幕間13 湖上の戦い(四)払われた代償
大陸歴一四〇七年六月八日
湖賊たちが館のある入江へ戻って来た頃には、太陽は既に西へ傾き始めていた。
長く続いた戦いの末、共同軍は退き、湖も守られた。結果だけを見れば勝利と言って差し支えないが、帰還する舟の上に勝ち戦の高揚はなく、誰もが疲労を隠せなかった。
舟を降りた者たちは真っ先に館へ向かうのではなく、負傷者の搬送や舟の固定へ取り掛かっていた。
肩を貸されながら歩く者も居れば、即席の担架へ乗せられて運ばれる者も居り、傷口を押さえたまま歯を食いしばっている者も珍しくなかった。
館へ残っていた者たちも慌ただしく動き始め、水を運び、包帯を用意し、帰還した者たちを受け入れていく。
だが、その慌ただしさの中で最も目を引いたのは負傷者ではなかった。
運ばれて来る遺体だった。
湖から回収された仲間たちが、一人、また一人と広場へ並べられていく。
布を掛けられた者も居れば、まだ濡れたままの者も居る。
顔を見れば誰なのか分かる者も少なくなかった。
だからこそ、周囲の空気は重い。
帰還した湖賊たちも自然と足を止め、その姿へ目を向けていた。
戦場では生きていると思っていた者たちだった。
つい先程まで同じ湖の上で戦っていた仲間たちだった。
だが今はもう動かない。
フレンチもまた舟を降りると、その光景を無言で見つめた。
その隣にはシーザー、サウザン、バルサミコの三兄弟が居る。
三人とも戦場では最後まで動き続けていたため、まだ被害の全容を把握していなかった。
しかし広場へ並び始めた顔を見た瞬間、その表情が僅かに変わる。
昨日も話し、酒を酌み交わしたこともある者もいる。共に舟を漕ぎ、共に戦った仲間たちの顔が幾つも並んでいた。
シーザーは腕を組んだまま口を開かず、サウザンもまた視線を逸らさなかった。バルサミコだけが小さく舌打ちしたものの、結局は誰も何も言わない。何を言ったところで目の前の現実が変わる訳ではなかったからである。
やがて舟ごとの確認が始まる。
各舟では帰還者と負傷者の確認が進められていたが、その中には最後まで姿を見せない者たちも居た。責任者たちが名を読み上げるたび、広場のあちらこちらで重苦しい空気が広がっていく。
最初のうちは、まだ帰還途中なのかもしれない、あるいは別の舟へ移っただけなのかもしれないと考える者も少なくなく、広場にはなお希望にも似た静けさが残っていた。
しかし時間が経つにつれ、その期待は少しずつ消えていった。戻るはずの者が戻らず、確認のたびに空白だけが増えていったのである。
やがて各家から飛び出して来た家族たちも、その異変に気付き始めた。
夫の姿を探して歩き回る妻、息子を探す母親、兄弟の名を呼び続ける者たちの姿が広場のあちこちに見られ、その中には並べられた遺体の中に求めていた顔を見付けた瞬間、その場へ崩れ落ちる者も居た。
泣き声が上がり、名前を呼ぶ声も聞こえ始め、中には必死に身体を揺すりながら目を覚ませと叫ぶ者まで居たが、その願いが届くことは無い。もう二度と立ち上がらないのである。
その光景は戦場よりも重かった。
敵の姿は無く、矢も飛んで来ない。それでも広場全体は沈痛な空気に包まれており、誰もがこの戦いで何を失ったのかを否応なく理解させられていた。
姫もまた、その中に立っていた。
戦場では目の前のことに必死で、自分が何を引き起こしたのかまでは考える余裕が無かった。
しかし今、遺体へ縋り付く者や泣き崩れる遺族たちの姿を前にして、その戦いが残したものを否応なく見せ付けられていた。
胸の奥が冷たくなる。
自分が見ているこの光景もまた、あの戦いの結果だった。
