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第48話 袋小路

大陸歴一四〇七年七月七日


 朝の空気はまだ冷たかったが、拠点の中では既にあちこちで人の動く気配が広がり始めていた。


 斜面沿いに組まれた長屋の骨組みでは、避難民の男達が梁を持ち上げ、下では女達が縄や木材を運んでいる。


「もう少し右だ、右」


「そっちじゃねえ、柱が曲がるぞ」


 声が飛び、そのたびに上から笑い声が返ってくる。


 以前なら、その場その場で指示を飛ばさなければ動かなかった作業も、今では細かな段取りをいちいち決めなくても勝手に回り始めていた。


 畑の方でも人影が動いている。


 広げている区画では、農家夫婦と避難民達が土を均しており、少し離れた柵の中では養鶏担当の男児が鶏を追っていた。


 鳥が土を蹴り、羽ばたく音が短く弾ける。


 保存庫の方では、干し肉や穀物が整然と積まれ、必要な分だけが出入りしている。


 少し前まで何もなかった拠点は、少なくとも人が暮らす場所にはなり始めていた。


 アルスは広場の端に置かれた丸太へ腰掛け、その光景をぼんやりと眺めていた。


「……なんか、普通に村っぽくなってきたな」


 隣でゼダンが腕を組む。


「三十八人まで増えましたからな。もう野営地では済まんでしょう」


「三十八人か……」


 言われてみれば、随分と増えたものだった。


 ローデンを抜けたときは七人でしかなかった。この拠点に辿り着いたときでも十四人。


 それが今では三十八人。朝になれば誰かしらの仕事が始まり、夕方になれば飯の準備で騒がしくなる。


 形だけを見れば、もう小さな集落と呼んで差し支えない状態になっていた。


 もっとも――。


「……問題は、その中身なんだけど」


 アルスはそう呟き、視線を畑の方へ流した。


「色々と足りなくなってるんだよね」


 ゼダンは短く息を吐く。


「結局、買い出しが必要という話ですな」


「そういうこと」


 アルスは頷き、少し間を置いてから続けた。


「そろそろ一回、フェルデン見に行かない?」


 その言葉に、近くで外出の準備をしていたマティアスが振り返る。


「フェルデンですか?」


「せっかくこの前見つけたんだしさ」


「ええ、街道沿いの宿場町でしたな」


「どうせ買い出し行くなら、一回見ておきたいんだよね」


 いつものバウムゼンでも構わないのだが、距離を考えれば新しい場所を知っておいた方がいい。


 何があり、何が足りないか。そして誰が居るか。


 そういうものは、一度見ないと分からない。


 マティアスは少しだけ考え、やがて頷いた。


「一通り確認はしてきましたが、砦主の目でも見てもらった方が良いかもしれませんね」


「塩も欲しいですし」


 ローザが横から口を挟む。


「あと布と糸と針が欲しいですね」


「贅沢だな」


 アルスは苦笑するが、否定はしなかった。


 今は飢えてはいないが豊かでもない。


 拠点は落ち着いてきているが、だからこそ、今まで見えなかった不足が次々と見え始めていた。


 そしてそれを埋めるには、結局外へ出るしかない。


 アルスはもう一度、拠点を見渡した。


 畑は広がり、長屋の骨組みは増え、人の数も確かに増えている。


 それでも、この場所はまだ足りない。


 生きていくには、まだ欠けているものが多すぎた。




 出発の準備は、思ったよりも早く始まった。


 フェルデンへ買い出しに行くと決めた以上、金にできる物を揃えなければならない。


 だが、その作業はすぐに別の意味を持ち始めた。


「……これで全部か」


 アルスが荷を見下ろしながら呟く。


 目の前に並べられているのは、数にすれば決して少なくはない。


 しかし“商品”と呼べるものは、その中にほとんど存在していなかった。


 まず出てきたのは、剥ぎ取られたままの生の毛皮だった。


 形は残っているが、鞣されていないため硬く、ところどころに裂け目があり、端は乾き切って波打っている。


 革として扱えるものもあれば、明らかに放置され黴が生えているものも混ざっていた。


「これは……売り物になるのか」


 誰かが小さく呟く。


 次に出てきたのは、乾いた草の束だった。


 薬草“らしきもの”。


 誰かが採ってきたものをそのまま乾かしただけで、分類も整理もされていない。


