幕間19 逗留
大陸歴一四〇七年七月十三日
ミュラー領を脱してから、既に四ヶ月が過ぎていた。
ジョナスたちはローデンの漁師たちの船へ分乗し、北西の海に浮かぶ小島へと辿り着いた。
紅鮭団。
そう名乗る海の民たちが暮らす島である。
小島とは呼ばれているものの、実際に暮らしてみれば百名や二百名程度では到底使い切れぬほどの広さを持っており、周囲を海に囲まれていることを除けば、思っていたほど窮屈な土地でもなかった。
ローデンから逃れてきた漁師たちも次第に島へ馴染み、今では元から暮らしていた島民たちと共に船を出し、魚を獲り、網を繕いながら日々を送っている。
少なくともヨシュアが想像していたような、明日の食にも困る逃亡生活とは程遠い。
もっとも、それはジョナスに限って言えば、少々当てはまらぬ話でもあった。
視線の先では、一艘の小舟が浜へ向かって戻ってきている。
船首には見慣れた少年の姿があった。
兄サエルの末子にして、ミュラー家嫡流の血を引くジョナス=ミュラーである。
ただし、その姿は領主家の子息と言うより、どこぞの漁師の倅と呼んだ方が余程しっくり来た。
日に焼けた上半身を惜しげもなく晒し、片手には銛、もう片方には大ぶりな魚を提げている。
四ヶ月前、ローデンの港で別れた時に、このような姿になると予想出来た者が果たして居ただろうか。
少なくともヨシュアには無理だった。
小舟が浜へ乗り上げる。
するとジョナスは魚を肩へ担ぎ、そのまま砂浜を駆け上がってきた。
「おう、叔父上!」
その声には不安も陰りも無い。
ミュラー家が滅び、家族とも離れ離れになった子供とは思えぬほど、元気そのものであった。
「見ろ! 今日はこれを獲ったぞ!」
そう言って突き出された魚は確かに見事な大きさだった。
ヨシュアは魚を見て、次にジョナスを見る。そしてもう一度魚を見た。
「……そうか」
「何だその反応は」
「いや、お前は楽しそうだなと思ってな」
「当然だ」
ジョナスは即答した。
「海は面白いぞ。船も面白いし、魚も旨い。それに覚えることが沢山ある」
そう言いながら魚を持ち上げる。
「これも横を泳いでいたから刺した」
まるで道端の木の実でも拾ってきたかのような口調だった。
「ほう」
その時、背後から声が掛かった。
「揺れる船の上から、それを刺しよったか」
振り返るまでもなく分かる。声を掛けたのは紅鯨団二頭領の一人タカ=サーンだった。
肩辺りまで伸ばした髪を揺らしながら歩いてきた男は、魚を見るなり目を細める。
「そいつは旨い魚ですな。ただ泳ぐのが速うてな、うちの若い衆でもなかなか銛では仕留められん奴ですわ」
「そうなのか?」
「いやいや本当に飲み込みが早い。二月で潮を読み、四月で船を操るようになるとは思いませんでしたわ」
タカは感心したように頷く。
その様子を見ながらヨシュアは小さく頭を下げた。
「これもタカ殿、ノリ殿のご指導の賜物。兄に成り代わり礼を申し上げる」
「硬い、硬い」
タカは笑いながら手を振る。
「何しろ儂にとっても大事な婿殿だからな。立派に育ってくれるに越したことはない」
その言葉にヨシュアの表情が僅かに引き攣る。
四ヶ月経った今でも、その呼び方には慣れなかった。
「あ、いや、その話は以前にも申し上げた通りでしてな。最終的には兄の了承を得ねば――」
「そうでっか」
タカは実に楽しそうに頷く。
「こっちも前に言った通りで。娘の顔に傷を付けておいて、知らん存ぜぬでは困りますなあ」
「だからあれは――」
「お父!」
元気な声が飛んだ。
同時に一人の少女が駆け寄り、ジョナスの腕へ抱き付く。
タカの娘であり、そしてヨシュアの胃痛の元凶でもあった。
「見た!? また魚獲った!」
「ああ」
「凄いやろ!」
「俺が獲ったんだぞ」
「でも私が教えた!」
「銛の投げ方は俺の方が上だ」
「何て!」
早速言い争いを始める二人を見ながら、ヨシュアは静かに天を仰ぐ。
どうしてこうなった。
四ヶ月前の自分に教えてやりたい。
お前はこれから必死に亡命先を探し、当主の血を守ろうと奔走し、そして気付けば頭領の娘との婚姻話に巻き込まれるのだと。
