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落ち延びた三男坊、山で拠点を作ったらやがて帝国になった ――逃避行から始まり、拠点を作って勢力拡大。気付けば、帝国に成ってしまった件について  作者: 六駿
第二章 礎石

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第54話 刹那の刻

 大陸歴一四〇七年七月二十七日


 夜は明けていた。


 森の葉先には朝露が残っている。誰かが草を踏むたび、小さな水滴が弾け、湿った土の匂いが僅かに立ち上がった。夜の熱は完全には消えておらず、朝になっても森の空気には夏の重さがまだ残っている。


 昨夜あれだけ続いていた話し声も、今はほとんど聞こえなかった。


 焚火の前には、まだ人影が残っている。眠れた者もいた。最後まで眠れなかった者もいた。だが今となっては、どちらにも意味はない。


 火の始末をしていた男が、棒で灰を崩す。赤く残っていた火種が一瞬だけ顔を見せ、それもすぐ土に埋もれて消えた。


 命令したたわけではないが、誰も無駄話はしなくなった。


 昨日まで続いていた空気は、そこで終わっていた。



 アルスは立ち上がり森の向こうを見るが、木々の隙間から差し込む朝の光はまだ弱い。


 もうすぐ、人が動き出す。


 そう思った頃には、すでに何人かは動き始めた。


 アルスが声を掛けるまでもなく、それぞれが自分の役目へ動き始めていた。昨夜までは焚火の周りで好き勝手に喋っていた連中が、今は迷いなく森の中へ散っていく様子は、奇妙なものだった。まだ軍と呼べるほど整った集団ではない。並べれば隙だらけで、隊列も規律もろくに存在しない。だが、それでも各々が何をすべきかだけは知っていた。


 クラウスは街道脇をゆっくり歩いていた。


 歩幅は小さいが、視線だけは絶えず動いている。避難民たちには何をしているのか分からないらしく、何人かが不思議そうにその後ろ姿を見ていた。


 やがてクラウスは一本の木の根元で足を止める。


「ここだな」


 土を軽く踏み、伸びた草を指先で払う。


「人間ってのは、案外足元を見ない。前しか見てないからな」


 誰に説明するでもなく、ただ独り言のようにそう言った。


 それを聞いていた避難民たちは、顔を見合わせていたが特には何も言わない。ただ小さく頷いただけだった。


 アルスはその様子を見届けると、今度は少し離れた方へ視線を向けた。


 ヴァルターが森を見上げていた。


 木々を一本ずつ眺め、その太さや傾き、枝の広がり方を確かめている姿は、戦場というより仕事場の人間の顔だった。しばらく黙って見ていた後、そのうちの一本を指差す。


「これだな」


 そう言うと、それで終わりだった。


 肩に担いでいた斧を下ろし、躊躇なく木へ振り下ろす。乾いた音が森の中へ響き、木肌が大きく抉れた。


「あれを倒すのか……?」


 誰かが呟く。


「太くないか?」


「いや……」


 少し間を置いて、隣の男が言った。


「倒せるから選んだんだろ」


 同じ頃、ティムは無言で木に登っていた。


 枝を掴み、足場を確かめながら、慣れた動きで上へ上へと進んでいく。その速度は思っていたよりずっと速く、途中で滑る気配すらない。


 下から誰かが顔を上げる。


「見えるのか?」


「さすがにまだだな」


 少しだけ間が空いた。


 ティムは木の幹へ身体を預けながら、街道の先へ視線を向けた。


「だが任せておけ。弓王の力を見せてやるさ」


 下では誰かが小さく笑いかけたが、その途中で止めた。


 少し離れた場所では、リッキーが二本の斧を膝に置いていた。刃を指先でなぞり、柄を握り直し、何度も感触を確かめている。その口元には、理由もなく笑っているような笑みが浮かんでいる。


「待ちきれんな」


「何がだ」


「分からん」


 リッキーは笑った。


「だが血が騒ぐ」


 ウォルフとヘルガは、その頃にはいつの間にかヴァルターの側へ移動していた。何も言わず木を見上げている姿だけを見るなら、ただ仕事を待っている大工にしか見えない。だが、その目だけは妙に真剣だった。


