第38話 主の成立
大陸歴一四〇七年五月十三日
アルスは、浅く切り分けられた肉の並ぶ卓を前にして、しばらく手を止めていた。
塩にまぶされたそれは、まだ色も落ち着かず、乾ききるには程遠いが、置かれた位置や重なり方には、すでに幾度か試された跡が見える。
「……前に見たときと比べれば、随分と形にはなってきているように見えるけど、まだ均しきれてはいない、というところかな」
そう言って視線を上げると、向かいに立つオットーは、わずかに肩をすくめながら息を吐いた。
「形だけですね。塩の当て方を変えてみましたが、どうしても均一に成らないです。端は締まるんですが、中心が遅れますし、どうにも思うようには行ってません」
言葉は淡々としているが、その奥には、試行錯誤を繰り返してきた疲労と苛立ちが、隠しきれずに滲んでいる。
アルスは卓の上に視線を落としたまま、しばらく考えるように間を置き、それからゆっくりと頷いた。
「急ぐものではないけれど、生命線ではあるからね。時間はかかるかもしれないけど、なんとか形にしていくしかないよ」
「分かっています。色々試していますが、必ず結果にしてみせます」
オットーはそう言って、端に寄せた肉を顎で示した。
あの手この手と、捏ねくり回しましたと言うかのように、過程が静かに積み上がっている。恐らく今夜の闇鍋の具材として活躍するのだろう。
アルスはその様子を一度見渡し、言葉を継ごうとして、わずかに口を開きかける。
だがそのとき、背後から急ぎ足の音が割り込み、場の空気をわずかに乱した。
振り返るよりも早く、息を弾ませた声が届く。
「え……と、出来ました」
その言葉を受けて、アルスは静かに顔を上げた。問い返すことはせず、その意味を確かめる必要もない。
「そうか。なら、見に行こう」
そう言って卓から離れ、手についた塩を布で拭いながら歩き出す。
外へ出ると、視線の先に、それはあった。
立ち上がったばかりの木造の建物は、まだ削り跡もそのまま残されているが、梁は確かに組まれ、壁も形になっている。
アルスは足を止め、そのまましばらくのあいだ、何も言わずにそれを見上げた。
出来ているという事実は、見た瞬間に理解できるほど明白だった。にも拘らず、胸の奥には疑問しか湧いてこない。
視線を細め、全体を改めて見渡しながら、ゆっくりと口を開く。
「……これ、保存庫や道具小屋って感じじゃないよね。どう見ても、家にしか見えないんだけど」
アルスは、目の前に組まれたばかりの建物を見上げた。
仮に仕切っただけの寝床とも、荷を置くための小屋とも違い、最初から人が住むために建てられた建物であることは、一目で分かった。
自分の考えていた順番と、目の前の現実が噛み合わない。
視線を外さないまま、アルスは口を開いた。
「……これ、何?」
声は低くも強くもなく、ただ確かめるように置かれる。問いというより、疑問をそのまま外に出しただけのような響きだった。
すぐそばにいたゼダンが、その問いを受ける。
「若様の家です」
アルスは一度だけ瞬きをした。
意味は分かるが、それを前提にした覚えがない。
「なんで?」
短く返しながら、もう一度建物を見る。
保存庫ではない。道具小屋でも、長屋でもない。自分が示した順の、どこにも当てはまらない形で、それはそこにある。
「保存庫か道具小屋を先に作る話だったよね。それで、その後に長屋。それまでの寝る場所なんて、空いてるとこで詰めればいいし、俺も同じでいい」
言葉は自然に続いた。誰かを責める意図もなければ、自分を特別に扱わせないための主張でもない。ただ、最初に決めた流れをそのまま辿っているだけだった。
しかし、その言葉のあとに続くはずの返事がすぐには出てこなく、一瞬だけ場が止まる。
その空白を切るように、声が入った。
「それでは、なりません」
静かだが、はっきりとした声音だった。
アルスが視線を向けると、ゼダンが一歩前に出ている。
他の者たちよりわずかに前に立ったその位置で、彼は迷いなく言葉を続けた。
「私の判断です」
言い訳も補足もなく、決めたという事実だけを示す言い方だった。
「ウォルフとヘルガには、私が頼みました」
名を呼ばれた二人が、わずかに姿勢を正すが、ゼダンは振り向かない。視線は変わらずアルスに向けられたまま、さらに言葉が重ねられる。
「既に、他に与えている以上、若様を後に回す訳には参りません」
理由の全てを語ることはしないが、そう判断した根拠の芯だけが、余分なものを削ぎ落とされた形で示される。
言いたいことは分かる。
だが、それが今この建物を優先する理由としては、まだ腑に落ちなかった。
「……でも、それって今、他の物を飛ばしてまでやることかな」
疑問として出しただけの言葉だったが、ゼダンは間を置かずに返した。
「必要です。それこそ、今でなければなりません」
はっきりとした否定にアルスは小さく息を吐く。
「今でなければ……でも」
否定することはできるし、必要ないと言い切ることもできる。
だが、ここまで断言される以上、ゼダンの中に譲れない基準があることだけは分かる。
もう一度だけ建物に目を向ける。
粗いながらも、最初から“家”として建てられている形は変わらない。何かをを転用したものではなく、はじめからそこに“家”として置かれる前提で作られている。
「……わかった」
短く、そう言った。
納得したわけではないが、ここで止めることでもないと判断した、その程度の受け入れ方だった。
「今回はゼダンの判断を是とする。ただ次からは必ず、先に話を聞かせて」
付け足すように言うと、ゼダンは小さく頷く。
「承知しました」
それ以上は何も続けなかった。
アルスは返事をせず、一度だけ建物へ視線を向けた。
ゼダンの言いたいことは分かる。