 そもそも種類の判別もできず、束ねられただけのものがいくつも積まれている。


「これ、効くのか」


「……分からん」


 返答はそれだけだった。


 続いて運ばれてきたのは、古い道具類だった。


 刃の無くなったナイフ、底の抜けた鍋、緩んで使えなくなった斧の柄の部分。


 どれも以前ディートリヒから譲られた中古品を、さらに使い潰した結果の残骸だった。


 それでも捨てられず、ここまで残ってきたものだ。


 次に並べられたのは、武器だった。


 ただし、それは戦力として数えるにはあまりにも頼りなく、まともに振るえば折れかねないようなものばかりだった。


「これ、売れる相手いるのでしょうか」


 レオンが小さく言うが答える者はいない。


 最後に出てきたのは、保存肉だった。


 干しただけの肉。


 塩も香辛料も十分ではない状態で作られたため、味はほぼ単純な“食える塊”に過ぎない。


 それでも、この拠点にとっては貴重な食料の一つだった。


 アルスはそれを見下ろしたまま、しばらく黙っていた。


 周囲でも同じ沈黙が続く。


 誰も「もっと良い物を探そう」とは言わない。


 探した結果がこれだと、皆が理解していた。


 マティアスが低い声で言う。


「……これが、今の我々の“余剰”ですな」


 その言葉に、誰も否定しなかった。


 ただ、倉庫の隅に積まれたそれらを見れば、それ以上でも以下でもない現実がそこにあった。


 生活の中で使い切れなかったもの。そして、使い道を与える余裕すらなかったものが、今ここに並んでいる。


 アルスは毛皮の一枚を指先で持ち上げる。


 傷んでいる、いやもはや腐っていると言った方が正しい。


 これを商品と言い売りに行こうというのが、今の自分たちの現実だった。


「……思ったより、ほんとに何もないな」


 小さく漏れた声に、誰も答えない。


 ただ、目の前にあるものだけが、そのまま答えになっていた。


“外に出して価値になるもの”は、ほとんど存在していなかった。


 それはつまり、この場所がまだ“作る側”にすら立てていないということでもあった。


 アルスはゆっくりと荷を見回し、ようやくその意味を一つの形として受け取った。


「……これで、行くしかないか」


 誰かが頷いた。


 しかし、その頷きには期待も自信もなかった。


 ただ、それでも行くしかないという事実だけがそこにあった。




大陸歴一四〇七年七月九日



 拠点から山を下り、獣道を抜けて街道へ出てから半日ほど進んだ頃だった。


 前を歩いていたマティアスが、不意に足を止める。


「見えてきました」


 言われて視線を上げると、街道の先に建物が見えていた。


 大きな街ではない。


 城壁もなく、高い建物が並んでいる訳でもない。


 それでも街道の両側に木造の建物が寄り添うように並び、それぞれの奥に向かい伸びている。


 近付くにつれて人の気配も急に増え始める。


 道端には馬を繋いだ杭が並び、荷車が何台も停められている。


 車輪にはまだ乾き切っていない泥が付いていて、遠くから来たものなのだと分かった。


 宿の前では、旅人らしい男達が荷を降ろしている。


「……思ったより近かったな」


 バウムゼンまで片道八日掛けて買い出しに行っていたが、実際にはたった一日半ほどの距離にも町はあった。


 普通に飯を食い、普通に物を売っている場所。


「思っていたよりも大きな宿場町ですな」


 横からゼダンが言う。


「立ち止まる人間がおれば、自然と商売も集まります」


 アルスは黙って周囲を見る。


 並んでいる商品も、大都市の市場のように珍しい物が並ぶわけではないが、布。縄。塩。干した魚。鍋。靴。旅の途中で必要になるようなものばかりだった。


 少なくとも自分達の拠点には無いものが、当たり前のように並んでいて、欲しいと思った物をその場で金を払って買える。


 それだけのことが、今は妙に眩しく見えた。


 アルスは満足そうに笑う。


「これなら、一度に買いだめとかせずに済むな」


「確かに。前回バウムゼンに行ったときは、これでもかと積んできてましたな」


「ああ、助かるね」


 視線の先では、旅人の男が何でもない顔でパンを買っていた。


 こういう欲しいものが手に入るということが贅沢な行為だと、拠点生活を経てアルスは痛感していた。



 荷を売る作業そのものは、思っていたより簡単だった。


