幕間17 待つ者たち
大陸歴一四〇七年六月三十日
エルンスト=ローゼンベルクは悩んでいた。
娘のエリーゼと孫のアルビーナがローゼンベルク領へ避難してきてから、既に二ヶ月が過ぎている。
娘から事情を聞いたその日、エルンストは即座に動いた。
婿であるサエル=ミュラーと五人の孫たち。
その全員の捜索を命じ、家中の伝手を使って情報を集めさせた。
だが、二ヶ月という時間を費やしてなお、確たる手掛かりは一つとして掴めていなかった。
少なくとも、ミュラー領北方の領境にて会戦があったことだけは事実のようだった。
現に、領都ローデンにはエリクセンの旗が立っているという報告が届いている。
つまり旧ミュラー領がエリクセンに併合されたということは、ほぼ間違いないだろう。
一方で、娘の語った「フォーゲルも共に攻め寄せた」という部分については、未だ断定できずにいた。
有ったとも言えるし、無かったとも言える。
状況証拠は幾つもあるが、それを裏付ける決定的な証は無い。
西部四十八家の中でも古くから続く名門と呼ばれ、調停役を務めることの多いローゼンベルク家としては、「だろう」で物事を進めることなど許されない。証を積み上げ、事実を確かめた上で判断を下すことこそが、長く家を保ってきた理でもあった。
だがそれでもエルンストには、一つだけ確信に近いものがあった。
エリクセン単独の侵攻程度で、あのサエル=ミュラーが、たった一度の会戦で全てを失うような失態を演じるとは思えないのである。
あの男は、決して派手な武人ではない。
むしろ慎重であり、退くべき時は退き、守るべき時は守る。
必要とあらば時間を稼ぎ、敵を足止めし、その間に近隣へ援軍を求めるくらいの判断は容易く下す。
遅滞戦術を取りつつ持ち堪え、味方が到着するまで戦線を維持し、もし好機を見出せば即反撃をする。
あの男ならば、それくらいは当然のようにやってのけるはずだった。
だからこそ、おかしいのである。
サエルが敗れたという結果そのものではなく、あまりにも短期間でミュラーという領地そのものが消え去っていることこそが異常だった。
そう考えるならば、フォーゲルの参戦もあったと見るべきなのだろう。
……というのは理屈である。
娘と孫が頼ってきたのだ。
ならば、どうにかしてやりたいと思うのは父として、そして祖父として極めて当たり前の感情だった。
だからこそ、理屈を脇へ置き、使える伝手は全て使い、商人にも旅人にも話も拾わせたし、他家との書簡にもそれとなく情報を混ぜ込んだ。
だがそれでも、見つからない。
誰一人として、その行方を掴むことが出来ないのであった。
サエル、ファビオ、セアド。
三人については、ある意味で想像はしていた。
サエル=ミュラーは領主として自ら戦場へ出たし、長男ファビオとセアドは、その傍らで戦っていたはずである。
娘の話を信じるならば、あの三人は確かに会戦へ参加していた。
だからこそ、二ヶ月という時間を掛けても何一つ消息が掴めないという事実は、嫌でも一つの可能性を示していた。
恐らくは、そういうことなのだろう。
もちろん、まだ断定は出来ない。
どこかで負傷し、保護されているのかもしれないし、捕虜となっている可能性もある。
だが、希望だけを根拠に物事を考えられるほど、エルンストもまた若くはなかった。
しかしだからこそ、残る三人の行方が分からぬことが不可解だった。
ジョナスについては、まだ理解できた。
娘の話では西へ向かい海へ逃れたというのだから、海沿いの町を転々としているのであれば、そう簡単に足取りを掴めないのも道理である。
問題は、残る二人である。北東へ向かったカミルと、南東へ向かったアルスだった。
この二人については、何故見つからないのかが分からない。
恐らく、両者とも山へ潜伏したのだろう。
敵の目を避けるのであれば、それが最も現実的な判断だったはずだ。
だが、山へ潜むにも限度がある。
食糧にも限りがあり、いつかは必ず山を下りねばならない。
そして、その際に選ぶ道もまた限られている。
西には旧ミュラー領がある。既に敵の手へ落ちた土地へ、自ら戻ろうとする者など居ない。
本人が戻りたがったとしても、周囲が必ず止めるはずだった。
ならば東だ。山を越え、その先へ抜ける。では、その後どこへ向かうのか。
普通に考えれば答えは二つしかない。
母の実家たる、このローゼンベルク家。あるいは、姉が嫁いだグラーヴェ家。
頼れる相手が居るのなら、そこを目指すのが自然だった。
だがローゼンベルクには来ていない。グラーヴェにも現れていないらしい。
便り一つ届いていないどころか、誰かが見かけたという話すら無かった。
理屈だけを積み重ねれば、答えは一つだった。
やはり、何かあったのだろうか。
胸の奥へ沈みかけたその考えを、エルンストは慌てて振り払う。
