幕間9 どこへ行こうか
大陸歴一四〇七年三月三十日
燃え落ちるミュラー家の館を最後に見たのは、もう二十日も前のことだった。
あの日からセアドは、ただ山の奥へ奥へと進み続けている。
どこへ向かうのかと問われれば、自分でも答えられない。
目的地など無かった。
ただ一つ、生き延びることだけを頭に置きながら、来る日も来る日も道なき道を歩き続けていただけである。
方角などとっくに失われていたが、全く右も左も分からないというわけではない。
朝になれば日が昇り、夕になれば日が沈む。
その様子を眺めながら、おおよそこちらが東で、あちらが西だろうと判断し、何となく進む方向を決めることができた。
ただ地図も無ければ目印も無いのだから、あるのはその程度の曖昧な感覚だけだった。
戦の日に持ち出した保存食も既に尽きている。
今では朝露を集め、木の実を見つければ齧りつき、沢を見つければ顔ごと沈めるようにして水を飲み、運良く野ネズミでも捕まれば火に掛けて腹へ収める。
そこに旨いも不味いも無い。食わねば死ぬ。
だから食う。
極めて単純な話だった。
父の最後の言葉もまた、同じくらい単純だった。
――生き延びろ。
たったそれだけである。
だから生きている。それ以外に理由らしい理由も無かった。
最初の数日間は、さすがに慎重に行動していた。
闇雲に山を歩き回るような真似はせず、身を隠せる場所を優先して選び、周囲の音に耳を澄ませながら進む。
戦そのものは終わったとしても、残党狩りや敗残兵の追跡が行われていないとは限らない。
少なくとも、自分が知る限り戦というものは、勝敗が決した瞬間に全て終わるほど綺麗なものではなかった。
だから慎重に動き、危険を避け、状況を把握しながら進んだ。
昔から、その手のことは得意だった。
感情に流されず、一歩引いた場所から物事を見る。
周囲からは冷静だとか、俯瞰しているだとか、そういう評価を受けることも多かった。
もっとも、セアド自身は少し違う考えを持っていて、別に感情を抑えていたつもりはない。
ただ、兄を見て育った結果として、それ以外の生き方を選んだだけだった。
幼い頃から兄ファビオは特別だった。
誰かが先頭に立たなければならない場面になると自然と前へ出る。
誰かが決断を下さなければならない場面になると迷わず決める。
そして不思議なことに、その背中を見た人間たちは当たり前のようについていった。
兄が右を向けば皆も右を向き、左を向けば皆も左を向く。
兄が怒れば皆も怒り、兄が笑えば皆も笑う。
父サエルにも似た、その性質は自分にはなかった。
あれは技術ではない。
努力で身につくものとも違い、生まれながらに持っている何かだ。
少なくともセアドはそう結論付けている。
そして同時に、自分には無いとも理解していた。
だから競わなかった。
競って勝てる相手ではないと、かなり早い段階で見切りを付けていたのである。
ならば何をするべきか、という問いの答えは単純だった。
兄に出来ないことを探し、あるいは兄がやりたがらないことを引き受ける。そうして補佐としての価値を示す。気付けばそれが当たり前になっていた。
兄が何を考え、何を望み、何を優先するのかを考え、その不足を埋めるために動く。そうやって生きていくと決めた。
もっとも、兄には案外不足している部分が少なかった。
探してみれば多少はある。だが探さなければ見つからない程度には少ない。
そのためセアドは、不足を補うというより、面倒事を先回りして片付ける方へと自然に役割を変えていった。
結果として周囲からの評価は悪くなかった。
聡明だとか、冷静だとか、補佐向きだとか、色々と言われた記憶がある。
だがその実態は、ただ兄に「お前は不要だ」と言われたくなかっただけなのだった。
そのために自分の価値を示し続けてきた。
言葉にすると随分後ろ向きな理由にも聞こえるが、不思議なことに本人はそれほど悲観していない。
むしろ長年続けているうちに慣れてしまった。
人というものは案外適応する生き物らしい。
最初は処世術の一つだったはずなのに、いつの間にかそれが普通になっている。
今では意識せずとも自然に出来るのだから、習慣とは恐ろしいものである。
だが、今は平常ではなかった。
