫を持ち、幾人もの子を育ててきた女の実感だった。


 アルビーナは糸を引きながら、ふと笑う。


 「わたしは怒られないのが好き」


 「そうだな」


 アルスも笑う。


 「だからこそ、そうでなくなると、皆が慌てる」


 エリーゼは針を置き、娘の髪をそっと撫でた。


 「そんな日もいつか来るのかもね。でも今は、それでいいの」


 庭の空気は穏やかで、風は低い垣根を越えるときも音を立てない。外ではそれぞれが役目を果たしている。ここでは、ただ家族であることが許されている。


 アルスはその光景を胸に刻む。凪いだ海と同じだと思う。表面が静かであるあいだに、底の流れを見極めねばならない。


 穏やかは奇跡だ。


 だからこそ、それが崩れる瞬間は、誰よりもはっきりと分かるだろうと、彼はまだ知らずにいた。


 庭を辞し、廊下を渡るころ、空気がわずかに震えた。


 館の奥にまで届く、低く澄んだ音。町の中央に立つ鐘楼の鐘が、正午を告げている。


 一打、間を置いて、もう一打。重すぎもせず、軽すぎもしない響きが、屋根瓦を伝い、石壁を伝い、ゆっくりと広がっていく。庭の糸巻きの音も、遠い槌音も、そのあいだだけ息をひそめたように静まった。


 アルスは立ち止まり、耳を澄ます。


 この鐘は、火事や外敵を告げるときには打ち方が変わる。早く、鋭く、途切れなく。だが今は違う。規則正しく、日々を刻むだけの調子だ。町の者もそれを知っている。だから慌てる足音も、叫びも起きない。


 やがて最後の一打が消え、空気は何事もなかったかのように戻る。遠くで子どもの笑い声が上がり、鍛冶の槌が再び鉄を打つ。パン屋の戸が開く音もする。


 何も起きない。


 それが、この鐘の本来の役目だ。時を告げ、変わらぬことを知らせる。危急ではないと、皆に伝える。


 アルスはゆっくりと息を吐いた。胸の内で、かすかな違和が揺れる。音そのものではない。ただ、あまりに整いすぎた響きが、凪いだ海を思い出させただけだ。


 鐘はもう鳴らない。空は高く、雲は動いている。


 正午は過ぎた。


 それでも、どこかで次の音を待っている自分に、彼は気づいていた。




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