第40話 砦主としての教育
大陸歴一四〇七年五月二十日
マティアスとレオンが馬を引き連れて砦を発ってから、五日が過ぎていた。
その間、大きく外へ動くことはなく、拠点では同じ作業が繰り返されていた。新しく運び込まれるものが少ない分、人々の意識は今あるものをどう使い、どう積み上げていくかへ向いている。
人の動きもまた、それに合わせるように落ち着いていた。
誰かが細かく指示を出さなくても、それぞれが自分の持ち場へ入り、必要な分だけ手を動かす。足りない場所には自然と人が集まり、余っている場所からは離れていく。
そうした流れの中で、物の置き場や人手の割り振りといった細かな判断がぽつぽつとアルスのもとへ持ち込まれ、その回数は以前よりも確実に増えていた。
どれもその場で答えが出せる程度の内容だったが、それでも一つひとつを拾い上げていくうちに、時間は思ったよりも速く過ぎていく。
日が高くなり、それぞれの作業が途切れることなく回り始めた頃、砦の一角に設けられた簡素な囲いの中で、小さな影がいくつもせわしなく動いていた。
組み上げたばかりの粗い柵の内側で、羽毛のまだ整いきらないヒヨコたちが、地面をつつきながら短く鳴いている。
その囲いの脇では、一人の男の子がしゃがみ込み、様子を見ながら手を入れていた。
近くを通りかかったアルスが、その姿に気づいて足を止める。
「砦主、見てよ」
顔を上げた男の子が、少し誇らしげな声で言い、囲いの中を指差した。
「今、頑張って増やしてるんだ。ほら、もうこんなにいる」
示された先では、小さな群れが落ち着きなく動き回っている。数は確かに増えていた。
アルスは囲いの中を一度見渡し、それから柵の組み方や足元の様子にも目を向ける。
「困ってることは無い?」
「うん、今のところは大丈夫。でも――」
男の子は少しだけ言葉を探すように間を置いた。
「まだヒヨコのうちはいいんだけど、これが大きくなってきたら、少し俺だけだと他のことが何も手伝えなくなるかも……」
そう言い終えると、様子をうかがうように視線を上げる。
アルスはその視線を受け止め、わずかに考える間を置いた。
ヒヨコの数、囲いの広さ、周囲の人手――それらを一度に見て取れば、答え自体はすでに出ている。ただ、それをどう伝えるかだけを考えるような短い沈黙だった。
「……今はそのままでいい」
そう言ってから、もう一度囲いの中を見る。
「まだ回せているなら問題ない。増えて手が足りなくなったら、そのときに人を回そう」
落ち着いた声だった。
男の子はすぐに頷く。
「分かった。じゃあ、もう少しこのままやってみる」
それだけ言うと、再び囲いの中へ手を入れる。
ヒヨコたちは変わらずせわしなく動き回り、短い鳴き声を途切れさせない。
アルスはその様子をもう一度だけ確かめると、特に言葉を重ねることもなく、その場を離れていった。
周囲では、大人たちの作業の音が途切れることなく続いている。
アルスがその場を離れて、いくつかの作業の間を抜けたところで、横に気配が並んだ。
ゼダンだった。
しばらくは何も言わず、同じ方向へ歩く。そのまま二、三歩進んだところで、低く声が落ちる。
「砦主、今の件ですが」
アルスは足を止めないまま、わずかに視線だけを向ける。
「問題はなかったと思うけど」
「ええ、判断自体は間違っていません」
そこで一度言葉が切れ、ほんのわずかな間のあとに続く。
「ただ……あの言い方では、“まだ決めていない”ように見えます」
アルスの歩みが、ほんの一瞬だけ緩んだ。
「決めてはいるよ」
返しは自然だったが、どこか噛み合いきらない。
ゼダンは否定せず、そのまま言葉を重ねる。
「ええ。ただ、人は内容より先に“形”で受け取ります」
風が抜け、周囲の作業音がかすかに混じる。
「迷っていないように見える、それだけで動きは揃います。ですが先のことを曖昧に残した言い方をすると、人はその先を自分で判断しようとします」
アルスは少しだけ前を見る。
言っていることは分かる。だが、それがどこまで必要なのかまでは、まだ掴みきれていない。
「……後で変えられるようにはしたつもりだったけど」
「それ自体は悪くありません」
ゼダンは短く答えた。
