第31話 持ち帰るもの
大陸歴一四〇七年四月二十五日
扉を押し開けた瞬間、室内に溜まっていた空気がわずかに外へ流れ出し、その中に混じる酒と木の匂いが遅れて鼻をくすぐった。
表の酒場とは扉一枚隔てられているだけだというのに、その部屋は喧騒から切り離されたように静かで、簡素な卓と椅子がいくつか並べられ、壁際には酒樽が積まれている。
常連客を通すための部屋なのか、それとも店側が打ち合わせなどに使う場所なのかは分からないが、人を迎えるための最低限の体裁は整えられていた。
その部屋には四人の人影があった。
一組の男女と、その傍らに寄り添う小さな子供。そして少し離れた位置に立つ男が一人。
誰も口を開かず、こちらの様子を窺うように視線だけを向けている。
アルスはまず部屋全体を見渡し、人数や立ち位置を確かめると、それ以上相手を値踏みするような真似はせず、自然に表情を緩めた。
そのまま部屋へ入り、卓の近くにあった椅子へ腰を下ろす。
「――はじめまして」
出来るだけ肩の力を抜きながらそう声を掛ける。
「ディーから話は聞いているかな。俺はアルスだ。ここから北西の地で、仲間たちと拠点を作っている」
一度言葉を区切ってから続けた。
「もっとも、拠点と言ってもまだ出来たばかりでね。人も足りなければ物も足りない。今回はその不足を補うために街へ来ていたんだけど、その途中でディーに声を掛けられたんだ」
少しだけ苦笑する。
「だから正直なところ、大層な話が出来る訳じゃない」
そう前置きをした上で、改めて相手へ視線を向けた。
「けれど、皆のことは知りたいと思っている。良ければ話を聞かせてくれないかな」
その後ろでは、遅れて入室したティムが何も言わず壁際へ移動し、部屋の様子を静かに見守っていた。
アルスの言葉が終わると、部屋にはしばらく小さな沈黙が流れる。
互いに相手を測りかねているような空気の中、やがて卓の向こうに立っていた男が女と子供を一度振り返り、それから覚悟を決めるように前へ出た。
日に焼けた肌に、何度も繕った跡の残る衣服。
太く節くれ立った手には長年土を触ってきた痕跡が刻まれており、爪の隙間には洗っても落ち切らない土の色が残っている。
男は一度視線を落としかけたが、それを堪えるように顔を上げた。
「……オラたちは農家だっただ」
訛り混じりの言葉が静かな部屋へ落ちる。
「けんど、このところずっと上手くいがなくてな。何作っても金は残らねえし、買うものは高くなっていってよ」
そう言う男の手がわずかに握られる。
「何とかなると思ってただ。来年は良くなるかもしれねえ、その次は持ち直すかもしれねえってな」
だが、と男は小さく首を振った。
「気付いた時には、何とかなるかどうかの話じゃなくなってた」
一度息を吐き出す。
「――このままじゃ、家族ごと殺されちまうってな」
その言葉だけが重く沈む。
「だから村を出ただ。街さ行げば何か仕事があると思ってな」
しかし現実は違った。
「けんど、来てみりゃ仕事なんてそうそう見つからねえ。知り合いも居ねえし、持ってきた金は減るばっかりだ」
男はそこで言葉を切る。
何かを飲み込むように口を閉ざし、それから続けた。
「……どうすっかも分がんなくなって、途方に暮れてたところだったんだ」
男の話を聞き終えたアルスは、小さく息を吐きながら頷いた。
「そこでディーと出会ったのか」
「んだ」
男も頷く。
「十日ほど前だったかな。話ば聞いてくって、少し待っどけって言われてな。部屋さ用意してもらって、今朝ここさ来いって言われたんだ」
「……なるほど」
アルスはそれ以上その話を掘り下げなかった。
代わりに視線を横へ向ける。
男と女の傍らに寄り添う、小さな子供へ。
「それで――その子は?」
問い掛けは穏やかだった。
だが、その瞬間だけ部屋の空気が僅かに張り詰める。
子供本人は突然話題が自分へ向いたことに戸惑ったのか、小さく肩を強張らせながらその場に立ち尽くしていた。
何か答えようとしているようにも見えたが、うまく言葉が見つからないのだろう。ただ視線だけが揺れ、アルスと床の間を行き来している。
代わりに、一歩前へ出たのは隣に立つ女だった。