比べられる兄も居なければ、比べてくる兄弟や家臣、領民たちも居ない。
気付けば、自分という人間を規定していたものが、あの戦と共に綺麗さっぱり消えていた。
不思議な感覚だった。
何かを失ったという実感は確かにある。だがそれと同時に、何かから解放されたような感覚もまた存在していた。
あの戦場で見た父と兄の姿を思い出す。
最後まで父は父であり、兄は兄だった。
そして、その時になって妙に納得してしまったのである。
ああ、この二人は同じ種類の人間なのだ、と。
戦い方が似ているという話でも、性格が似ているという話でもない。
もっと根本的な部分で、自分とは違う何かを持っている。
父サエルの評価はあくまで堅実な武将というものだった。
崩れず、外さず、積み上げる。
少なくともセアドはそう理解していた。
だが、あの日に見た父は違った。
先頭に立ち、迷いなく馬を駆り、敵陣へと突き刺さっていくその姿は、技でも戦術でもなく、言葉にするなら得体の知れない何かとしか言いようがなかった。
そして兄もまた同じだった。
目の前で何が起きているのかは見えていたのだが、それをどう理解すればいいのかが分からない。
理屈を積み上げても届かず、分析しても説明できない。真似できるかどうかという話ですらなかった。
そもそも自分には理解出来ない何かを二人は持っていた。
そして恐らく、自分は最後までその領域へ辿り着けないと悟ってしまった。
だから結局、セアドは結論付けた。
自分は父にも兄にもなれない。
ならば無理になる必要も無いのではないか、と。
そんな考えが頭を過ぎった。
これまでなら、そのような考えは浮かんだ瞬間に打ち消していただろう。
だが今は違う。誰も見ていなければ、誰も比べない。
ならば少しくらい、自分の好きにしてみても良いのではないだろうか。
そう思った途端、妙に肩が軽くなった。
理由は分からない。
自分を支えていた何かが失われた結果なのか、それとも逆に、本来の自分が表へ出てきただけなのか、その辺りは正直どうでも良かった。
ただ一つ言えるのは、それまでの慎重さが急速に薄れていったということは確かだった。
周囲を過剰に警戒しなくなり、道を選ぶ時も深く考えなくなった。
これまでは木々の間を縫うように進み、人の痕跡を見つければ避けていたのに、気付けば堂々と獣道の真ん中を歩いている。
方角も以前ほど気にしなくなった。
行きたいと思った方向へ進み、飲みたいと思えば水を飲み、食いたいと思った物を食う。
それはそれで、なかなか気楽だった。
自由とは案外悪くないものらしい。
少なくとも、その時のセアドはそう思っていた。
結果として道に迷い、ついでに腹も下した。あの時は本当に死ぬかと思った。
父が見ていたら殴られていただろう。しかも恐らく反論の余地が無い。
恐らく食べてはいけない木の実を口にしたのだ。
冷静に考えれば当然である。
今まで慎重に確認していたことを急にやめれば、そういうことにもなる。
三日ほど沢と友人になった末に、セアドは一つの結論へ辿り着いた。
やはり慣れないことはするものではない。
自由は結構だが、だからといって理屈まで捨てる必要は無かったのである。
自分は自分らしく生きれば良い。
何事にも順序がある。
まず状況を把握し、そこから順番に考える。それが一番だ。
そうして改めて周囲を見回し、最初に浮かんだ疑問は極めて単純なものだった。
さて、ここはどこだろう。
自分の立ち位置が分からなければ、次の行動など決めようがない。
まずはそこから確認するべきである。
セアドは真面目な顔で周囲を見渡した。
少し考える。
周囲を見る。
山だった。
右を見ても山。
左を見ても山。
前も後ろも山である。
いや、本当にどこだ?ここ。
見たことのない場所だった。
まあ、完全な山中に行きつけの場所などあるはずもないのだが、それにしても見覚えが無い。
うむ。どうやら最初から躓いてしまったらしい。
だが慌てる必要はない。
こういう場合は結論から考えると筋道を立てやすい。
まず目的地を決め、そして現在地との位置関係を整理する。
極めて合理的だ。
では、自分の目的地はどこだろう。
そこで再び考える。
考えてから気付く。
あれ……目的地って、どこだ?
