幕間10 湖上の戦い(一)序幕
大陸歴一四〇七年六月八日
湖上を渡る風は穏やかだった。
空には雲も少なく、水面は陽光を受けて静かに揺れている。
少なくとも戦の朝とは思えぬほど、のどかな景色だった。
そんな湖を見下ろしながら、フレンチ=ドレッシンは部下からの報告を聞いていた。
「頭、あいつら、どうやら動きそうですぜ」
その言葉に、フレンチは軽く頷く。
驚きも無ければ緊張も無い。
ただ、やはりかという程度の反応だった。
「そうか」
短く答えながら湖の向こうへ視線を向ける。
二日前、この湖の近隣へレーヴェン家が軍を進めてきた。
それだけならまだいつものことだったのだが、今回はヴァルケン家とグライフ家まで引き連れ、この湖近隣の街道へと陣を敷いた。
聞けば三家共同軍だそうである。
随分と大層な話である。
もっとも、だからどうしたという話でもある。
理屈は分かる。
この湖を巡る争いは今に始まったことではなく、レーヴェン家からすれば河川交通を支配している以上、その流れ着く先である湖まで押さえたいと思うのは当然だった。
湖を押さえられなければ河川の価値も半減する。
むしろ攻めて来ない方がおかしい。
親父の代から続いている話だ。
いや、親父に奪われて以降ずっと続けていると言うべきか。
だから攻めて来ること自体は構わぬ。
それは良い。
ただ、その熱意と言うべきか執念と言うべきか、そこだけは毎度感心してしまう。
何しろ負けても負けても諦めぬ。
普通ならどこかで嫌になりそうなものだが、それでもまた軍を集めて攻めて来る。
その繰り返しだった。
「まあ、執念深さだけは感心するがな」
思わず独り言が漏れる。
何度負けても諦めない姿は、立派と言えば立派だった。
大したものだ。
儂なら面倒になって投げ出している。
いや、投げ出さんな。
この湖を奪われたら困るからな。
うむ。やはり攻めて来ること自体は正しい。
その根気には素直に頭が下がるというものだ。
もっとも、実際には敵なのだから頭を下げる気など無い。
感心はしてやるが、称賛はしてやらぬ。
むしろ舌の一つでも出してやりたいくらいだった。
問題はそこではなく、その後である。
二日前の時点で、既に奴らの動きは凡そ把握できていた。
何故なら、あやつらはいつも同じことをするからだ。
それも驚くほど律儀に策も手も変えぬ。
毎度毎度、驚くほど同じ手を使ってくるのだから、こちらも毎度同じように迎え撃つ。
特別なことは何も無い。
恒例行事とは、こういうものを言うのだろう。
「ならば、我らもそろそろ準備をするか」
そう言って立ち上がりながら、フレンチは苦笑した。
「ああ、慌てんで良いぞ。どうせ真面に漕げやせん」
周囲の者たちも笑う。
理由は誰もが知っていた。
そうなのだ。
あやつらは舟を担いで来るのである。
初めて聞いた時は耳を疑った。
今でも少し疑っている。
何しろ目の前に湖へ繋がる川が存在しているにも関わらず、わざわざ舟を陸へ引き上げ、大勢で担ぎながら街道を進んで来るのだから。
意味が分からぬ。
本当に意味が分からぬ。
湖を我らが実効支配しているのは事実だ。
だから川を下れば途中で迎撃される危険もある。
そこまでは理解出来るのだが、だからといって舟を担ぐ理由にはならぬだろう。
川があるのだぞ。
何故使わぬ。
川のために河川交通を支配しておるのではないのか。
レーヴェン家とはそういう家ではなかったのか。
それとも儂の知らぬところで河川交通とは舟を担ぐ競技に変わったのだろうか。
もしそうなら儂が悪い。
謝ろう。
だが違うだろう。
どう考えても違う。
湖賊として長年生きてきたが、未だに理解できない。
しかも運んで来るのは陸兵である。
そこもまた分からぬ。
何故水兵を使わぬのだ。
河川を支配している家なのだから、水に慣れた者も居るだろうにも関わらず毎回陸兵がやって来る。
舟に慣れておらぬ者たちが。
水の流れも知らず、風の癖も知らず、櫂の扱いにも慣れておらぬ者たちが、舟の運搬で疲れた状態で水上戦を挑む。
そのたびに沈められる。
本当に分からぬ。
