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第33話 形になり始める

大陸歴一四〇七年五月五日


 昼をいくらか回った頃、山道を越えて戻ってきたアルスたちの前に広がったのは、出発前に見たものと同じ場所でありながら、どこか別の場所のようにも感じられる拠点の姿だった。


 ぱっと見で分かるほど劇的な変化があるわけではない。しかし視線を少し奥へ流せば、記憶の中にはなかった位置にいくつかの建物が新たに組み上がっていることに気付く。


 規模としてはどれも大きなものではない。それでも「増えている」という事実だけははっきりと目に入り、ただ身を隠すためだけだったはずの拠点に用途を持たせようとした痕跡が、少しずつではあっても確実に積み重なり始めていることを否応なく意識させられた。


 アルスは足を止めることなくその変化を視界へ収めながらゆっくりと歩みを進め、その中で最初に耳へ届いたのは乾いた打音だった。


 木と木が打ち合わされる規則的な音である。


 そちらへ視線を向けると、開けた場所の一角にゼダンの姿があった。その周囲には数人が間合いを取りながら向き合っており、それぞれがただ木剣を振り回しているのではなく、明確な意図を持って身体を動かしていることが遠目にも分かる。


 飛び交う声は多くないが動きには統一感があり、その様子は指示を受けながら動いているというよりも、既に共有された型をそれぞれが反復しているように見えた。場には訓練としての空気が自然に根付き始めている。


 アルスは歩みをわずかに緩め、そのまま訓練の様子へ視線を留めた。


 まず目に入ったのはレオンだった。


 踏み込みに迷いはなく、振りも大きく崩れない。まだ粗さこそ残っているものの、基礎そのものが抜け落ちている様子はなく、身体の使い方も自然な流れで繋がっている。ただ教えられた通りに動いている者のそれではなく、もともと積み上げてきたものを土台にしている者の動きだった。


 ――出奔後も続けていたと言っていたが、なるほど、積み重ねは嘘をつかない。


 短くそう判断し、アルスは次に目を移した。


 そこにはローザと孤児の兄の姿がある。


 二人の動きはまだ遅く、間合いの取り方にも迷いが見えた。振りは大きいが、その分だけ隙も残り、型をなぞる段階から完全には抜け出せていない。それでも手を止めることなく何度も同じ動きを繰り返しており、その姿からは相当な意気込みが伝わってくる。


 順当だ、とアルスは思う。


 むしろこの段階で手を止めずに続けられているだけでも十分に評価に値し、技量よりもまず継続する意思の方が重要な時期だと考えれば、決して悪い状態ではない。


 そして、そのまま視線をさらに巡らせたとき――アルスはわずかに目を細めた。


 大工の夫婦だった。


 夫の手には大木槌が握られている。建材を打ち据えるためのそれは、本来であれば戦いに用いる道具ではないはずだが、その重さを扱い慣れているのか、振り下ろしに鈍さはなく、むしろ無理のない軌道で相手へと届いていた。


 対する妻の手にあるのは、棍棒へ無数の釘を打ち込んだ代物である。一見すれば粗雑な武器にしか見えないが、その振るい方には迷いがなく、間合いの詰め方も的確で、打ち込んだあとも無理なく引き戻して次の動作へと繋げている。


 どちらも洗練されている。


 だが、それ以上に目を引いたのは身体の運びだった。


 力の乗せ方、踏み込みの安定、振り切ったあとの戻し。その一つ一つに無駄がなく、長い年月をかけて身体へ染み込ませてきた動きであることが見て取れる。


 戦うために磨いた技だと言われても納得できるほどの完成度だった。働く中で積み重ねたものが結果としてそうなったのか、それとも元よりそうした生き方をしてきたのかまでは分からないが、少なくとも見た目から受ける印象だけで判断できる相手ではない。


 ――あれは戦力として計算に入れても良いのではないか。


 予想していなかった分だけ、その評価は素直に上方修正された。


 アルスは一連の様子を見終えると小さく息を吐く。


 出発前、この場所はただ身を隠すためだけの「隠れ場所」に過ぎなかった。


 しかし今は違う。


 建物が増え、人が動き、それぞれが自分の役割を持ち始めている。まだ全体として整っているとは言えず、用途も完全には定まりきっていないが、それでも確実に拠点としての輪郭が生まれ始めていることだけは疑いようがなかった。


