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第26話 保存

大陸歴一四〇七年四月五日


 夜の冷えがわずかに残る空気の中で、アルスは目を覚ました。


 深く眠れた感覚は薄く、身体の奥にはまだ重さが残っている。それでも意識そのものははっきりしていた。


 指先を軽く動かし、続いて肩を回す。わずかな引っ掛かりが残っている。脚にも力を入れてみると、筋肉は問題なく応じたが、踏み込みには少しだけ鈍さがあった。


 完全ではない。


 だが動ける。


 それだけ分かれば十分だった。


 休息が足りているかではない。今日一日を回せるかどうか。その基準で身体の状態を測る考え方が、いつの間にか自然になっていた。


 アルスは小さく息を吐き、視線を上へ向ける。


 まだ日が昇りきる前の拠点は静かだった。誰かが寝返りを打つ音や、身じろぎする小さな気配だけが、間を空けて聞こえてくる。


 昨日から続いている感覚があった。


 食料は延びた。だが増えたわけではない。

 

 アルスはゆっくりと身体を起こし、焚火の方へ視線を向ける。


 完全に消えてはいない炭の中にはまだ熱が残っており、その上へ吊るされた肉は、夜の間も煙に晒され続けていた。完璧ではない。それでも確かに、腐らせず持たせる方向へ進んでいる。


 それを確認すると、アルスは立ち上がった。


 今日も同じことをする。


 いや、それだけでは足りない。


 昨日作り始めたものを、形にしなければならなかった。


 足元に置いていた水袋を手に取り、一口だけ水を含む。周囲を見渡すと、すでに起きている者も何人かいた。まだ言葉は交わしていないが、それぞれが今日やることを頭の中で整理しているのが何となく伝わってくる。


 その中に、オットーの姿を見つけた。


 昨日と同じように獲物の近くへ座り、すでに手を動かしている。肉の表面を指で押し、乾き具合を確かめながら、どこから作業へ入るか考えている様子は、休み明けというより昨日の続きへそのまま戻ったような自然さだった。


