幕間18 人の心
大陸歴一四〇七年七月六日
夜はなお深く、シュタインブルクの喧騒は高い石壁の向こうへ沈んでいた。
ハインリヒ=クラウゼンの館、その奥に設けられた一室では、いつもと変わらぬ静けさが保たれている。
灯りは必要最低限。
卓の上だけを照らす燭台の火が僅かに揺れ、その外側は闇へ溶け込んでいた。
向かい合う二人の姿もまた変わらない。
フォーゲルの重臣ハインリヒ=クラウゼン。
そしてエリクセン家当主、ゲルハルト=エリクセン。
前回の会合で「塩が無い」と語られてから、既に幾らかの時が流れていた。
エリクセンから塩は送られた。
旧ミュラー領からも徴発という名の収奪が続いている。
それでもなお、状況は変わらなかった。
「ハインリヒ様、塩の状況は如何でしょうか」
静寂を破ったのはゲルハルトだった。
ハインリヒは指先を軽く組んだまま答える。
「うむ。エリクセンからの贈り物と、ミュラー領からの収奪で一息は付いたな」
そこで一度言葉を切る。
「だが、充足とは行かぬ」
「やはり厳しいですか」
「ああ」
ハインリヒは淡々と頷いた。
「旧ミュラー領など、総人口五千にも満たぬ小領だ。そこで生産される塩だけで、八十万とも言われるフォーゲル領全体を支え切れるはずもない」
まして今は戦時である。
兵は汗を流し、食料は備蓄され、戦場へ送られる保存食にも塩は欠かせない。
平時ならまだしも、戦時において塩の消費は跳ね上がる。
そこへ新たに小さな産地一つを加えたところで、根本的な解決には程遠かった。
「ならば」
ゲルハルトは間を置かず口を開く。
「この際、ミュラーの南にあるブラウナー家も潰してしまいませんか。さすれば更に塩が確保できますぞ」
その声音には、いかにも名案を思い付いたかのような熱が混じっていた。
ハインリヒはそんな様子を眺め、小さく息を吐く。
「ゲルハルトよ。少し欲が立ちすぎておるぞ」
「これは手厳しい」
ゲルハルトは肩を竦めた。
「フォーゲルのことを思えばのつもりでしたが。しかし、ブラウナーは厳しいですか」
「ああ、厳しいな」
ハインリヒは即答した。
「貴様がエリクセンを大きくする好機と考えるのは分からんでもない。だが、前のミュラーとブラウナーは違う」
「と言いますと?」
「ブラウナーは家臣団の取り崩しが出来ておらん」
ハインリヒは静かに続ける。
「万が一、時間を取られれば西部四十八家が動くだろう。そうなれば我らも本格的な戦の準備が必要になる。ナユリを相手にしながらでは、割に合わんわ」
「ブラウナーも小領ですぞ。そんなに時間は掛からないと思いますが……」
ゲルハルトは食い下がる。
確かにミュラーよりは大きい。
だがフォーゲル全体から見れば誤差のようなものだ。
実はエリクセンが力を付けることを、この男は嫌がっているのだろうか。
「ああ。恐らくはな」
ハインリヒは頷いた。
「だがな、恐らくでは駄目なのだ」
声は変わらず静かだった。
それ故に、その断定は重い。
「前回のミュラーは小領であり、内通もあった。更にサエル=ミュラーという戦場へ出る領主でもあったからこそ攻めたのだ」
そして僅かに目を細める。
「ブラウナーに籠城でもされてみろ。そちらでも泥になりかねん」
室内には再び静けさが落ちた。
塩は足りない。
奪ったところで足りない。
だからといって、次を奪わんと更に手を広げれば良いと言う程、単純な話ではない。
前回の会合で組み上がった輪郭は、今や現実という形を持って彼らの前へ現れ始めていたのである。
「では如何されますか。それでは塩が足りませぬ」
ゲルハルトが問い掛ける。
ハインリヒは椅子へ深く腰掛けたまま、わずかに顎を撫でた。
「まだ絞れば出てくるだろう。それに増産させれば良い。徴用して造らせれば良いのだ。足らぬのならナユリの奴隷も使えば良い」
勝手ばかり言ってくれる。
