第41話 変わりゆく砦跡
大陸歴一四〇七年六月七日
マティアスたちが拠点を発ってから、二十三日が経過していた。
春の終わりは、山の景色だけでなく、人の暮らしの形までも少しずつ押し広げていく。ついこの前まで、ただ森の中へ身を潜めるように存在していた砦跡は、いまや人の暮らしによって少しずつ形を変え、この地に根を張り始めていた。
新たに建てられたアルスの家を起点として、その周囲には保存庫と道具小屋が造られ、さらにその外側では、新たな長屋の骨組みがゆっくりと形を取り始めている。まだ壁板は揃い切っておらず、屋根も半ばまでしか葺かれていないが、それでもまだ誰も住んではいないはずなのに、柱と梁が立ち並ぶだけで、不思議と誰もが「次はここで誰かが暮らすのだ」と思うようになっていた。
ウォルフとヘルガが長屋の骨組みを見上げながら、次に渡す梁の位置について何やら言い合っている。
「そこを詰めすぎると、寝台を並べた時に通れなくなるわ」
「だが広げれば屋根が重くなる。今の柱じゃ少し頼りねえ」
「だから補強を入れるのよ。人が暮らす場所なんだから」
そんなやり取りを繰り返しながらも、二人の手は止まらない。言葉の半分は口論のようでありながら、残り半分は長年積み重ねてきた仕事そのものだった。
山側では、相変わらず孤児妹が細い枝を集め回り、小脇に抱え切れなくなるたびに何度も往復している。鶏小屋の近くでは農家の子供がしゃがみ込み、日に日に大きくなっていく雛たちを飽きもせず眺め続けていた。
最初に孵った数羽は、すでに雛と呼ぶには大きくなり過ぎている。まだ成鳥ほどではないが、身体つきには明確な変化が現れ始め、狭くなった鶏小屋の中を我が物顔で歩き回っていた。羽ばたくたびに藁が舞い、小さな雛たちが隅へ押しやられていく。
「そろそろ広げるか、増やすかしねえと駄目だな……」
そう呟く男の子の声を聴いたアルスは、その様子を眺めながら、鶏小屋をどうするか考えるよりも先に、ここまで数を増やせたこと自体を実感していた。
砦跡の北側へ回れば、以前とは景色そのものが変わり始めている事が分かる。
これまでは山肌へ密集する木々に阻まれ、水域の存在など僅かに光を反射する気配としてしか見えなかった。しかしいまは、斜面に沿って木が伐り払われ始めた事で、枝葉の隙間から湖面が少しずつ姿を覗かせるようになっている。
アルスが出した指示は単純だった。
どうせ木を伐るなら、水域側から優先して切り出せ。
そうすれば建材を確保しながら、水域側の見通しも開ける。湖上から近づくものにも早く気づけるようになる。
伐り倒された木々は、すでに丸太として積み上げられている物だけでも相当な量に達していたが、それでもなお木材は足りない。
保存庫にも、道具小屋にも、長屋にも、畑を囲う杭にすら木は必要であり、ヴァルターは朝から晩まで斧を振るい続けていた。
その周囲には、すでに切り株がいくつも並び始めており、倒された木々は枝を払われた後、斜面の途中へ一時的に積み置かれている。
まだ開けたと言うには程遠い。だが、それでも日に日に見える水面は広がっている。
風向きによっては、水の匂いまでもが山側へ届くようになり始めていた。
昼を少し過ぎた頃になると、採集へ出ていた面々も山側から戻ってくる。
ヨアヒムを先頭に、ローザとトビアスがそれぞれ背負籠を下ろせば、中には若芽や山菜が隙間なく詰め込まれていた。少し前まで主だった採集物だったドングリは、いまでは籠の底に僅かばかり転がっている程度しかない。
それも当然ではあった。
彼らが拾い集めていたのは、あくまでも昨秋に落ちた物の残りでしかない。冬を越え、春を迎え、さらにこうして拾い続けていれば、近場から減っていくのは避けようがなかった。
その代わりと言うべきか、山菜の類はいまが最も多い時期だった。
陽を受けて伸び始めた若葉や芽吹いたばかりの草は、山へ入ればいくらでも見つかる。もちろん、それだけで腹が満たされる訳ではない。それでも、干し肉ばかり続く食事へ僅かでも変化を加えられる事は大きく、ヘルガなどは最近になると、採集籠の中身を見るたびに露骨に機嫌が違っていた。
もっとも、採集だけで一日が終わる訳でもない。
籠を下ろし、水を飲み、少しばかり息を整えれば、そのまま今度は畑側へ回される。
砦跡の南側では、農家夫婦を中心に畑の増設作業が続いていた。石混じりの地面を起こし、根を掘り返し、邪魔な切り株をどけるだけでも骨が折れる。鍬を入れるたびに土の下から石が顔を出し、そのたびに誰かがしゃがみ込んで運び出さなければならなかった。
それでも作業は止まらない。