「……この子は、アタシば姉の子だ」
抑えた声音だったが、その言葉に迷いはなかった。
女は一度だけ子供へ視線を向け、それからゆっくりと言葉を続ける。
「流行り病でな。義兄も姉も、二人とも逝っちまった」
そう言ってから、隣にいる男へと目を向けた。
「それで夫さ相談して、この子はアタシらが育てることにしたんだ」
そこで言葉は一度途切れる。
ほんの僅かな沈黙の後、女は静かに続けた。
「聞いた話じゃ、薬さありゃ助かる程度のものだったさ」
その言葉は先ほど男が語った暮らしの苦しさとはまた違う重さを持って、静かに部屋へ落ちた。
「けんど、それも用意ばできんかった」
短くそう言うと、それ以上は続けなかった。
何があったのかを語るには、その一言だけで十分だったのだろう。
部屋の中に小さな沈黙が流れる。
その間、女は一度だけ子供へ目を向けた。
その視線には憐れみというよりも、どこか守ろうとする強さの方が色濃く滲んでいる。
「……この子も、ずっと働いてきたんだ」
まるでアルスへ説明するように、あるいはこの子自身の価値を伝えようとするように言葉を重ねる。
「姉ばところじゃ、家畜の世話さ一人で任されてたし、畑仕事だって出来ることさ一通り覚えてる」
そこで女は子供の肩へそっと手を置いた。
「アタシらも色々教えてきた。まだ小さいけんど、何も出来ねえ子じゃねえ」
その声音だけは、先ほどまでより僅かに強かった。
役に立つことを伝えなければならない。
追い詰められた者特有の必死さが、そこには滲んでいた。
アルスはその話を途中で遮ることなく最後まで聞き終えると、小さく息を吐きながら頷いた。
「……そうか」
返ってきたのは、それだけだった。
余計な慰めも、安易な同情も口にはしない。
ただ一度だけ視線を子供へ向ける。
その顔に浮かんでいたのは怯えではなかった。
何が起きているのかは理解していても、自分が今どのような場に立たされているのかまでは整理しきれていない、そんな年相応の戸惑いだった。
アルスが子供から視線を外すと、それを待っていたかのように、少し離れた場所に立っていた男が口を開いた。
「次は俺の番だな。リッキーっていう」
男は椅子に腰を下ろそうともせず、その場に立ったまま名乗る。
日に焼けた肌に鍛えられた体つき。腰には使い込まれた斧が提げられており、その立ち姿には農夫とも職人とも違う、戦うことで生きてきた人間特有の空気があった。
「大して誇れるような話じゃねえが、とりあえず聞いてくれ」
そう前置きをしてから、リッキーはアルスへ目を向ける。
「俺は元々、ディーの傭兵団にいた」
その口調に気負いはない。
誇る訳でもなければ隠そうとする訳でもなく、ただ事実を並べているだけだった。
「傭兵団が解散した後は郷里に戻った。だから今は、どこにも所属してねえ」
そこまでは何でもない話だった。
だが、続く言葉は少し違った。
「その郷里で少しばかりやらかしてな。今じゃお尋ね者として追われてる」
普通ならば言い淀みそうな内容だったが、リッキーはまるで天気の話でもするような調子で続ける。
「友がいたんだ」
その言葉だけ、僅かに重さが混じった。
「そいつが親の仇を見つけた。ただ、自分じゃどうにもならねえ相手だったらしい」
リッキーは肩を竦める。
「それで助けてくれと頼まれた。話を聞いてみりゃ、相手もなかなかの悪党でな」
そこで少しだけ笑った。
「そこで放っておいたら、漢じゃないだろ」
善悪を語るでもなく、正義を掲げるでもない。
ただ、自分はそうした。
それだけだった。
「まあ、本願は果たしたさ」
そう言って天井を見上げる。
「その代わり、こっちも逃げ回る羽目になったがな」
自嘲気味な笑みが浮かぶ。
「けど、あいつは前へ進めるようになった。だったら、それで十分だろ」
後悔の色は見えなかった。
損得を考えて選んだ訳ではなく、自分が納得する方を選んだ結果なのだろう。
「ただ、そのせいで本当に行く当てが無くなってな」
リッキーは酒場の奥へ視線を向ける。
「最後に顔くらい見とこうと思って、昔の縁を頼ってディーのところへ来たんだ」
少しだけ笑う。
「今生の別れになるかもしれねえと思ってな」
そして再びアルスを見る。
