第37話 点の外側
大陸歴一四〇七年五月十日
北の水域を見に行ってから四日が経っていた。
拠点の朝は、もはや手探りではない。
夜明け前には調査組が動き出し、レオンとマティアスは北へ向かう。狩猟組はゼダンを中心に準備を整え、採集組もそれぞれの袋を背負って森へ散っていく。
残る者たちも休んではいない。
オットーは塩水漬けによる保存食作りを試し、ヴァルターは伐採する木を選びながら材木を確保し、ウォルフとヘルガは建築を進めていた。
数日前には骨組みだけだった建物も、今では柱と梁が組まれ、一つの建物として形を見せ始めている。
アルスはその前で足を止めた。
構造に問題はなく、むしろ無駄なくまとめられている。
だが眺めているうちに、どうにも説明しづらい違和感が残った。
長屋ほど大きくはない。
しかし倉庫や道具小屋と考えるには、他の建物より明らかに大きい。
広さか、入口か、それとも内部の使い方か。
まだ言葉には出来ないが、自分の考えていた形とは少し違う。
アルスはもう一度だけ建物を見上げたが、今はその違和感を胸の内に留めておくことにした。
日が中ほどまで昇った頃、森の奥から狩猟組が戻ってきた。
ゼダンを先頭に、ティムとクラウスが続いている。獲物は決して多くはなかったが、空手で帰ってきたわけでもない。荷を降ろしたティムが、真っ先にアルスへ声を掛けた。
「若、今日さ。街道が見えるところ通った時に軍隊みたいなの見たぜ」
その言い方はどこか軽く、緊張を伴う報告というよりは、珍しいものを見つけたという程度の調子に近かった。
アルスは、その言葉を聞いた瞬間に顔を上げる。
「軍隊? 俺たちのことが気づかれたのか」
「いや、そんな感じじゃなかったな。普通に通ってただけだと思うぜ」
曖昧な答えだった。
その空気を断つようにゼダンが前へ出る。
「ティム。報告は正確にしろ」
「へいへい」
ティムが肩をすくめる。
ゼダンは改めてアルスへ向き直った。
「若様。本日の狩猟中、街道上で一隊を確認しました。動きから見て徴税を終えて帰還する部隊と思われます」
アルスは目を細めた。
「徴税の帰りか」
「ええ。荷馬車の動き方から判断しました。既に回収を終えた後と考えるのが自然かと」
ゼダンは続ける。
「旗印も遠目ながら確認しました。色でしか判別できない距離でしたが、あれは恐らくグルンフェルトのものと思われます」
「グルンフェルト……」
一度、言葉として出してから、そのまま思考を繋げる。
「すると、この辺りはグルンフェルト領なのか。いや、でもディーは、この拠点をグライフ家の廃砦だと言っていたよね。すると街道の向こう側がグルンフェルト領なのかな」
疑問は自然な形で次へと繋がる。
ゼダンは頷いた。
「ええ、ここはグライフ領であると考えて間違いありません。そして以前訪れたバウム領へ入るまで、グライフとグルンフェルトが接しているのでしょう」
その説明は、現時点で取り得る最も無理のない整理だった。
アルスはその言葉を受け取りながら、頭の中で地形と位置関係を重ねていく。
拠点は森と山の奥にあり、街道から直接見通せる位置にはない。そしてその街道を挟んで、別の領が存在している。
「こちらに気づいている様子は」
「ありません」
ゼダンは即答した。
「若様もご存じのように、街道までは三日ほど掛かります。こちらも山の高台の隙間から見ただけですので」
「あ、そう言えば逆によく見えたな」
アルスが感心すると、ティムが胸を張る。
「弓兵は目が命だからな」
だがゼダンは容赦なく切り捨てた。
「弓兵の目が大切なのは認めますが、森の中を三日です。実際に道を整えれば大した距離ではありません」
……残念なことに、ゼダンの言葉は何の慰めにも成っていなかった。
軍勢が近くを通るという事実だけで、これまでとは違う前提が生まれる。
「街道方面へ向かう時は、今まで以上に注意しないといけないね」
ゼダンは静かに頷いた。
その後しばらくして、北へ向かっていたマティアスとレオンも戻ってきた。