 森の中では、それぞれが静かに動いていた。誰も整列していないし、号令を掛けてもいない。それでも少しずつ、その集団は戦う形になり始めていた。



 役目を持った人間が動き始めると、不思議なほど時間の流れ方も変わる。


 森の中では、準備が静かに続いていた。


 木を伐る音は一定の間隔で響き、誰かが運んだ枝葉が足元で擦れる音が混じる。大きな声を出している者はいないのに、人が動いている気配だけは途切れることがなく、止まっていた森の中へ少しずつ別の流れが出来上がっていた。


 アルスは街道から少し離れた場所に立ち、その様子を見ていた。やるべきことは動き始めている。問題は、それをいつ止めるかだった。


 段取りは早すぎても意味がないが、遅ければもっと意味がない。


 その時、遠くで馬の蹄の音が聞こえ、周囲の何人かが反射的に顔を上げる。


 街道の方へ視線を向けると、馬を駆って戻ってくるゼダンの姿が見えた。


 アルスは近付いてくる、その姿を見ながら口を開いた。


「どうだった」


 ゼダンは短く頭を下げる。


「南東側に問題はありません」


 少し視線を街道の方へ向ける。


「商隊はもちろん、人の移動も確認できません」


 アルスは小さく頷いた。


 南東側は確認行為だった。余計な人間が向かってこないか、想定外の邪魔が入らないか、それだけ分かれば十分だった。


 だが、肝心なのはこちらではない。


 アルスの視線は森の北西側へ向いたままだった。


 本当に必要なのは、そちらの報告だった。


 マティアスとレオンは、商隊そのものを見に行っている。相手の位置を確認し、数を確かめ、見つからない場所まで森の中を利用し離れた後、街道を使って戻ってくるはずだった。迂回している以上時間が掛かるのは当然だが、待っている側は不思議なほど何もない時間を長く感じる。


 誰かが木を運び、誰かが縄を引き、誰かが黙ったまま武器を確認している。その間にも時間は進んでいるはずなのに、「まだか……」という感覚だけが残っていた。


 やがて、遠くから馬の音が聞こえた。


 最初は小さかった音が少しずつ近付き、馬の蹄が街道を打つ音へ変わっていく。今度は何人も同時に顔を上げていた。


 姿を現したのは、マティアスとレオンだった。


 馬を止めると、マティアスはすぐアルスの方へ向かう。額には汗が浮いていたが、表情そのものは崩れていない。


「確認しました」


 周囲が自然と静かになる。


「荷馬車数、護衛数ともに変化なし。他商隊の姿も見えません」


 森の空気が少しだけ緩んだ。

 

 それは安堵と言うほど大きなものではない。ただ、胸の奥に引っ掛かっていたものが少しだけ動いた程度の、小さな変化だった。


 必要な情報が、ようやく揃った。


 アルスは街道へ視線を向けたまま、小さく息を吐く。戦いはまだ始まっていないが、少なくとも想定が崩れることだけは避けられた。


「配置につけ」


 大声ではなかった。だが森の中では、それだけで十分だった。


 それまで動いていた者たちは、ほとんど間を置かずそれぞれの場所へ向かい始める。慌てる者も急に走り出す者もいない。ただ準備のために動いていた流れが、そのまま戦うための形へ変わっていった。


 アルスはまず街道の方へ視線を向けた。


 ヴァルターたちが倒した木は、すでに街道を塞ぐ形で横たえられている。幹は道幅を跨ぐように置かれ、枝葉も必要な部分だけを残していた。無理に馬を進めようとしても簡単には越えられない。伐り倒しただけではない。止めるために置かれた木だった。


 幹の周囲では、避難民の男たちが最後の確認をしている。枝が余計な方向へ張り出していないか、隙間が出来ていないか、何度も目で追っていた。街道を塞いだままにして問題がないことは、もう斥候が確認している。だから今さら慌てて動かす必要はない。


 クラウスが選んだ場所には、前へ出る者たちが順番に身を沈めていった。木の根元に伸びた草、地面の僅かな窪み、枝葉が重なって視線を遮る場所――少し前までは何の意味もない森の景色にしか見えなかったものが、人間を隠す場所へ変わっている。


