幕間11 湖上の戦い(二)開かれた戦端
大陸歴一四〇七年六月八日
朝靄の残る街道を長い列がゆっくりと進んでいた。先頭を歩く兵たちはまだ日も高くないというのに既に汗を流していたが、それも無理は無い話である。彼らは今、湖へ運び込むための小舟を肩へ担ぎながら街道を進んでいたのだ。
湖へ繋がる川を持つレーヴェン家は、今回の討伐に際して近隣の町村から大量の小舟を徴発していた。本来であれば河川を利用し、そのまま湖へ乗り入れる方が遥かに楽なのだが、それでは途中で湖賊に発見される危険があるため、舟を陸へ引き上げて湖岸近くまで運び込むという方法が取られている。
もっとも、その事情を理解していたとしても、実際に舟を担がされる兵たちからすれば面白い話ではなかった。
「重ぇ……」
「まだ着かねぇのか」
「なんで俺たちが舟なんか担がなきゃならねぇんだ」
列のあちこちから不満の声が漏れるのも当然である。彼らは水兵どころか船乗りですらなく、陸上で戦うのを主とした兵であり、中には徴兵されたばかりの若者も混ざっている。それが慣れぬ舟を担いだまま、延々歩かされているのだから文句の一つも出ようというものだった。
しかし、それを聞いていたレーヴェンの将は顔色一つ変えなかった。今更だからである。この戦へ参加するたびに同じ文句を聞き、そのたびに同じことをやらせてきた。もはや珍しくも何ともない光景だった。
将は街道の先に見え始めた湖面へ視線を向ける。朝日を受けた水面は静かに輝いており、その向こうには親の代から争い続けている湖賊たちの拠点が存在していた。
「湖賊の動きは」
「今のところ確認されておりません」
その報告を聞いた将は特に表情を変えることもなく頷いた。元より湖賊がこの段階で動くとは思っておらず、むしろ予想通りの返答だったのである。
奴らは慌てない。湖の上では圧倒的な優位を持っている以上、こちらが近付いた程度で動く必要はないのだ。湖上へ十分に引き付けてから叩くのが奴らのやり方であり、長年続いてきた戦いの形でもあった。だからこそ将も焦らない。
湖賊を知らぬ者であれば不気味に感じたかもしれないが、この戦へ何度も参加してきた者たちにとっては見慣れた光景でしかなかった。
湖岸へ到着した兵たちは担いでいた舟を次々と降ろしていったが、まだ戦そのものは始まっていないにも関わらず、その顔には既に疲労の色が浮かんでいた。舟を担いで街道を歩くだけでも相応の重労働であり、汗まみれになっている者も少なくなかったのである。
「毎度思うんですがな」
一人の兵が肩を回しながら呟く。
「川があるのに、なんで舟を担ぐんでしょう」
「頭の良い方々には色々考えがあるんだろうさ」
隣の兵は苦笑した。
「俺たちには分からんがな」
もっとも、その疑問は無理もない話だった。
理屈としては理解できる話だったが、理解できたところで担ぐ兵の肩が軽くなる訳ではなかった。
それでも湖岸には既に数多くの舟が並び始めていた。
近隣の村々から徴発された小舟であり、決して立派な舟ではないが数だけは多い。それこそ、この戦のためだけに集められたと言って良いほどだった。
レーヴェンの将は、その様子を静かに眺めていた。
湖賊との戦いは長らく続きため、将自身も幾度となく参陣してきた。
そして、そのたびに同じ結末を見てきた。湖の上で湖賊と戦えば負ける。それが長年積み重ねられてきた現実だった。彼らは舟の扱いを知り、風を知り、水を知り、流れを知っている。一方でこちらの兵は、舟を漕ぐことそのものに慣れていない者も珍しくない。その差は戦が始まれば嫌というほど現れる。だが、それでも戦を止める訳にはいかなかった。湖賊が健在である限り河川交通は脅かされ続ける以上、戦う以外の選択肢など存在しなかったのである。
そして近年、レーヴェン家の考え方は少しずつ変わり始めていた。
