第53話 境目
大陸歴一四〇七年七月二十六日
静かな夜になるはずだった。
街道までは、もう遠くない。
大きな火も焚けず、声も抑えなければならない場所だ。
それなのに、不思議と静かには感じなかった。
鞘の擦れる音がして、誰かが荷物を開く音がして、小さな声が聞こえて、その後にまた別の声が聞こえる。
別に騒いでいるわけではない。
妙に落ち着かない者、普段と変わりない者、そして自分でも気付かないうちに普段とは違うことをしている者までいて、戦前特有の入り乱れた空気が、その場全体をゆっくり覆っていた。
木陰へ腰を下ろしたウォルフは、大木槌を膝に立てたまま何となく柄を撫でている。
表情だけを見れば普段通りだった。足を投げ出し、木へ背を預け、いつも通り気の抜けた姿勢で身を休めているようにしか見えないが、時折隣へ向く視線だけが普段より少し多い。
隣では、ヘルガが鉄釘が数多打ち込まれた棍棒を肩へ担いだまま、機嫌良さそうに鼻歌を漏らしていた。
今日はいつも以上に気合が入っているらしく、目の周囲を囲う黒線は普段より鋭く、頬へ走る赤線も濃くなっており、額にまで細い模様が追加されていた。
本人からすれば、たぶん少し整えただけなのだろう。
だが夜の暗がりで見ると、それはもはや化粧というより山に棲む何かだった。
ヘルガは満足そうに笑う。
「どうだい」
ウォルフは数秒黙ったあと、妙な胸騒ぎを感じつつ答える。
「……何がだ」
「線さ。今日は流れが綺麗だろ?」
ウォルフは再び黙る。
本当のことを言えば危険である。
過去の経験が全力で警鐘を鳴らしていた。
「……今のヘルガが一番だ」
「そうかい」
ヘルガは嬉しそうに笑った。
戦を前にしているというのに、ウォルフは別の意味で緊張していた。少なくとも今夜に限れば、敵より隣の方が恐ろしいと思うくらいには、過去の経験が重かった。
少し離れた場所では、リッキーが腕を組んだまま楽しそうに笑っていた。
「やはり漢は戦場にあってこそだな」
顔は完全に楽しそうだった。
それに対して、数合わせとして付いてきた避難民の男たちは明らかに落ち着いていなかった。
荷物を開いては閉じ、水を飲んでは辺りを見回し、別に今さら確認することなど何もないはずなのに、手だけは何かしていなければ落ち着かないように動き続けている。
「……なあ」
小声で、一人が隣へ顔を向けた。
「本当に来るのか?」
「分からん」
「おい」
「いや、だって分からんだろ」
「来ると思うから来たんだ」
「思う、だろ?」
「……そうだな」
そこで会話が止まり、誰も続きを言えなかった。
アルスは地図を広げ、レオンは馬具を確認していた。
その行動自体は別におかしなものではない。だが二人とも、さっきから同じ場所を何度も見返していることだけが、普段とは少し違っていた。
少し離れた場所から、それをゼダンが眺めていた。
しばらくして静かに近づく。
「砦主」
アルスが顔を上げる。
「何かあった?」
ゼダンは小さな干し肉を差し出した。
「食べておいてください」
「今はいいよ」
「駄目です。今、食べてください」
声こそいつも通りだったが、有無を言わせない圧を感じさせた。
「明日は長くなります。その調子では持ちません。一呼吸入れてください」
アルスは数秒それを見たあと、黙って受け取った。
一方その頃、マティアスはレオンの馬の横へ立ち、手綱を見て、鞍を見て、それからレオンへ視線を向けた。
「三回目だぞ」
「何がです」
「鞍の確認さ」
マティアスは平然と言う。
「さっきから同じところを見ているぞ」
レオンは少し固まった。
「……別に普通のことですよね」
「そうだな」
マティアスは苦笑する。
「初陣前だと考えればな」
レオンは顔をしかめた。