「こんなことに……」
思わず漏れた声は誰にも届かない。
「こんなことになるなんて……」
呆然と呟く姫の前で、遺族たちの泣き声はなお続いていた。
一方でフレンチは何も言わない。
並べられた仲間たちを見つめ、泣き崩れる遺族たちを見つめ、その全てを黙って受け止めていた。
普段の柔らかな頭領の顔は既に無い。
その表情は静かだった。
だが静かであるが故に、近くに居る者ほど分かる。
頭領は怒っている。
広場へ集まった者たちは、誰一人として口を開かなかった。
泣き崩れる遺族の声こそ聞こえていたが、それ以外の者たちは皆、フレンチへ視線を向けている。
頭領が何を語り、何を決めるのか。広場の者たちは、それを待っていたのである。
フレンチはしばらく無言のまま並べられた遺体を見渡した後、ゆっくりと視線を上げた。
そして広場の一角へ立つ娘を見据える。
その目には、普段の父親としての温かさは無かった。
湖賊たちを率いる頭領としての目だった。
「前へ出ろ」
低く押し殺した声が広場へ響く。
名を呼ばれるまでもなく、それが自分へ向けられた言葉であることは娘にも分かっていた。
身体は小さく震えていたが、逃げることは出来ず、周囲の視線を受けながら一歩ずつ前へ進み出た。
広場へ集まった湖賊たちも、その様子を黙って見守っていた。
娘が勝手に舟を出したことは既に知られている。
あの場に居た者たちだけではない。戦場から戻る途中で話は広がり、今では多くの者が知っていた。
だからこそ皆が見ている。
頭領が、この件をどう裁くのかを。
娘が前へ出ると、フレンチは今度は別の方向へ視線を向けた。
「娘の命に従い、許可なく舟を出した者も前へ出ろ」
その声を受け、何人かの男たちが顔を見合わせる。
やがて観念したように歩み出て来た。
彼らもまた責任の重さを理解していた。
本来であれば、頭領の許可なく戦を始めるなど許されることではない。たとえ相手が頭領の娘であったとしても、それは変わらないのである。
広場の中央には娘と数人の男たちが並んだ。
誰も顔を上げず、周囲も静まり返っていた。先程まで聞こえていた泣き声さえ小さく感じられるほどの静寂である。
フレンチはそんな空気の中で口を開く。
「先に言っておく」
その声は決して大きくなかったが、それでも広場の隅々まで届いた。
「今日の戦で命を落とした者たちは勇敢に戦った」
誰も反論しなかった。実際、湖賊たちは逃げず、数で勝る共同軍を相手に踏み止まって湖を守るために戦ったのであり、その事実に疑う余地は無かった。
「湖は守られ、共同軍も退いた。戦そのものは、確かに我らの勝ちだ」
その言葉に幾人かが顔を上げる。
少なくとも勝利そのものについては、頭領自ら認めたのである。
だがフレンチの表情は少しも和らがない。
「だが、それと今回の件は別だ」
空気が再び張り詰める。
「勝手に舟を出した結果として戦場は混乱し、本来とは異なる形で戦うことになった。その責任は誰かが負わねばならん」
娘は俯いたまま、その言葉を聞いていた。
だがフレンチは視線を逸らさない。
そこに居るのは娘ではなく、規律を破った者だった。
「よって、お前たちには一先ず無期限謹慎を命じる」
広場がざわめくことは無かった。
むしろ多くの者が当然だと受け止めていた。
「その間、舟へ乗ることを禁ずる。また、頭領の娘であることを理由とした特別扱いも行わん」
娘は唇を噛み締めた。
本当なら言いたいことは幾らでもあった。
自分ならできると思っていたし、皆にも凄いと言われるはずだった。今回だって少し間違えただけで、本当は次ならもっと上手くやれるのだと訴えたかった。