狩猟は当たる日もあれば外れる日もある。採集もまた、季節によって大きく変わる。だが畑だけは、上手く育てば確実に人を食わせる。
だからこそ、いま拠点では、空いた時間の多くが畑へ注ぎ込まれていた。
陽が西へ傾き始める頃になると、今度は狩猟へ出ていた面々が戻ってきた。
先頭を歩くティムは、隠そうともせず機嫌が良い。
「見ろよこれ。今日は仕留めたぞ」
そう言いながら、クラウスと二人で担いでいるのは若い鹿だった。決して大物ではない。それでも、この人数を抱える拠点にとっては十分過ぎる成果である。
対して、その後ろを歩くリッキーの表情は露骨に渋く、腰から提げられているのは兎が一羽だけだった。
「……逃げ足速すぎるんだよ」
「お前が遅ぇんだ」
即座に返したティムへ、リッキーはさらに不満そうな顔を向けるが、クラウスはその横で小さく笑うだけだった。
獲物は戻るなり、そのままオットーの所へ運ばれていく。
鹿はすぐに解体へ回され、今日食べる分と、燻製や干し肉として保存へ回す分へ切り分けられていく。兎もまた無駄にはならない。毛皮を剥ぎ、肉を落とし、小さな物でもきちんと使い切る作業は、いまや拠点の日常そのものになっていた。
そんな流れを、共に狩猟から戻り、横目に見ていたゼダンが、ふと手を打つ。
「よし。では訓練前にもう一仕事だ」
その瞬間、ティムとヨアヒムがほぼ同時に嫌そうな顔をした。
「……今日もか」
「ああ、今日もだ」
ゼダンが顎で示した先には、斜面途中へ積み置かれたままになっている丸太がある。ヴァルターが水域側から伐り出した木材だった。
「引き上げるぞ。今日の分を放っておくと、夜露で滑る」
「一息入れてからにしないか……」
「いや今だからだ。疲れてる時ほど身体の使い方が雑になる。だから訓練前の準備運動になる」
理屈としては分かる。分かるのだが、納得したくはない。そんな顔をしながら、ティムとヨアヒム、それにリッキーまでもが重い足取りで綱の方へ向かい始める。
その横を、アルスだけが妙にやる気のある顔で通り過ぎ、後ろをローザとトビアスが追いかける。
「さあ、どんどん引き上げていこう」
そう言って真っ先に綱を掴みに行く姿を見て、三人は揃って苦い顔になる。
ゼダンは額を押さえるように小さく息を吐いた後、綱へ向かうアルスへ声を飛ばした。
「砦主」
「ん?」
「常々言っているでしょう。砦主の仕事は、皆の監督をする事です。一番手で綱を引きに行く事ではありません」
「人数足りないんだから、引ける人が引かないと訓練の時間が無くなるよ」
「だからと言って、毎回先頭へ混ざるなと言っているんです」
だがアルスは、そう言われながらも結局綱を放そうとはしない。
それを見たゼダンは半ば諦めたような顔になり、ティムたちはさらに嫌そうな顔を深くしたまま、それぞれ綱の位置へ並び始めていた。
丸太の引き上げ作業は、日が沈み始める頃まで続いた。
綱を引くたび、斜面の下から丸太が軋みながら少しずつ持ち上がっていく。足場の悪い山肌では、ただ真っ直ぐ引くだけでも難しい。力任せに動けば足を滑らせ、呼吸が合わなければ途中で止まる。
「合わせろ。腕だけで引くな、腰を使え」
ゼダンの声が飛ぶたび、綱を握る面々の動きが少しずつ揃っていく。
ティムなどは途中から露骨に顔を歪め始めていた。
「いや、これ絶対身体壊すって……」
「そうだ」
即答だった。
「限界まで使って、休んで戻す。その繰り返しが訓練だ」
「そりゃ旦那は指示するだけだもんな……」
「……」
一瞬だけ、ゼダンが黙るが、次の瞬間。
「では次、ティムは先頭側へ回れ」
「待て待て待て、そういう意味じゃねえ!」
周囲から笑いが漏れる。
疲れているはずなのに、誰も完全には口を閉ざしていない。それどころか、文句を言う余裕がある分だけ、以前より空気は明るくなっているようにすら見えた。
やがて最後の一本を引き上げ終える頃には、空はすでに黒へ染まり始めていた。
そのまま休む間もなく、今度は戦闘訓練が始まる。
疲労の残る身体で木剣を握り直しながら、アルスはふと北側の空へ視線を向けた。
マティアスとレオンはいま、どの辺りまで進んでいるのだろうか。怪我もなく、余計な面倒事に巻き込まれていなければいいが、それを確かめる術はない。
だからこそ、自分たちは自分たちにできることを続けるしかなかった。
木を伐り、畑を広げ、人が暮らす場所を作っていく。
二人が無事に帰ってくる事を願いながら、今日もまた、拠点の賑やかな一日は続いていく。
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