だが、それを当然のこととして受け入れるには、まだ少し時間が必要だった。
その沈黙の間にも、周囲の空気は静かに変わっていた。
そのあいだに、周囲の空気もまた、わずかに動いていた。
少し離れた場所で手を動かしていた者たちが、いつの間にか作業の手を止め、何事かと様子を窺うように視線だけをこちらへ寄せている。
声を掛ける者はいないが、何かが決まろうとしている気配だけは、自然と場に伝わっていた。
そのまま距離を詰める者もいれば、手を止めたままその場に留まる者もいる。動きはまちまちでありながら、意識だけがゆるやかに一箇所へ集まっていく。
その先で、アルスの目が捉えたのはゼダンではなく、その後ろに控えている二人の大工たちの姿だった。
アルスは小さく息を整え、そのまま口を開く。
「ウォルフ、ヘルガ」
はっきりと届く声で呼ばれた二人が、わずかに姿勢を正す。
その反応を一度受け止めてから、アルスは続ける。
「ありがたく使わせてもらうよ。手間を掛けさせたね」
言葉は短いままだったが、ただの礼ではなく、はっきりとした受領の意思として場に残る。
納得しきったわけではないという感覚は、まだ自分の中に残っている。それでも、それを理由に拒むことはせず、この場で受けるべきものとして受け取った――その判断だけが、言葉の裏に静かに沈んでいる。
「壁板はまだ粗く、隙間も残ってはいますが、外を遮る形だけは整えたつもりです。中途半端ですが、追々手を入れますよ」
ヴォルフが申し訳なさげに言葉を発する。
「いや本当に十分だよ。まさか俺の家が出来るとは思ってなかった」
アルスは大工夫婦に、優しく微笑みを浮かべながら答えた。
大工夫婦とアルスが会話している中、ゼダンとアルスのやり取りがどこまでの意味を持つのか、それを測るように、場にいる全員の意識がわずかにその場に留まっていた。
場に残った沈黙が、まだ完全にはほどけきらないまま、その余韻を保つようにして続いている中で、ゼダンがゆっくりと口を開いた。
「これでここが、中心と決まりましたな」
声は決して大きくはないが、その場にいる全員の耳に無理なく届くように置かれ、その一言によって先ほどまでのやり取りがひとつの区切りとしてまとめられる。
それが誰に向けられた言葉であるのかは明言されていない。だが、その視線がアルスに向けられていることで、少なくともその中心とは何を指すのかだけは、言葉にせずとも十分に示されていた。
「拠点としての基となるものが決まったので、今後はそれを元に割をしていきましょう」
続けられた言葉は、後の指針とも言えるものだった。何かを誇るでも、強調するでもなく、ただ設計をそのまま言語化しただけの響きである。
ゼダンはそこで一度言葉を切り、わずかに周囲へと視線を巡らせたあと、再びアルスへと戻す。
「ただ、この際なので、ひとつ不都合を解消しておいた方がよろしいかと」
前置きとしては控えめでありながら、その言い方には迷いがなく、続く内容が単なる思いつきではないことだけは伝わる。
「若様の呼び方が、定まっておりません」
その指摘は簡潔だったが、それだけで十分だった。
「場によって“若様”であったり、“アルス様”であったり、あるいは単に“若”と呼ぶ者もいるようですな。また話に上る際は“あの人”などでしょうか。人により、あるいはその都度により、呼び方が変わるのは、あまり好ましい状態とは申せません」
言葉はあくまで穏やかで、誰かを咎めるものではなく、ただ現に起きている不揃いを、そのまま拾い上げているだけだった。
「それでは些細なことであっても、やり取りに余分な間が生まれ、結果として動きに滞りが出かねません。今のうちに揃えておく方が、後々の混乱を避ける上でも都合がよろしいかと」
理由もまた、言われてみれば尤もな話であり、何よりアルス自身不都合こそないが、落ち着かなく感じていたものではあった。
「つきましては、皆が若様に声を掛ける際、あるいは話題に上る際の呼称について、この場で統一しておくことをご提案申し上げます」
一度そこで区切り、わずかに間を置いてから、
「拠点の性質を鑑みるに、“砦主”、あるいは簡略に“主”とお呼びするのが相応しいかと存じます」
と、静かに具体案を置いた。
それ以上は踏み込まず、提案はここまでで止められ、判断そのものはアルスへと委ねられている。
アルスは、すぐには口を開かなかった。
呼び方がばらついていることは、そのままにしておけば不便が出るという点に、特に否定する理由はない。
ただ、それを自分に当てはめて固定することに対しては、わずかな気恥ずかしさが残る。
「……そこまでしなくてもいい気はするけど」
ぽつりと漏れた言葉は、反論というよりも率直な感覚に近いものだった。
とはいえ、そのまま完全に退けるつもりもない。
「呼びにくいのは分かるし、かと言って、自分からこう呼んでくれって言って回るのも、なんか違うしな」
苦笑まじりに言葉を続ける。
少しだけ間を置き、視線を軽く巡らせる。そこにいる面々の様子を、改めて一度だけ確かめるように見てから、アルスは小さく息を吐いた。
「なら、それで」
結論は短かった。
「皆がそれでいいなら、俺もそれでいい」
どこか軽く流すような言い方ではあったが、それでも決定としては十分な重みを持つ。
ゼダンはその言葉を受け、静かに頭を下げる。
「承知いたしました」
それ以上は何も言わない。
それでも、その場にいる者たちの中で、これから何と呼ぶべきかという基準だけは、自然と揃っていく。
誰かが試すように口を開きかけて、言葉を選び直す。
その小さな躊躇が、変化の始まりを何よりもよく示していた。
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