幕間20 酒場の親父の悩み事
大陸歴一四〇七年七月二十三日
夕暮れが近づく頃になると、ディートリヒは決まって忙しくなる。
酒場という商売は、朝よりも夜の方が遥かに忙しい。
昼間のうちに仕込みを終え、樽を確かめ、足りない物を補充し、客を迎える準備を整えなければならない。日が沈み始める頃になって慌てたところでどうにもならない以上、この時間帯は自然と手を動かすことになる。
ここバウムゼンは商業都市として見れば決して大きな街ではない。
それでも周辺の村々や街道を行き交う商人たちが集まる土地であり、人が集まれば当然酒も飲まれる。
酒場の数もそれなりに多く、競争相手に困るような土地ではなかった。
もっとも、元々ディートリヒは競争などするつもりで店を始めたわけではない。
傭兵稼業から足を洗った後、それなりに貯め込んだ金を使い、老後の暇潰し程度に始めた商売だった。
危険な橋なら嫌というほど渡ってきたし、命のやり取りも数え切れないほど経験した。だからこそ、残りの人生くらいはのんびり生きるのも悪くないと思ったのである。
幸い、食わせなければならない家族がいるわけでもないから、大儲けする必要もなければ、毎日必死になって働かなければ食えないという立場でもなかった。
――少なくとも、少し前までは。
店の裏手に積まれた酒樽を見ながら、ディートリヒは小さく鼻を鳴らした。
四ヶ月ほど前、アルスという坊主が現れた。正確には、命の恩人の息子だ。
あの時、自分は格好をつけた。
命の借りは返す。
そう言って、出来る限りの金をかき集めて渡した。別に後悔はしていない。戦場で受けた恩など、金で返せるような軽いものではない。
あの時の自分に出来ることが金を用意することだったから、そうしただけの話だ。だが、だからといって渡した額が小さかったわけでもない。
あれは間違いなく、ディートリヒなりに相当無理をした金額だった。
即座に首が回らなくなるほど馬鹿な真似はしていないが、それでも以前のように昼寝をしながら気ままに店を回していられるほどの余裕は消えている。
要するに、少し真面目に働かなければならなくなったということだ。そして、その状況へさらに追い打ちを掛けている原因があった。
店の奥から聞こえてくる声に、ディートリヒは顔をしかめる。
「ディーの旦那。今日の飯はなんだ」
「酒をもう少しつけてくれると有難いんだが」
「旦那ー。暇だぞ。仕事は無いのか」
「確かにただ飯は有難いが、体が鈍るな」
好き勝手なことを言う声が次々と飛んでくる。ディートリヒはゆっくり振り返った。
そこには、今のところ何の役にも立っていない男たちがいた。
いや、正確には役に立たせる予定の男たちである。
ただし現状では、飯を食い、酒を飲み、寝床を占領し、時々騒ぐ以外のことはあまりしていない。
もちろん彼らを抱え込んでいるのは、ディートリヒ自身の意思なのだから文句を言う筋合いはない。
ないのだが――。
「お前らなぁ……」
思わず漏れた声には、呆れが半分、諦めが半分混じっていた。
こいつらの飯代、酒代、寝床代。
それが思っていた以上に馬鹿にならないのである。
前ならこの程度で苦労することも無かったのだろうが、今は手持ちが厳しい。
冷静になって考えれば、我ながら随分と無茶をしたものだと思う。所詮は三日で掻き集めた金だから、それで全財産が吹き飛んだわけではない。
本当にその気になれば、まだ金を作る方法など幾らでもある。長年酒代をツケにしたまま知らん顔をしている連中から取り立ててもいい。金貸しの真似事で貸している金を引き上げてもいい。あるいは、少し揺さぶれば慌てて財布を開く程度の“内緒話”を抱えている旦那衆だって何人か掴んでいる。
俺だって、表の綺麗な道ばかり歩いてきた人生ではない。金を作る方法など、探せばまだ幾らでも出てくる。
傭兵なんぞを長く続けていれば、嫌でも裏の連中と関わることになるし、戦場の外で生き残るためには、剣以外の手札だって覚えなければならない。
だから結局のところ、金というのはネタ次第だ。
困っている人間から借金を回収することも出来るし、困らせたくない人間を少しだけ困らせることも出来る。やろうと思えば、今よりずっと派手に金を集めることだって難しくはない。