胃が痛い。実に胃が痛い。
「父上」
後ろから声が掛かった。
振り返ればコンラートとユリアンが立っている。
どちらも何とも言えぬ顔をしていた。
「どうした」
「いえ」
コンラートが遠い目をした。
「ジョナスは本当に領主家の御子なのでしょうか」
「……私も最近は自信が無くなってきた」
思わず本音が漏れる。
すると今度はユリアンが口を開いた。
「父上」
「何だ」
「私も胃が痛いです」
「奇遇だな。私もだ」
「原因は同じでしょうか」
「恐らくな」
三人は揃ってジョナスを見る。
当の本人は魚を掲げながら笑っていた。
隣では娘も笑っている。
タカも笑っている。
どうやらこの島で胃を痛めているのは、自分たち三人だけらしかった。
ヨシュアは深く息を吐く。
そして自然と、全ての始まりであった四ヶ月前のことを思い返していた。
あの日、自分は確かにジョナスを守ろうとしていたはずなのだが――。
大陸歴一四〇七年三月十日
紅鮭団の島へ到着した日は、既に日が傾いていたこともあり、一行は漁師たちの世話で空いていた小屋を借り、そのまま一夜を明かした。
そして翌朝、島の頭領が会うと言っているとのことで、ヨシュアたちは島の中央へと案内されていた。
先導する島民の背を追いながら、ヨシュアは周囲へ視線を向ける。
この島は、ローデンを発つ際に漁師から聞いていた通りの土地だった。
木も葉も少なく、地面も豊かな土というより岩肌の目立つ痩せた土地が多く、遠目には緑よりも灰色の方が目立つほどである。
水も無い訳ではないのだが飲んでみると、どこか塩気が混じっているような感覚があり、ローデンで飲んでいた水と比べれば明らかに質が落ちる。
これで百人近い人間が暮らしているというのだから不思議な話だった。
もっとも、不思議なのはそれだけではない。
島を歩く中で、ヨシュアには一つ気になることがあった。
海岸には大小様々な船が並び、漁船だけではない大きさのものも幾つか見受けられる。
だが、その数を維持できるほど島に木があるようには見えない。
船は放っておけば傷むし板も縄も帆も、定期的な補修が必要になる。
にもかかわらず、この島にはその材料となる木材が圧倒的に足りていないように思えた。
何らかの方法で外から運び込んでいるのだろうが、その辺りはまだ分からない。
分からないことは多い。
そもそも、この島が誰の領地なのかすらヨシュアは把握していなかった。
漁師の話では、紅鮭団と呼ばれる海の民たちが暮らしているとのことだったが、それ以上のことは聞いていない。
聞いていないというより、聞く余裕が無かったと言うべきだろう。
あの時は、とにかくジョナスだけでも安全な場所へ送り届けることで精一杯だった。
だからこそ、今日の会談は絶対に失敗出来なかった。
この際、自分がどうなろうと構わないし、コンラートやユリアンの身すら後回しにせねばならぬかもしれない。
だが兄サエルの血を引くジョナスだけは守らねばならなかった。
ミュラー家が再び立ち上がる日が来るのなら、その時に必要となるのは間違いなく兄の血統である。
旗印とは、それだけ重い。
だからこそ、何としてでもこの島に匿ってもらわねばならない。
たとえ頭を地面へ擦り付けることになろうともだ。
そんなことを考えているうちに、一行は島の中央に建つ館へと辿り着いていた。
館と言っても、ミュラー家の屋敷と比べれば遥かに小さい。
しかし小島の建物として考えれば十分に立派なものであり、実際、この島においては最も大きな建物なのだろう。
案内されたのは庭に面した一室だった。
もっとも庭と言っても、花や木が少し植えられている程度であり、広場と呼んだ方が近いかもしれない。
ヨシュアたちは部屋へ通される。
呼ばれたのはヨシュア、ジョナス、コンラート、ユリアンの四名だけだった。
兵たちは館の外で待機となるらしい。
座るよう促され、四人は腰を下ろす。
すると隣でジョナスがきょろきょろと辺りを見回し始めた。
落ち着きが無いのは、いつものことなのだが。
ヨシュアは小さく息を吐く。
「ジョナスよ」
「なんだ叔父上」