目的地が無い。
正確にいうと、現在地が分からないのに目的地など決められるはずがない。
しばらく真剣に考えた結果、一つの結論へ辿り着いた。
現在地も目的地も分からない。
つまり何も分かっていない。
実に見事な整理だった。
ここまで綺麗に問題点を洗い出した以上、もはや解決したも同然――などということは当然なく、結局のところ当てもなく歩くしかないのである。
振り出しへ戻ったどころか、振り出しがどこにあったのかすら分からなくなった。
現在地が分からず、目的地も決まっていない以上、これ以上その場で考え込んだところで何かが解決するわけではなかった。むしろ立ち止まっている時間の方が無駄だろう。
幸いにも足はまだ動き、腹も減ってはいるが今すぐ倒れるほどではない。
ならば歩けるうちに歩くべきだ。
そう結論付けると、セアドは再び山道を進み始めた。
木々の隙間から差し込む陽光を眺めながら斜面を越え、喉が渇けば沢を探し、腹が減れば木の実を探す。
二十日間続けてきたことを、今日も同じように繰り返しているだけである。
何も変わらない。
変わったことがあるとすれば、余計なことを考えなくなったくらいだろうか。
以前ならば、ここで敵が出てきたらどうする、どちらへ向かうべきか、何日後にどこへ辿り着けるかなど、様々な可能性を頭の中で並べていたはずだった。
だが今は違う。
考えたところで答えが出ないこともあると知った。
そして今の状況は、その最たるものだった。
だから歩く。ただそれだけである。そう思うと、不思議と気が楽だった。
しばらく進んでいるうちに、自然と鼻歌が漏れた。
最初は小さなものだったが、誰も聞いていないと思うと徐々に声も大きくなる。
昔から歌うこと自体は嫌いではなかった。
ただ、その度に兄弟たちから節がおかしいだの音程が取れていないだの、そもそも何を歌っているのか分からないだのと好き勝手な評価を受けていたため、人前で披露する機会にはあまり恵まれていない。
だが今は山の中である。
文句を言う兄も居なければ、笑う弟たちも居ない。
それどころか聞いている人間そのものが居ないのだから、好きなように歌って何が悪いのだろう。
そう考えた結果、セアドはさらに声量を上げた。
山の中へ妙な歌声が響いていく。
しばらくして近くの枝から鳥が一斉に飛び立ったが、多分関係ない。
恐らく別の理由だろう。
そういうことにしておいた。
歌いながら歩き続けていると、やがて耳に水音が届いた。
沢にしては大きい。
足を止めて耳を澄ませば、絶え間なく流れる音が木々の向こうから聞こえてくる。
川だろうか。
そう思いながら進路を変えると、やがて視界が開けた。
予想通り、そこには川が流れていた。山中で見かける細い沢とは違い幅もあり、水量もある。
そして何より目を引いたのは、その川岸に沿うように続いている細い道だった。
獣道ではなく、人が道として歩き続けた結果として出来た道である。
思わず足を止める。
ここ二十日ほど、まともな道など見ていなかった。
山を越え、斜面を下り、木々を掻き分けながら進んできた身からすると、それだけで妙な安心感がある。
道があるということは、人が居るということだ。
そして人が居るということは、少なくとも自分が知っている世界と繋がっているということでもある。
もちろん、人が居れば面倒事もあることは理解していた。
だが、今のセアドにとっては面倒事すら有難かった。
少なくとも熊よりは話が通じる。
多分。
その結論に満足すると、セアドは川岸の道へ降りた。
上流へ向かうべきか下流へ向かうべきかについて少しだけ考えたが、考えたところで分からないことに気付き、結局は適当に歩き始める。
最近になって学んだことである。
分からないことを無理に考えても、分からないものは分からない。
ならば動きながら考えた方が良い。
その結果として腹を下した件については、今は思い出さないことにした。
しばらく川沿いを進んだ頃、林の向こうに何かが見えた。
最初は岩かと思ったのだが近付くにつれ、それが人工物であることに気付く。
建物だった。
しかも見た限り、打ち捨てられた廃墟ではなく、人が住むための家らしい。
思わず歩みが速くなる。
助かったと、まず最初にそう思った。
そして次の瞬間、その感想は少しだけ修正されることになる。
しばらく歩いて全体が見える位置まで来たところで、どうにもその建物が立派とは言い難いことに気付いたからだった。
いや、立派ではないという表現も少々優しいかもしれない。
