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第32話 回し方の違う村

大陸歴一四〇七年四月二十六日


夜の冷えがわずかに残る空気の中、バウムゼンの通りはまだ完全には目を覚ましておらず、人通りもまばらだったが、それでもあちこちで戸を開ける音や荷車を引く軋みが聞こえ始め、街は静かなまま少しずつ動き出そうとしていた。


宿の前に寄せた荷車の周りでは、夜番を終えたばかりのマティアスが体の強張りを解くように肩を回しながら周囲へ視線を巡らせていたが、異常がないことを確かめると一歩下がって、そのままアルスの方へ歩み寄る。


「気になることがあるので、少し見てきます」


声は抑えられており、周囲に聞かせるつもりもなければ長く離れるつもりもないことが、その言い方から自然と伝わってきた。


アルスは一度だけ視線を向ける。


「恐らく、長くはかかりません」


理由の説明もなく、何を見に行くのかも語られなかったが、それでもマティアスがそう言うのであれば十分であり、アルスは特に問い返すこともなく小さく頷いた。


それを受けたマティアスは踵を返して通りへ出ると、人の流れに紛れながら足を速め、やがてその姿を見失わせる。


その間にも荷車の周りでは準備が途切れることなく続いていた。


縄の張りを確かめる者がいれば、袋の位置を直して重心を整える者もおり、互いに多くを語り合うことはないものの、それぞれが迷いなく自分の仕事へ手を動かしている。その様子からは、やるべきことが既に共有されていることがはっきりと見て取れた。


籠の中では、昨日買い入れた鶏が落ち着かない様子で羽を震わせ、ときおり短く鳴き声を上げている。その声は静かな朝の空気に小さく混じり込み、荷の中に食料や道具だけではなく生きた家畜も含まれていることを周囲へ伝えていた。


アルスは少し離れた場所からその様子を眺めていたが、やがて歩み寄ると自らも荷車へ手を掛け、括り直された縄の具合や積み荷の状態を一つずつ確かめていく。


「うん……問題なさそうだね」


誰に向けるでもなく落とされた言葉に、近くにいたティムが視線だけを向けた。


「夜の間も特に何もなかったぞ」


報告はそれだけだったが、それで十分だった。何も起きなかったという事実以上に必要な情報はなく、むしろそれ以上を付け加える理由もなかった。


アルスは小さく頷き、さらに周囲へと視線を巡らせる。


新しく加わった四人はまだ完全にこの流れへ馴染みきっているわけではなかったが、それでも誰一人として手を止めてはいなかった。農民の男は荷の端へ手を添えて重さを確かめ、女は子供へ気を配りながらも作業を続け、その子供自身も籠の中の鶏を気にしながら、ときおり荷へ手を伸ばして位置を直している。


