閑話4 気づかぬうちに
俺はトビアス。ここバウムゼンで、ここバウムゼンの裏通りを渡り歩きながら暮らしている。
気づいた時には、もう一人で動いていた。いや、正確には一人じゃない。妹がいる。だから俺は止まれないし、失敗もできない。
腹が減るのは当たり前で、寒いのも普通だ。問題はそこじゃない。どうやって今日を終えるか、それだけを考える。
通りを歩く時は、人の目を見ない。見たところで何も変わらないし、絡まれるだけだ。店先に置かれた箱や、捨てられた袋の方がよほど価値がある。何が入っているかは開けるまで分からないが、外れでも時間を無駄にしないように、手は早く、足は止めない。
今日はパンの欠片が二つ。店の裏に捨てられていたやつだ。固いが問題ない。噛めば飲み込める。
妹のところに戻る前に、周りを一度見る。誰もいないことを確認してから、ようやく息を吐く。これを怠ると、全部持っていかれる。
「ほら」
渡すと、妹は何も言わずに受け取り、躊躇いもなく齧り付く。俺が渡すのを前提に生きているし、それでいい。その方が早い。
自分の分は残りの一つ。半分に割るかどうか少しだけ考えて、やめた。今日はこれで足りる。
夜は場所を変える。昨日と同じ場所にはいない。見つかるからだ。風を避けられて、人の通らない場所。条件はそれだけで、贅沢は言えない。
妹が先に眠るのを確認してから、俺は起きたまま耳を澄ます。足音、声、何かが近づく気配。全部拾う。何もなければ、それでいい。
何も起きない日が一番いい日だ。
そうやって日を重ねていくうちに、考えることは減っていった。迷う時間が無駄だと分かるからだ。必要なことだけやる。それ以外は切り捨てる。
生きるっていうのは、たぶんそういうことだ。少なくとも、この街では。
あの時は、腹が減っていた。
いつものことだが、その日は少し長く持たせるつもりでいて、妹の分まで考えると無駄に動くわけにはいかないと分かっていたから、通りの端を歩きながらも視線だけは常に周囲を拾い続けていた。
その時、串を持った男が目に入った。
焼いた肉の匂いがするうえに、歩き方は遅く、周りも見ていないように見えるその様子は、この街では珍しいほど無防備で、意識せずとも頭の中で距離と動線を測ってしまう。
奪える距離だ、と判断する。
近づく。足音は消し、横に並ぶ形に入ればそのまま手を出せる位置まで入れるように角度を取るが、それでも完全に詰め切る前に、男の方がこちらを見た。
視線が合う。
普通ならそこで終わる。怒鳴られるか、追い払われるか、最悪殴られるところまで含めて想定していたが、そのどれも起こらなかった。
「食うか?」
そう言って、男は串を少しだけ下げてみせた。
意味が分からなかった。
一瞬だけ動きを止めるが、身体の奥ではいつでも逃げられるように準備だけは崩さず、そのまま妹の方へ視線を送ると、妹も同じようにこちらを見ていた。
罠には見えない。しかし分からない。分からない以上、警戒は解けない。
それでも、差し出されているものを無視する理由はなく、俺は目で合図して妹を先に動かす。
妹が一口齧る。何も起きない。
それを確認してから、自分も一口分だけもらうと、温かい肉の感触が口に広がり、そういえばこういうものを食べるのは久しぶりだと遅れて気づく。
男はそれ以上何も言わず、そのまま歩き出した。
俺は少しだけ間を置き、距離を測り直してから、その後を追う。
詰めすぎない。何かあればすぐに離れられる位置を保ち、妹も同じようにその後ろをついてくる。
男は振り返らない。気にしていないのか、それとも気づいていないのか判断はつかないが、どちらにしても今のところ危険は見えなかった。
やがて門が見え、人が集まっているのが分かる。中には武器を持っている者もいて、その時点でさすがに足を止める。
ここから先は、軽く踏み込める場所ではない。
だが男は、そのまま迷いもなく中へ入っていった。