 アルスはそのまま歩み寄る。


「続けるよ」


 短く告げると、オットーは顔を上げないまま頷いた。


「はい。昨日の分も、まだ完全には仕上がっていませんので」


 途中で止まっている以上、先にそこを終わらせる必要がある。


 アルスは近くに置かれていた刃物を手に取り、昨日と同じように肉へ手を入れた。慣れているとは言えないが、繰り返しているうちに身体が少しずつ動きを覚え始めている。


 その間にも、周囲の空気はゆっくり動き出していた。


 人が少しずつ集まり始めている。まだ誰かが役割を口にしているわけではない。それでも、今日もまた一日が始まろうとしていた。


 アルスは手を止めないまま、口を開いた。


「オットーはここに残ってくれ。一緒に保存を回すよ」


 それだけで十分だった。オットーは手を止めないまま頷く。


「了解しました」


 アルスはそのまま視線を周囲へ向けた。


「マティアス」


 少し離れた場所にいたマティアスが顔を上げる。


「今日は外を見る。地図作りに戻ろう。一昨日までの続きでいい。ただ、途中で採集できるものを見つけたら、ついでに頼むね」


 マティアスが頷きかけたところで、アルスは少しだけ間を置いた。


「単独行動は避けたいから、一人付けよう」


 その言葉で空気がわずかに動く。


 これまではオットーが同行していた。だが今は保存作業を外せない。


 アルスはそのままレオンへ視線を向けた。


「レオン、行けるか」


 レオンは一瞬だけ周囲を見てから頷いた。


「問題ありません」


 それで決まった。


「少なくとも川は見てきてほしい。前に言っていた場所だ。位置と流れ、それと渡れそうな浅瀬も」


 マティアスがレオンへ視線を向ける。


「分かりました」


 それ以上の説明は必要なかった。


 オットーは外せない。なら同行役はレオンでいい。


「クラウス」


「はい」


「ゼダンとティムと一緒に罠を見て回ってくれ。新しく仕掛けなくていい。昨日までの確認だけで」


「了解です」


 簡潔な返答が返る。


 ティムとゼダンも視線を合わせ、小さく頷いた。


 アルスはさらに周囲を見回した。


「採集は昨日と同じ場所でいい。量を崩さず持ち帰ることを優先してくれ」


 ヨアヒムが頷き、その後ろでローザと孤児の少年たちも同じように反応する。


 残るのは建設だった。


 ヴァルターと大工の夫婦はすでに立ち上がっている。


「寝床を進めてほしい。形だけでもいい、雨を防げるところまで持っていこう」


 三人が頷く。


 その横では、小さな影が薪の束の近くで動いていた。


 孤児の少女だった。


 足元へ落ちている細い枝を拾い上げ、太さごとに分けながら束へ加えている。昨日までの繰り返しで覚えた動きが、そのまま身体に残っていた。


 アルスは一度だけ視線を向け、そのまま意識を外す。


 役割はもう言葉で決める段階を過ぎていた。


 誰かが命じなくても、それぞれが自分の場所で動き始めている。


 拠点全体が、静かに回り始めていた。


 アルスはその流れを確かめると、再び目の前の肉へ意識を戻す。


 単純な作業だったが同じ手順を繰り返しているうちに、少しずつ感覚が掴めてくる。


 昨日採集された若葉や新芽も、肉の隣へ広げられていた。束になっていたものを一枚ずつ分け、風が通るよう並べ直していく。


 食べるためではない。


 残すためだった。


 アルスとオットーは肉を扱う手を止めないまま、同じ流れの中で葉も整えていく。


「水気の多いものは、重ねない方がいいですね」


 オットーが手元を動かしたまま言う。


「重なるとそこから傷みます。風に当てれば、ある程度は持ちます」


 完全ではないが何もしなければ、その日のうちに失われるものだった。


 手を加えることで、一日でも二日でも次へ繋げられる。


 差は小さい。


 それでも、その小さな差だけは確かに残る。


 保存というものが、個人の作業ではなく、少しずつ拠点全体へ広がり始めていた。


 積み上がる量はまだ多くない。


 それでも、昨日までは流れていくだけだったものが、少しずつ蓄えへ変わり始めていた。


 その変化だけは、確かだった。


 日が傾き、木々の間から差し込む光が斜めに伸び始める頃、それまで拠点の中へ散っていた人の動きが、少しずつ同じ場所へ集まり始めていた。


 誰かが呼んだわけではない。


 それでも火の近くにいた者も、外へ出ていた者も、戻ってきた者も、それぞれ手を止める頃合いを自然と判断し、言葉を交わさないまま足を向けてくる。


 人が集まるにつれ、まず目に入るのは火の周囲だった。


 煙に当て続けていた肉が、そのまま並べられている。


 まだ完全には乾いていない。だが獲ってきたばかりの状態とは明らかに違っていた。


 その周囲には、新芽や若葉も広げられている。


 風を受けながらゆっくり水分を抜かれ、こちらもまた採ってきたままの状態から変わり始めていた。


 保存食が、少しずつ形になり始めている。


 視線を少し外せば、もう一つの変化も目に入った。


 拠点の端では、朝にはなかった木組みが形になっている。


 地面から少し浮かせて組まれた床、その上へ渡された枝、風を遮るため片側へ寄せて組まれた壁。作りはまだ粗く、隙間も多い。だが並んだ瞬間、それが「そこで眠れる場所」だということだけはすぐに分かった。