「何があっても、お前だけは生き延びねばならぬ」
「知ってるぞ」
意外にも素直な返事だった。
しかし、その直後に続いた言葉で全てが台無しになる。
「心配するな。俺とて“わきまえる”というのは知ってる」
「そうか」
「いざとなったら殴って言うことを聞かせれば良い」
「何も分かっていない……」
ヨシュアは思わず額を押さえる。
隣ではコンラートが静かに目を閉じていた。
ユリアンは既に諦めたような顔をしている。
「父上」
コンラートが小声で言う。
「何だ」
「私も同じことを申し上げようとしておりました」
「そうか」
「ですが、恐らく無駄かと」
「私もそう思う」
ユリアンまで頷いた。
どうやら息子たちも同じ結論へ辿り着いていたらしい。
暫くすると、部屋の奥から複数の足音が聞こえてくる。
会談の相手が来たのだろう。ヨシュアは姿勢を正す。
ジョナスだけは興味津々といった顔で入口へ視線を向けていた。
やがて引き戸が開くと最初に現れたのは、肩辺りまで伸びた髪を揺らす大柄な男だった。
よく日に焼けた顔には笑みが浮かんでいる。
だがその笑みは、どこか悪戯を思いついた子供のようにも見えた。
その隣には、対照的に骨ばった身体の男がいる。
こちらも日に焼けているが、表情は真面目そのものだった。
さらに二人の後ろには、一人の少女が控えている。
年齢はジョナスより幾つか上だろうか。少女は無言のまま、二人の後ろへ座った。
そして最初の男が口を開く。
「よう来られたな。儂が紅鮭団の頭領が一人、タカ=サーンだ」
続けて隣の男が言う。
「ノリ=サーンだ。タカの従弟になる。二人で紅鮭団の頭領を務めておる」
そうして二人は、ヨシュアたちの正面へどかりと腰を下ろした。
ここからが本番だった。
正面へ腰を下ろした二人の頭領を前に、ヨシュアは一度だけ呼吸を整えた。
ここで失敗する訳にはいかない。
兄サエルから直接託された訳ではない。だが今この場において、兄の血を守る責任が自らの肩へ掛かっていることだけは間違いなかった。
ならば何としても、この会談を纏めねばならない。
「お初にお目に掛かる。私はヨシュア=ミュラー。南東の地を治めるミュラー家当主、サエル=ミュラーの弟にございます」
そう名乗り、軽く頭を下げる。
「こちらは兄の五男、ジョナス=ミュラー。そして我が息子のコンラートとユリアンです」
三人もそれぞれ会釈を返した。
ジョナスだけは相変わらず部屋の様子が気になるらしく、庭や天井へと視線を向けていたが、今のところ余計なことを口にしていないだけ良しとするべきだろう。
「故あって領地を離れ、領民たる漁師たちの船に助けられながら、この島へ辿り着きました。突然の訪問となりましたこと、お詫び申し上げます」
そこまで聞くと、タカは「そうでっか」と頷いた。
隣のノリもまた黙って頷く。
ひとまず話は伝わったらしい。
そう思った矢先だった。
「それで?」
タカが不思議そうに首を傾げた。
「それで、と申されますと」
「いやな。ミュラー家で、ヨシュア殿で、ジョナス殿なんは分かりましたわ。それで今日は何の用で?」
ヨシュアは一瞬だけ言葉に詰まった。
その横ではノリも当然のような顔をしている。
そこでようやく気付いた。
ここはミュラー領ではなく、海の上に浮かぶ孤島である。
ミュラー家という名を出せば話が早いと思っていたのは、どうやら自分だけだったらしい。
相手にとっては、だから何だという話なのだ。
考えてみれば当たり前である。
当たり前のことなのだが、家を失って初めて気付く辺り、我ながら情けない。
「失礼した」
ヨシュアはすぐに頭を下げた。
「我らは暫く、この島へ逗留させて頂きたく参った次第です」
「ほう」
タカが目を細める。
すると今度はノリが口を開いた。
「何故だ」
「……何故、とは」
「何故、我らがお主らを置かねばならぬ」
至極当然の問いだった。
相手からすれば、突然見知らぬ人間が島へ現れ、住まわせてくれと言っているだけである。
断られて当然。そう思えば思うほど、返す言葉が難しくなる。
だが、それでも言わねばならない。