俺は門の手前で一度状況を見て、逃げ道の位置を頭に入れながら様子を見ることにする。危険だと判断すればすぐに引けばいい、それだけは崩さない。
中で声が上がる。遅いだの何をしていたのかだの、そんなやり取りが聞こえ、その流れのまま何人かの視線がこちらに向いた。
気づかれた。
逃げるかどうか一瞬だけ考えるが、その前に一人がこちらに歩み寄ってきて、膝を折り、目線を合わせてくる。
「君たちは?」
落ち着いた声だった。
余計なことは言わない。
「行く場所がない」
それだけ答える。
妹が続けて言う。
「優しそうだったから」
余計なことを、と思うがもう遅い。
周りの大人たちの視線が集まり、値踏みされているのが分かる中で、俺はただ黙って立ち、いつでも動けるようにだけしておく。
その時、別の少年がこちらを見た。
強そうには見えないが、周囲がわずかにそいつの言葉を待っている空気があって、それだけで立場が分かる。
「……行くところがないなら」
少しだけ言葉を探すようにしてから、そいつは続ける。
「俺たちも、まだどうなるかわからない。それでもいいなら、一緒に来るか」
条件がない。
仕事も、対価も、何も言わない。
それはそれでおかしいと感じるが、同時に、考える材料が足りないとも思う。
後で何かあるかもしれないし、ないかもしれない。分からない。
だが、食べ物はある。すぐに追い払われる様子もない。妹も怯えていない。
今いる場所よりは、少なくともマシだ。
俺は一度だけ周りを見て、逃げ道の位置をもう一度確認してから、小さくうなずいた。
それでいいと判断した。少なくとも、その時は。
あのまま一緒に動くようになってから、しばらくは様子を見ていた。
食べ物は決まった時間に配られ、自分で取りに行かなくても順番に回ってくる仕組みになっていて、最初のうちはそれが理解できず、手を出す前に必ず周りの様子を確認していたが、誰も奪おうとせず減る様子もないことが続くうちに、その確認の回数は少しずつ減っていった。
それでも完全に気を抜くことはなく、食べ終わるまでは周囲への意識を残したままにしていた。
妹に先に食べさせるのは変わらないが、それを見て誰かが近づいてくることもなく、取り上げられることもないという状態が続くと、警戒の仕方そのものが少しずつ変わっていくのが分かった。
寝る場所も同じだった。
屋根があり、風を避けられ、人がいる場所で眠るというのは初めてのことで、最初の夜はほとんど眠らずに過ごし、物音がするたびに目を開け、誰かが動けばそちらに意識を向けるという状態が続いた。
だが、何も起きない。
二日目も、三日目も同じで、起きていても状況が変わらないことが分かると、ようやく眠る時間が増えていった。
朝になると、やることが決まっている。
採集班に入れられ、決まった範囲を回るよう指示されるため、どこに何があるか分からない場所を無駄に探し回る必要がなく、その分だけ動きに迷いが減る。
効率がいいと感じた。
動き方にもある程度の決まりがあり、ばらけすぎず、固まりすぎない位置を保ちながら、それぞれが拾ったものをまとめて持ち帰る形になっていて、一人でやっていた時と比べると無駄が少ない。
その中に、同じ年くらいの女がいた。
最初は名前も覚えていなかったが、誰かが呼んでいるのを聞いてローザというのだと分かり、同じ班で動くことが多いため自然と距離も近くなる。
無駄な動きが少なく、手際がいい。
拾う場所に迷いがなく、戻る判断も早い。
覚えておいた方がいいと判断した。真似できるところはそのまま使う。
それだけの話だと思っていた。
食事の時も近くにいることが多い。
特に決まっているわけではないが、同じ班の者同士で固まることが多く、結果として似た顔ぶれになる。
向かいに座ることもあれば、横にいることもある。
長く話すことはないが、必要なやり取りはする。
どこに置くか、今日はどうだったか、それくらいで十分だった。