 材木は荒く、強度も十分とは言えない。それでも夜露と風を避け、身体を横たえる場所としては、すでに形になり始めている。


 建設もまた、確実に進んでいた。


 アルスは組み上がった寝床と、煙の下へ並べられた保存途中の食料をほとんど同時に視界へ収める。


 残された食料と、残された場所。


 本来なら別々に進むはずだった作業が、それぞれの形を保ったまま同じ場所に並んでいる。


 その周囲には人が集まっていた。


 さっきまで拠点の中へ散っていたはずなのに、いつの間にか距離は近くなり、誰がどこにいるか探す必要もなくなっている。


 人だけではなく、残るものも増え始めていた。


 アルスは何も言わず、その光景を見ていた。


 目の前にあるものは、まだどれも途中だった。


 それでも確かに、ここには残るものが生まれ始めている。


 拠点は未完成のまま、それでも少しずつ形になっていた。


 火の勢いが落ち着き、煙の色が少し薄くなった頃、ようやく食事の支度が整った。


 保存へ回せなかった肉を切り分け、そのまま火へ掛ける。煙に当てていた肉とは違い、こちらは今食べるためのものだった。


 焼ける匂いが広がるにつれ、人の視線が自然と火の方へ集まっていく。


 配られたのは焼いた肉と、拠点へ辿り着く前から持っていた保存食だった。


 量は多くない。それでも合わせれば腹は満たせる。


 それぞれが受け取った分を口へ運び、黙ったまま食事を進めていく。


 煙へ吊るしていた肉には、誰も手を付けようとしなかった。


 まだ食べるものではない。


 その認識は、わざわざ口にする必要もなく、すでに全員の中で揃っていた。


 火のはぜる音と、肉を噛む音だけが静かに続く。


 その中で、ヨアヒムが肉を齧りながら口を開いた。


「あ……味が薄くないですか。タレか塩を掛けてから食べるべきです。あと、もう少し油の多い部分の方が――」


 言い切る前に、アルスが一度だけ視線を向ける。


 次の瞬間には何事もなかったように口を開いた。


「今日の報告を」


 空気が少し整い直す。


 最初に話し始めたのは採集班だった。


「いつもの場所は、まだ取れます」


 報告は簡潔だった。


 採集はこれまでと同じ場所を中心に続けており、特に収穫の中心となっている、どんぐりの量にも大きな変化はない。


 新しい場所を探しているわけではない。ただ、把握している範囲で確実に回収を続けている。


 必要な情報はそれで十分だった。


 続いて情報収集側の話へ移る。


「川の位置は、基準を決めて見ています」


 レオンが言う。


 単に流れを追うのではなく、一度確認した場所を基準に周囲を繋げていく形だった。


「目印を決めておけば、次から迷いません」


 アルスには細かな手順までは分からない。だがレオンが話しているのは、単に場所を覚える話ではなく、後から他の人間にも使える形へ変えているのだということだけは伝わった。


 アルスは最後まで口を挟まなかった。


 必要なのは結果だけではない。やり方そのものも、後で使える形になっているように思えた。


 最後に、狩猟班の報告が続いた。


 だがこちらは、他と比べて簡潔なものだった。


「今日は空でした。破損した罠には何か掛かっていたのでしょうが、抜けられたみたいです」


 罠には何も掛かっておらず、一つだけ破損していたため修理して戻ってきた。それだけだった。


 アルスは三つの報告を頭の中で並べ直していく。


 採集は安定して続いている。情報収集も少しずつ積み上がり始めている。だが狩猟だけは違った。獲れる日もあれば獲れない日もあり、どうしても波が出る。


 それ自体は想定の範囲だった。


「分かった。やはり狩りは、どうしても波が出るね」


 短くそう言うと、報告はそこで締められた。


 食事もゆるやかに終わりへ向かう中で、アルスはふと足元へ視線を落とす。


 拠点の端には、ここ数日で採集してきたどんぐりがまとめて置かれていた。量としては決して少なくないが、そのままではまだ食料として使える状態ではないことも、一目で分かる。


 アルスはしばらくそれを見た後、口を開いた。


「今夜のうちに水へ浸けておこう」


 誰かを指名したわけではなかったが、その言葉に何人かが自然と反応する。


「このままでは使えない。灰汁を抜かないと腹には入らないからね」


 説明はそれだけで十分だった。


 殻を割り、水へ浸ける。それだけの作業でも、今日集めたものを明日使える形へ変えることができる。時間を掛けるしかないものなら、先に始めておいた方がいい。


 やるべきことはまだ残っていたが、順番に迷う必要はなかった。


 夜が深くなるにつれて、拠点の動きも少しずつ静まっていく。


 火は完全には落とさず、必要なだけの熱と明かりを残したまま保たれており、その周囲では一日の作業を終えた者たちが、それぞれ適当な距離を空けながら腰を下ろしていた。


 やがて、一人、また一人と立ち上がり、視線が自然と新しく組み上げられた寝床へ向いていく。


 木を組んだだけの簡素なものだった。


 組み上がった寝床へ、先に一人が中へ入り、足裏で床を確かめるように体重を掛ける。


 小さく軋む音はしたが、崩れる気配はない。そのまま身体を横たえると、小さく息が漏れた。


 他の者たちも、その様子を見て続いていく。


 言葉はほとんど交わされなかったが、互いに少しずつ場所を譲り合い、距離を調整しながら、それぞれ自然と収まる場所へ落ち着いていった。


 アルスは少し離れた場所から、その様子を眺めていた。


 人がいて、食料があり、眠る場所がある。


 昨日まで存在しなかったものが、少しずつ形になり始めている。


 だが、それだけで状況が大きく変わったわけではなかった。


 アルスは視線を動かし、煙の残る方へ目を向ける。


 暗がりの中では、干された肉が静かに並んでいた。


 今日を明日へ繋ぐためのものではある。だが、それだけで不足を埋められるほどの量ではないことも分かっていた。


 延びただけだ。


 その認識は昼間と何も変わらず、頭の中に残ったままだった。


 やがて最後まで火を見ていた者が立ち上がり、周囲を一度だけ確かめてから寝床へ向かう。


 残された火は小さく揺れながら、夜の中に静かに熱を残していた。


 アルスもようやく足を動かし、その簡素な寝床の中へ入る。


 身体を横たえると、地面から切り離されているというだけで感覚は少し違っていた。冷えが直接伝わってこない。それだけの差だったが、今の状況では十分意味がある。


 目を閉じる。


 頭に浮かぶのは、今日見たものだった。


 残った食料、作られた寝床、そしてそれでも足りないという感覚。


 だが考えたところで、明日やることは変わらない。


 明日になれば、また動く。


 そう考えたところで、アルスは思考を止め、そのまま静かに意識を沈めていった。

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