「我らは行く当てを失いました」
ヨシュアは正面から二人を見据える。
「ミュラー家は突然の侵攻を受けた。恐らく今頃、領地も失われていることでしょう」
タカもノリも黙って聞いている。
「家は離散しました。今どこに誰が居るのかも分かりませぬ」
そこで一度言葉を切り隣へ視線を向けると、ジョナスは庭に来ていた鳥を見ていた。
頼むから今だけは静かにしていてくれ。
ヨシュアは心の底からそう願った。
「ですが、この子だけは守らねばならぬ」
そう言ってジョナスの肩へ手を置く。
「ジョナスは当主たる兄の血を引く者。いずれミュラー家を再興する時が来るならば、その旗印となり得る存在です」
深く頭を下げる。
「我らはどうなっても構わぬ。どうか、この子だけでも匿って頂きたい」
後ろではコンラートとユリアンも父に倣い頭を下げていた。
しばらく沈黙が流れると、やがて最初に口を開いたのはノリだった。
「それなら、最初からそう言われれば良かった」
ヨシュアは顔を上げる。
しかし次の言葉で、その期待は打ち砕かれた。
「落ちぶれた家の者としてな」
声は冷たい物だった。
「ミュラー家がどうした、領主家がどうしたと持ち出されても、我らには関係の無い話だ」
ノリは一切表情を変えない。
「そもそも、ここへ連れてきた漁師たちから話は聞いておる」
ヨシュアの背筋が僅かに強張る。
「アルスとかいう若様の身内だと聞き、あやつらが世話を焼いたこともな」
それは事実だった。
ローデンの港で船を出してくれたのも、島まで運んでくれたのも、全てはアルスが領民たちと築いていた縁のお陰である。
ヨシュア自身、それを否定するつもりはなかった。
「だが、それは漁師たちが勝手に決めたことだ」
ノリは続ける。
「アルスという若様が慕われていたのであれば、それはそいつ自身が積み上げたものだろう」
そこで初めてノリの目が真っ直ぐヨシュアを見た。
「だが、その縁をそのまま我らへ持ち込まれても困る」
言葉は重くその場に落ちた。
「アルスの若様の身内だから助けろ。ミュラー家だから匿え。そんな話であれば聞く価値は無い」
「あいや、我らは決してそのような――」
「違うと言うか」
ノリは即座に遮った。
「ならば何故、最初にミュラー家を名乗った」
返す言葉が出なかった。
言われてみればその通りの話で、自分は無意識の内にミュラー家という看板を差し出していた。
相手がそれを知っていることを前提に。
そして、その名に価値があることを前提に。
「我らはお主らの家臣ではない」
ノリの言葉が続く。
「アルスという若者との縁も、ミュラー家という家への恩も、儂らには無い」
そして小さく鼻を鳴らした。
「潰えた誇りに縋り、他人の築いた縁まで当てにするのであれば、その話を聞く価値は無い」
痛烈だったが反論は出来ない。
少なくとも今の自分が、そのように見えていたことだけは事実だった。
だからこそヨシュアは即座に頭を下げる。
「あいや、全くその通りだ。これは私の落ち度である」
畳へ額が付くほど深く頭を下げる。
「不快な思いをさせたのであれば謝罪する。責めは私一人へ向けて頂きたい」
だがノリは首を縦に振らなかった。
「口では何とでも言える」
短い一言だった。
「最初に出た言葉にこそ、本音というものは見える」
そう言うと、ノリは立ち上がった。
「我らには関わりの無い話だ。この件はここまでとしよう」
「待たれよ!」
ヨシュアが慌てて声を上げたのだがノリは振り返らない。
その背へ向かって、今度はタカが声を掛けた。
「まあまあ、ノリ。一度落ち着け」
相変わらず笑っている。
だが、その目だけは少しだけ真剣だった。
「ヨシュア殿も非を認めておる。受け入れるかどうかは別として、話くらい聞いても良いだろう」
「タカは甘い」
ノリは不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「得体の知れぬ者を置けば、迷惑を被るのは我らだ」
「だから置くとは言うておらんだろう。話を聞くだけだ」
「ならば好きにしろ」
ノリは肩を竦めた。
「儂は知らん」