あそこは既に形の上ではエリクセン領だ。余り苛烈な真似を続ければ、エリクセンへの恨みが募ってしまうではないか。
最初は戦後の乱取りとして諦めもつくだろうが、それを延々と続ける訳には行かぬ。
「その通りではございますが、形の上では既にエリクセン領となっておりますので、反乱を起こされると対処が少々面倒に成ります」
「逆らう奴は斬ってしまえば良かろうに」
ハインリヒは軽く言った。
「まあ、ゲルハルトの言い分も分からなくはないがな。まだエリクセンの中に立場が分からぬものがおるのだろう」
やはり代替わりの際に無理を通したと見る者は多い。
フォーゲルが手を伸ばしてきているのに、独立を維持するなどと言うのは簡単だが、現実が分かっておらんのだ。
まだ今は良い。直接接しているわけではないからな。
だがこれは時間の問題で、接してからフォーゲルに尻尾を振っても遅いのだ。
今ならば、その力を利用しながら大きく成れる。
フォーゲルがナユリへ掛かり切りの今だからこそ、我らに価値が有るというのに。
「ええ。全く持って度し難く。我々はフォーゲル有ってのエリクセンであると理解できないのか、囀っておりますな」
「……あれはどうしておる」
不意に、ハインリヒが口を開いた。
「……あれ、と申しますと?」
「文を寄こした奴だ」
ゲルハルトはすぐに得心した。
旧ミュラー領の内情を知らせ、今回の戦の切っ掛けを作った男。
使い道はある。だが、使い方を誤ればこちらへ牙を剥きかねぬ男でもあった。
「一応、客分という形で遇しておりますが、まあ自分の夢に酔っておりますな」
「なら使ってみれば良い」
ハインリヒは平然と言う。
「そして全て抱えて貰うが良い。何かあれば、な。簡単な話だ」
それは分かってはいるのだ。
あれを使えば旧ミュラー領の統治は確かに楽になるだろう。
……一時的には。
だが、あれが先頭に立って逆らえば、また面倒な話になりかねない。
「あれに任せて良い物なのでしょうか。こちらの指示にどこまで従うか。そこが悩みどころでして」
ハインリヒは呆れたように息を吐いた。
「ゲルハルトよ。貴様は馬鹿か」
な……何を言い出す。
いくらフォーゲルの重臣とは言え、俺に向かって馬鹿とは何たる言い草。
怒鳴ってやりたい。
……が、それをしたらエリクセンは終わるな。
耐えるしかあるまい。
「否定はできませんな。どうか、ご教示の程を」
「はあ……。まあ他家に干渉する気も無いのだがな」
ハインリヒは小さく肩を落とした。
「子らを連れてきているのであろう」
「ええ。三人おります」
「その子らは、どうしている」
「領の端、断崖沿いに屋敷を設けて閉じ込めてありますので、逃走は難しいかと」
沈黙。
「な……」
そこで初めて、ハインリヒの顔色が変わった。
「何と馬鹿なことを」
低い声だった。
先程までの呆れとも違う。
明確な失策を前にした者の声音だった。
「すぐに領都へ移し、それなりの屋敷で遇せ」
また言いやがった。
馬鹿と言う奴が馬鹿なのだ。
それに領都の屋敷など、すぐ逃げてしまうではないか。
「良いか。領都の屋敷で、子らを丁重に扱うのだ」
ハインリヒは呆れたように額へ手を当てた。
「あれは、その子らの保護者なのであろう。ならば、子らが丁重に扱われている姿を見せれば良い」
「……そうでしょうか」
ゲルハルトは眉を寄せた。
「まずはそれなりの立場となり、自らが命を下す姿を孫へ見せたいと願うのではありませぬか。ですが、それを許すのは危険かと愚考しますが」
「……まさかとは思うが」
ハインリヒはゆっくりと視線を上げた。
「あれを旧ミュラー領へ派遣する際、子らも連れて行かせる気か?」
何を当たり前のことを。
自分の晴れ姿を見せつけなくては意味が無かろう。
「当然です。そうしなければ、誇る相手が減ってしまうではないですか」