「ただ、『まだ決めていない』ように見える形で残すのか、『決めたうえで任せている』ように見える形で残すのかで、受け取り方は変わります」
それだけ言って、わずかに歩調を緩める。
アルスもまた、そこで足を止めた。
一瞬の沈黙のあと、少年は小さく頷く。
理解したというよりは、ひとまず受け取ったという程度の動きだった。
ゼダンはそれを確かめるように一度だけ視線を向けると、それ以上は何も言わず、そのまま別の方向へと歩き出す。
アルスはその背を少しだけ見送り、それから視線を前に戻した。
ゼダンと別れたあと、アルスはすぐに元の動きへ戻らず、少しだけその場に立っていた。
言われた内容は理解できる。だが、それをどう扱うかまでは、まだ整理しきれていない。
視線だけが、自然と周囲へ流れる。
その中で、斜面の方から戻ってきた孤児の妹が、薪を抱えて足を止める姿が見えた。
置き場を一度見て、それから周囲へ視線を動かす。
次は何を手伝えばいいのか探しているような動きだった。
アルスはそれを、ほんの短い間だけ目で追う。
今すぐ声をかける必要があるほどではない。だが、そのまま見過ごしてしまうのも少し違う気がした。
しかし妹は自分で向きを決め、再び斜面の方へと足を向けていく。
その背を見送ってから、アルスは静かに視線を外した。
夕刻が近づくにつれ、作業の手は自然と緩み始め、誰かが道具を置き、誰かが空いた場所へと足を向けていく。
明確な合図があるわけではないが、その時間になれば、人の流れは一つの場所へと集まっていく。
アルスもまた、その流れの中にいた。
中央に立ったゼダンを起点に、ばらけていた位置がゆるやかに整っていく。
「始めるぞ」
短い一言で十分だった。
各々が間合いを取り、構えを作る。木剣の素振りの音が、乾いた空気の中に連なっていく。
アルスもそれに加わり、木剣を振りながら全体の流れを見ていた。
踏み込みの深さや間合いの取り方、崩れた後の戻りが、その動きの中で自然と視界に入る。
一人ひとりの動きは小さい。それでも集まれば、訓練全体の流れになる。
いつもなら前に出ていた二人がいない分だけ、流れに小さな空白ができていた。
人が減ったことで間合いはわずかに広くなっている。それでも流れそのものは崩れていない。
それぞれが、自分の役割の中で動いている。
一息付こうと、視線を巡らせる。
その中で、一つだけ引っかかる動きがあった。
孤児の兄の少年、トビアスだった。
技そのものが崩れているわけではない。むしろ、形は少しずつ整ってきている。
だが、打ち合いの合間に、ほんのわずかに視線が横へ流れる。
その先にいるのは、同じく木剣を振っているローザだった。
すぐに戻るが、それが一度ではない。
繰り返されるほどでもないが、完全に偶然とも言い切れない程度に、何度か重なる。
アルスはそれを、特に表情を変えることなく見ているが、理由までは分からない。
ただ、動きとして頭の隅に残る。
やがて、流れの一巡が終わりに近づく。
ゼダンが手を上げた。
「そこまでだ」
動きが止まり、張り詰めていた気配がほどけ、荒くなりかけた息と、体に残る力だけが場に残る。
ゼダンは全体を一度見渡す。
その視線は誰か一人に長く留まることなく、すぐに全体へと戻る。
「外に出ている者の分までやれ。ただ、無理はするな。明日に残すな」
軽く置かれた言葉だった。
注意でも命令でもなく、ただ今の状況を確認するような口調だった。
何人かが小さく息を吐き、肩の力を抜く。
アルスもまた、その言葉を特に反論することなく受け止めた。
空はすでに色を落とし始めている。
誰かが水を取りに動き、誰かが木剣を地面へ置く。
まとまっていた人の動きは、やがてまたそれぞれの仕事へと散っていった。
それでも、この場の動きが途切れることはない。
外へ出ているマティアスやレオンがいなくても、薪は集められ、食事は作られ、訓練も続いている。
誰か一人が支えているのではなく、それぞれが自分の役割を果たすことで、砦そのものが回り始めていた。
その流れはまだ大きくはない。
だが確かに形になり始めていた。
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