だが、だからといって今更そちらへ戻る気もなかった。
折角、血と泥に塗れた暮らしから足を洗ったのである。裏路地で睨み合いをしながら金を引っ張るより、酒を注ぎながら客の愚痴を聞いている方が遥かに気楽だった。
もちろん、酒場の親父という商売も楽なことばかりではない。客の機嫌を取らなければならないし、仕入れの算段も必要になる。同じ街には他にも酒場が幾つもあり、放っておいても客が集まるような簡単な物でもない。
だが、それでも今の暮らしは嫌いではなかった。だからこそ、出来る限り真っ当に稼ごうと思っている。
ディートリヒは店の奥へ、再び視線を向けた。そして、そこにいる連中を見て小さく溜息を吐く。
追い出すことはできるのだが、そういう話ではない。働かせれば十分役に立つ連中ばかりだからだ。
むしろ役に立つからこそ始末が悪い。こいつらはただの居候ではなかった。
アルスのために、ディートリヒ自身が集めていた人材なのである。
前回、坊主たちがバウムゼンへ戻って来た時には、慌てて何人かを送り出したものの、少なくともディートリヒ自身からすると、急なので有り合わせで誤魔化したくらいに思っている。
命の借りというものは、金を渡して終わりに出来るほど軽いものではない。
四ヶ月前だって、出来ることが金しかなかったから金を渡しただけであり、本当に借りを返すというのであれば、必要な時に必要な物を差し出せなければ意味がないと考えていた。
だからこそ街の情報を拾い、人材を探し、次に坊主たちが必要としそうな連中へ前もって声を掛けていたのである。
今、店の奥で飯を食っている連中も、その成果と言えば成果だった。次に坊主たちが顔を出した時には、今度こそ必要なものを渡せる。
そう思って準備を続けていたのだ。
なのに――来ない。
前に顔を出してから、気付けば三ヶ月近くが過ぎようとしていた。
最初の一ヶ月は特に気にもならなかった。
話を聞く限り、あの拠点までは往復するだけでも相応の日数が掛かるらしく、前回も買い出しのために戻って来たのだとすれば、しばらく顔を見せない方がむしろ自然だったからだ。
月の半分近くを移動に費やすような真似を何度も繰り返していては、せっかく拠点を作った意味がない。だから多めに物資を抱えて帰り、腰を据えて動いているのだろうと考えれば、それで十分納得出来た。
二ヶ月目に入ってからも、その考えは変わらなかった。
何事であれ立ち上げというものは忙しい。酒場一つ始めるだけでもやることは山ほどあったのだから、人を集め、住む場所を整え、食い扶持まで確保しなければならない連中が、そう簡単に街へ降りて来られるはずもない。
恐らくは毎日が目の回るような忙しさなのだろうし、だからこそ買い出しの回数を減らせるよう、前回はあれだけの荷を抱えて帰っていったのだろうとも思っていた。
だが、三ヶ月目ともなると話が変わってくる。
もちろん、それだけで何かあったと決めつけるつもりはない。便りが無いのは元気な証拠だ、などという言葉も世の中にはある。
なるほど、確かにそういう場合もあるのだろう。
忙しく働き、慌ただしく日々を過ごしていれば、わざわざ近況を伝えに来る余裕など無いのかもしれない。
だが、その言葉を思い出すたびに、別の考えも頭を過ぎる。死んでしまえば、便りなど出せないではないか。
どこの世界に「俺は死にました」と律儀に知らせてくる人間がいるというのだろう。
理屈では分かっている。分かってはいるのだが、顔を見ない時間が長くなればなるほど、人間というのは余計なことまで考えるようになるらしい。
大丈夫だろうと思う気持ちと、本当に大丈夫なのかという気持ちが、どうにも頭の中で居座り続けていた。
ディートリヒは腕を組みながら、店の奥で騒いでいる連中へ視線を向けた。
集めた以上、役に立たせるつもりでいる。だからこそ、このまま遊ばせておくのも本意ではなかった。
実際のところ、あの坊主たちが今どんな状況に置かれているのかは分からないが、拠点を立ち上げたばかりである以上、人手など幾らあっても困らないだろうという気持ちはある。
ならばいっそ、自分がこいつらを引き連れて現地まで行ってしまうべきなのではないか。
そんな考えが頭を過ぎる。