だが広場で見た光景を思い出すたび、その言葉は喉の奥で消えていく。泣き崩れる遺族の姿も、並べられた遺体も、脳裏から離れなかった。
何を言ったところで、失われた命が戻る訳ではなかったのである。
「異論はあるか」
フレンチの問いに、娘も前へ出た男たちも何も答えず、ただ黙って頭を下げた。
「ならば従え」
フレンチが短く告げる。
娘は頭を下げ、一言だけ言葉を落とした。
「ごめんなさい」
フレンチはゆっくりと広場全体を見渡した。
その視線は遺体へ向き、遺族たちへ向き、そして生き残った湖賊たちへ向く。
「皆も見た通りだ」
低い声が静かに響く。
「今日、我らは湖を守ったが、その代償は決して軽くない」
誰もが黙って聞いていた。
「ここに居る者たちは家族であり、仲間だ。昨日まで共に飯を食い、共に酒を飲み、共に笑っていた者たちがこのような形で帰って来た」
広場へ重い沈黙が落ちる。
「儂は頭領として、その事実を忘れん。生き残った者たちも忘れるな。今日の勝ちは、ここに居る者たちが命を懸けて掴んだ勝ちだ」
その言葉に何人かは拳を握り締め、遺族たちもまた顔を上げていた。
「だからこそ、今は彼らを送ろう」
フレンチは遺体へ視線を向けた。
「本来ならもっと時間を掛けるべきで、もっと盛大に送り出してやるべきだ。だが戦時ゆえ許してくれ」
その言葉は遺族だけではなく、死者たちへ向けたものでもあった。
「簡素ではあるが、皆で見送る。我らの仲間として、湖を守った勇士として」
そう告げると、フレンチは静かに振り返る。
広場へ集まった湖賊たちもまた無言のまま動き始めた。
これから始まるのは裁きではない。戦いを終えた仲間たちを送り出すための時間だった。湖賊たちは静かに動いていた。
先程まで広場へ並べられていた遺体は、一人ずつ丁寧に運ばれ、湖岸へ寝かされていく。
本来であれば、もっと時間を掛けるべきだった。
死者を清め、家族や仲間たちが最後の別れを交わし、夜を徹して見送ることも珍しくない。だが今は戦時であり、共同軍が再び押し寄せて来ない保証も無い以上、いつものような送り方をする余裕は残されていなかった。
それでも湖賊たちは決して死者を粗末には扱わない。
濡れた髪を整え、顔に付いた泥や血を拭い、乱れた衣服を直しながら、せめて最後だけは生前の姿に近付けて送り出そうと、誰もが黙々と手を動かしていた。
その傍らには遺族たちの姿もある。
妻は夫の手を握り締め、母親は息子の頬を撫で、兄弟や友人たちも最後の別れを惜しむように傍を離れようとしなかったが、不思議なことに誰も取り乱して泣き叫ぶことはなかった。
悲しみが消えた訳ではない。広場で泣き崩れた者も居れば、声を枯らすまで名前を呼び続けた者も居た。それでも今だけは、死者を送り出すことを優先していたのである。
やがて準備が整うと、遺体は順に服に石を詰め込まれ湖中へと沈められていった。
湖で生まれ、湖で暮らし、湖で命を落とした者を再び湖へ返す。それは湖賊たちが続けてきた別れの形だった。
夕陽に染まった湖面へ、安らかに眠ることを願いつつゆっくりと沈められていった。
ただ頭を垂れながら、沈んでいく姿を見送る。それが彼らなりの敬意だった。命を落とした者へ敬意を払い、その旅立ちを邪魔しないよう、言葉少なに送り出すのである。
頭領であるフレンチもまた、黙ったまま湖を見つめていた。
今日失われた者たちの顔は全て知っている。長く同じ湖で暮らしていれば、それは当然のことだった。
だからこそ頭領としての責任も重い。
今、夕陽の中を沈んでいく一つ一つが、その代償そのものだった。
