第39話 砦主と呼ばれ始める
大陸歴一四〇七年五月十四日
朝の空気はまだ冷えており、夜の湿りを含んだ土の匂いが、壁の隙間を通って家の中へ静かに流れ込んでいた。建てられたばかりの家はまだ隙間も多いが、人の気配が重なることで、ただの建材の寄せ集めではない何かへと変わり始めている。
家の前の空き地には、朝から自然と人が集まっていた。誰かが呼びかけたわけではない。それでも昨日、アルスが砦主として認められたことが、目に見えない形で人々の動きを揃えさせていたのか、集まった者たちはどこか示し合わせたように家を囲む形で立っている。
既にここは、拠点の中心としての役割を帯び始めていた。
その中央、家を背にしてアルスは立っていた。特別に前へ出るわけでもなく、かといって埋もれることもない。ただそこにいるだけで、自然と視線が集まる位置にいる。
ゼダンは少し後ろに控え、マティアスは逆にアルスの斜め前へ出て全体を見渡していた。
しばらく沈黙が続いたあと、マティアスが腰の小袋から折り畳んだ紙片を取り出し、確認するように目を落とした。
「砦主、北側の調査ですが」
呼称にアルスはわずかに視線を動かしたが、何も言わない。マティアスはそのまま続けた。
「日帰りで届く範囲は、一通り当たったつもりです。水域の端はまだ見えていませんが、北西へ伸びていることは確認できました。街道との距離も、おおよその見当はついています」
一度言葉を切り、それから結論を置く。
「これ以上は、日帰りでは無理だと判断します」
余計な説明はない。それで十分だった。
場の空気がわずかに静まる。驚きではなく、「そうだろうな」という納得に近い沈黙だった。
アルスは少し視線を落とし、それから上げた。考えているようでいて、迷ってはいない間だった。
「……今日で区切る」
その声は強くも弱くもなく、ただはっきりと場に落ちる。
「レオンと一緒に、日帰りで回れる範囲に漏れがないか、今日を確認に使って」
視線がマティアスへ向く。
「それで全てだと確認できたなら、明日から泊まりで足を延ばす」
付け足しはない。誰かの反応を待つでもなく、決まったものとしてそこに置かれていた。
リッキーが鼻で息を鳴らす。
「別に、今日から出てもいいんじゃねえか」
軽い調子だったが、場を乱すほどのものではない。アルスはそちらを見もせず答える。
「かもしれないね。でも確認は大切だよ」
それだけだった。言い返す余地がないというより、広げる気のない返し方だった。
マティアスが一歩体重を移す。
「範囲はこれまで通りですか」
「水域優先でいい。ここを確定させることが、今後に関わると思う」
マティアスは小さく頷いた。
「分かりました。今日で回れる範囲を埋めきります」
了承だった。
そのやり取りを境に場の空気が緩む。誰かが息を吐き、別の誰かが体勢を変える。決めるべきことは決まった、という感覚が言葉にされずに共有されていた。
アルスは特に締めの言葉を出さない。それでも終わりは分かる。各々が自分の動きへ戻っていく中で、マティアスとレオンも短く準備の確認を交わしながら外へ向かっていった。
中天に近づくにつれ、風は強くはないものの、日に温められた土と草の匂いを運び始めていた。砦の外縁に近い斜面には、刈り払われた草の跡と踏み固められ始めた土がまだらに残っていた。薪に使えそうな細枝や枯れ木は既にあらかた拾われており、人の手が何度も入ったことが見て取れる。
孤児の妹は、両腕に抱えられるだけの薪を胸元で押さえながら、足場の悪い地面を選ぶようにして戻ってきた。以前なら誰かの後ろに隠れるように運んでいた薪も、今では自然と自分の仕事の一つになっている。
砦の内側には、すでにいくつもの薪の山が積まれていた。ただ、それらはまだ整然とはしておらず、使いかけのものと新しく運び込まれたものが混じり合っている。
妹はそこで足を止め、置き場を探すように視線を巡らせた。近くに下ろすことはできる。だが、それでいいのかが分からない。少し場所をずらせば収まりは良さそうだが、それも勝手に決めていいことなのか判断がつかなかった。
自然と、一つの方向へ視線が向く。少し離れた場所で他の者と短く言葉を交わしながら手を動かしているアルスがいる。誰に聞けばいいかと考えたとき、迷わず思い浮かぶ相手だった。
ただ、その名を呼ぼうとして、ほんのわずかに言葉が止まる。名前でもいいはずなのに、今は自然と別の呼び方が先に浮かんだ。
一拍の空白のあと、妹は声を出す。
「……砦主、これ、どこに置けばいい?」