 宿場町には、旅人や行商人から品を買い取る店がいくつかあり、使い古した道具や毛皮の類も一応は扱っているらしい。


 問題は、その後だった。


「……これ全部ですか?」


 店の男が並べられた荷を見下ろす。


 毛皮を持ち上げ、指先で端を引っ張ると、ぱきりと乾いた音がした。


「鞣してませんな」


「……できないから」


「なるほど」


 こっちのは腐ってると言いながら、男は次の毛皮を横へ投げる。


 次に薬草らしき草の束を手に取り、少し眺めた後、今度は隣へ置く。


「これは何です?」


「薬草……だと思う」


「……思う、ですか」


 アルスは黙り、男も何も言わず、ただ一瞬だけ妙な間が空く。


 静かに次へ移った。


 古道具は、もっと早かった。


 鍋をひっくり返して底を見て、斧の柄を握って確かめる。


「これは駄目ですね」


 武器も似たようなもので、刃こぼれした上に僅かに曲がった剣を鞘から抜き、具合を確かめる。


「修理代の方が高く付きます」


 そう言って戻される。


 保存肉だけは少し違い、男は匂いを確かめ、端を切って口へ入れる。


 数回噛んだ後、小さく頷いた。


「味はともかく、食えますな」


「……味はともかくって言った」


 アルスの呟きに、横でゼダンが吹き出しそうになる。


 そして全部を確認し終えると、男は計算板へ手を伸ばし、ぱちぱちと玉を弾く。


 時間は掛からなかった。


「全部合わせて――これくらいですな」


 置かれた硬貨を見て、アルスは言葉を失った。


 思っていたより、ずっと少ない。


 後ろから覗き込んだレオンが、小さく目を瞬かせる。


「……これだけですか」


「まあ、こんなもんでしょう」


 男は肩を竦める。


「毛皮は状態が悪い。何か分からん草に、道具と武具は寿命が終わっとる」


 指を折りながら続ける。


「保存肉は数が少ない。来月も同じものを同じだけ、持って来るかも分からない」


 責めている口調ではなかった。


 ただ、本当に普通のことを言っているだけだった。


「継続して入る品なら、こっちも少しは値段を考えますがね」


 アルスは硬貨へ視線を落とす。


 ここへ来るまでは、売れば何とかなると思っていた。


 少しくらい余裕が出来るくらいに成るのではと期待していたが、違った。


 自分達がかき集めてきたものは、生活の残り物でしかない。


 売るために作ったものではなかった。


「……これじゃ全然足りないな」


 小さく漏れた言葉に、誰も返事をしなかった。


 否定できる者がいなかった。



 売却を終えた後、一行は宿場町の通りを歩いていた。


 さっきまで眺めていた時とは少し違って見える。


 並んでいる物は相変わらず同じで、どれも特別な物ではないが今は、その一つ一つの値が気になってしまう。


 欲しい物なら、いくらでもあった。


「塩は必要だな」


 アルスが言う。


「あと釘もですな」


 ゼダンが続ける。


「布と糸、針も欲しいと言ってましたね」


 レオンが指を折る。


「油も少なくなっていましたし、鶏も増やしたいんですよね」


 マティアスも加わる。


 話し始めると止まらなかった。


 少し考えただけで他にも、必要な物はいくらでも出てくる。


 だが、出てくる度にアルスの視線は腰の袋へ戻っていた。


 入っている硬貨は変わらない。


「……とりあえず、一番必要な物からだな」


 そう言って、一つずつ選んでいく。


 塩、釘、糸、油を買う。


 これだけを買うのにも、ディーから借りた金の残りにも手を付ける始末。


 荷は少しだけ増えたが、これ以上買うと本当に素寒貧になってしまう。 


 期待していたものには全く届かない。


 通りの向こうでは、小さな柵の中で鶏が鳴いている。


 アルスは少しだけそちらを見る。


「……無理だな」


 誰に言った訳でもなく、ただ事実を確認しただけだった。


 鶏は買えない。


 布も針も買えない。


 欲しい物はまだ並んでいるのに、買う金だけが先になくなっていた。


 ゼダンが横で小さく笑う。


「まあ、何もないよりはましでしょう」


「そうだけどさ」


 アルスは肩を落とした。


 このままでは何も解決しないのだと、アルスはようやく実感していた。

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