慣れているとは言い難い。


それでも、それぞれが自分に出来ることを探しながら動いていた。


アルスはその様子を一通り見渡してから、ゆっくりと息を吐いた。


準備は整っている。


少なくとも今この場で出来ることは全て終わっており、出発を前にして不足しているものは見当たらなかった。


「出る準備はいい?」


軽く投げた問いに、何人かが頷きを返す。


声は揃わなかったが、その反応だけで十分だった。


アルスは頷き返し、そのまま通りの先へ視線を向ける。


街の外へ続く道には既に細い人の流れが出来始めており、荷を運ぶ者、商いへ向かう者、遠出の支度を整えた者たちが、それぞれの目的地へ向かって歩き出していた。


その流れの中へ入ってしまえば、自分たちもまた数ある旅人や荷運びの一団と変わらず、人目を引くことなく街の景色へ溶け込んでいくことになる。


その時だった。


人の流れの中から、一つの影が真っ直ぐこちらへ戻ってくる。


無駄のない足取りには見覚えがあった。


マティアスだった。


アルスはそれに気付くと、特に声を掛けることもなく、そのまま彼が戻ってくるのを待った。


マティアスは周囲を一度だけ見渡し、全員が揃っていることを確かめるように視線を巡らせてから、アルスの前で足を止めた。


「お待たせしました。実は昨日、気になる一団を見たとクラウスから聞いてまして、少し探りを入れてみました」


そこで一度言葉を切る。


報告としてはそれだけで終わっても不自然ではない間だったが、マティアスは僅かに声を落とし、


「捜索は、まだ続いています。私は面が割れていないと思い、接触して直接確認しました」


と続けた。


アルスは何も言わず、先を促すように視線だけを向ける。


「ただ、探しているのは――領主様と、カミルの若様を除いた者です。逆に兄上方についても探している模様です」


その報告を聞いた瞬間、周囲の音が変わったわけでも空気が張り詰めたわけでもなかったが、その内容だけははっきりと意識の中へ残った。


アルスはわずかに視線を落とし、それからすぐに前へ戻す。


「……そうか」


返した言葉はそれだけだった。


驚きもなければ問いもない。ただ報告を受け取ったことを示すだけの声音だった。


だが、その短い言葉の裏では、聞いた内容を整理しながら幾つかの可能性を考えていた。


領主であるサエルが捜索対象から外れていること自体に不自然さはない。


戦場へ出ている以上、既に別枠として扱われていてもおかしくはなかった。


しかし、カミルの名もそこから外れている。


他の者たちは探されているにもかかわらず、カミルだけが含まれていないのであれば、そこには何らかの理由があるはずだった。


考えはそこまで届く。


だが、その先へは進めなかった。


推測は出来る。


しかし今の時点では確かめる手段がなく、その推測を前提に動けるだけの材料もない。


今ここで結論を出しても意味はなかった。


だからアルスは、その考えをそこで打ち切る。


強く歯噛みするほどのことではない。


ただ、理由の見えない引っ掛かりだけが胸の内へ残った。


さらに兄たちも探されているという報告が重なり、その事実についても幾つかの考えが浮かびかけたが、それについても今は答えを出せない。


アルスは小さく息を吐くと、そうした考えを一度脇へ置くように視線を前へ戻した。


「さあ、行こうか」


それだけを告げる。


誰か一人へ向けた言葉ではなく、この場にいる全員へ向けた声だった。


その言葉を受けて、それぞれが動き出す。


荷車が軋み、重なる足音が朝の通りへ溶け込み、一行は街を出る人々の流れへ加わっていく。


そしてそのまま、バウムゼンの外へ続く道へ向けて歩き出した。




大陸歴一四〇七年四月三十日



バウムゼンを出てからの道のりは、荷を引いている以上どうしても周囲への警戒を緩めることが出来ず、一行は常に視線と意識の一部を外へ向けながら進み続けていたが、結果としては特に何事も起こらなかった。


街道を進み、やがて脇道へ入り、さらにその先へと足を延ばしたところで、最初の村が姿を見せる。


ここまでの道のりは拍子抜けするほど平穏だった。


もちろん、それは油断を誘うような類の平穏ではない。ただ現実として何事も起こらずにここまで来られたというだけの話であり、その事実そのものが、この一帯が完全に崩壊しているわけではないことを示しているようにも見えた。


村は緩やかな起伏の先に広がっていた。


規模としては決して大きくない。家屋の数も多くはなく、配置も整然としているとは言い難かったが、それでも人の手が行き届いていないわけではなく、道は踏み固められ、畑はきちんと区切られ、ところどころに立つ柵にも古びながら補修された跡が残っている。


アルスは歩みを緩め、その村全体へ視線を向けた。


畑には既に人が出ていた。


腰を折って土へ手を入れる者もいれば、道具を動かしている者もおり、誰もが黙々と作業を続けている。その動きにぎこちなさはなく、日々繰り返してきた仕事であることが遠目にも分かった。


子供の姿もある。


小さな籠を抱えながら畑の端を行き来し、何かを拾い集めているその姿は遊びではなく、明らかに仕事の一部として任されているものだった。


アルスはしばらくその光景を眺める。


人がいて、動いていて、それぞれが自分の役目を果たしている。


その様子を見てから、ゆっくりと息を吐いた。


少なくとも目に映る範囲では、生活が崩れているようには見えなかった。


確かに豊かではない。


家屋は簡素で、人々の衣服も何度も使い込まれていることが分かる。余裕があるようには到底見えなかったが、それでもここには日々を積み重ねていくための営みが確かに存在していた。


畑は放棄されておらず、人々は家の中へ閉じこもることなく外へ出て働いている。


それだけでも、この先に待っているかもしれない「既に終わってしまった場所」とは明確に違っていた。


後ろを歩いていたティムも同じものを見ていたのか、特に言葉を挟むことはなく、一度だけ周囲へ視線を巡らせると、そのまま何も言わず前へ向き直った。


アルスはさらに数歩進み、村の中へ足を踏み入れる。


近づくにつれて土の匂いと乾いた草の匂いが混じり合い、風に乗って運ばれてくる。耳に届くのは風が草を揺らす音と、農具が触れ合う小さな音ばかりで、喧騒と呼べるものはどこにもなかった。