「最期の挨拶のつもりだったんだ。ディーのことだから、頼めば匿ってくれるだろうとは思ってた。けど、それで迷惑を掛けるのも違う。だから長居する気は無かったんだ」
そこで肩を竦めた。
「そしたら、この話だ」
今度の笑みには少しだけ愉快そうな色が混じる。
「ディーの紹介を疑うようなら、そもそもここまで来ちゃいねえ」
言い切る。
「俺からすれば渡りに船ってやつだ。連れて行ってくれ」
その言葉には忠誠も媚びも無かった。
ただ状況を見て、自分で決めたという確かな意思だけがあった。
すると、それまで後ろで話を聞いていたティムが、不意にアルスの横まで歩いて来る。
「お前、どっかで見たことあるな」
目を細めながらリッキーを見る。
「……あれだろ。北の森で、ディーの隊が包囲された時に居たんじゃねえか」
リッキーの眉がぴくりと動いた。
「ああ?」
「何となく覚えてるぞ。赤い頭で、馬鹿みてえに斧を振り回してた奴がいた」
しばらく見つめ合った後、先に吹き出したのはリッキーだった。
口元を歪める。
「ってことは、あんたあの狂った突撃隊の中にいたのか」
「ああ」
ティムも苦笑する。
「あの時は本気で死ぬかと思ったぜ」
「こっちもだ」
リッキーは即座に頷いた。
「ウチの大将、好き勝手に突っ込むからな。後ろを走る方は毎回必死だったんだ」
ティムの言い様に、二人の間で短い笑いが交わる。
つい先ほどまで張り詰めていた部屋の空気が、その瞬間だけ少し柔らかくなった。
「まあ、その息子だとディーから聞いたってのもあるがな」
リッキーが肩の力を抜いたまま笑う。
「それに、あん時助かった命だ。ここで付いて行かなきゃ漢じゃねえだろ」
どこか当たり前のことを言うような調子だった。
「どうせこっちも追われてる身だしな。出来ることなら何でもやるぜ」
その言葉を聞き終えたアルスは、すぐには口を開かなかった。
リッキーを見て、農夫の男を見る。
その隣に立つ女へ目を向け、最後に小さな子供の姿を確かめる。
誰もが不安を抱えていた。
だが同時に、ここへ来ることを自分で選んだ者たちでもある。
アルスはその顔を一人ずつ見渡した後、ようやく口を開いた。
「話は分かったよ」
声音に迷いは無かった。
「うん。四人とも、おいで」
それだけだった。
条件を並べることもなければ、細かな確認をすることもない。
受け入れると決めた以上、それ以上の言葉は必要ないとでも言うように、アルスは自然な動作で椅子から立ち上がった。
「ディーのところへ行こうか」
そう言って歩き出す。
ティムは呆れ半分といった顔で肩を竦め、リッキーは口元に笑みを浮かべたまま後に続いた。
農夫の夫婦も顔を見合わせる。
まだ不安は残っているのだろう。
それでも、その足は確かに前へ動いた。
部屋の中に残っていた重苦しさもまた、それに合わせるように少しずつほどけていく。
それは何かが解決したというよりも、立ち止まっていた者たちが再び歩き始めたことによって生まれた変化だった。
部屋を出ると、表の酒場の空気が戻ってくる。
仕込みの時間帯らしく、樽を動かす音や器を並べる音が店内のあちこちから聞こえており、先ほどまでの静かな空間とは違う、人の営みの気配が満ちていた。
その中でディーは棚に並ぶ酒瓶を一本手に取り、中身の残り具合を確かめるように傾けながら、こちらへ目を向ける。
「話は纏まったか」
作業の手は止まらない。
だが聞くべきことは聞いておく、という程度の自然な問いだった。
アルスも歩みを止めず、そのまま答える。
「みんな来てもらいます」
短い返答だった。
だが、それだけで十分だった。
ディーは瓶を棚へ戻すと、今度は別の樽へ手を伸ばしながら四人へ目を向ける。
リッキーには一瞬だけ視線が触れた。
それ以上は何も言わない。
昔から知る男だからこそ、余計な言葉は必要ないのだろう。
そのまま農夫の夫婦と子供へ視線が移る。
緊張が解けきらない様子を見て取ると、ディーは小さく鼻を鳴らした。
「まあ、一度流されてみろ」
言葉は軽い。
だが、その軽さの中に不思議な安心感があった。
「どうせ、あいつのところはまだ何もねえんだろ」
そう言って横目でアルスを見る。
