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第36話 見えていない水域

大陸歴一四〇七年五月六日。


 夜の名残がまだ山の奥に沈んでいる時間だった。


 空は白み始めていたが、光はまだ斜面を越えきっておらず、木々の間には薄い影が幾重にも重なっている。湿った土と落ち葉を踏むたびに足音は吸い込まれるように消え、周囲には朝特有の静けさが広がっていた。


「この辺りでいいのか」


 アルスが振り返らずに尋ねると、後ろを歩くレオンが息を整えながら答えた。


「ええ。もう少し進めば見えます。先日来た時も、この辺りでした」


 二人は拠点裏の木々の間を縫うように進んだ。


 やがて枝と幹の隙間に、周囲とは違う明るさが見え始める。


 光は揺れているわけではないのに輪郭が定まらず、ただそこに留まっているように見えた。


「……あれか」


「はい。水だと思います」


 アルスは目を細めた。


 確かに水はある。


 しかしここから見えているのは、断片だけだった。


 枝葉に遮られ、光は途切れては別の場所に現れる。どこまで続いているのかも、どのような形をしているのかも分からない。


「水があるのは分かるが、広さも形も掴めないな」


「先日もそうでした。近くまで行くと、また違って見えるんです」


 アルスはもう一度だけ光を見た。


「見えているようで、見えていないか」


 それ以上は踏み込まず踵を返す。


「一度戻ろう。他にも連れて直接見に行く」


「はい」


 レオンも頷き、二人は拠点へ向かった。


 拠点へ戻る頃には空はすっかり明るくなっていた。


 大工夫婦のウォルフとヘルガは新しい建物の骨組みを組み始めており、木槌の音が一定の調子で響いている。畑では農家夫婦が朝露の残る土を耕し、少し離れた場所では子供が鶏を追い回していた。