 アルスは視線を外し、そのまま拠点の奥へと歩みを進める。


 すると視界の端に、木々を切り払い、土を均して確保した開けた一角が映り込んだ。出発前に時間を見つけては少しずつ手を入れていた場所であることを思い出しながら、自然と意識がそちらへ向かう。


 泉からも近く、水を引くにも不自由のない位置にある。耕した範囲こそ広くはないものの、何も手を付けていなかった頃の地面とは明らかに違っており、土は返され、ところどころには既に芽を出しているものも見えた。


 整然とした畑と呼ぶにはまだ遠いが、それでも少なくとも形としては畑と呼べる段階までは辿り着いている。


 整っているとは言い難い。しかし何もしていないわけでもない。種は蒔かれ、水も与えられている以上、あとは育つのを待てばいい――少なくともアルスには、そのように見えていた。


 その認識のまま足を踏み入れようとしたところで、後ろに続いていた農民の夫婦がほとんど同時に足を止める気配が伝わってくる。


 わずかな沈黙のあと、夫の口から低く押し出すような声が漏れた。


「……なんだ、こりゃ」


 呆れとも違う。しかし戸惑いを隠しきれない声音だった。


 アルスは足を止めて振り返る。


 夫は畑全体を見渡すようにゆっくりと視線を巡らせ、その途中で何度も動きを止めながら何かを確かめるように見ていた。隣に立つ妻もまた腰へ手を当て、わずかに身を乗り出しながら土の様子を覗き込むように同じ場所を追っている。