「戻りました」
アルスは頷く。
「どうだった。見てきた範囲で構わない。報告して」
レオンが先に口を開いた。
「北側の水域周辺ですが、日帰りで確認できる範囲はほぼ見終わったと思います。大きく開けた場所はなく、どこも木が入り組んでいて、視界が抜ける場所は限られていました」
マティアスも続く。
「北東側も同様です。細かい修正は必要ですが、日帰りで安全に戻れる範囲については、おおよそ把握できたかと」
アルスは考える。
北側には水域。北東側は距離の問題がある。南東はバウムゼンへの道。
残る場所はあるが、どこも同じ問題に突き当たる。
「つまり日帰りで動ける範囲は、南西以外ほぼ埋まったということだね」
「はい」
レオンが頷く。
「これ以上先へ行こうとすると、帰る時間が足りません。特に北側は、水域に遮られる形になるので、回り込むだけでも時間を取られます」
マティアスも同意した。
「北西へ伸びる街道は、まだ全く踏み込めていません。そちらへ進む際に併せて南西は確認するにしても、同じ問題が出ます」
アルスは地面へ視線を落とした。
「……戻ることを前提にしている限り、それ以上は伸ばせない、ということか」
アルスの言葉に、マティアスは小さく頷いた。
「ええ。今のやり方のままでは、どうしても一日の行動範囲に縛られます。それを越えると、帰還そのものが不確実になりますので」
ここまでは拠点を中心に円を広げるように調査してきたが、その円は限界へ近づいている。
「今のやり方のままでは、ここから先には届かないな。やり方そのものを変える必要がある」
誰に向けるでもなく呟くように言うとマティアスが口を開いた。
「……もし、さらに広げるのであれば、途中で留まる必要があります」
「野営か」
「はい」
今度はレオンが続いた。
「特に北側は、一度回り込めれば、その先をまとめて調べられると思います」
アルスはすぐには答えなかった。
だが考えるべき方向は見え始めている。
しばらく沈黙した後、アルスは顔を上げた。
「見えてきたね」
周囲の視線が自然と集まる。
「この場所は、まだ点でしか見えていない」
言葉は静かだった。
「街道には他の領の部隊が動いている。つまりこの近くには、人と物の流れが存在しているということだよね」
一度言葉を切る。
「北の水域も同じだ。何があって、どこまで続いているのか分からない」
ゼダンが小さく頷く。
「そして、そのどれもが今の日帰り調査では届かない場所にある」
アルスはマティアスとレオンを見る。
「だから次は野営を前提にした調査が必要になる」
二人は静かに頷いた。
アルスは続ける。
「それと、今はバウムゼンとの繋がりしかないけれど、街道がある以上、その反対側にも何かがあるはずだ」
それは推測ではあるが、決して根拠のない話ではない。
「距離が分からない以上、近いとも遠いとも言えないけれど、もしこちら側により近い場所があるなら、今の動き方そのものを見直す必要が出てくる」
ゼダンもティムも口は挟まなかった。
「周囲を把握して、その中でどう動くかを決める段階に入っている」
拠点の中では、変わらず木槌の音が響き、誰かが土を返し、遠くでは鶏の鳴き声が聞こえていた。数日前と同じような音であり、そこで行われている作業そのものも大きく変わったわけではない。
だが、その意味は少しずつ変わり始めていた。
ただ生き延びるための拠点ではなく、周囲へ手を伸ばし始めるための拠点になりつつある。
「まずは近いところから、確実に押さえていこう」
大きく広げる前に、足元を固める。
「無理に広げるよりも、まずは動ける範囲を正確にしておく方がいい」
無理に広げる必要はないが、立ち止まる理由もない。
「野営の準備は、その後だ」
結論としては控えめだった。
それでも、その場にいた全員には十分だった。
ここから先へ進むための次の一歩が、ようやく形になり始めていた。
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