少し離れた場所では、避難民の男たちが輪になって座っていた。
落ち着かないのだろう。先ほどまで何度も荷物を触っていたくせに、今度は特に意味もなく地面の小石を拾っては投げている。
やることがないから口だけが動く。
「……なあ」
一人が小声で言った。
「実は俺、剣の才能が凄くて、一人で全員を瞬殺してしまうかもしれないぜ」
数秒の沈黙。
それから近くの男たちが真顔で答える。
「うん」
「おう」
「震えずにそれを言えたら、格好良かったな」
男は慌てて手を押さえた。
見れば、指先が細かく震えている。
「こ、これは、ほれ……えーっと、武者震いってやつだ」
「そうだな……」
隣の男は視線を下へ向け、横に置いてある武器へ視線を落としてから、もう一度顔を上げる。
「少なくとも剣と槍の違いを覚えてから、武者震いするのを勧めるぞ」
「え……」
男は慌てて横へ置いていた武器を見る。
しばらく黙る。
「……これ槍なのか?」
「知らなかったのか?」
小さな笑い声が漏れる。
だが、さっきまでよりは少しだけ肩の力が抜けていた。
少し離れた場所では、それを聞いていたヴァルターが口元だけを僅かに緩め、その隣ではクラウスが小さく鼻を鳴らしていた。
「何だ」
「いや」
クラウスは少しだけ肩を揺らした。
「昔を思い出しただけだ」
「ああ」
ヴァルターはそれ以上聞かなかった。
聞かなくても、多分同じことを思い出していたからだ。
明日のことを考えていない者は、多分一人もいない。
ただ、その考え方だけが、それぞれ少し違っていた。
アルスの呼びかけに、人が集まると、さっきまで小さく続いていた話し声も少しずつ止まっていった。
地面へ置いた地図へ視線を落とす。
「明日の確認だけする」
余計な前置きはなかった。
「変更はない」
周囲が静かに頷く。
先ほどまで聞こえていた小さな話し声も、今はもう消えていた。誰も口を挟まない。ただ焚火の残り火が時折小さく音を立てるだけだった。
「マティアスとレオンは朝から北西側の確認。見つけても、その場で戻らない」
レオンが頷く。
「相手に気取られないように、旅人でも伝令でもいい。それらしく振る舞って、そのまま通り過ぎてから森へ入って戻ること」
「了解」
「十分商隊から離れたら街道へ戻って急ぐ。目的の商隊の前後に予定外の人間がいた場合は、その時点で中止だ」
今度はマティアスが短く返した。
「分かりました」
アルスは視線を移す。
「ゼダンは南東側。やることは同じだ」
ゼダンは静かに頷いた。
「バウムゼン側から別の商隊が来そうなら中止。問題なければ戻って、その後は俺の補佐に回って」
「承知」
「ヴァルターは道を塞ぐ木の準備。クラウスは潜伏場所」
二人が頷く。
「ティムは射線確保」
「おうよ」
「相手が止まったら前はリッキー、ウォルフ、ヘルガ」
リッキーが笑う。
「任せろ」
ウォルフは黙って木槌を肩へ担ぎ直し、ヘルガは機嫌良さそうに笑っていた。
「後ろはクラウス、ヴァルター、そっちの四人」
避難民の男四人が少し緊張した顔で頷く。
さっきまで無駄話をしていた顔とは違う。冗談を言っていた口も閉じ、肩だけが僅かに固くなっていた。
「マティアスとレオンは後ろの援護だ。必要なら騎馬で逃走者を追う。護衛は倒す。奴隷は殺すな。逃がさず確保する」
「俺とこっちの二人は予備だ。ゼダンは戻り次第合流」
避難民の男が二人、頷く。
アルスはそこで一度言葉を止めた。
「それから、一番大事なこと」
全員が顔を上げる。
「危ないと思ったらやめる」
誰も口を挟まない。
「敵が予定より多い、別の商隊が近い、想定と違う。どれでも中止でいい」
アルスは周囲を見回す。
「無理して襲う必要はない」
少しだけ間が空いた。
「聞きたいことはあるか」
誰も何も言わなかった。