「これ……種、混ざりすぎだべさ」


 ぽつりと落ちた言葉に、夫が小さく頷きながらさらに視線を巡らせる。


「間も取れてねえな……詰めすぎてるとこもあれば、逆に空きすぎてるとこもあるし、これじゃどれがどう育つか分がんねえ」


 二人の視線は、アルスたちにはただの土と芽にしか見えていなかった場所を、まるで別の意味を持つものとして追い続けていた。


「水の流れも考えてねえべ……こっちは溜まってるし、こっちは乾いてる」


 妻は足元の土を軽く踏みながらそう言い、夫はその場にしゃがみ込んで土を指先で崩し、その感触を確かめるように触れたあと、短く息を吐く。


「……しかも、これ」


 指先についた土を払おうとしながら、夫はわずかに眉を寄せた。


「時季もバラバラだな。今のもあれば、もう少し後のも混ざってるし、このままじゃ芽ぇ出ねえのも出てくるぞ」


「出ても、まともに育だねえべさ……これじゃ、どれがどれだか分がんねえよ」


 妻の言葉は決して強いものではなかったが、その中に含まれている内容は明確だった。目の前にある畑が何かを欠いていることを、二人はごく当たり前のように見抜いている。


 アルスはそのやり取りを聞きながら、改めて畑へと視線を戻した。


 自分の目に映る光景は先ほどと何も変わらない。土があり、芽があり、誰かが手を入れた痕跡も残っている。だからこそ、それなりに形にはなっているように見えていた。


 しかし今、この場で語られているのはまったく別の話だった。


 目の前に畑があるかどうかではなく、その畑がこれから先も畑として機能し続けるのかどうか。その違いを語っているのだと、少しずつ理解が追いついてくる。


 同じ場所を見ているはずなのに、見えているものが違う。


 その事実だけが、はっきりとアルスの中へ残った。


「……そんなに、違うのか」


 小さく落とした問いに、夫はしゃがんだまま顔だけを上げる。


「違うってもんじゃねえさ」


 短くそう言ってから、再び畑へ視線を戻し、指先で土を軽く弾いた。


「こりゃ、“蒔いた”だけだ」


 その一言は余計な説明を必要としなかった。


 畑を知らない者にも分かるほどの重みを伴いながら、静かに場の中へ沈み込んでいく。


「畑ってのはな、順番があって、間があって、やっと回るもんだ」


 立ち上がりながら夫が続ける。その視線は畑全体を捉えたまま離れない。


「これだと今はいい。芽ぇ出てるのもあるしな……けんど、この先が続がねえ」


 その言葉を受けるように、妻もわずかに頷いた。


「食えるもんもあるべ。けんど、それじゃ回らねえんだよ」


 静かな声だった。


 だが、その意味は重い。


 それは単なる失敗の指摘ではなく、この先どうなるのかという未来そのものを見据えた言葉だった。


 アルスは何も言わず、その話を受け止める。


 間違っていたわけではない。


 だが、それだけでは到底足りていなかった。


 種を蒔き、水を与え、芽が出たことに満足していたが、本当に必要だったのはその先であり、自分たちはその形そのものを知らなかったのだと、ようやくそこへ辿り着く。


 夫は腕を組み、もう一度畑全体を見渡した。


「……様子見ながら手ぇ入れてくしかねえな。使えるとこは残して、ダメなとこは直す」


 視線を巡らせながら淡々と続ける。


「場所によっちゃそのままいけるが、半分は植え替えだべな」


「芽ぇ出てねえのは諦めた方が早えな。今からでも間に合うもん選んで、やり直さねえと」


 妻もそれに続き、迷いなく判断を重ねていく。


 二人の言葉には躊躇がなかった。最初からすべてをやり直さなければならないというわけではないが、このままでは続かない以上、どこかで手を入れなければならないという結論は既に固まっている。


 アルスはその判断を聞きながら、もう一度だけ畑へ視線を向けた。


 先ほどまでは形になっていると思っていたものが、今は違って見える。


 土そのものは変わっていない。


 芽も変わらない。


 だが、その上に積み重なっている意味だけが変わっていた。


 これは完成へ向かう途中の畑ではなく、ようやく始まりに立った畑なのだ。


 それでも――やるべきことが見えたのなら十分だと、アルスは小さく頷く。


「頼めるかな」


 その一言に、夫婦は顔を見合わせる。


 そして軽く肩を竦めた。


「任せてどけ」


 夫がそう言い、


「一からにはならねえだけ、まだマシだべ」


 妻が続ける。


 その言葉には現実が混じっていた。


 楽観ではないし、都合の良い希望でもない。


 それでも同時に、きちんと手を入れれば回せる形へ持っていけるという確かな感触も含まれている。


 拠点の中に、ようやくひとつ。


 続けるための手が加わった瞬間だった。


 畑から視線を外したアルスは、そのまま拠点の奥へと歩みを進めていく。


 足を進めるにつれて、出発前には感じなかった配置の違和感が少しずつ輪郭を帯びるように意識へ入り込んできた。


 建物が増えている。


 それも単に数が増えただけではない。


 視線を巡らせるたび、それぞれの建物が互いにまとまりきっておらず、用途を定め切らないままとにかく形だけを先に作り、その場その場で積み上げていったかのような並び方をしていることが見えてくる。必要に迫られて増やしてきたことは分かるが、全体としての統一感はまだない。


 アルスはそのうちの一つへ視線を向けた。


 最初に目へ入ったのは「火の家」だった。


 入口の開口は抑えられ、内部へ熱を溜め込む構造もきちんと形になっている。外から眺めているだけでも煙の抜け方が整っていることが分かり、単に火を起こすための場所ではなく、熱を扱うための設備として一応の完成まで持っていった痕跡がそこにはあった。


 さらに目を凝らせば、壁の一部にはうっすらと煤が残っている。


 すでに試しに使われた形跡があるということだ。


 そのすぐ隣には乾燥室と、その外へ張り出すように組まれた乾燥棚が並んでいる。しかしこちらは完成したとは言い難かった。


 壁に使われている木材はまだ水分を多く含んだ生木であり、板同士の間にもわずかな隙間が残っているため、完全に閉じた空間にはなっていない。風は通るものの、それは計算された通気というより、単に抜けているだけの風であり、内部環境を安定させるにはまだ心許なかった。


 棚には試しに何かを干した形跡も見えるが、それが意図した通りに機能しているかどうかまでは判断できない。


 保存食を作るという意味では風通しそのものは悪くない。しかし一方で、生木が持つ湿り気が内部へ影響を及ぼす可能性もあり、乾燥のための施設としてはまだ不安定さを残しているように見えた。