安否も確認出来るし、人材も届けられる。ついでに多少の物資でも持たせれば、それなりに役には立つだろう。
考えれば考えるほど悪くない案に思えたし、何よりこのまま店で飯を食わせ続けるより遥かに建設的だった。
連中には働き口が出来る。坊主たちは助かる。そして自分も少しは安心出来るのだから、誰も損をしない話のように思えた。
だが、そこまで考えたところで、ディートリヒは眉を顰めた。
待て。
それで本当に良いのか。
もし自分が大勢の人間を引き連れ、物資まで抱えて現れたらどうなる。
恐らくアルスは礼を言うだろう。あの坊主はそういう性格だ。
だが、それを周囲の連中がどう見るのかは別の話だった。
これまで自分が会ったのはティムとゼダン、それにアルスくらいのものであり、拠点の全員を知っているわけではない。
そんな場所へ自分が大人数を率いて乗り込み、「人も連れて来たぞ」「物資も持って来たぞ」とやってしまえば、意図せずとも恩を売りに行ったような形になる可能性がある。
もちろん、そんなつもりは毛頭ない。
だが、世の中というのは本人の意図だけで決まるものでもなかった。
下手をすれば、坊主の顔を潰すことにだってなりかねない。
それは違う。
命の借りを返したいのであって、足を引っ張りたいわけではない。そう考えると、自分で行く案は急に怪しく見えてくる。
では、人だけ送り込めば良いのだろうか。
一瞬そうも考えたが、その案は浮かんだ直後に消えた。
無理である。
店の奥にいる連中を見れば分かる。
腕は立つし経験もある。
だが、放り出した先で勝手にまとまるような連中では決してない。
それ以前に坊主のところに着くまでの行程で、言い争いを起こし、到着どころか途中で崩れ散開する未来が、容易に想像出来る。
少なくとも、黙って隊列を組み現地へ向かい、何事もなく到着し、その日から大人しく働き始める姿など思い浮かばなかった。
それなら結局、自分が付いて行くしかなくなる。だが、自分が付いて行けば先ほどの問題が戻ってくる。
行けば邪魔になるかもしれない。
行かなければ人を送れない。
人だけ送れば勝手に問題を起こしそうであり、だからといって抱え続ければ飯代が飛んでいく。
どこまで考えても綺麗に収まる形が見つからず、堂々巡りを繰り返すしかなかった。
もっとも、それは自分の場合の話である。
ふと、アルスの顔が頭に浮かんだ。あの坊主なら、案外どうにかしてしまうのかもしれない。
実際、前に見た限りでも、あれだけ癖の強い連中が不思議と一つにまとまっていた。
ティムなど放っておけば好き勝手に動く男だし、ゼダンとかいう武人も人の下で大人しくしているような人間には見えなかった。
それなのに、気付けば皆あの坊主を中心に動いている。
昔から仕えている家臣たちが上手く支えているのかもしれない。あるいは自分の知らない何かがあるのかもしれない。
正直なところ、理由はよく分からなかった。
自分が知っている連中だけを見ても、素直に人の下へ収まるような顔触れではない。
それでも纏まっているのだから、あの坊主には何かあるのだろう。
少なくとも、前に送り出したリッキーが「揉めた」と戻って来ていない以上、上手くやっていると考えるべきなのだろう。
だからこそ余計に困る。
上手くやっているのなら安心したい。だが、顔を見ていないから安心しきれない。
なら会いに行くべきかと思えば、それも違う気がする。
結局のところ、なんど考え直しても、やはり堂々巡りなのである。
ディートリヒは深々と椅子へ背を預ける。
どう考えても、あの坊主が一度顔を出してくれれば話は早いのである。
必要な人材を聞き、必要な物を聞き、それに合わせて準備すれば済む。
だが、その肝心の坊主が来ない。
だからこうして一人で勝手に悩む羽目になっている。
考えてみれば、随分と馬鹿らしい話だった。
相手が何を欲しているのか分からないまま、それを渡そうとして頭を抱えているのだから。
気付けば、放っておけない関係の相手に成ってしまったと思っている。
ディートリヒは大きく息を吐くと、再び店の奥へ視線を向けた。
そして改めて思う。
誰か居ないものだろうか。
こいつらを連れて行かせても問題を起こさせず、なおかつ現地へ辿り着くまで面倒を見られるような奴が。