言葉がなかったのは、不安がないからではない。
明日、自分たちが何をするのかは理解しているつもりだが、その先に何が待っているのかは誰にも見えてはいない。
ただ、それでも前へ進むということだけは、誰も迷っていなかった。
少しの沈黙が落ちた。
軍議そのものは、もう終わっていた。確認することも、言うべきことも全部言い終わっている。だが誰も動こうとはせず、ただ焚火の残り火だけが時折小さく音を立て、その度に赤い光が顔を照らしては消えていた。
その時だった。
「……砦主」
不意に声が上がる。
口を開いたのは、避難民の男の一人だった。
全員の視線がそちらへ向くと、男は一瞬だけ困ったような顔をした。呼び止めたものの、本当に聞いていいものなのか、自分でも分かっていないような顔だった。
「明日終わったらさ」
言葉を探すように、少しだけ視線を彷徨わせる。
「……俺たち、どうなるんだ?」
その問いのあと、場は再び静かになった。
風が森の木々を揺らし、少し離れた場所で馬が鼻を鳴らす音だけが聞こえる。
勝てるか、ではない。
死ぬか、でもない。
この場にいる全員が、もう何となく分かっていた。
明日を越えれば、多分、今までと同じではいられない。山の中へ逃げ込み、砦跡へ身を寄せ合い、ただ生き延びることだけを考えていた日々は、きっとそこで終わる。
それが良い方へ転ぶのか、悪い方へ転ぶのかは誰にも分からない。ただ一つだけ確かなのは、明日を境に、何かが変わるということだけだった。
アルスは少し黙った。
すぐには答えない。
焚火の赤い火を眺めながら何かを考えるように視線を落とし、それから静かに口を開いた。
「分からない」
一拍置く。
「ただ、多分、今までと同じではない何かだと思う」
声は大きくない。
いつもと同じ、ただ言葉を並べているだけの調子だった。
「でも、それが俺たちにとって、新しく先へ続く道となる」
少しだけ考えて、それから小さく続けた。
「……そうなればいいと思う」
夜が深くなるにつれて、声は一つずつ消えていった。
小さく続いていた話し声も、誰かの笑い声も、いつの間にか途切れている。
残っているのは焚火の弱くなった火と、風が木々を揺らす音だけだった。
アルスはまだ起きていた。
木へ背を預けたまま、何となく街道のある方へ視線を向けている。
暗かった。
当然、何も見えない。
街灯などあるはずもなく、火が並んでいるわけでもない。ただ夜の闇が森の向こうへ続いているだけだった。
それでも、どこに道があるのかは分かる。
目を閉じれば、その形が不思議なほどはっきり浮かんだ。
拠点の裏手に見える街道と、今自分たちが身を潜めている南西側の街道。
二つの道がどこかで交わっていることは知っているのだが、その間を実際に歩いたことはない。
それなのに、不思議と頭の中では、その道を思い描くことができた。
それが正しいのか、誤っているのかは知らないし、今となっては確認をする間もない、そんな道だった。
それでも明日、その先から奴隷商隊が現れると信じ、待っている。
アルスは小さく息を吐いた。
明日勝てば、それで全部が終わるわけじゃない。
むしろ逆なのかもしれない。
今までは、生き残るためだけだった。
山へ逃げ、人を集め、雨風を凌ぐ場所を作り、食べ物を探し、足りないものを一つずつ埋めてきた。
だが明日からは、たぶん違う。
生き残るために進んでいた道が、立ち上がるための道へ変わっていく。
アルスは再び暗闇へ視線を向ける。
その先に何があるのかは、まだ分からない。
ただ一つだけ、分かることがあった。
多分――ここが境目なのだろう。
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