湖を奪うという理想そのものは変わらない。だが、一戦で決着が付くとも考えておらず、湖賊の戦力を削り続けることこそが重要視されるようになっていた。
重要なのは舟を失わせ、人を失わせることである。湖賊は領主ではない以上、領地や領民という物を持たない。兵も舟も失えば簡単には補充できない。だから一度で勝てなくとも構わない。一つずつ削ればいつか均衡は崩れる、という領主の考え方に、将も一定の理解を示していたのである。
だからこそ焦りは無い。
今日も恐らく湖は奪えないことを、将自身が誰より理解していたが、それでも構わない。
湖を奪うだけが戦ではなく、勝つことだけが戦でもないのである。
「準備完了しました」
部下の報告を受けた将は静かに頷いた。
やがて湖岸一帯へ号令が響き、舟を降ろした兵たちが慌ただしく持ち場へ散っていく。矢束が運ばれ、弓兵たちが列を整え、小舟は順番に水面へ押し出され始めた。
静かな湖面へ最初の舟が滑り出す。
こうして、いつも通りの戦が始まろうとしていた。
そして、その頃。
本来であればまだ動くはずのない湖賊たちの拠点では、一人の娘が勝手に舟へ飛び乗ろうとしていた。
湖賊たちが動き出すのはまだ先の話のはずだった。
敵を十分に湖上へ誘い出し、陸からの援護が届きにくい位置まで引き付けてから出撃する。
それが長年の経験によって築き上げられた戦い方であり、湖賊たちにとっては半ば習慣のようなものである。
舟着き場では既に出撃準備そのものは整っていたが、誰一人として慌てている様子は無かった。
櫂の状態を確認する者が居れば、縄の結び目を見直している者も居る。
舟へ矢束を積み込む者たちも居たが、その手付きには余裕があった。
どうせ敵はすぐには来ない。
いや、正確には来るが、まだこちらが出る段階ではない。
それを全員が理解していた。
「親父には報告したのか」
舟の脇で装備を整えていたシーザーが振り返る。
「さっき伝えに行ってた」
返事をしたのは弟のサウザンだった。
「そうか」
シーザーは頷いた。
今日の戦もわざわざ親父を出す必要はない。
それは特別、珍しい話でもない。
最近では父フレンチには館でゆっくりしてもらい、こうした戦は自分たちが指揮をすることが増えていた。
無論、父が衰えた訳ではない。今でも舟へ乗れば誰よりも前へ出たがるし、戦えば誰よりも声が大きい。それでも最近は後ろで眺めていてくれれば十分だった。自分たちもまた、父が安心して任せられるだけの経験を重ねてきたのである。
それだけの話だった。
「さっさと終わらせて報告だけ持って帰れば良い」
シーザーがそう言うと、
「親父も最近は戦果より無事の方を気にするんだよな」
もう一人の弟バルサミコが苦笑した。
「歳かな」
「それ言うと親父本気で怒るから、絶対言うなよ」
そんな言葉を交わしながらも、三人の手は止まらなかった。
その動きには一切の無駄が無かった。湖上戦は彼らにとって特別なものではなく、物心付いた頃から湖で育ち舟と共に暮らしてきた以上、この湖で戦うこと自体が日常の延長に近かい。三兄弟も幼い頃から父の背中を見ながら学んできた。だからこそ、この時点で焦っている者は誰も居なかった。
少なくとも、その平穏が次の瞬間には吹き飛ぶなどとは思ってもいなかったのである。
「若様ぁぁぁ!」
突然、一人の若者が桟橋の方から転がるように駆け込んできた。
その顔色を見た瞬間、シーザーは眉をひそめる。
戦が近い以上、慌てた報告そのものは珍しくないのだが、その表情はどこか違っていた。
「どうした」
「姫様が!」
三兄弟の動きが止まる。
「舟に乗りました!」
「へ……そりゃ、舟くらい乗るだろう」
「違います!」
若者は半ば悲鳴のような声を上げた。
「出ました!」
一瞬。
本当に一瞬だけ、その場の全員が意味を理解できなかった。
だが理解した次の瞬間には、三兄弟の顔色が揃って変わっていた。
「出た?」
「はい!」
「どこへ」