いや、もしかすると儂が知らぬだけで、陸の者たちには何か深遠な考えがあるのかもしれぬ。
そう思って昔は真面目に考えたこともあった。
だが何年考えても答えは出なかった。
最近では考えるだけ無駄だという結論に落ち着いている。
分からぬものは分からぬ。
「せめて水兵を連れて来れば良いものを」
「頭、それ言っちゃ駄目でしょう」
「何故だ」
「本当にやり始めたら少し面倒になりますぜ」
「少しか?」
「少しですな」
少しだけだった。
負けるとは思わない。
ただ、今より多少は戦いになる。
それだけの話である。
「まあ、どちらにせよ同じか」
結局のところ、水の上は自分たちの庭だった。
湖の上で負ける姿など、正直想像できなかった。
だからこそ余計に不思議なのである。
何故そこまでして同じ失敗を繰り返すのだろうか、と。
もっと良い方法があるだろうに。
そんなことを考えながら、フレンチは遠くの湖面へ目を向けた。
今日もまた、いつもの戦が始まろうとしていた。
「シーザーたちは、どうしておる」
「若さんたちは、既に戦支度してますぜ」
その返答を聞き、フレンチは小さく頷いた。
最近は、自分が前へ出る機会も随分と減った。
別に歳を取ったからではない。
身体のどこかを悪くしたわけでもなければ、大物ぶって後ろへ引っ込んだつもりも無い。
ただ、気付けば息子たちが育っていたのである。
戦の準備を整え、仲間へ指示を出し、舟を率いて湖へ出る。
そうした役目を、今では自然と息子たちが担うようになっていた。
しかも困ったことに、親父は座って見ていろなどと言い出す。
昔は舟へ乗るたびに後ろを付いて回っていた癖に、いつの間にそんな立派なことを言うようになったのだろうか。
少し寂しい気もする。
だが、それ以上に嬉しかった。
恐らく儂は果報者なのだろう。
まだ身体は十分に動くし、剣だって振れる。舟へ乗れば若い者たちにも負けぬつもりでいるし、実際に戦場へ出ろと言われれば今でも喜んで先頭へ立つだろう。
それにも関わらず、自分が最前線へ出るまでもなく息子たちが戦支度を整え、仲間たちを率い、湖へ出て行く姿を眺めながら、その働きぶりを報告として聞いていられるのである。
そんな贅沢が許される日が来るなど、若い頃には想像したこともなかった。
だからこそ、最近は別のことを考えるようになった。
息子たちに陸を見せてやりたい。
それを殊更強く思うのである。
別に湖賊を辞めさせたいわけではない。
水の上を捨てろと言いたいわけでもない。
ただ、一度くらいは知っていても良いのではないかと思うのだ。
陸にはどんな暮らしがあり、どんな人々が生きているのか。
水の上とは何が違うのか。
そうしたものを、自分の目で見た上で選ばせてやりたい。
儂自身、陸で暮らした記憶など幼い頃のものしか残っていない。
それでも尚、時折思い出すことがある。
土の匂い、畑の景色、祭りの日の賑わい。
今となっては曖昧な記憶でしかないが、それでも心のどこかに残り続けている。
気付けば、そんな景色を思い出していることがある。
別段それを、息子たちへ押し付けるつもりは無い。
陸を知った上で、それでも湖を選ぶならそれで良い。
だが、何も知らぬまま一生を終えるのは少し違う気がしていた。
もし子供たちへ、その景色を見せられぬまま人生を終えたなら、きっと儂は最期に少しだけ悔いる。
その思いを湖賊の頭たる自分の立場では、誰にも言えずにいるのだった。
そんなことを考えながら湖を眺めていたフレンチだったが、すぐに小さく頭を振った。
感傷に浸るのは後だ。
今日は戦の日である。
自分は出陣せぬとしても、やるべきことは残っていた。
戦へ向かう者たちへ声を掛け、残る者たちを安心させること。
それは昔から変わらぬ頭の仕事だった。
舟着き場へ向かえば、既に多くの者たちが支度を始めていた。
櫂を運ぶ者、縄を点検する者、鎧の紐を締め直している者、仲間と冗談を言い合う者など様々だ。
表面上は気楽そうに見えても、戦へ向かう以上は誰しも多少の緊張を抱えている。
だからフレンチは一人一人へ声を掛けて回った。
「派手に暴れるのは構わんが、死ぬなよ」
「分かってますぜ」