「だったら何とでもなる」
説得する訳でも保証する訳でもない。
ただ事実として置かれた言葉だった。
そして、その言葉は妙に力強く聞こえた。
「すぐ発つのか」
今度はアルスへ問い掛ける。
アルスは少し考えるようにしてから、子供の方へ目を向けた。
「この子が家畜の世話を出来るそうなので」
そう前置きすると、ゆっくりと言葉を続ける。
「せっかくだから鶏でも買おうと思います。昨日揃えきれなかった物もありますし、買い出しを済ませて、明日の朝には出るつもりです」
その言葉を聞いた瞬間、ディーの手が僅かに止まった。
「鶏か」
思わずといった調子で繰り返す。
そして小さく笑った。
「そりゃあ良いな」
再び樽へ手を伸ばしながら頷く。
「拠点ってのはな、案外そういうところから始まるもんだ」
そう呟いてから肩を竦めた。
「まあ、色々足掻いてみるもんだ」
それ以上は語らない。
だが、その声音には、送り出す者らしい気安さと、少しだけ先を楽しみにしているような響きが混じっていた。
昼を少し回った頃になっても、バウムゼンの市場は相変わらずの賑わいを見せており、人の流れと荷の行き交う気配が途切れることはなかった。
もっとも、アルスたちはその喧騒の中へ深く入り込むことはせず、必要な店や露店だけを順に回るようにして歩みを進めていた。
一昨日の時点で、拠点へ持ち帰るための大まかな物資は既に揃えてある。
穀物や保存食、最低限の道具類についても一通り荷車へ積み込んでおり、今さらそれらを一から買い直す必要はない。
ただ、それでも不足しているものが無いわけではなかった。
食料の中には出来るだけ新しい状態で持ち帰りたいものもあり、そうした品はあえて購入を後回しにしていたし、嵩張る物や扱いに気を遣う物についても、宿へ運び込む手間を考えて見送っていたため、結果として今日改めて揃えるべき品は自然と絞られてくる。
アルスは市場を歩きながら、それらを頭の中で一つずつ並べ直していった。
何を買い足し、何を諦めるのか。
荷車にどこまで積み込めるのか。
帰路の日数と保存の利く期間を照らし合わせながら考えた末、独り言のように口を開く。
「食い物は出来るだけ新しい物で、保つ物を選ぼう。それと、一昨日見送った分もいくつか足したいな」
その言葉に、隣を歩くティムが横目だけを向ける。
「荷の嵩は増えるぞ」
確認というよりは、既に分かっていることを改めて口にしただけだった。
アルスも頷く。
「分かってるよ。でも、そのための荷車だろ。簡単に街まで来られるわけじゃないんだし、空けたまま戻る方が勿体ない」
そう言いながらも歩みは止めず、そのまま続ける。
「だから今夜は荷車に番を付けることになるかな」
その言葉に反応したのは、後ろを歩いていた農民の男だった。
少し戸惑ったように顔を上げる。
「……外に置ぐんですか」
「宿には入りきらないからね。無理に押し込めば、今度は別の問題が出る」
簡潔な説明だったが、それで十分だった。
街の中とはいえ、目を離した荷がどうなるかなど、わざわざ長々と説明するような話ではない。
むしろ言葉にしない方が伝わる類の話である。
アルスは周囲へ軽く視線を巡らせながら、淡々と付け加えた。
「交代で見ることになる。盗られてからじゃ遅いしね」
強制するような言い方ではなかったが、それでも既にやるべきこととして決まっている響きはあった。
するとリッキーが後ろで肩を揺らしながら笑う。
「番か。久しぶりだな」
どこか懐かしむような、気負いのない声だった。
その様子をティムは一度だけ横目で見たものの、特に何も言わず視線を前へ戻す。
誰がどの時間帯を受け持つかといった細かな話は、いずれ必要になれば決めれば良い。
今はまだ、その前段階に過ぎなかった。
アルスはそこで少しだけ歩みを緩めると、背後の四人へ振り返るように視線を向けた。
不安が消えているわけではない。
突然知らない土地へ向かうことになったのだ。当然と言えば当然だった。
だが同時に、ここまで来て立ち止まる理由も既に残っていない。
そのことを改めて確かめるように、
「あと少しで終わるよ」
とだけ告げて再び前を向く。
荷に加えるべき物は、もうほとんど見えていた。