そんな都合の良い人間が。
「ディーの旦那。どうした。飯まだか」
「先に酒だけでも貰えまいか」
「暇だー」
「裏で槍を振っていても良いだろうか……」
店の奥から飛んでくる声に、ディートリヒは眉をひそめた。周囲に気を遣える連中ではないと分かってはいる。
だが、人が真面目に悩んでいる時くらい、少しは空気を読めないものだろうか。
もっとも、何も言わず大人しく待っている連中もいるので、一括りにするのは流石に気の毒かもしれない。
とはいえ、好き勝手なことばかり言われれば愚痴の一つも出る。
どうしたものか――。
「そう言えば、ディーの旦那」
「あん?」
「耳に入ってるか。なんか変な男が街に来てるらしいぞ」
ディートリヒは呆れたように鼻を鳴らした。
「変な男なら今、俺の目の前にも何人かいるがな」
「酷い言い草だな」
「事実だろうが」
周囲から不満そうな声が上がるが、ディートリヒは意に介さない。
すると最初に話を振った男が身を乗り出した。
「いや、そいつは少し種類が違う」
「ほう」
「子どもらが『歌う兄ちゃん』なんて呼んでるそうだ」
「歌う兄ちゃん?」
「朝っぱらから路地で妙な節をうなってるらしい。雨が降れば裸足で踊り出すとか何とか」
「壊れてるだけじゃねえか」
「俺もそう思ったんだがな」
男は苦笑しながら肩を竦めた。
「ところがそうでもないらしい。路地の真ん中で寝転がって通せんぼしてたら、破落戸が腹を立てて蹴飛ばそうとしたそうなんだ」
「それで?」
「気付いたら破落戸の方がひっくり返ってたらしい」
「酔っ払ってたんじゃないのか」
「どうも違うらしいぜ。その場にいた奴は『あれは素人の身のこなしじゃねえ』とか言ってたそうだ」
「言ってたそうだ、ばかりだな」
「仕方ねえだろ。俺も見たわけじゃねえ」
酒場の中に小さな笑いが広がる。
ディートリヒも苦笑を浮かべながら続きを促した。
「それで、その変人がどうした」
「子どもには妙に好かれてるらしい。ガキに手を上げる奴がいると黙って見てねえとか何とか」
「歌って踊って喧嘩も強いのか」
「そういう話になるな」
「ますます訳が分からん」
「だから変人なんだろ」
その言葉に周囲から再び笑い声が上がった。
ディートリヒも釣られるように笑ったが、頭の片隅では別のことを考えていた。
街には様々な人間が流れてくる。腕利きを名乗る流れ者もいれば、過去の栄光ばかり語る酔っ払いもいる。
その手の話を聞きつけて見に行ったところで、大抵は期待外れに終わる。
酒代をせびりたいだけの人間も居れば、自分を大きく見せたいだけの人間も居る。
だから、わざわざ足を運んだ結果、後悔したことなど一度や二度ではない。
だが、ごく稀に本物が混じる。
それも、常識では測れないような連中が。
だから変人だという話だけなら、むしろ珍しくもなかった。
問題は、その変人がただ壊れているだけなのか、それとも何かを持っている側なのかである。
少なくとも、腕が立つだけでなく、子どもには妙に好かれてるという話が、どうにも頭に残る。
誰か居ないものだろうか――。
そう考えていた矢先に聞こえてきた話でもあった。偶然にしては出来過ぎている気もする。
だが、こいつらの子守もできる人材かもしれんと、勝手に期待をしてしまってる自分もいる。
まあ、大抵は外れなのだが。
「旦那なら何か知ってるかと思ったんだがな」
「知らんな」
ディートリヒは椅子から腰を上げながら答えた。
「だが、少し興味は湧いた」
「見に行くのか?」
「明日にでもな」
そう言うと、店の奥にいる連中を改めて見回す。飯を食い、酒を飲み、暇だと騒ぎ、働きたがっている連中。
そして、自分はそんな連中をどう扱うべきか頭を抱えている。
もし本当に面白い人材なら、それはそれで悪くない。
どうせ明日も悩むのだ。
なら一つくらい確認することが増えても変わらないだろう。
金にも成らない連中の騒ぐ声を聞きながら、ディートリヒは小さく肩を竦める。
明日は少しばかり面白いものが見られるかもしれない。
そんな予感だけを胸に抱きながら、夜の支度へ戻っていった。
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