 アルスはその状態を眺めながら、完全に否定することはしなかったが、このまま使い続けるにはどこかで調整が必要になるだろうと静かに見切りをつける。


 さらに視線を先へ移すと、少し離れた場所に三つの建物が点々と建っているのが見えた。


 規模はどれも似通っている。


 しかし配置には統一感がない。


 寄せてまとめるわけでもなく、用途ごとに固めるわけでもなく、それぞれが「とりあえず建てた」と言わんばかりに間を空けて置かれている。


 近づいて見れば、どれも最低限の構造は備えていた。雨風を凌ぐこともできるし、荷を置くことも、人が寝泊まりすることもできるだろう。


 ただ、そのどれもがまだ「それとして使われた痕跡」を持っていない。


 物置にもできる。保存庫としても使える。あるいは人が寝る場所として整えることも可能だろう。


 しかし現時点では、そのどれにも決まりきっておらず、ただそこに存在しているだけの状態に留まっていた。


 アルスはしばらくその並びを眺めたあと、ゆっくりと息を吐く。


 形にはなり始めている。


 だが、今はまだそれだけだ。


 何に使うのか、どう回すのか、どこまでを拠点として広げるのか――そうした中身の部分は、まだどこにも定まりきっていない。


 だからこそ余白がある。


 そして同時に、その余白こそが、この場所に残されている選択肢そのものでもあった。


「……これ、使えるんじゃないか」


 建物の一つへ近づきながら漏らした言葉は、評価というより確認に近いものだった。


 そのまま建物から視線を外したアルスは、わずかに顔を上げて水場の方角へと目を向ける。


 拠点の中でも、この一帯だけは自然と人の動きが集まりやすく、何かが始まるとすれば、まずそこからだろうと感じさせる空気があった。


 水を汲む、運ぶ、洗う――生活の中で避けて通れない作業は、必ずこの場所を起点として発生する。


 その近くに、一軒だけ他と同じように建てられた建物があった。


 アルスはその位置を見ながら、わずかに思考を巡らせる。


 広さとしては申し分ない。人を詰め込めるだけの余裕があり、利用する者が増えたとしても当面は困らないだろう。


 そして何より、水場に近いということは、それだけ運ぶ手間が少ないということでもある。


 扱えるものの幅は一気に広がる。


 そこまで考えたところで、アルスは視線を戻し、近くにいた者たちへ声を掛けた。


「この一軒、使い道を決めようか」


 急かすような響きはない。


 だが迷いもないその声音に反応して、周囲にいた数人の視線が自然と集まった。


 アルスはそのまま建物を顎で示す。


「ここ、鶏小屋にする。籠のまま置いておくより、動かせるようにした方がいい」


 単に飼うためではない。


 卵を取るにしても、いずれ肉にするにしても、生きたまま管理できる場所が必要になる。


 バウムゼンから持ち帰ったものを、そのまま消費するのではなく、回していくための最初の一手だった。


「周りに柵を作って、逃げ出さないように囲おう。あまり詰め込みすぎると弱るらしいから、大きめに広さを取った方がいいかな。どうせ土地は余ってるんだし」


 そこまで言って一度言葉を切ると、アルスはふと横へ視線を向けた。


 農家の夫婦の傍にいる子供――バウムゼンから連れてきた男の子と目が合う。


 まだ拠点の空気に慣れきっていないのか、周囲の様子をうかがうように立っていたが、不意に視線を向けられたことで身体をわずかに強張らせ、それでも慌てて胸を張った。


 アルスはその反応を見て、声の調子をほんの少しだけ和らげる。


「前にも聞いたことだけど、鶏のことはお前に任せてもいいんだね」


 問い掛けというより確認に近い言い方だった。


 既にバウムゼンでのやり取りを通じて、この子供がある程度扱えることは分かっている。


 だから知識を試したいわけではない。


 どこまで任せられるか、それだけを測るための言葉だった。


 男の子は一瞬だけアルスの顔を見上げ、それから迷うことなく頷いた。


「うん。あいつら、ちゃんと見てないとすぐ弱るから」


 返ってきた言葉は短い。


 だが迷いはなかった。


 その口調には、既に世話をする側の意識が自然と乗っている。


 アルスは小さく頷き返した。


「なら、柵の配置も含めて見てくれ。使いやすい形にしたい」


 命令ではなく、任せる形だった。


 それを受けて男の子はすぐに水場と建物の位置を見比べるように視線を動かし始める。


「柵の間隔は気を付けないと、すぐ抜けちゃうんだ。下から掘って出ちゃうことも有るんだよ」