そう言い残し、本当に部屋を出て行ってしまう。
残されたのはタカと、その後ろへ座る娘だけだった。
ヨシュアは小さく息を吐く。
助かったのか、それともまだ何も始まっていないのか。
そのどちらかは分からない。
ただ一つ分かるのは、ここから先は目の前で笑っている男との話になるということだった。
ノリが部屋を出て行った後も、しばらくの間室内には妙な静けさが残っていた。
先程までのやり取りで話が終わった訳ではない。
むしろこれからなのだろう。
ただ、あれほど真正面から拒絶されると、次に何を言うべきかすら分からなくなる。
ヨシュアは一度だけ呼吸を整えると、改めて正面へ向き直った。
「タカ殿。どうかお願い申し上げる」
するとタカは相変わらず人の良さそうな笑みを浮かべたまま、何度も頷いてみせる。
「そうでっか、そうでっか」
その口調は柔らかいものだが、その柔らかさに安心出来るほどヨシュアも愚かではなかった。
少なくとも、先程までのやり取りを見れば分かる。
この男もまた、ただ笑っているだけの人間ではない。
「ノリの言うことも分かるんですわ」
「……はい」
「別に儂も、あんたらが嫌いな訳ではない」
そう言いながらも、タカの目はずっとヨシュアを見ていた。
笑顔のまま相手を観察しているような、どこか底の見えない視線だった。
「けどな」
そこでタカは肩を竦める。
「置いとく理由も無いんですわ」
実に単純な言葉だったが、しかしそれこそが全てだった。
もし怒鳴られたのであれば頭を下げれば良いし、侮辱されたのであれば耐えれば良い。
だが、ただ事実を言われると反論のしようが無かった。
この島は紅鮭団の島であり、ミュラー家の領地ではない。
彼らは家臣でも領民でもなく、こちらへ従う義務も無いのだから、助けて当然などとは言えないし言ってはならない。
理解している。理解しているのだが、それでも引き下がる訳にはいかなかった。
「我が家が再興を果たした暁には、必ず礼を――」
そう言いかけたところで、タカが「ああ」と声を漏らした。
「そうでっか」
そして指を一本立てる。
「して、それはいつで?」
「それは……」
「何年後で?」
問いが続く。
「五年後でっか?十年後でっか?」
「……」
「いくら払ってくれるんで?」
「……」
「それとも来年には兄上殿が軍勢率いて帰って来るんで?」
ヨシュアは言葉を失った。答えられるはずがなかった。
そもそも明日を生きられるかすら分からない。
兄が生きているのかも分からない。
領地がどうなっているのかも分からない。
家族がどこに散ったのかさえ分からないのだ。
その状況で再興の時期など語れる訳が無かった。
「いや、その……」
「そうでっか」
タカはまた頷く。
しかし今度は笑っていなかった。
「儂も別に意地悪を言いたい訳やないんですわ」
そう言うと、自らの膝を軽く叩いた。
「けどな、儂ら海の民は、分からんもんを当てには出来んのです」
その言葉に嘘は感じられなかった。
島にあるものは限られている。食料も、水も、人手も陸の領主のように豊かな蓄えがある訳ではない。
見知らぬ者を抱え込むということは、それだけ島の負担を増やすということだ。
だからこそ、ヨシュアもまた苦しくなる。
理屈は理解出来る。だからこそ、説得の言葉が見つからない。
「何卒――」
それでも頭を下げようとした時だった。
タカがふとジョナスへ視線を向ける。
「それでな」
細い目が面白そうに笑う。
「そのガキを置いておくと、儂らに何の得があるんで?」
ヨシュアは言葉に詰まった。
得。
そう言われてしまえば、今すぐ差し出せるものなど何も無い。あるのは家名と、いつ果たせるかも分からない約束だけである。
だから返答に窮した。
だが、その沈黙を破った者が居た。
「あるぞ」
静寂を破ったのはジョナスだった。
ヨシュアは嫌な予感を覚えた。
それも、かなり強い類のものである。そして経験上、その手の予感というものは大抵外れない。
ゆっくりと甥へ視線を向けると、当の本人は何の迷いも無く胸を張っていた。
「俺は強い」
言い切った。しかも自信満々にである。