ただ、その中で一つだけ、まだ形になり切っていないものがあるような感覚だけが、アルスの胸の片隅に残っている。
そんなことを考えながら歩いていた時だった。
人通りが少し途切れた通りへ差しかかると、それまで耳を埋めていた市場の喧騒の質がわずかに変わり、その隙間へ紛れ込むように乾いた鳴き声が聞こえてきた。
コッ、コッ、と短く繰り返される声である。
最初に反応したのはアルスではなかった。
後ろを歩いていた子供の視線が自然と横へ流れたのを見て、アルスもまた同じ方向へ目を向ける。
そこには木枠で囲われた簡素な囲いがあり、その中で数羽の鶏が身を寄せ合うように飼われていた。
粗末ながらも餌箱と水桶が置かれており、売り物であることは一目で分かる。
アルスは足を止めた。
そして一度だけ後ろを振り返る。
「見て分かるか?」
問いは短かったが、誰へ向けられたものかは明白だった。
子供は一瞬だけ戸惑うように視線を揺らしたものの、すぐに鶏へ目を戻す。
しばらく様子を見ていたが、やがて小さく頷いた。
「うん。分かるよ」
そう言って一歩前へ出る。
「あれ、雌は卵を産むやつだろ」
さらに囲いの中へ視線を向けながら続けた。
「でも雄がいないと増えないし、逆に雄が多すぎるとすぐ喧嘩するんだ」
言葉は次第に滑らかになっていく。
慣れた話題だったのだろう。
「あと寝る場所も考えないと駄目だし、水もちゃんと替えないと弱る」
そこまで言ってから、少し早口になっていたことへ気付いたのか、子供ははっとしたように口を閉じる。
そして恐る恐るアルスの方を見た。
遠慮はまだ残っている。
だが、さっきまでのような怯えではない。
知っていることを話してしまった子供らしい戸惑いだった。
アルスは最後まで黙って聞いていた。
特に褒めることもなければ、評価を口にすることもない。
ただ静かに頷くと、もう一度囲いの中の鶏たちへ視線を向けた。
「なるほど」
そう呟いた声には、何かを考え始めた時特有の色が混じっていた。
檻の中では、一羽の雄鶏が羽を膨らませながら他の鶏を押しのけるようにして場所を取り、狭い空間の中で小さな衝突を何度も繰り返していた。
卵を得るだけであれば雌だけでも問題はない。
だが、それでは数は増えない。
今は数羽でも、将来的に肉や卵を安定して確保することまで考えるのであれば、持ち帰る段階から繁殖を前提にしておく必要がある。
もっとも、だからといって数を増やせば良いという話でもなかった。
荷車に積める量には限りがあるし、既に積み込んでいる物資の量を考えれば、これ以上増やした場合に問題になるのは運搬そのものではなく、その後の管理である。
雄を複数入れれば血の偏りは抑えられる。
しかしその代わりに縄張り争いも増える。
今の拠点には家畜小屋すらなく、人手にも余裕がないことを考えれば、最初から抱え込むには明らかに過剰だった。
アルスは鶏たちを眺めながら一度だけ目を細め、考えを整理するように小さく息を吐く。
そして迷うことなく口を開いた。
「雄は一羽でいい」
まず結論だけを置く。
それから改めて檻の中へ視線を向け、
「雌は二羽……いや、三羽だな。持てる分だけ揃えよう」
と続けた。
数を増やす余地は残す。
だが線引きもする。
判断は早かったが、どこを削るべきかは既に見えていた。
アルスはそのまま子供へ顔を向ける。
「見て分かるか。お前が良いと思うのを選んでくれ」
すると子供は少しだけ顔を上げた。
「任せて。若くて元気なの選んでみせるよ」
先ほどまでよりも声に迷いがない。
アルスはその反応を横目に見ながら店主の方へ歩み寄り、値段を聞き、必要な数を伝え、余計な値引き交渉を挟むことなく話をまとめていく。
やがて選ばれた鶏たちは縄でまとめられ、籠へと移された。
その中で羽ばたく音と落ち着かない鳴き声が重なり、小さな騒がしさが生まれる。
アルスはそれを受け取る。
見た目ほどではないにせよ、生き物特有の重さが腕に伝わった。
一度だけ持ち直し、その感触を確かめながら荷車の方へ向かう。
そしてふと振り返った。
子供は先ほどより少し前へ出た位置で、籠の中の鶏をじっと見つめている。