やがて誰からともなく白い花が湖へ投げられた。それは一輪では終わらず、遺族たちが投げ、仲間たちが投げ、子供たちもまた小さな手で花を湖面へ流していく。
花々は流れに乗り、広がりながら赤く染まった湖面へ散っていった。それは死者たちが独りではないという証でもあった。
共に生き、共に戦った者たちが居た。そして今もなお、その旅立ちを見送る者たちが居る。
その事実だけは、最後まで死者と共に在り続けるのである。
湖面が夕闇の中へ溶け込み、やがて判別も難しくなる頃になっても、湖賊たちはしばらくその場を動かなかった。
完全に見えなくなるまで見送ることもまた、彼らの習わしだった。
長い沈黙の後、フレンチは静かに口を開く。
「帰れ」
短い一言だったが、それで十分だった。
湖賊たちはそれぞれ頷き合うようにして散り始め、遺族たちも支えられながら住居へ戻っていく。
こうして湖を守った一日の終わりは、勝利の歓声ではなく、静かな別れと共に幕を下ろした。
夜が更けるにつれ、館の周囲は静けさを取り戻していった。
昼の戦いと、その後の水葬によって慌ただしく動き続けていた湖賊たちも、それぞれの持ち場へ戻り始めている。負傷者の世話をする者、壊れた舟の修理に取り掛かる者、見張りへ就く者と役割は様々だったが、少なくとも広場を埋めていた人影は既に失われており、館の中にも重苦しい静寂だけが残されていた。
その一室で、フレンチは一人机へ向かっていた。
酒は置かれているが、手は付けていない。祝い酒だと嘯いて飲む気分ではなかった。
結果だけを見れば湖賊側の勝利と呼ぶことに何の問題も無いのだが、それは戦場の表面だけを見た話だった。
頭領であるフレンチが見ているのは別の部分である。
フレンチの脳裏に浮かんでいたのは、今日失った者たちの顔であり、負傷して横たわる者たちの数であり、修理を必要とする舟の損耗である。
三兄弟はよく戦った。
本来の想定とはまるで異なる戦場だったにもかかわらず、あの三人が居たからこそ湖賊たちは戦線を維持できたのである。
しかし逆に言えば、あの三人ですら限界が近かったということでもあった。
もし自分の到着がもう少し遅れていたらどうなっていたか、考えれば考えるほど答えは暗かった。
今日と同じ戦いをもう一度繰り返せば、先に音を上げるのは間違いなく湖賊側だ。
そして次も同じことを繰り返せば、今度こそ湖賊の方が立ち行かなくなる。
頭領として、それだけは認めなければならなかった。
次を待っていては駄目だ。共同軍が戦いを終えたと思い気を緩め始める今夜こそ、こちらから仕掛ける機会だった。
そう結論が固まった時、フレンチの表情から迷いが消えた。
彼は立ち上がると部屋の外へ出て、近くに控えていた部下へ短く命じる。
「シーザーたちを呼べ」
使いはすぐに走り出し、館の中へ再び人の動く気配が戻り始める。
やがて三兄弟が揃って姿を現した。
四人が机を囲むと、フレンチは前置きをしなかった。
「このままでは持たん」
最初の言葉に、三兄弟も黙って頷く。
湖上での優位は揺らがない。しかし岸から矢を浴び続ける戦いは消耗が大き過ぎる。共同軍は兵を失っても補充できるが、湖賊にはその余力が無かった。
「次も同じ戦をやれば終わる」
フレンチの言葉に、今度も異論は出なかった。
皆同じ結論へ辿り着いていたのである。
「ならば待たん」
その一言で空気が変わる。
今度はこちらが動く話になる。
「夜のうちに集められる者を集める。使いを出せ。近隣の拠点にも知らせろ」
三兄弟の目付きが変わる。
戦いを生き延びてきた者特有の鋭さも戻り始めていた。
「明朝、儂が先頭に立つ」
その意味は重い。
最近の戦いでは頭領であるフレンチは後方に残っていた。