静かではある。


だが、それは人の気配が失われた場所の静けさではなく、それぞれが黙って仕事へ集中しているからこそ生まれる静けさだった。


余計な音がなく、必要な音だけが残っている。


そんな働く場の空気が、村全体に広がっていた。


アルスはその中を歩きながら、もう一度だけ周囲へ視線を巡らせる。


――なんだ、回ってるじゃないか。


声にはならなかったが、その実感ははっきりと胸の内へ落ちた。


少なくとも今目の前に広がっている光景からは、村人たちが明日の暮らしを失い、そのまま賊へ転じていくような切迫した状況は見えてこない。


もちろん、それだけで全てを判断することは出来なかった。


村の事情は外から見ただけでは分からないし、今は問題がなくとも半年後や一年後まで同じとは限らない。


それでも少なくとも、この村は違う。


その認識によって、アルスの中で引いていた線は静かに修正されていた。


最初の村を後にすると、一行は再び街道へ戻り、そのまま足を止めることなく進み続ける。


道の様子に大きな変化はなく、荷車の軋む音も変わらない。見える範囲には似たような景色がどこまでも続いているようにも思えたが、それでも半日ほど進んだところで、アルスは不意に視線を横へ流した。


そこは見覚えのある場所だった。


街道の脇には、わずかに草に覆われかけた地面の中へ黒く焼けた跡が残っていた。


崩れた木材や形を失った車輪の一部も完全には片付けられておらず、そのまま放置されている。


以前通りがかった際に見た、襲われた荷車の残骸だった。


風雨に晒されたことで多少は形を変えていたものの、それが何であったのかを見誤ることはない。アルスは足を止めることなくそれを横目に捉えると、そのまま視線を前へ戻し、すぐ先にある脇道へと進路を向けた。


道は細かった。


まったく人が通らないわけではないものの、踏み固められた跡は浅く、街道と比べれば往来の頻度が大きく落ちていることが分かる。


そのまましばらく進むと、やがて木々の間が開け、小さな集落が姿を現した。


遠目に見える限りでは、特に荒れている様子はない。


畑は整えられ、家々も崩れておらず、煙も細く立ち上っている。その姿は貧しくこそあれ、どうにか日々の暮らしを維持している村そのものであり、先ほど立ち寄った村と大きな違いはないように見えた。


しかし近づくにつれて、アルスはその印象に小さな違和感を覚える。


村は確かに整っていた。


畑には人の手が入っており、土は均され、作物も規則正しく育てられている。手を抜いている様子は見当たらず、むしろ限られた土地を無駄にしないよう、空いた場所を埋めるように作付けされていることが見て取れた。


それなのに、その光景がそのまま生活の安定へ結び付いているようには見えない。


何が違うのかは上手く言葉に出来ない。


だが、どこか噛み合っていない感覚だけが残った。


家々の壁は先ほどの村より補修が進んでおり、使われている道具も古くはあったが壊れている様子はない。行き交う者たちの衣服も余裕を感じさせるものではないものの、少なくとも身なりが崩れているわけではなかった。


一見すれば前の村より状態は良く見える。


だが、畑の広さや働いている人々の様子を見る限り、収穫量が大きく違うようには思えなかった。


むしろ同じように働いているからこそ、その結果の違いが妙に目につく。


何かが違う。


そう感じさせる歪みだけが、村全体に薄く残っていた。


そしてもう一つ。


村の中には、どこか粘りつくような質の視線が混じっていた。


最初は気のせいかと思う程度だったが、村へ足を踏み入れてしばらくすると、それが思い違いではないことに気付く。


向けられている視線の全てが同じではない。


ただの来訪者を見る目ではなく、かといって露骨な警戒とも違う。


品定めをするような、距離を測るような視線が、一定の間合いを保ちながらこちらへ向けられていた。


アルスはそれを感じながらも、気付いていないふりをして村の中を進む。


その途中で、ふと一つの光景が目に入った。


畑の端だった。


荷を積んだ木箱の傍で、数人の男たちが言葉を交わしている。


一見すれば、ただの立ち話にしか見えない。


だが、その中に混じる二人の男だけが、どこか異質だった。


着ているものは他の村人と変わらず粗末で、見た目だけなら区別はつかない。


それでも身体の使い方が違う。


立ち方。


視線の動かし方。


周囲への意識の向け方。


どれも畑仕事に慣れた農民というより、別の場所で生きてきた人間のそれだった。


それにもかかわらず、その二人は村人たちと自然に言葉を交わしている。


畑へ出ている様子はない。


だが、だからといって村人たちが彼らへ仕事を押し付けているようにも見えなかった。


まるで互いに別の役割を持ちながら、それでも同じ村の人間として暮らしているようだった。


アルスはその光景を一瞬だけ目に留めると、何事もなかったかのように視線を外す。


だが、その瞬間に感じた違和感は消えなかった。


これまで見てきたものと、今目の前にある光景が、どこかで一本の線として繋がり始めている。


そんな感覚だけが胸の内へ残る。


その時、隣を歩いていたマティアスがわずかに歩幅を詰め、周囲へ視線を向けたまま声を落とした。


「……若様、どうやらこちらを値踏みしている者が混じっているようです。明確に敵意を向けているわけではありませんが、このまま長居すれば、いずれ“そうなる”可能性は否定できません」