短く、それで足りる。
夜も同じ場所で寝る。
位置はだいたい決まっていて大きく変わることはなく、誰がどこにいるかは自然と頭に入るが、ここではそれを常に意識していなくても問題が起きない。
それだけが、前と違う。
ローザもその中にいる。
近くにいることが多いから、自然と目に入る。
特に気にする理由があるわけではなく、見えるものをそのまま見ているだけで、動きは覚えた方がいい。
それだけのことだと思っていた。
採集の後、夕方になると訓練がある。
最初は自分には関係のないものだと思っていたが、見ているうちに分かることが増え、そのままにしておくのは無駄だと気づいてからは、どうせ見るなら意味のあるものだけを見るようにしていた。
大人は参考にならない。体格も違えば力の使い方も違い、そのまま真似をしても自分の動きにはならないと分かるからで、同じ年くらいで体格差の少ない相手の方が、そのまま使える部分は多い。
そうなると、この砦ではローザしかいない。他を見ても明らかに体格が違うと分かるし、その中で残るのがあいつだった。純粋に、俺よりも上手い。
無駄がなく、踏み込みの位置や間に迷いがないうえに、自分とほとんど変わらない条件でそれをやっているから、そのまま覚えて使えると判断できる。
だから見る。覚えて、そのまま使うために。
その日も同じように、ローザが前に出て向かい合っている相手と動きを繰り返すのを、いつも通り観察していた。
足の運びは無駄がなく、踏み込みの間も一定で、早すぎず遅すぎず、ちょうどいいところで身体を入れているのが分かるから、順番に視線を落としていけば動きは追えるはずで、まず足を追い、次に手を見て、重心の移動を読む。
そのはずだったのに、一瞬だけ視線が上にずれ、顔が目に入る。
すぐに外す。違う、そこじゃない。
見るべきなのは足で、踏み込みの位置とタイミングを外すと意味がないと分かっているから、意識して視線を戻し、さっきと同じ動きを今度こそ拾おうとする。
だが、気づいた時にはまた視線が上がっていた。
顔を見ている。
何をしているのか分からず、すぐに戻そうとするが、今度は意識して足だけを見るようにしても、呼吸を合わせて動きを拾おうとしたその一瞬で遅れ、どこで踏み込んだのかが抜けている。
見ていたはずなのに、繋がらない。
もう一度追おうとする前に、また視線が逸れ、今度は意識していなかったにもかかわらず、気づいた時にはまた顔を見ていた。
理由がない。
動きを覚えるなら、見る場所は決まっているはずで、そこ以外を見る意味はないと分かっているのに、視線が思った通りに動かない。
一歩遅れ、次の動きが読めない。
さっきまで拾えていたはずの流れが繋がらず、どこを見ていたのか、何を見ていたのかが分からなくなり、目の前で動いているはずなのに、その一部だけが抜け落ちている。
一度視線を外して呼吸を整え、落ち着けと自分に言い聞かせながら、もう一度最初から見ると決めて足元に視線を落とす。
だが、それでもまた上がる。
止めたはずなのに、勝手に動く。
顔を見ている。
どうしてなのか分からない。
意味がないし、必要もないはずなのに外せず、そのせいで動きが分からなくなっていることだけがはっきりしている。
さっきまで出来ていたことが出来なくなっている理由が見えず、どこでズレたのかを考えようとしてもまとまらず、ただ視線だけが思った通りに動かない。
――なんでだ。
喉の奥で小さく息を吐く。
もう一度見ようとして、やめた。
分からないまま終わることに、妙な引っかかりだけが残る。
俺は、さっき何を見ていたのか、どうしてそこを見ていたのかを考えてみても答えは出ず、理由も見つからないまま、ただ違和感だけが残る。
俺は一体、どうしてしまったのだろうか。
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