ヨシュアは思わず目を閉じた。
駄目だ。何が駄目なのかを説明する暇すら無い。
この子は一度話し始めると止まらず、自分が正しいと思ったことは相手が誰であろうと口にしてしまう。
「だから、おっちゃんたちが困ったら助けてやる」
案の定だった。
「今ならただで助けてやるぞ」
そう言って胸まで張る。
目の前に居るのは海の男たちを束ねる頭領である。その頭領へ向かって、十歳の子供が助けてやると言っているのだ。
普通なら怒鳴られても不思議ではない。
「そうでっか」
しかしタカは怒らなかった。
むしろ面白い玩具でも見つけたかのように目を細め、「そうでっか、そうでっか」と何度も頷いている。
「ほう。それは頼もしい話ですな」
「ああ」
ジョナスも当然のように頷いた。
「だから置いとけ」
話が噛み合っているのかいないのか、分からないのだが少なくとも、ジョナス本人は真面目だった。
自分に出来ることを言っているだけなのである。
だからこそ始末が悪い。
ヨシュアが胃の辺りを押さえていると、それまで後ろで静かに座っていた少女が不意に立ち上がった。
「お父」
真っ直ぐな声にタカが振り返る。
「あん?」
「私にやらせて」
少女の視線はジョナスから一瞬たりとも離れていない。
その目に浮かんでいるのは好奇心というより対抗心だった。
調子の良いことを言う陸者が気に入らないのだろう。
「気になるんか」
「うん」
返答は即座だった。
「調子に乗った陸者なんかに負けんよ」
そう言うなり、少女は壁へ立て掛けてあった木刀を掴み、そのまま庭へ向かって歩き始める。
振り返りもせず、当然来るものだと思っている歩き方だった。
「そこのあんた」
庭へ出る直前、少女が肩越しに言う。
「表に出な」
ジョナスはすぐに立ち上がった。
「何だ?」
「勝負だ」
「お前と?」
「そうだ」
少女が木刀を肩へ担ぐ。
その姿を見て、ジョナスは少しだけ首を傾げた。
「女かよ」
少女の額へ青筋が浮かぶ。
それを見てヨシュアは思わず額を押さえた。
言うと思った言葉を案の定言った。
「馬鹿にするな」
「いや」
ジョナスは本気で不思議そうな顔をしている。
「腕を見るなら、おっちゃんの方が良いだろ」
少女の顔がさらに険しくなった。
後ろを見ると、コンラートは目を伏せ、ユリアンは遠い目をしていた。
どうやら胃痛は遺伝するらしい。
「来い」
少女が庭へ出るとジョナスも何の躊躇いも無く続いた。
話し合いをしに来たはずなのだが、気付けば勝負が始まろうとしている。
何故こうなったのか、ヨシュアには分からなかった。
もっとも、今更止められるとも思えないので仕方なく後を追う。
庭へ出ると、少女はすぐに木刀を構えた。
年齢から考えれば驚くほど様になっている。
日々鍛えられているのだろう。
実際、同年代の子供であれば敵う者は少ないに違いない。
しかし相手が悪かった。
ジョナスは構えすら取らず、まるで散歩でもするかのような気軽さで少女の正面へ立っている。
「得物は?」
少女が問う。
「要らん」
「は?」
「素手で十分だ」
次の瞬間、少女が地面を蹴った。
木刀が横薙ぎに走る。
年齢を考えれば十分に速い一撃だったが、ジョナスは半歩だけ身体をずらしてそれを避ける。
次々と振るわれる剣撃を全て避けるジョナス。
少女は次第に目を見開き始めるが、その間にも木刀は空を切るばかりで、一向にジョナスへ届く気配が無い。
当然だった。
少女は恐らく強い。だがジョナスが見て育ったのは、ミュラー家の当主たるサエルであり、武を好む兄ファビオであり、歴戦の兵たちである。
その中で遠慮というものを知らぬまま育った末弟にとって、少女の動きは決して捉えられないものではなかった。
「なっ……」
少女の顔に初めて驚愕が浮かぶ。
「終わりか?」
ジョナスが言った。
少女は顔を真っ赤にする。
「まだだ!」
叫びながら踏み込み、次の木刀が振り下ろされた時だった。
ジョナスの手が動くと木刀を掴み、そのまま軽く引く。
すると体勢を崩した少女が前へ出たところで、ぺちんと乾いた音が響いた。
平手だった。
顔ではなく額を軽く叩いただけである。