だが次は違う。自ら陣頭へ立つ。
それは頭領自身が、この戦いの重大さを理解している証でもあった。
三兄弟は互いに顔を見合わせた後、ほとんど同時に頷いた。
館の中ではすぐに人が動き始めた。
舟を準備する者が走り、各拠点へ向かう伝令も次々と夜の闇へ消えていく。
つい先程まで静まり返っていた館は、再び戦支度の気配に包まれ始めていた。
そしてその中心に立つフレンチは、窓の外に広がる夜の湖を静かに見つめていた。
明日の朝には決着を付ける。
その覚悟だけを胸に抱きながら、湖賊たちは夜明けへ向けて動き始めるのであった。
大陸歴一四〇七年六月九日
夜の湖は静かだった。
昼間にはあれほど舟が行き交い、怒号と悲鳴が響き続けていたというのに、日が沈んだ後の湖面には波の音だけが残り、岸辺に並ぶ共同軍の陣地でも、疲労に沈んだ兵たちが焚火の周囲で休息を取っていた。
もちろん警戒が無かった訳ではない。見張りは置かれ、焚火も絶やされず、湖岸には舟も並べられている。
だが彼らにとって、この日の戦いは既に終わったものだった。
湖賊は押し返した。
完全に勝った訳ではないとしても、少なくとも一日分の戦いは終わっている。そう考える者が大半だったのである。
一方、その頃の湖上では、幾つもの小舟が夜闇へ溶け込むように進んでいた。
櫂を操る者たちは必要以上の声を出さない。舟同士がぶつからぬよう距離を保ちながらも、誰も迷うことなく同じ方向へ進んでいる。
昼間ならば目印になるはずの湖岸も、この時間帯には黒い影にしか見えない。それでも湖で生まれ育った者たちにとっては十分だった。
どこに浅瀬があり、どこに流れがあり、どこを通れば音が響きにくいのか。それらは地図ではなく身体が覚えている。だから舟は止まらない。
静かに、しかし確実に共同軍の陣地へ近付いていく。
先頭に立つフレンチは何も喋らなかった。
必要な指示は既に出してあるのだから、今さら言葉を重ねる必要はない。
昼間の戦いで失った仲間たちの顔が脳裏を過ったが、それを口にすることも無かった。
今日の戦で死んだ者たちは戻らない。だが、その死を無駄にしないためならば、今夜やるべきことは一つしかなかった。
やがて東の空が僅かに白み始める。
夜と朝の境目だった。湖面には薄い靄が広がり始め、遠くの景色が輪郭を失っていく。
その光景を見たフレンチは小さく頷いた。
予定通り進んでいる。このあと朝の湖は風が変わる。そして、その風こそが今回の鍵だった。
気取られぬよう静かに舟を進める。靄の向こうには共同軍の舟が並んでいる。補給用の荷船も見え、岸辺には天幕もある。
十分近付いたところで、フレンチは一本の鏑矢を放つ。その合図は瞬く間に周囲へ伝わる。
次の瞬間、何本もの火矢が夜明け前の空へ放たれた。
赤く揺れる火が弧を描きながら飛び、岸辺へ繋がれていた舟へ突き刺さる。
次々と別の火矢が飛ぶ。
最初は小さな火だった。だが火は瞬く間に広がった。舟へ積まれていた荷へ燃え移り、縄へ燃え移り、乾いた木材へ燃え移る。
そして丁度その頃だった。
湖側から風が吹き始めた。朝の湖風である。
火はその風に押されるように陸地へ流れ込んだ。燃える舟から燃える荷へ、そして天幕へ。天幕から周囲の資材へ、炎はまるで生き物のように広がり始める。
共同軍の陣地が騒然となった。
怒鳴り声が上がり、兵たちが飛び起きる。消火のために走り回る者も居れば、武器を掴んで湖岸へ向かう者も居る。
だが火の勢いが速い。
積み上げられていた矢束へ引火し、別の場所で再び炎が上がる。繋がれた馬が暴れ出し、人々がその制御に追われる。混乱は一気に陣地全体へ広がっていった。