 身体を低くしてしまえば、人間は驚くほど見えなくなるものだった。避難民たちは最初こそぎこちなかったが、元ミュラー兵が声を出さず手振りだけで位置を示すと、黙ったまま同じように身を伏せていく。


 アルスは視線を上げた。


 ティムはすでに樹上へ上がっている。枝葉の隙間から時折足先が見えるだけだったが、上では何度か位置を変えているらしい。角度を少しずつ変えながら、自分にとっての最適な場所を模索しているのだろう。


 荷馬車が止まった時、人はどこへ散るのか。護衛はどちらへ動くのか。枝葉が邪魔になる場所はないか。あの男は今、それを見ている。戦いが始まる前に射線を確かめていた。


 街道を挟んだ反対側では、マティアスとレオンが騎馬と共に森の中へ下がっていた。木々の陰へ姿は半ば隠れているが、完全に消してはいない。いざ動く時に遅れる方が問題だった。


 あの役目は前へ出ることではない。逃走者を止め崩れた時を支えることだった。派手さはない役割だが、アルスはむしろそこを軽く考えていなかった。


 前で勝っても、後ろを逃がせば意味がない。

 

 アルスはゆっくり周囲を見回した。


 見栄えの良い陣形を敷く訳でもなく、正規軍と並べれば酷いものだったが、避難民として拠点に辿り着き、まともな訓練など受けていない者まで引き連れてきた。


 だから必要な場所には、必要なだけの数を揃えられたつもりだ。


 これが今出来る我々の最善だと、そう皆が理解していた。



 マティアスたちの報告を考えれば、そろそろ姿が見えてもおかしくない頃だった。


 やるべきことは、一通り終えたはずだったが、それでもアルスの頭の中では、終わったはずの確認が何度も繰り返される。


 予定と違う動きをされたら。


 見落としがあったら。


 こればかりは致し方の無い事なのだろう。アルスは初めての戦場なのだ。その規模の大きさなど関係がない。


 どうにも落ち着かない雰囲気が、その場を支配しつつあった頃、頭上で小さく枝が鳴った。


 アルスは視線を上げると、枝葉の隙間に隠れていたティムの足先が一度だけ動いた。ほんの僅かな動きだったが、それだけで十分だった。



 樹上からティムには見えたのだろう。


 アルスはゆっくり街道へ視線を向けた。


 すると最初に聞こえたのは、音だった。


 遠く、小さく、何かが規則的に軋んでいる。風が木々を揺らす音とも違う。獣が走る音とも違う。耳を澄ませなければ聞き逃すほど小さなものだったが、一度気付けば、それは次第にはっきりと形を持ち始めていた。


 木製の車輪が街道を軋ませる音が、一定の間隔で近付いてくる。そこへ馬の蹄の音が混じり、人の声まで聞こえ始めると、もう聞き間違えようもなかった。


 周囲では誰も喋らないが空気だけが変わっていく。草の中へ伏せていた男の肩が僅かに強張り、槍を握る指先へ力が入るのが見えた。息を殺しているのか、さっきまで聞こえていた小さな物音すら消えている。


 アルスは黙ったまま街道を見ていた。


 やがて木々の隙間の向こう側に、人影が現れる。


 馬、荷馬車、そして人と、少しずつその輪郭がはっきりしていく。


 マティアスの報告通りの数だった。


 先頭の馬が倒木の前で止まり、何事か叫ぶ声が聞こえる。後ろの荷馬車も速度を落とし、列全体が詰まり始めていた。


 護衛の一人が前へ出る。また一人動く。


 ティムのいる樹上。草の中へ伏せた前衛。森の中に隠れる後衛。街道の反対側に潜んだ騎馬。


 全てが、そこへ向いていた。


 アルスはゆっくり手を上げる。


 森の中は静まり返っていた。


 誰もが身動ぎ一つせず待っていた。ただ、その瞬間だけを。


 そしてアルスは、その手を迷わず振り下ろした。


「今だ――掛かれ!」

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