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第42話 辿り着いた夜

 大陸歴一四〇七年六月二十四日


 西へ傾き始めた陽が、空を橙色に染め始めていた頃、二人が戻ってきた。


 森から続く坂道の頂点に、二頭の馬の手綱を強く引き、急な坂を引き上げるようにして登ってくる。先頭の姿を認めた瞬間、見ていたものが声を上げる。


「マティアスだ! 戻ってきたぞ!」


 その声は砦の中へ一気に広がった。


 作業をしていた者たちが顔を上げ、木材を運んでいた男たちも思わず足を止める。

 

 拠点を出て四十日。短いとは言えぬ時間だった。

 

 砦内の声を聞きつけて出てきたアルスもまた、入口を見据えながら、小さく息を吐いた。


「……無事だったか」


 隣に立ったゼダンが腕を組みながらアルスに呟く。


「最初の想定より時間が掛かりましたが、思ったよりも元気そうで安心しましたな」


 先頭はマティアスで、その後ろにはレオンの姿も見える。二人とも旅塵にまみれ、顔色も決して良くはない。


 だが、それ以上にアルスの目を引いたのは、そのさらに後ろだった。ぞろぞろと、二十人近い人影が、疲れ切った足取りで二人の後ろを追っていた。


 薄汚れた外套。擦り切れた靴。荷物らしい荷物すら持たぬ者も居る。子を背負った女も居る。


 その歩き方を見た瞬間、アルスは眉を寄せる。


「あれは……難民か」


「そのようです」


 ゼダンの声も低い。


 しかも様子がおかしかった。

 

 砦前へ辿り着く最後の坂道――森から砦へ上がるあの急斜面で最後の力を使い切ってしまったのだろうか。


 広場へ着くと何人かは膝を突き、子供を抱えた女などは、ほとんど倒れ込むようにして座ってしまう。


 やがて先頭のマティアスが寄ってきた。


「砦主。ただいま戻りました」


「ああ。ご苦労だったね」


 アルスはそう返しながらも、その視線は後方の一団へ向いていた。


 その時だった。


 避難民の中の一人――痩せ細った中年男が、不意に顔を上げた。


 そして、眼前に立つアルスの姿を見た瞬間、その目を大きく見開く。


「……若様?」


 掠れた声だったが次の瞬間、その男は縋るように数歩前へ出ると、ほとんど泣き崩れるような声を上げた。


「若様……。本当に、生きておられたのですね……」


 その言葉が、一団の中へ静かに広がっていく。


「若様……」

「アルス様……」

「生きて……」


 誰かが口元を押さえ、女が泣き出し、子供を抱えたまま俯く者まで現れる中、アルスは彼ら一人一人の顔を見渡した。港や市場で見かけた顔、領都ローデンで言葉を交わした男、魚を売っていた女――名前までは思い出せずとも確かな見覚えがあり、その時点で彼は、この者たちがミュラー領陥落後に流民となって各地を彷徨っていた民なのだと察した。


 ミュラー領が落ちてから三ヶ月以上。逃げ、彷徨い、飢えを凌いできた時間が、彼らをここまで痩せ細らせていた。


 アルスはしばらく黙って彼らを見ていたが、やがて小さく息を吐くと、いつもの調子のまま口を開いた。


「……大変だったな。よく来てくれた」


 その一言だけで、また何人かが嗚咽を漏らした。


 アルスは周囲を見回す。


「まず飯だ。鍋を増やせ。水も運べ。話はその後だ」


 それからゼダンへ視線を向ける。


「共同寝床は空いていたな?」


「はい。長屋への移転は終わっています」


「なら、まずはそっちへ入れろ。子供連れと家族持ちは長屋の空き部屋へ回す」


 指示を受けたゼダンがすぐに周囲へ声を飛ばすと、砦の中もまた慌ただしく動き始め、鍋を運ぶ者、水桶を抱えて走る者、共同寝床へ藁を追加しに向かう者たちが慌ただしく行き交い始めた。避難民たちは、自分たちのために動き回る人々を、まだ信じきれないような顔で見つめていた。やがて漂ってきた煮炊きの匂いを嗅いだ瞬間、何人かの肩からふっと力が抜け落ちる。


 避難民たちが共同寝床へ運ばれ始めた頃には、空は既に赤黒く暮れ始めていた。


 広場の中央では、大鍋が二つ追加で火に掛けられ、湯気と共に野菜と干し肉の匂いが周囲へ広がっている。砦の者たちも慌ただしく動き回っていたが、不思議なことに、誰一人大きな声は出していなかった。