 採集組はすでに出発し、狩り組も準備を整えている。


 ゼダン、ティム、クラウスが道具を確認しているところへ、リッキーが声を掛けた。


「今日は俺も狩りだな」


「勝手に決めるな」


 ゼダンが肩越しに返す。


「獲物を逃したら文句言えよ」


「その言い方は信用ならないな」


 ティムが苦笑した。


 そのやり取りを横目に見ながら、アルスはレオンへ視線を向ける。


「北の水域を見に行こう。一度きちんと見ておきたい」


「では案内します」


 レオンが即座に答えた。


 アルスはさらに声を掛ける。


「マティアス」


「はい」


「北の水域へ行く。付き合って」


「分かりました」


「ヴァルターも頼む」


 呼ばれた男は顔を上げた。


「周囲の木を見てほしい。伐る場所と残す場所を考えたいんだ」


 ヴァルターは短く頷く。


「道具を持って行きます」


 それで話は決まった。


 四人は準備を整え、北へ向かう。


 進むにつれ、足元の感触が変わり始めた。


 乾いた土は次第に湿り気を帯び、踏み出すたびにわずかに沈み込む。地面そのものが水を含んでいることが足裏から伝わってきた。


 木々の間隔も狭くなる。


 遠くは見えず、目の前の景色だけが順番に現れては消えていく。


「このまま進めば水辺です」


 先頭を歩くレオンが言う。


「急がなくていい。周りの様子を見ながら進もう」


 アルスが答える。


 やがて木々の隙間に光が混じり始めた。


 山の上から見たものと同じ反射だった。


 しかし近づくにつれ、それが一枚の水面ではなく、木々に遮られた無数の断片であることが分かってくる。


 岸へ出たアルスは立ち止まった。


 水は確かに存在している。


 静かな水面が朝の光を返している。


 だがその先が見えない。


 少し位置を変えるだけで見えていた水面は木陰に消え、別の場所に新たな光が現れる。


 見える範囲そのものが入れ替わっているようだった。


 レオンが手を伸ばす。


「この辺りは岸です。ここから先が深くなっていたと思います」


 だが示された境界もはっきりしない。


 浅瀬なのか、水面の色なのか、判別がつかなかった。


 マティアスが周囲を見回す。


「見えている範囲が狭すぎますね。繋がり方が読めません」


「木が邪魔なんです」


 レオンが答える。


「少し移動すれば違う場所は見えますが、全体は分かりませんでした」


 ヴァルターは水面ではなく木々を見上げていた。


 枝葉は重なり合い、空さえ細く切り取られている。


「囲まれていますね。上も横も視界が遮られている」


 アルスはゆっくりと周囲へ視線を巡らせた。


 水があることは分かる。


 岸もある。


 木もある。


 だが、それらがどう繋がっているのかが見えてこない。


「部分は見える。でも全体が見えない」


 誰もすぐには答えなかった。


 風が枝葉を揺らし、水面の光が崩れては戻る。


 その光景を見ながら、アルスはふと山から眺めた景色を思い出した。


 上から見た時、この場所はもっと開けているように見えた。


 しかし中へ入ると何も見通せない。


「……上から見た時は、もっと山が見えると思っていたんだけどな」


「中に入ると全く違いますね」


 マティアスが応じる。


「位置は分かっていても視線が抜けません」


 アルスはヴァルターへ顔を向けた。


「木を落とせば見えるようになるかな」


 ヴァルターはすぐには答えず、周囲を歩いて幹や枝ぶりを確かめていく。


 しばらくして戻ってきた。


「視界は作れます。ただし全部は無理です」


「理由は?」


「水の中に立っている木もありますし、切り方を誤れば足場まで変わります」


 アルスは頷く。


「全部見えなくていい」


 そして続けた。


「山からは広く見たい。でも下からは山が見えにくいまま残したい」


 ヴァルターの目が細くなる。


「こちらからは見えて、向こうからは見えにくくするわけですか」


「そう」


「場所を選べば可能です。ただし慎重にやらないと逆になります」


「方法は任せるよ」


 アルスは水域へ視線を戻した。


「ただ気付かないうちに見られていた、という状況は避けたい」


「承知しました」


「それと動線も作ってほしい。手が空いた時でいいから」


「分かりました」


 話がまとまり、再び静けさが戻る。


 アルスは途切れた水面の向こうを見つめた。


 見えないということは、その先があるということでもある。


「レオン」


「はい」


「向こう側へ回れるか」


 レオンは少し考えた。


「時間はかかりますが可能です。水際は通れないので、一度外へ回ることになります」


「直接は厳しいか……」


 アルスは頷く。


「向こう側がどうなっているかで、この場所の意味が変わる気がする」


 マティアスが視線を向けた。


「この先に何かあるという事ですか」


「可能性だけどね」


 アルスは続ける。


「この場所が今後の動きを決める鍵になるかもしれない」


 その言葉に全員が耳を傾けた。


「だから早めに把握しておきたい」


 レオンが頷く。


「対岸を確認できないか探ってみます」


「街道との位置関係も見てきてほしい」


 マティアスが反応した。


「エリクセンとフォーゲルを結ぶ街道ですか」


「うん」


 アルスは足元の地形と記憶の中の地図を重ねる。


「これだけの水域があるのに、街道が無関係とは思えない。水場を意識して動くのは、移動の基本だ」


 そして言葉を続けた。


「見つけた以上、周辺の地図を早く整えたい。分からないままでは動きが制限される」


「確認しますが、日帰りですと限界があります」


 レオンが答える。


「だろうね。だから、今できる範囲で構わない。水域の広がり、対岸の様子、街道との距離をマティアスも一緒に頼む」


 それで十分だった。


 一行は水域を離れ、再び木々の中へ戻る。


 湿った地面は徐々に乾き、沈み込んでいた足裏も軽くなっていった。


 しばらく誰も口を開かなかった。


 それぞれが見てきた景色を頭の中で整理しているようだった。


 やがてマティアスが言う。


「魚や蟹は確認できました。食料として使える可能性があります」


 アルスは少し考える。


「捕る方法が必要だけどね」


 歩みを止めず続けた。


「でも、あれだけあるものを放置するのは惜しい」


 拠点へ近づくにつれ、人の気配が戻ってくる。


 木槌の音。


 土を返す音。


 鶏の鳴き声。


 朝と変わらない日常の音だった。


 だがアルスの中では、それらは先ほど見た水域と既に結びついていた。


 ここからは見えない場所に、確かに存在するものがある。


 そして、それをどう扱うかで拠点の未来も変わる。


 アルスは一度立ち止まった。


「マティアス」


「はい」


「地図はどこまで進んでいる」


「南東側はおおよそ形になっています。ただ村を避けているので歪ですが」


「なら北から北西を優先してほしい」


「分かりました」


 アルスは頷き、再び歩き出した。


 拠点へ足を踏み入れる頃には、水域の問題は既に頭の中で次の課題へ変わっている。


 まだ全体は見えていない。


 だが見えていないからこそ、確かめなければならない。


 山の向こうに隠れた水域は、いつの間にか拠点の未来を考える上で無視できない存在になっていた。

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