ハインリヒはしばらく黙り込んだ後、ぽつりと口を開く。
「……そうか」
ハインリヒはしばらくゲルハルトを見つめた。
「そなたは次男であったな」
「ええ」
「兄は優れた男であったのか?」
何を急に言い出す。
確かに兄は父に誇られ、家臣にも慕われる男だったが、俺に言わせれば甘い男でしかなく、だからこそあのような単純な策に掛かったのである。父も家臣も兄ばかりを見ていたが、本来もっと評価されるべきだったのは、考えることのできるこの俺の方ではなかったのか。
「さて。少なくとも父や家臣は買っていたようで、見習えとは良く言われましたな。ただ私と兄とは得手が違いますれば、今となっては何とも」
「……なるほどな」
ハインリヒは短く頷いた。
「だから分からぬか」
「は?」
「親というものは、案外そうではない」
静かな声だった。
「子が褒められれば嬉しい。子が笑えば安心する。子が泣けば気に掛かる、自分が苦しむより、子や孫が苦しむ方が堪える者も居る。まして、自分のせいで危険へ巻き込んだ孫とならば尚更だ」
ゲルハルトは首を傾げた。
「だからこそ、その子らを領都へ移し、それなりの屋敷で遇し、その姿を見せるのだ。見ての通り、しっかり面倒を見ている。安心しろとな。そのうえで、やはりそなたの力が必要だと頼れ。そうすれば働く」
……こいつは何を言っているのだ。子の面倒を見るだけで言うことを聞くというのであれば、俺だって兄の子を当主へ据え、その面倒を見ているではないか。それでも皆、俺の言うことなど聞こうとはしない。
「それでは難しくありませぬか。もしその手で行くのであれば、逆らえば子らの命は保証せぬ旨を伝えれば、何とか……」
「絶対にやるな」
今までで最も強い声音だった。
「脅しは最後の最後だ。一度使えば、それ以外の道は消える。今回は違うぞ。頼る風を装え」
一拍
「その後、やはりそなたの力が必要だと言え。その言葉と、子らを丁重に扱う姿を見せれば、その男は働く」
「……やれと言われるならば、私に否やは有りませぬが」
ゲルハルトはなおも納得し切れぬ顔をした。
「ただ、それで乱となっては少々困ります」
この旧ミュラー領を足掛かりにエリクセンは領域を拡大したい。
そうすれば、愚かな家臣どもも俺の言うことを聞くようになるはずなのだ。
最初で躓く訳にはいかぬ。
「構わぬ」
ハインリヒは淡々と続けた。
「万が一、乱となった時には後援してやる。それよりも、あれに任せて徹底的に絞らせろ。民の不満が最高潮に達したという時に、責を取らせる形で斬れ」
ハインリヒは諭すように続ける。
「そして、その後でしっかりと民を支えてやれば良い。そうすれば、あそこは名実ともにエリクセン領となる」
おお、なるほど。
徹底的に落としてやれば、その後で軽く持ち上げるだけで良いということか。民の不満は全てあれへ向かい、代わりにエリクセンは救い手として受け入れられるのだから、これほど都合の良い話もない。
もし何かあっても、フォーゲルが後援してくれるのであれば間違いはない。
「分かりました」
ゲルハルトは深く頭を下げた。
「ハインリヒ様の仰る通りに致します」
「うむ。任せたぞ」
それだけだった。
こうして話は纏まり、ゲルハルトは部屋を辞していく。
閉じられた扉の向こうへ足音が遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなった頃。
ハインリヒは静かに息を吐いた。
「……時間の問題だな」
それが旧ミュラー領のことを指しているのか。
エリクセンそのものを指しているのか。
それとも、人の心というものを指していたのか。
その真意を、去っていくゲルハルトが知ることは無かった。
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