 まるで、あの薄汚れた一団の様子を見て、自然と声を抑えているかのようだった。


 やがて簡単な食事の準備が整うと、避難民たちは広場の焚火の周囲へ座らされた。


 最初は誰も手を付けようせず、目の前の椀から立ち上る湯気を、ただぼんやり見つめている。


「温かい内に食べて」


 アルスがそう声を掛けると、ようやく一人の女が恐る恐る匙を動かした。


 次の瞬間、その女は顔を伏せ、泣き始めた。


 するとそれを切っ掛けにしたように、他の者たちも震える手で食事へ伸ばし始める。子供などは半ば掻き込むように口へ運び、途中で咽せながらも必死に飲み込んでいた。


 しばらくの間、広場には椀の触れ合う音と、薪の爆ぜる音しか響かなかった。


 アルスは少し離れた場所へ腰を下ろし、その様子を黙って見ていたが、やがて焚火を挟んだ向こう側に居た中年男へ視線を向ける。


「……ローデンから逃げてきたのか」


 男は椀を持ったまま、小さく頷いた。


「はい……。エリクセンの兵が迫ってきて、皆ばらばらに逃げました」


 掠れた声だった。


「最初は家族だけでした。山へ逃げて、霧で道を失って……どこへ向かっているのかも分からなくなって……」


 そこで男は小さく息を吐く。


「ですが、彷徨っている内に、同じように逃げていた者たちと出会ったんです」


 その言葉に、周囲の避難民たちも静かに顔を上げた。


「川辺で焚火をしていた者たちでした」


「子供連れの女も居た」


「市場の職人でした」


 ぽつり、ぽつりと声が続いていく。


「皆、同じでした。どこへ行けばいいのか分からなくなってたんです」


「だから、一緒に居た方が生き残れるんじゃないかって……」


「村を探して歩きました。でも、もう人が居なかったり、居ても追い払われたりで……食べられる物を分け合って……」


「食える物を探して山を歩いている内に、同じように逃げていた者たちとまた出会って……そうして少しずつ、人が増えていったんです」


 だが、その声に力は無い。


 集まったと言っても、それは希望があったからではない。ただ、一人では死ぬと思った者たちが寄り添っただけなのだ。


 やがて最初の中年男が、目元を押さえながら再び口を開く。


「それで……やっと街道へ出て、でも行き先なくて、皆であちらへこちらへ彷徨っていた時、マティアスさんを見つけたんです」


 その言葉に、広場の視線が自然とマティアスへ向いた。


 当の本人は少し困ったような顔をしながら、焚火の側へ置かれた水桶へ柄杓を突っ込んでいる。


「最初、夢かと思いました……」


 男は力なく笑った。


「ミュラー家の人間なんて、もう誰も残っていないと思ってましたから……」


 そこで声が震える。


「でも、マティアスさんが……『ついて来い』って……」


 最後まで言い切れず、男はそのまま顔を覆った。


 周囲でも、嗚咽を漏らす者が居る。


 アルスはしばらく黙って焚火を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。


「……もう大丈夫だよ」


 その声は決して大きくなかったが、焚火を囲む全員が、確かにその言葉を聞いていた。


 しばらく沈黙が続いた後、マティアスが静かに立ち上がる。


「砦主」


 アルスが視線を向ける。


「報告すべきことは多くあります」


 その言葉に、広場の空気が僅かに引き締まった。


 だがマティアスは、周囲で椀を抱えたまま座り込む避難民たちへ視線を向け、それから小さく息を吐く。


「……ですが、本日は皆疲れ切っております。詳しい報告は明日でもよろしいでしょうか」


 アルスは少しだけ考え、それから頷いた。


「ああ。マティアスも、来てくれた皆も、今日はゆっくりと休んで」


 その夜、共同寝床には久方ぶりに人の気配が満ちていた。


 焚火の火が小さく揺れる中、椀を抱えたまま眠り込む子供も居れば、藁へ身を沈めた途端、力尽きたように動かなくなる者も居る。


 三ヶ月以上彷徨い続けた流民たちは、その夜ようやく、雨風を恐れず眠れる場所へ辿り着いた。


 それは、失ってから初めて手にした「当たり前の夜」だった

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