「いや……そんなはずはない。大丈夫だ。絶対に生きている」
誰へ向けた言葉でもなく、自分自身へ言い聞かせるための声だった。
そうでなければならない。そうであって欲しい。
祖父としての願いが、理屈の上へ覆い被さる。
エルンストは静かに立ち上がった。
考え込んでいても、答えは出ないのならば今、自分に出来ることをするしかない。
娘の元へ行こう。
エリーゼの部屋へ向かうため、エルンストは重い足取りで廊下へ出たのであった。
エリーゼの部屋を訪れると、扉を開けた瞬間に視線が向けられた。
「お父様。今日は如何でしょうか。何か掴めましたか」
椅子から立ち上がりかけた娘が、期待を押し殺したような声で問い掛けてくる。
その横では、アルビーナもぱたぱたと駆け寄ってきた。
「おじいさま。兄さまたち、見つかった?」
追い打ちだった。
どちらも責めている訳ではなく、ただ待っているだけなのだ。
だからこそ苦しい。
エルンストは一瞬だけ言葉を探したが、その僅かな間だけで十分だったのだろう。
エリーゼの表情が静かに曇る。
「……今日も何もありませんでしたか」
そう言って、俯いた。
「何、悪い知らせも届いておらんのだ」
エルンストは努めて穏やかな声を作る。
「根気に待つしかあるまい」
空々しいのは百も承知だったが、何も言わねばエリーゼの心が折れてしまう。
それだけは避けねばならない。
しばらくの沈黙の後、エリーゼが再び顔を上げた。
「お父様」
「うむ」
「軍を出して頂くことは叶いませぬか」
「軍だと?」
思わず問い返した。
「まずはミュラー領を取り戻すことは出来ませぬか」
エリーゼは真っ直ぐに父を見つめる。
「そうすれば、皆帰って来てくれるかもしれません」
気持ちは分かる。
分からぬはずがなかった。
だが。
「軍は……出せぬ」
「何故にございますか」
即座に返ってくる。
「ローゼンベルクの力なら、ローデンを奪還し、ミュラー領を解放することは可能ですよね?」
可能不可能というだけの話なら、確かに可能だった。
ローゼンベルク家にはそれだけの力がある。
それでも。
「すまぬ」
エルンストは静かに首を振る。
「兵を出すこと自体は無理ではない。だがな、問題は位置なのだ」
「位置……ですか?」
「そうだ」
エリーゼは困惑したように眉を寄せた。
「別段、ミュラー領まで行けぬ距離ではありません。実際、私たちもここまで辿り着いております」
やはり、それが根拠か。
だが違うのだ。
「良いか、エリーゼ」
エルンストは娘の目を見た。
「それは馬車だから出来た話なのだ」
一拍置く。
「これが軍となると、話が変わる」
「何が変わるというのですか」
エリーゼは納得できぬ様子だった。
「このように女子供を乗せた馬車よりも、軍の方が速く着くくらいではないですか」
ふむ。
サエルは軍について、あまり説明しなかったのか。
あるいは小領ゆえ、深く触れる必要がなかったのか。
いや恐らくはどちらも違う。
敢えて触れさせなかったのだろう。
「まず、ここへ辿り着くまで幾つの領を越えてきた」
「……幾つも、です」
「そうだ」
エルンストは頷いた。
「そして、その全てが他家の領地だ」
静かに続ける。
「そこへ無闇に軍を入れるということが、何に繋がるか分かるか」
「それは……」
エリーゼは口を閉ざした。
「確かに、前もって先触れを出さねば戦と取られるかもしれません。ですが、事前に伝えておけば……」
「事は、そう単純ではないのだ」
エルンストは首を横へ振った。
「誰しも、自領へ他領の軍など入れたくはない」
そして苦笑する。
「実際、サエルもそう考えたからこそ、領境まで出たのであろう?」
エリーゼは小さく息を呑んだ。
「ですが、今回はエリクセンがフォーゲルを引き入れるという明確な協約違反があります」
「うむ」
「他の領主たちも、その辺りは考慮くださるはずです」
気持ちは分かるのだがな。
「その証は?」
エリーゼが押し黙った。
「……無かろう」
エルンストは静かに続ける。
「無ければ、どこまで行ってもミュラーとエリクセンの争いであり、西部四十八家内の争いには不干渉という決まりがある。味方をするしないは自由だ。だが、それを理由に領内を通す必要は無い」
「確かに証はありません」
エリーゼはなお食い下がる。
「ですが事情を説明し、軍で速やかに抜けるだけと言えば、通して頂けるのではありませんか」
「かもしれぬな」
エルンストは否定しなかった。
「だがな、軍というものは兵だけでは成立しないのだ」
娘は黙って耳を傾けている。
「食糧はどうする。武具は。矢は。馬の飼葉は。負傷者が出た時の備えは。それらを運ぶ荷馬車は。それを護衛する兵は」
一つずつ数えるように口にする。