「嫁さん泣かせたら帰ってきてから儂が殴るからな」
「そりゃ敵より怖えや」
そんな軽口が飛び交うが、それで良い。
笑えるうちは大丈夫だ。
そして今度は見送る側へ目を向ける。
残される者たちの不安は、戦う者たちより遥かに大きい。
だからこそ頭が堂々としていなければならない。
「心配するな」
フレンチは胸を張った。
もちろん戦に絶対などない。
それでも頭が不安そうな顔を見せる訳にはいかなかった。
皆が信じられるように振る舞うのが、頭領の役目なのである。
さて、戦には参加せぬとしても、頭としてやるべきことはやった。
後は息子たちの報告を待つだけである。
そう考えながら歩き出したところだった。
「頭! 大変ですぜ!」
突然、一人の兵が慌てた様子で駆け込んできた。
顔色は悪く、息も上がっている。
どうやら冗談ではなさそうだった。
「頭。大変です」
それは今聞いた。
などと言っている場合ではないらしい。
フレンチは努めて落ち着いた顔を作る。
頭が慌てれば周囲も慌てる。
こういう時こそ堂々としていなければならない。
「どうした」
出来るだけゆったりとした声で問い掛ける。
落ち着け、慌てるな。
そう促すつもりだった。
「姫さんが!」
「どうした!」
同じ言葉を発したはずだった。
だが娘の話だと分かった瞬間、威厳も何も吹き飛んでいた。
兵も一瞬だけ肩を震わせる。
だが今はそこを突っ込んでいる場合ではない。
「姫さんが、準備していた舟に飛び乗って勝手に出撃してしまいました」
「な、何をやっとるんだ、あのお転婆が――!」
思わず頭を抱える。
なんでそんな真似をしたのか、本当に意味が分からぬ。
舟に乗りたいと言えば乗り方を教えた。
剣を振りたいと言えば剣を教えた。
危険な場所へ行きたいと言えば、儂も一緒に付いて行って対処法まで教えてやった。
徹底的に本人のやりたいことを、好きにやれるように全力で育てたのだ。
親として当然である。
なのになぜ、勝手に戦場へ飛び出す。
あの阿保娘が。
何を考えておるのだ。
……いや、やりたいと思ったから飛び出したのかもしれぬ。
「シーザーたちはどうした」
「若さんたちも姫さんが出たと聞いて慌てて舟へ飛び乗りました。今頃追い掛けていると思いますが、間に合うかどうか……」
そこまでは良い。
いや良くはないが、まだ分かる。
問題はその後だった。
「他の拠点への連絡も間に合ってません。それに策の共有も出来てませんぜ」
フレンチは思わず額を押さえた。
いつもなら各拠点が連携し、それぞれの持ち場から湖へ出る。
湖賊たちは長年の経験で互いの動きを把握しているため、細かな説明が無くとも戦える。
だが今回は違う。
娘が飛び出した。
息子たちが追い掛けた。
その結果、全体の流れが狂っている。
もっとも。
「相手は舟に慣れぬ陸兵だろう。恐らく何とかなる」
実際のところ、そう思っていた。
湖の上である。
多少段取りが狂った程度で負ける相手ではない。
しかし兵は微妙な顔をしている。
「いや、その……姫さん、妙に速いんですわ」
「何?」
「一隻だけ突出しそうでして」
フレンチは沈黙した。
それは確かに問題だった。
何しろ操船技術を教えたのは自分である。
しかもかなり熱心に教えた。
その結果として、娘は同年代どころか大人顔負けの技量を身に付けてしまった。
速いだろう。
そりゃ速い。
そこらの者より速くて当然である。
何しろ自分が教えたのだから。
うむ、実に誇らしい……ではない。
落ち着いている場合ではなかった。
「儂も出る。急いで準備しろ」
「え、頭も出撃されるので?」
「当たり前だろうが」
即答だった。
考える余地など一切無い。
「館で娘の無事を待つだけなど、気が触れてしまうわ。急げ」
「は、はい!」
兵が慌てて駆け出していく。
フレンチもまた踵を返した。
のんびりしている場合ではない。
急いで館へ戻り、鎧を着けねばならなかった。
頼むから早まった真似をしないでくれよ。
全く。
……誰に似たんだ、あのお馬鹿は。
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