だが勝負は終わっていた。
「ほれ」
ジョナスが言う。
「俺は強いって言っただろ」
庭が静まり返った。
先程まで勢いよく木刀を振るっていた少女も、その場で固まっている。
額を押さえながらジョナスを見上げる目には、悔しさも驚きも浮かんでいたが、それ以上に理解の追いつかないものを見るような色があった。
恐らく負けたことそのものが信じられないのだろう。
この島で育った娘である。
頭領の娘という立場もあり、周囲の者たちから武を教えられながら育ったに違いない。
実際、年齢を考えれば十分以上に強かったのだが相手が悪かった。
ジョナスは幼い頃から、加減を知らぬ父や兄たちに囲まれて育っている。
強さの基準そのものが違うのだ。
「ほれ」
ジョナスはもう一度言った。
「俺は強いって言っただろ」
自慢気ですらなく、ただ事実を確認しているだけの口調だった。
少女はしばらく何も言わなかった。
やがてぽつりと呟く。
「お父」
タカが腕を組んだまま応じた。
「あん?」
「決めた」
少女は迷いなく言った。
「私、これが良い」
ジョナスが首を傾げた。
「何の話だ?」
ヨシュアもコンラートもユリアンも分からなかった。
その場に居る全員が一瞬だけ同じ顔になった。
ただ一人、タカだけを除いて。
「そうでっか」
「うん」
「本気か」
「本気」
即答だった。
タカは満足そうに笑う。
「なら決まりですな」
そしてヨシュアへ向き直った。
「ヨシュア殿」
「は、はい」
「話は纏まりましたな」
何一つ纏まった覚えが無い。
だがタカは構わず続ける。
「婿殿と、その身内を追い出すほど、このタカ=サーン落ちぶれたつもりはありまへん」
ヨシュアは固まった。
「……婿殿?」
「そうだとも」
タカは当然のように答える。
「娘が気に入ったんですわ」
少女が満面の笑みを浮かべながらジョナスの腕へ抱き付く。
先程まで木刀を振り回していた人物と同じとは思えない変わり身だった。
一方でジョナスは完全に状況を理解していないらしく、腕を取られたまま首を傾げている。
「待たれよ!」
流石にヨシュアも声を上げた。
「婿殿とは何の話だ!」
「そのままの話ですがな」
タカは少しも動じない。
「娘が気に入った。ジョナス殿が勝った。なら婿殿に迎え、その一行を受け入れる。それだけの話ですわ」
「それだけの話ではない!」
ヨシュアは思わず一歩前へ出た。
「そもそもそのような話は聞いておらぬ!」
「だまらっしゃい。それを確認せなんだのは、そちらの落ち度ですわ」
タカはどこまでも白々しかった。
「何を言われるか!」
「勝負を受けるにあたって、婿殿が勝てばそなたらの逗留は認める。さればこちらの条件は、娘がそのガキを気に入ったら婿に貰う。そういう話やったんですわ」
「聞いておらん!」
「聞かなんだのはそちらの勝手ですな」
あまりにも無茶苦茶で、理屈にもなっていない。
しかしタカは少しも揺らがない。
むしろ楽しんでいるようにすら見える。
「そのような後出し認められん!」
ヨシュアが叫ぶと、タカは初めて笑みを消した。
「ほう」
低い声だった。
「そうでっか」
そのまま傍らに置いてあった鐘のようなものを手に取る。
そして、カンと一度鳴らした。
すると間を置かず、外から足音が響き始める。
その音からして、一人や二人ではない。
やがて部屋の入口へ、日に焼けた大男たちが次々と姿を現した。
腕は太く肩は広い。いかにも海で生きる男たちという風体である。
その人数を見た瞬間、ヨシュアは理解した。
ああ、駄目だ。この男、本気でやる気だ。
「なら仕方ありませんな」
タカは肩を竦める。
「我ら紅鮭団を敵に回すと」
「いや、私はそういう話を――」
「無事に島を出られると思わんことですな」
堂々とした脅しだった。
ヨシュアが言葉を失っていると、不意に横から声がした。
「叔父上」
ジョナスだった。
「何だ!」
半ば叫ぶように返す。
するとジョナスは実に気楽な顔で言った。
「良いんじゃないか」
ヨシュアは固まった。
「……何がだ」
「どうせ当分帰れんのだろ」