「湖です!」
その報告に一時沈黙が流れるも、急に意識を取り戻したかのように反応する。
「はぁぁぁ!?」
三人の声が見事に重なった頃には、既に一本の小舟が岸を離れ始めていた。
言うまでもなく妹である。
当の本人にしてみれば、特別なことをしているつもりは無かったのだろう。
戦になれば出る。舟を扱えるのであれば戦う。湖賊の娘として育ち、幼い頃から舟と剣を教え込まれてきた以上、それは本人にとって極めて自然な発想だったのかもしれない。
実際、父フレンチは幼い頃から様々なことを妹に手取り足取り教えていた。
ならば自分も戦えると考えるのは、むしろ当然だったと言って良い。その結論へ辿り着くこと自体は不思議でも何でもなかったのかもしれない。
だが兄たちはまさか、相談もなく勝手に出るなんて思ってもいなかった。
それに戦場へ出る妹を見送って平然としていられるほど、三人は出来た兄でもなかったのである。
「止めろ!」
シーザーが叫ぶ。
「何してる!」
サウザンも叫ぶ。
「待てぇぇぇ!」
バルサミコは既に舟へ飛び乗っていた。
三人とも顔面から血の気が引いていた。戦だからではない。敵だからでもない。問題は妹だからだった。それが、自ら戦場へ向かっているのである。
「櫂だ!」
「舟を出せ!」
「急げ!」
本来であれば出撃には順序がある。
合図があり、隊列があり、それぞれの持ち場があるのだが、そんなものを気にしている者は既に居なかった。
三兄弟が我先にと舟へ飛び乗り、その後を周囲の者たちが慌てて追う。
結果として、本来整然と行われるはずだった湖賊たちの出撃は、前代未聞と言って良いほど慌ただしいものとなった。
後に遠方から戦を見ていた者たちは、
湖賊の舟が一隻だけ突出し、それを追うように次々と舟が現れたと語ることになるのだが実際のところ、その先頭を走っていたのは湖賊たちの切り札でも何でもない。
勝手に出撃した頭領の娘であり、その後ろを全力で追い掛けていたのは、半ば取り乱した三人の兄たちだった。
姫の舟は、誰よりも早く湖上へ出ていた。
朝日を受けた湖面は穏やかで舟足も軽く、櫂を入れるたびに小舟は素直に前へ進んでいく。その速度は決して遅くなく、むしろ姫自身が思っていた以上に速かった。
湖面の先では、共同軍の舟が次々と押し出され始めていたのだが、その様子を見た姫は思わず眉をひそめる。
あまりにも酷かったからである。
櫂の動きは揃わず、真っ直ぐ進めている舟の方が少ない。前へ出ようとする舟と流される舟が噛み合わず、危うく衝突しかけているものまで見える有様であり、父や兄たちの舟ではまず見たことのない光景だった。
あれで本当に湖上に出てくるつもりなのだろうかと思わずにはいられず、下手をすれば泳いだ方が速いのではないかとさえ感じられた。少なくとも姫の目にはそう映っており、父や兄が出るまでも無い、いや自分ならいつもより早く追い払えるかもしれないという考えすら浮かんでいた。
だから躊躇は無かった。
舟首へ立ち弓を取り、湖面を滑る一隻へ向けて矢を放つ。
すると放たれた矢は真っ直ぐ飛び、一人の兵へ突き刺さった。
その様子を見た姫は思わず口元を緩めた。
やはり大したことはないと、そう思ったのである。
だが、その考えはすぐに覆されることになる。
「敵襲!」
「撃て!」
湖岸から怒号が響いた。
そして次の瞬間には、無数の矢が空を覆っていた。
姫は一瞬何が起きたのか理解できなかったのだが反射的に身を伏せることだけはできた。
幼い頃からフレンチに叩き込まれてきた経験が身体を勝手に動かしたのであり、その判断自体は間違っていなかった。
実際、数本の矢が頭上を掠め、水面へ突き刺さり、あるいは舟板へ食い込んでいる。まさか反撃が来るとは考えてもいなかった姫は、その音に驚き戸惑いを感じていた。
そしてその直後に聞こえた音に施行は停止する。矢が舟板へ食い込む音ではなく、もっと柔らかなものへ無理やり捻じ込まれるような、生理的な嫌悪感を覚える鈍い音だった。