「物資は兵と共に動く。そして、それを絶やさぬためには後続も必要になり、その全てに先触れが要る。通行許可も必要だし滞在場所も必要になる。それを誰が負担するのかという話にもなる」
エルンストは深く息を吐いた。
「それら全てが安定せねば、とても戦など出来ぬ」
そして。
「それが、単独の馬車と軍の違いだ」
部屋の中が静まり返った。
エリーゼは何も言えなかった。
自分たちは確かに辿り着いた。
娘を乗せた馬車は、幾つもの領地を越えてここまで来たが、それは馬車だったからだ。
軍ではなかったからだ。
「そんな……」
エリーゼの声は震えていた。
「どうにかなりませぬか」
エルンストは目を閉じる。
何とかしてやりたい。軍を出してやりたい。娘の願いを叶えてやりたいとは思う。
「悪いが」
その願いを飲み込んで答えた。
「今この状況では無理だ」
いくらローゼンベルクの看板があろうとも。
通せる無理と、通せぬ無理があるのであった。
「もう少し、捜索の手を増やそう」
エルンストは静かに口を開いた。
「範囲も広げる。これまで以上に伝手を使い、可能性のある場所は全て当たってみるつもりだ」
そして、一度だけ言葉を選ぶように間を置く。
「だから今は、堪えてくれ」
エリーゼは返事をしなかった。
ただ俯き、膝の上で重ねた手を見つめたまま動かない。
父の言葉が理屈として正しいことは理解しているのだろう。
軍を動かせぬ理由も分かったし、今すぐ助けに行けない現実も理解した。
それでもなお、納得できるものではなかった。
探しているのに見つからなく、ただ待つことしか出来ない。
その事実だけが、少しずつ心を削っていく。部屋の中には、重たい沈黙が落ちた。誰も次に何を言えば良いのか分からない。
そんな空気の中、不意に小さな声が響く。
「おじいさま」
アルビーナだった。
幼い瞳が真っ直ぐエルンストを見上げている。
そこには事情を理解した者の諦めも、現実を知る者の遠慮もない。
ただ、当たり前の願いだけがあった。
「父さまと兄さまたちに会いたいよ」
その一言に、エルンストは思わず息を呑んだ。
責めている訳ではない。
どうして助けてくれないのかと詰っている訳でもない。
ただ会いたい。父に会いたい。兄たちに会いたい。それだけだった。それだけの願いが、どれほど重いものなのかを知っているからこそ、胸の奥が強く締め付けられる。
調停役としての立場に立つのであれば、答えは最初から決まっている。
感情へ流されるのではなく、まず証を集め、事実を積み上げ、その上で誰もが納得せざるを得ない形で判断を下さねばならない。西部四十八家の争いへ口を挟むということは、それだけ重い責任を背負うということでもあり、思い付きや願望だけで動くことは決して許されなかった。
領主としてもまた同じだった。
家を預かる者として、出来ることと出来ぬことを見極め、時には切り捨てるべきものを切り捨てながら、最後まで守るべきものを守るための判断を下さねばならない。
それがローゼンベルク家当主としての役目であり、これまでエルンストが積み重ねてきた生き方でもあった。
だが今、自分を見上げているのは嘆願に訪れた者でも、他家の使者でもなかった。
娘の子であり、自らの孫である幼子が、祖父へ向かってただ願いを口にしているだけだった。
エルンストはゆっくりと手を伸ばし、アルビーナの頭へそっと置く。柔らかな髪の感触に、一瞬だけ目を細めた。
そして、出来るだけ穏やかな声で言った。
「ああ」
その短い返事には、先程までの理屈も現実も含まれていない。
ただ一人の祖父としての言葉だった。
「爺に任せておけ」
アルビーナの目を真っ直ぐ見つめながら、エルンストは続ける。
「必ず探し出してやるからな」
アルビーナはその言葉に、小さく頷いた。
それだけだった。だが、その小さな仕草だけで十分だった。
エルンストは静かに立ち上がると、窓の外へ視線を向ける。
ローゼンベルクの空は、今日も変わらず広かった。
その空の下のどこかで、サエルたちはまだ生きているのかもしれない。
戦場へ向かったサエルも、ファビオも、セアドも。
そして、行方知れずとなったアルスも、カミルも、ジョナスも。
帰るべき場所を目指しながら、どこかで必死に生き抜いているのかもしれない。
ならば、諦める訳にはいかなかった。
たとえ証が無くとも、理屈の上では望みが薄いと言われようとも。娘が頼ってきた。孫が待っている。それだけで十分だった。
ならば探し続けるしかない。
ローゼンベルク家の当主として。
娘の父として。そして何より、孫たちの祖父として。
エルンスト=ローゼンベルクは窓の外を見つめながら、胸の内で改めて強く誓う。
必ず。
必ず、あの子たちを見つけてみせると。
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