ジョナスは腕にぶら下がる少女を見ながら続ける。
「ここで暮らすのも楽しそうだ」
タカの表情が一瞬で明るくなった。
「そうでっか!」
先程までの威圧感が嘘のようだった。
「婿殿は話が分かる!」
「ああ」
ジョナスも頷く。
「ただ詰まらなかったら、おっちゃんたち皆、叩きのめして出ていくからな」
一瞬だけ沈黙が流れた。
普通なら怒るところだろうが、タカは腹を抱えて笑い始めた。
「ははははは!」
豪快な笑い声が庭へ響く。
「なかなか生きの良いガキやな!」
「そうか?」
「儂の婿には相応しいわ!」
いつの間にか話が纏まっていた。
ヨシュアの意見などどこにも存在していなかった。
後ろを見るとコンラートは視線を逸らしユリアンは額へ手を当てていた。
ヨシュアは大きく項垂れる。
命だけは繋がった。
それは確かに喜ぶべきことなのだろう。
「はあ……」
深い溜息が漏れる。
「兄上に、何と説明すれば良いのだろうか……」
その呟きを聞く者は誰も居なかった。
大陸歴一四〇七年七月十三日
そこまで思い出したところで、ヨシュアはゆっくりと現実へ意識を戻した。
目の前ではタカが相変わらず上機嫌である。
「そうでっか。やはり婿殿は筋がええですな」
その視線の先にはジョナスが居た。
小舟の上から軽々と飛び降りたかと思えば、その手には大ぶりな魚が刺さった銛が握られている。
しかも一匹ではなく、腰には別の魚までぶら下がっていた。
「頭領のおっちゃん、見てくれ」
ジョナスは魚を掲げる。
「沖で見かけたから刺してきた」
「ほう!」
タカの目が輝いた。
「そいつを仕留めましたか!」
「旨いのか?」
「旨いどころやありまへん。今晩は宴ですな!」
そう言って大笑いする。
その様子を見ていると、もはや四ヶ月前まで会ったことも無かった相手とは思えない。
実際、ジョナスは驚くほど島へ馴染んでいた。
船に乗れば漁師たちと一緒になって網を引き、海へ潜れば島の若者たちと魚を追い回し、暇さえあれば操船を覚えたがる。
そして覚えるのも早かった。
タカやノリですら驚くほどの速度で海のことを吸収している。
それ自体は喜ばしい。
少なくとも肩身の狭い避難生活を送っている訳ではないのだから。
問題は別のところにあった。
「ジョナス!」
声と共に、一人の少女が駆け寄ってくる。
日に焼けた肌に活発そうな笑顔。そして何より、何の迷いも無くジョナスの腕へ抱き付く遠慮の無さ。
四ヶ月前に勝負を挑んだ、タカの娘だった。
「見て! 今日は私も獲った!」
そう言いながら魚を見せている。
ジョナスも当然のように覗き込む。
「おお、前より大きいな」
「だろ!」
非常に楽しそうだった。
まるで将来の面倒事など一切考えていない顔である。
ヨシュアは視線を逸らし、コンラートは遠い目をして、ユリアンが静かに空を見上げていた。
四ヶ月もあれば慣れると思っていた。
しかし甘かった。人は慣れる。
だが、慣れたからと言って問題が解決する訳ではない。
「叔父上、どうした」
ジョナスが不思議そうに尋ねてくる。
「いや……何でもない」
説明しても分からないだろうし、そもそも説明出来る自信も無い。
ジョナスは再び少女と魚の話を始める。
タカはそんな二人を見ながら満足そうに頷いていた。
「そうでっか、そうでっか」
その顔を見るたびに、ヨシュアの胃が痛くなる。
そして思うのだ。
もし兄が生きているなら。
もし再会出来る日が来るなら。
その時、自分は何と言えば良いのだろうか。
ミュラー家再興の旗印たる末弟を守り抜きました。
そこまでは良い。問題はその後である。
守り抜いた結果、紅鮭団の頭領の娘に気に入られ、本人も満更ではなく、気付けば婿殿として島中へ認識されております。
果たしてそれをどう説明すれば良いのか。
ヨシュアには未だ答えが見つからなかった。
コンラートも、ユリアンも同じ顔をしていた。
どうやら胃痛は本当に遺伝するらしい。
遠くではジョナスの笑い声が響いている。
海は今日も穏やかだった。
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