それでも共同軍は崩壊しなかった。
指揮官たちは即座に動いていた。燃えた場所を切り捨てる。兵を集め、残った戦力を再編する。火の勢いを見極めながら後退の準備を始める。
彼らもまた正規軍だった。
混乱しても、全てを投げ出して逃げるほど脆くはない。
一方の湖賊たちも深追いはしなかった。
火は十分に広がり、目的は果たした。逃げ遅れた舟を狙い、放置された荷は回収しながらも、必要以上に岸へ近付こうとはしない。
昼間の戦いで散々思い知らされた通り、岸には弓兵が居る。火の向こうからでも矢は飛んで来る。実際、何本もの矢が湖面を裂き、近付き過ぎた舟の周囲へ突き刺さっていた。
湖賊側にも負傷者は出るし、火に巻き込まれる舟もある。だが誰も無理はしない。
今日必要なのは壊滅的勝利ではなく、共同軍を追い払うことだった。
そして夜明けが完全に訪れる頃には、その目的は達成されていた。
共同軍は撤退を始めていたのである。
燃え続ける陣地を背にしながら、兵たちは隊列を整え、秩序を保ったまま湖岸から離れていく。
踏み留まることをしなかった。これ以上戦いを続ける意味は無いと、判断したのである。
フレンチはその様子を静かに見つめていた。
共同軍が去っていく。
しかし、それだけだった。
昨日死んだ仲間たちは戻らず、失った舟も戻らない。
だから彼は歓声を上げなかった。ただ撤退していく共同軍を見送りながら、小さく息を吐く。
ようやく終わったという思いだけが胸の奥に残っていた。
共同軍の最後尾が湖岸の向こうへ消えていった頃には、朝の騒乱もようやく落ち着きを取り戻し始めていた。
燃え続けていた陣地からはなお黒煙が立ち上っていたものの、その距離は既に遠く、先ほどまで湖岸一帯を覆っていた怒号や喧騒も、今では風に流される残響のようにしか聞こえない。
勝負は付いたのである。共同軍は撤退を選び、湖賊たちは湖を守り切った。
それだけは誰の目にも明らかだった。
フレンチは撤退していく共同軍の姿を最後まで見届けると、小さく手を上げた。
周囲の舟は自然と道を開き、戦場全体を支えていた頭領の舟は、そのまま館のある方角へ向かって進み始める。
後のことは任せた。
言葉にすればそれだけの話だったが、その意味を理解できない者は居なかった。今日の戦いは終わったのである。
ならば頭領は頭領として帰り、勝利をまとめなければならない。
湖賊たちもまた、それぞれの仕事へ戻らなければならなかった。
そのためフレンチは振り返らない。
湖上では既に後始末が始まっており、自分が居なくとも仲間たちが動くことも分かっていたからである。
その後の湖上では、戦いの余韻が残る中で回収作業が進められていた。
流された舟を探し回る者が居れば、沈みかけた舟へ縄を掛けて曳航する者も居る。
負傷者を運ぶ舟もあれば、折れた櫂や使えそうな材木を拾い集める舟もあり、湖賊たちは誰に命じられるでもなく、それぞれの役目へ戻っていた。
そうした光景は彼らにとって決して珍しいものではない。
戦いが終われば後始末を行い、使える物は回収し、傷付いた者を助け生き残った舟を修理する。
湖で生きる者たちは昔からそうしてきたのである。
誰しも疲労の色は濃く、負傷したまま働いている者も居るが、指示を飛ばさずともそれぞれが自分の役目を理解し、必要な場所へ自然と動いていく。
朝の風は穏やかさを取り戻し、波は静かに岸を打ち始める。こうして戦の痕跡を残しながらも、湖は少しずつ本来の静けさを取り戻していった。
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