アルスは前を向いたままその言葉を聞く。


否定も肯定もしない。


ただ内容だけを受け取る。


マティアスはさらに続けた。


「念のため、早めに引いた方がよろしいかと。子供は荷台に上げておけば、いざという時にも動かしやすいでしょう」


その言葉の中には、この場で取るべき判断が過不足なく含まれていた。


アルスはその報告を受け取り、すぐに返事をすることはせず、わずかな間だけ周囲へ意識を巡らせた。


畑は回っている。


人も働いている。


だが、それだけで村を維持出来ているようには見えなかった。


それにもかかわらず、村は形を保ち、人々は日々を送っている。


なぜそうなっているのか。


その答えは、これまで目にしてきた断片を繋ぎ合わせれば十分に見えていた。


もはや確かめるまでもない。


だからこそ、これ以上踏み込む意味もなかった。


この村から得るべきものは、既に得ている。


アルスは小さく息を吐くと、その考えを整理するように口を開いた。


「……そうだね。これ以上は、危ういかも知れない」


静かに落とされた言葉には迷いがなかった。


さらに周囲へ視線を巡らせて隊の位置関係を確認すると、そのまま続ける。


「念のため、マティアスは先に出てくれ。様子を見ながら道を開ける形でいい。ティムとリッキーは後ろに回って、間を詰めさせないように」


指示は簡潔だったが、それぞれに求める役割は明確だった。


前方を確保し、後方を警戒する形が整えば、あとは無理に急がずとも流れに乗せて離脱出来る。


言葉を受けた三人は余計な確認を挟まず動き出した。


マティアスは馬を進めて一足先へ出ると、そのまま進路を確保する位置へ移り、ティムとリッキーは自然な動きで隊列の後方へ下がりながら周囲へ視線を配る。


その間にも子供は荷台へ上げられ、農民の夫婦もそれに合わせて位置を整え、一行は言葉を交わさずとも一つの隊列として形を整えていった。


アルスはその動きを一通り見届けてから、最後にもう一度だけ村の奥へ視線を向ける。


そこには変わらず人の営みがあった。


畑があり、人が働き、生活のための声が交わされている。


だが同時に、その中には別の気配も確かに混じっていた。


村人たちだけでは完結していない何か。


表から見える暮らしを支えている別の流れ。


アルスはそれを確かめるように一瞬だけ目を細めたが、それ以上は何も言わず視線を外した。


「ここまでで、引き返そう」


そう告げると同時に、自らも街道へ戻る方向へ歩みを向ける。


隊列は乱れることなく反転し、そのまま来た道をなぞるように村の外れへ向かって進み始めた。


背後から向けられる視線は先ほどよりも僅かに増え、その質も濃くなっていたが、それでも誰かが近付いてくることはない。


一定の距離を保ったまま、ただ彼らの動きを見送っている。


その様子だけでも十分だった。


もしさらに奥へ踏み込んでいたなら、帰り道には何らかの障害が生じていたかもしれない。


今の距離感だからこそ保たれている均衡があり、そのことを理解させるには十分な視線だった。


やがて村の外れを抜け、脇道へ戻り、さらに進んで街道へ合流したところで、アルスはようやく僅かに肩の力を抜く。


背後にまとわりついていた気配もそこまで来れば完全に途切れており、追ってくる様子も見られなかった。


それを確認すると、アルスは振り返ることなく前を向く。


得られた情報は決して多くない。


だが、見えたものはあった。


最初の村と比べれば、この村の暮らし向きは僅かに良く見えた。


畑の広さも、人々の働きぶりも大きく変わらない。


だからこそ、その差が目につく。


恐らくは、足りない時だけ別の手段へ手を伸ばしているのだろう。


それは日々の生業ではなく、不足を埋めるための手段に過ぎない。


だが、その積み重ねは確かに村へ残り、農民とは違う場所で生きてきた人間を受け入れる土壌にもなっているように見えた。


それが正しいのか間違っているのかを、今ここで決めるつもりはなかった。


ただ一つ確かなのは、ああした形で日々を回している場所も、この土地には実際に存在しているということだった。


そして少なくとも今の自分たちに必要なのは、その場で結論を出すことではない。


拠点へ戻り、見たものを整理し、改めて考えればいい。


そう切り分けると、アルスは歩みを緩めることなく、そのまま街道の流れへ戻っていった。

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