「世話はお前の仕事だからな」
確認ではなく、任せることを前提にした言葉だった。
子供はすぐに頷く。
「うん。この時季なら勝手に地面を突いて餌を探すし、草も食うよ。水もちゃんと見るし、朝になったら卵も確かめる」
先ほどまでとは違う。
自分の知っている話だからだろう。
言葉に迷いがなくなっていた。
アルスは最後まで聞いたが、特に褒めることも評価することもなく、ただ視線を外す。
その時、籠の中で一羽が大きく鳴いた。
市場の喧騒に紛れてしまいそうな音だったが、それでも妙にはっきり耳に残る。
穀物でも道具でもない。
これまで積み込んできたどの荷とも違う、生きているものの気配が新たに加わったのだと、その鳴き声は静かに告げていた。
必要な物資は、もうほとんど揃っている。
塩に至っては、むしろ多すぎるくらい確保していた。
一昨日の時点で大枠は整っており、今日の買い足しも不足分を埋める程度に留めていた以上、大きな見落としがあるという感覚はない。
それでも支払いを終えた後、手元へ戻ってきた革袋の軽さだけは嫌でも現実を突き付けてきた。
ディーから借りた金はまだ残っている。
残っているが、それはあくまで今この瞬間の話でしかない。
人も増えた。
荷も増えた。
拠点へ戻れば、それらを食わせ、使い、維持していかなければならない。
そう考えれば、これから先は増えるよりも減る方が早いことなど明らかだった。
アルスは歩きながら、無意識のうちに革袋の口を指でなぞる。
中にどれだけ残っているかは分かっている。
重さも覚えている。
それでもこうして確かめずにはいられない程度には、余裕が削られていることを自覚していた。
――時間の問題だな。
金が足りなくなること自体は見えている。
そこに迷いはない。
問題は尽きる前に何をするかだった。
だが売れる物がない。
今持っている物はどれも拠点に必要な物ばかりで、切り崩せばその分だけ先が苦しくなる。
結局のところ、稼ぐしかない。
だが、その手段はまだ何一つ整っていなかった。
拠点は未完成で、人も増えたばかりである。
何かを始めるにしても、まずは戻って状況を整える必要があった。
ゼダンなら何かしら考えがあるだろう。
少なくとも、自分一人で抱え込むよりは早く道筋を見つけられるはずだ。
そこまで考えたところで、アルスは小さく息を吐いた。
答えが出ているわけではない。
それでも何を先にやるべきかという順序だけは見えている。
まず戻ること。
そして戻ってから考えること。
今はそれで十分だった。
顔を上げると、宿へ続く通りが視界の先へ伸びている。
人の流れは絶えることなく続き、荷を引く音と話し声が重なり合う中、自分たちもまたその流れの一部として自然に溶け込んでいた。
アルスはその光景を一瞬だけ眺めると、歩みを緩めることなく先へ進む。
宿へ戻る頃には、部屋の中には既に出発前特有の空気が満ちていた。
荷はほぼまとめ終わっており、誰もが明日の移動を意識している。
アルスは一通り確認を済ませると、そのまま夜の見張りについて話を始めた。
荷車を外へ置く以上、番は必要になる。
だが全員で回す必要はない。
むしろ慣れている者だけで担当した方が効率が良い。
そう判断し、農民夫婦と子供は外し、マティアス、クラウス、ヴァルター、ティム、リッキーの五人で回すことにした。
二人ずつ、二人ずつ。
そして最後を一人。
最後の番はマティアスへ任せ、そのまま朝の出発へ繋げる。
順番だけを簡潔に伝えると、誰からも異論は出なかった。
それぞれが自分の役割を受け取るように頷く。
アルスは最後に一言だけ付け加える。
「明日の朝、発とう」
細かな説明はしない。
ここまで来ている以上、出発すること自体は既に全員の共通認識になっている。
短い沈黙が落ちる。
だがそれは重いものではなく、それぞれが明日を思い描くための静けさだった。
やがて自然に散っていき、皆がそれぞれの準備へ戻っていく。
アルスはその様子を静かに見渡した。
やるべきことは、もう決まっている。
あとは進むだけだった。
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