見えてきたのは家というよりも、掘っ立て小屋と呼んだ方がしっくりくる代物だったのである。
太さも揃わない丸太を無理に組み上げ、その隙間を板で塞いだだけの壁はお世辞にも見栄えが良いとは言えず、屋根も藁を載せただけなのか、ところどころ歪んで傾いているように見える。
大工が見れば首を振るだろう。
いや、誰が見ても恐らく首を振る。
むしろ風の強い日に本当に大丈夫なのだろうかと心配になるような出来だった。
だが、そんなことはどうでも良かった。
重要なのは屋根があること、そして人が住んでいそうなことだった。
セアドは思わず安堵の息を吐いた。
「父の言を守れたのか……」
――生き延びろ。
その言葉を胸に二十日近く山中を彷徨った後に見る人の住処は、それだけで立派な屋敷に見える。
実際には全く見えないのだが、気持ちとしてはそういうことである。
迷わず家の前まで歩み寄ると、一度身なりを整え、軽く咳払いをしてから声を張った。
「山中にて道を失った者だ。どうか一宿一飯の施しを頂けないだろうか」
しばらく待つが、返事は無い。
もう少し待つが、やはり返事は無い。
「留守なのだろうか……」
周囲を見回してみるが、人の姿は見当たらなかった。
それでも生活感はある。
薪が積まれ、踏み固められた地面もあり、畑らしきものまで見えた。
少なくとも何年も放置された廃屋には見えない。
ならば、どこかへ出ているだけだろうか。
そう考えたセアドは、今度は戸を軽く叩いた。
「もし。どなたか居られぬか」
返事は無い。
少し待つ。
やはり返事は無い。
「うむ……」
困った。
家主が居るなら頼れるのだが、居ないなら少し困る。
現在の自分には、家主の帰りを何日も待っていられるほどの余裕が無かった。
食料は無いに等しく、体力も削られている。
折角見つけた人の住処を諦めて再び山へ戻るという選択肢は、出来れば避けたいところだった。
少し考える。
「うーむ。どうした物か」
口に出してから気付く。
最近は独り言が増えた。
二十日近くも山の中を一人で歩いていれば、そういうものなのかもしれない。
そして、もう少し考える。
考えた末に、セアドは戸へ手を掛けた。
引く。
開いた。
どうやら施錠はされていなかったらしい。
「なるほど」
何一つ、なるほどではなかったのだが、とりあえず中へ入れることだけは理解した。
再び少し考える。
勝手に入るのは良くないという事は分かっているのだが、自分は遭難者である。
そして家主は居なく、さらに言えば自分には余裕が無い。
総合的に判断すると、これは緊急避難というやつではないだろうか。
恐らくそうだ。
多分そうだろう。
そういうことにしておこう。
もし家主が帰って来たら、その時は全力で謝れば良い。
事情を説明し、頭を下げ、それでも駄目なら追い出されるだけだ。
逆に帰って来ないのであれば、しばらく体を休める場所として使わせてもらうことも出来る。
理屈としては問題ない……。少なくとも今のところは。
そう結論付けると、セアドは遠慮なく家へ上がり込んだ。
家の中には生活の跡が残っていた。
簡素な寝台に、使い込まれた作業台と壁際に積まれた薪。
誰かが暮らしていたことだけは間違いない。
もっとも、食料らしい食料は見当たらなかった。
金目の物も無い。
ある意味では安心出来る。
勝手に入った挙句、盗みまで疑われるのは流石に困る。
何か使えそうな物は無いだろうかと視線を巡らせていると、壁へ掛けられた一張の弓が目に入った。
使い古されてはいるが、まだ十分使えそうだった。
辺りを探れば矢も見つかる。狩りくらいなら出来るかもしれない。
武に関して兄ファビオほどではないが、父サエルに徹底的に叩き込まれて育った以上、そこらの素人に負けるほどでもなかった。
少なくとも年少の弟たちには負けないだろうし、何とかなるかもしれない。
そう思えただけでも大きかった。
ようやく少しだけ先が見えた気がする。
その安心からだろうか、家の中を改めて見回した時、それまで気付かなかった違和感が目に入った。
それは一つや二つではない。
棚の上にもあり、床にも隅にも何故か大量にある。
そもそも種類まで妙に豊富だった。
セアドはしばらく黙ってそれらを眺めたのちに、率直な感想を口にする。
「……この家、なんでこんなに土器が沢山あるんだろう?」
その疑問に答えられる者は、今この家には居なかった。
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