「ぐっ……!」
苦しそうな声が上がった。
振り返った姫の視線の先で、後方の男が肩を押さえていた。
肩を押さえて蹲る男を見た瞬間、何が起きたのかは理解できた。それでも頭が追い付かなかったのは、その男が幼い頃から見知っている顔だったからである。
昔から拠点に居た男で、兄たちと一緒になって遊んでくれたことさえあった。
その男が今、苦痛に顔を歪めている。
再び飛来した矢が別の男の脚へ突き刺さった。
先ほどまで軽口を叩いていた男たちが次々と顔色を変え、負傷者を支えながら怒鳴り声を上げている。
「姫様! そのまま伏せていてください!」
肩を射抜かれた男が歯を食いしばりながら叫ぶ。
その声でようやく我に返った。
戦なのだから、矢を放てば相手も矢を放つ。そんな当たり前のことを姫は知らなかった。
姫にとって戦とは、父や兄たちが湖へ出て、敵を追い払い皆で帰って来るものだった。傷付くことはあっても、それはどこか遠い出来事であり、自分の目の前で仲間が血を流す姿を見たことは一度もなかった。
だからこそ、肩を押さえて苦悶する男の姿が理解できなかったのである。矢を放てば敵が倒れる。それが戦だと思っていた。しかし現実には、自分が放った矢によって始まった戦の中で、苦しんでいるのは敵だけではなかった。
本来であれば、湖賊たちはまだ出撃していない。敵を十分に湖上へ誘い出し、陸上の弓兵が届かなくなったところで初めて動き出すのが彼らの戦い方であり、長年にわたって積み重ねてきた勝利の大半もまた、その優位な戦場を作り出すところから始まっていた。ところが今、戦場は共同軍の弓兵が最も力を発揮できる湖岸近くにあり、その不利な位置へ最初に飛び込んでしまったのは、他ならぬ姫自身だった。
姫は、自分が踏み込んだ場所が、湖賊たちが何十年も避け続けてきた死地であることを、まだ知らなかった。そして、その無知こそが、この日の戦いを大きく狂わせることになる。
いや、実際には兵は姫を止めていた。ただ姫が聞く耳を持たず、またそれを止めるだけの力を持つ者が同乗していなかった事が悲劇を起こす。
その状況を姫が理解するより早く、湖面の向こうから聞き慣れた怒声が響く。
「止まれぇぇぇぇぇ!」
振り返ると、そこには凄まじい勢いで湖面を駆ける小舟の群れがあった。
先頭を走るのはシーザー。
その左右にはサウザンとバルサミコ。
三兄弟は鬼気迫る形相で櫂を振るいながら、全力で妹の舟を追い掛けていた。
「何をやっている!」
「近過ぎる!」
「戻れ!」
三人の怒声が重なるのだが、既に戦端は開かれていた。
妹が放った最初の矢によって共同軍は敵の出現を知り、共同軍の放った矢によって湖賊たちは予定より遥かに早い開戦を強いられていたのである。
シーザーたちはいつも通り、敵をさらに湖上へ誘い出し、陸からの援護が届かぬ位置で包囲するつもりで準備をしていたのだが、今更どうしようもない。
戦場は湖岸近くという全く想定外の場で、小競り合いではなく決戦をせざるを得ない状況に既に陥っていた。
それでも湖賊たちは退かなかった。いや、正確には退けなかったと言うべきであろう。既に妹の舟は敵前へ突出しており、ここで引けば大切な妹を、湖賊の姫を見捨てる形になる。
シーザーの舟が正面へ出る。サウザンは右へ回り、バルサミコは左へ流れるように進路を変えた。三隻は互いに距離を保ちながら湖面を走り、突出した妹の舟を囲むように位置を取り始める。その動きには湖上で鍛えられてきた者だけが持つ確かさがあり、先程まで狼狽していたとは思えぬ速度で戦列が整えられていった。
こうして湖上の戦いは、本来あるべき形とは程遠いまま幕を開けることとなったのである。
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