アルスはすぐには振り向かなかった。その呼びかけが自分に向けられたものだと、瞬時には結びつかなかったらしい。
妹はもう一度だけ呼ぶ。
「……砦主」
そのとき、ようやくアルスが顔を上げた。周囲を見回し、それから自分へ向けられている視線に気づく。
「……ああ、俺か。それは――」
言いかけて、妹の抱える薪の量と、既に積まれている山の位置を見比べる。
「そっちはまだ使いかけだから、向こうにまとめてくれ。あとで組み直す」
妹は頷き、言われた方へ足を向けた。薪を下ろしながら、特に何かを考えることもなく、次に拾う分のことを頭に浮かべている。
近くで作業していた大人の手が、ほんの一瞬だけ止まる。だが誰もそれについて口にしないまま、作業は何事もなかったように続いていく。
陽が傾き始める頃には、砦の外へ出ていた者たちが順に戻り始めていた。獲物を担いだ者、空の籠を持った者、土に汚れたまま道具を抱える者。それぞれが仕事を終え、同じ場所へ足を向けてくる。
門代わりに開けられた空間を抜けたところで、何人かが足を止めて周囲を見回した。
「若は?」
近くで作業をしていたオットーが、手を止めずに答える。
「砦主なら、あっちだ」
指先で示された先、少し奥まった場所で人の動きが集まっている。問うた側は特に言い返すこともなく、そちらへ視線を向けた。
「ああ」
それだけで足が動く。誰も呼び方については口にせず、ただ示された場所へ向かった。
途中、リッキーが同じように声をかける。
「砦主、戻ったぞ」
作業の手を止めた少年が振り返る。
「ああ、どうだった」
短いやり取りのあと、すぐに話は中身へ移る。獲れたもの、足りなかったもの、明日の動き。呼び方について触れる者は誰もいない。
それは昨日決まったばかりの呼び方だったが、改めて確認する者はいない。ただその場で通じる言葉として、他のやり取りと同じように扱われている。
陽が傾ききる前、北へ出ていたマティアスとレオンが戻ってきた。土と草の匂いをまとったまま門を抜け、迷いなく奥へ進む。
二人は作業の中心にいる少年の前で足を止めた。
「日帰りで調べられる範囲に、見落としはないと思われます」
マティアスが言い、隣のレオンも短く頷く。
「これ以上となると日帰りでは無理です。明日から出ます」
報告はそれだけだった。余計な説明も感想もない。
少年はわずかに視線を上げ、二人の様子を一度見てから、
「ああ、頼む」
とだけ返す。それで話は終わった。大きな決断を下したという空気はない。ただ明日からの動きが定まっただけのように、三人の間の空気はすぐに解ける。
やがて、声もなく流れが変わった。誰かが道具を置き、誰かが空いた場所へ歩く。特に合図があったわけではないが、夕刻になると自然と人の動きが一つの方向へ集まっていく。
ゼダンが中央に立つと、それだけで場は整い、散っていた視線と足の向きがゆるやかに収束した。
「始めるぞ」
短い一言のあと、それぞれが間合いを取り、無言のうちに構えを作る。やがて木剣が振られ、踏み込む足音が乾いた空気を打ち始めた。
その中で、一人だけ明らかに質の異なる動きを見せていたのがレオンだった。踏み込みは深く速く、一手ごとに止まることなく連なっていく。
近くで打ち合っていたヴァルターが、その変化に気づいて眉をひそめる。
「……やけに熱心だな」
レオンは構えを崩さず、呼吸も乱さぬまま答えた。
「しばらくできない」
その簡潔な言葉とは裏腹に、直後の踏み込みはさらに鋭さを増していく。周囲の何人かもその変化に気づき、わずかに間合いを取り直したが、誰一人としてそれを止めようとはしなかった。
やがて一通りの動きが巡ったところで、ゼダンが手を上げる。
「そこまでだ」
張り詰めていた動きが一斉に止まり、荒くなりかけた息と、まだ体に残る力の余韻だけが静かに留まった。
ゼダンは全体を一度見渡し、その流れの中でほんのわずかにレオンへ視線を向ける。だが何も言わず、すぐにそれを外した。
「根を詰めすぎるな。明日に差し支える」
注意とも命令ともつかない調子で、ただ事実を置くように言葉を落とす。
レオンは何も返さず、わずかに呼吸を整えるだけで、すでに次の動きへ意識を移しているようだった。
空はすでに色を落とし始めている。誰かが水を取りに動き、誰かが道具を拾い上げるうちに、訓練の場はいつの間にか日常の動きへ戻っていく。
それでも、明日から外へ出るという事実だけは、誰の中にも残っていた。
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