 記憶を辿るように呟かれた言葉を聞き、アルスは周囲へ軽く視線を巡らせた。


 すると、先ほどまで訓練をしていた大工の男が近くにいることに気付く。


「……らしいよ。柵は隙間を詰めて、下も簡単には抜けられないように作ってね」


 そう言ってから、さらに言葉を重ねた。


「作りは任せるけど、聞きながら、この子の使いやすさを優先してくれ」


 形にする技術に関しては、この場で最も信用できる相手だ。


 だが実際に使うのは子供である以上、その点だけは忘れてほしくなかった。


 大工の男は一度だけ頷く。


 そして周囲の位置関係を見ながら、既に頭の中で組み立てを始めているようだった。


 大工の女もまた、その隣で棍棒を肩へ担ぎ直しながら、囲いの広さを測るように視線を巡らせている。


 指示を受けると、それぞれが自然に役割を取る。


 誰かが細かく割り振らなくても、人は必要な場所へ収まっていく。


 アルスはその様子を見届けながら、わずかに息を吐いた。


 持ち帰ったものが、そのまま積み上げられるのではない。


 人も物も、この場所の中へ少しずつ組み込まれていく。


 その流れが、ようやく形として見え始めていた。


 鶏小屋の指示を出し終えたところで、背後から足音が近づいてくる。


 振り返るまでもなく、その気配には覚えがあった。


「おかえりなさい」


 落ち着いた声とともにゼダンが一歩前へ出る。その隣にはレオンの姿もあり、二人とも訓練を切り上げてこちらへ来たのだろう。鶏小屋の話を聞く、大工夫婦の少し後ろを追う形だった。


 アルスは軽く手を上げて応じると、そのまま視線を先ほどまで活気のあった訓練場へ向けた。


「見ていたよ。ずいぶん熱心にやっていたね」


 ただの感想ではない。


 訓練に時間を割いた理由まで含めて尋ねるような言葉だった。


 それを受けて、ゼダンはわずかに視線を落とし、すぐにアルスへ向き直る。


「人数が少ない以上、出来ることにはどうしても限りがありますので。無理に活動範囲を広げたり、大きな収穫を狙って危険を冒したりする時期ではないと判断し、その空いた時間を訓練へ回しました」


 口調は淡々としていた。


 しかし、その裏にある考えは明確である。


 戦力が足りないからこそ無理に手を広げず、今ある人員を少しでも強くする。


 派手さはないが、堅実な積み上げだった。


 アルスはその意図を受け取り、小さく頷く。


「いいと思う。無理をしたからといって、必ずしも良い結果になるわけじゃないしね」


 肯定は即座だった。


 方針として間違っていない以上、余計な修正を加える必要はない。


 そのやり取りを横で聞いていたレオンが、わずかに表情を緩めた。


 訓練そのものに手応えがあったのか、それとも判断を評価されたことへの安堵か。その両方かもしれないが、少なくとも今の彼に迷いは見えない。


 アルスは改めて二人へ視線を向ける。


「他も見た。大工の二人、あれは予想外だったな」


 その一言に、ゼダンもわずかに口元を緩めた。


「ええ。あちらもこちらと同じで、“使えるものは使う”という考えで生きてきたようです」


 冗談めいた言い方だったが、評価としては本気だった。


 アルスは小さく息を吐きながら周囲へ視線を巡らせる。


 訓練があり、建設があり、畑があり、そして今は鶏小屋の準備も始まろうとしている。


 どこを見てもまだ粗く、整い切っているとは言えない。


 それでも確実に、この場所は止まることなく動き始めていた。


「……いい流れだね」


 誰へ向けるでもなく零れたその言葉に、近くにいた者たちの動きがわずかに揃う。


 大きな変化ではない。


 だが、その一言が場へ落ちたことだけは確かに伝わっていた。


 そんな空気の中で、レオンが一歩だけ前へ出る。


「若」


 呼び掛けは控えめだったが、その声音には用件があることが滲んでいた。


 アルスはそちらへ視線を向ける。


「少し、報告してもよろしいでしょうか」


 その言葉に、アルスはわずかに目を細めた。


 ただの雑談ではない。


 何か次へ繋がるものを持っている時の顔だった。


「……いいよ。聞こう」


 そう応じたあと、アルスは一度だけ周囲へ視線を巡らせる。


 動き続ける拠点。


 その中で、また新しく積み上がろうとしているものがある。


 アルスはそれを受け取る準備だけを整えると、静かにレオンへ向き直った。

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