第27話 外へ向かう決断
大陸歴一四〇七年四月十五日
仮設の寝床が完成し、ドングリを泉へ浸した日から、十日が過ぎていた。
あの日から、拠点の暮らしは少しずつ形を持ち始めていた。
採集は安定し、狩猟は当たり外れを繰り返しながらも、食料の供給としては十分に機能している。保存の手順も定まり、寝床は整い、人の動きにも自然な規律が生まれていた。
以前は毎日その場しのぎで回していたものが、今では同じ流れを繰り返せる形になっている。
ドングリもまた、すでに日常の食事として定着していた。
灰と水を使った灰汁抜きの手順は共有され、焼き上げたドングリパンも、もはや珍しい食べ物ではなくなっている。最初の頃のように物珍しそうな目を向ける者もおらず、今ではそこにあって当然の食料として、誰もが自然に受け入れていた。
食糧庫も完成していた。
積み上げられた木箱の中には、目に見える量の食料が確かに収められており、それだけを見れば、生活は安定していると言ってよかった。泉の近くには新しく耕された土地も広がっており、ディーから受け取った種を活かすための畑も、ようやく形になり始めている。
そして今は、その先の準備も進んでいた。
加工場――火の家である。
火を扱い、食料の保存や加工をより確実にするための場所であり、この拠点の作業を支える中心になるはずの施設だった。採集や狩猟で得たものを、その日のうちに消費して終わらせるのではなく、加工し、保存し、先へ繋げる形へ変えていくための場所でもある。
目の前にあるものは、まだ建設途中に過ぎない。それでも、その輪郭が少しずつ形になっていく様子は、この拠点そのものが「生き延びる段階」から、「続いていく段階」へ移り始めていることを示していた。
ここまで来れば、少なくとも外から見える部分だけなら順調と言ってよかった。
それでも――
アルスは食糧庫の前で足を止める。
木箱の中には、まだ十分と言えるだけの量が残っていた。今すぐ困るほど減っているわけではなく、目に見える範囲だけなら、不安を感じる理由もほとんどない。
だが、その中で確実に減り続けているものがあることを、アルスは理解していた。
干し肉を包むための布。
保存のために使う塩。
そして火を使うたびに失われていく加工用の材料。
食べ物そのものではない。
だが、それがなければ、今の生活は維持できないものだった。
一度使えば消え、消えたものをこの土地で簡単に補えるわけではない。食べる量そのものは確保できていても、それを支えている部分だけが、少しずつ削られている。
そして、その中でも塩は決定的だった。
保存と加工の要であり、この生活を成立させている根幹そのものだったが、同時に、この土地では自然に補充することのできない資源でもある。
採集では手に入らず、狩猟にも依存しない。
つまり、この場所に留まり続ける限り、減ることしかない。
アルスはゆっくりと視線を上げる。
泉の傍では、新しく作られた畑が広がっていた。
まだ手探りの段階ではあったが、それでも土は耕され、水は引かれ、あとは種を蒔くだけの状態になっている。この場所での暮らしを、次の段階へ進めようとしていることだけは確かだった。
だが同時に、土があり、水があり、種があったとしても、それだけでは埋められないものがあることも、アルスはすでに理解していた。
生活は成立している。
少なくとも、目に見える形では問題はない。
しかし、その均衡は永遠に続くものではなく、内部では今この瞬間も、確実に何かが減り続けている。
このまま同じ状態を続ければ、いずれどこかで支えきれなくなる。
今はまだ形を保っている。だが崩れる時は、少しずつではなく、一気に表へ出るだろうという感覚だけが、アルスの中には残っていた。
そして、その答えは――まだ、この場所にはなかった。
だからこそアルスは、火の揺らぎを見つめながら、今の拠点の状態を改めて頭の中で整理していた。
ただ目に見えているものを並べるのではなく、その背後に流れているもの――何が成り立ち、何がまだ成り立っていないのかを、一つずつ確かめるように辿っていく。
今この拠点には、確かに形になっているものがあった。
食料はある。採集と狩猟はそれぞれ役割を持ちながら機能しており、供給そのものは安定していると言ってよかったし、保存の手段も整ったことで、その場で消費して終わるだけの状態からも抜け出している。
ドングリについても同じだった。以前は試行錯誤していたものが、今では拠点全体のやり方として定着し始めている。
だが、その安定を支えているものは決して無尽蔵ではなかった。
干し肉を包む布、保存に使う塩、加工に必要な材料――形は違っていても、それらはすべて「使えば減り、この場所では補えない」という一点で繋がっている。
畑もまた、一つの可能性として存在していた。
泉の傍に耕された土は、確かに次の段階への準備だった。ディーから受け取った種もようやく使われようとしている。
しかし、それはまだ先の話でもある。
畑は確かに未来へ繋がる準備だったが、それだけで今を支えられるものではなかった。
情報も同じだった。
周囲の地形は少しずつ把握できるようになってきている。探索の範囲も広がり、地図も以前より形になっていた。
だが、それはあくまで知っている範囲が広がっただけだった。
この先に何があるのか。どこに何が存在しているのか。そして自分たちにとって必要なものが、どこにあるのか。
それを知るための接点は、まだ何一つ手に入っていない。
アルスはゆっくりと視線を上げた。
不足は確かに存在しているが、今すぐ破綻するものではない。
問題なのは、その不足が静かに進み続けていることだった。そして、その削れ方は目立たないまま進み、気付いた時には一気に形を崩す。
時間の問題だった。
そのことだけは、もう疑いようがなかった。
その日も、拠点はいつもと変わらず動いていた。
採集は滞りなく進み、狩猟は当たり外れこそあったものの、全体として見れば不足を補うだけの成果は出ている。保存の作業も、これまで積み上げてきた手順に沿って特に混乱もなく進められていた。
探索へ出ていた者たちも、日が傾く頃には戻ってきている。
地図はまた少しだけ広がっていたが、それがすぐ何かへ繋がるような発見には至っていなかった。
すべてが、これまで通りに回っている。
言い換えれば、それがこの拠点にとっての「日常」として、すでに根付き始めているということでもあった。
夕刻になり、火を囲んで座る中で、アルスたちは順番に報告を受けていく。
採集班からは予定していた量は問題なく確保できているという話があり、狩猟班からも、獲物の数にはばらつきがあるものの、全体として見れば不足は補えているという報告が続いた。
保存についても加工は順調に進んでおり、食糧庫の備えにも現時点で大きな問題は見当たらない。探索も同様で、進展こそあるものの決定的な変化はなく、状況としてはこれまでの延長線上にあるものだった。
報告が一通り終わると、場には小さな静けさが落ちる。
誰の言葉も間違ってはいない。
少なくとも今日一日を終えるという意味では、何一つ問題はなかった。
だがアルスは、そのまま頷かなかった。
揺れる火をしばらく見つめたあと、わずかに間を置いて口を開いた。
「……今の話を聞く限りだと、困ってることは特にない、ってことになるよね」
確認するような柔らかい言い方だった。
誰かがはっきりと答えたわけではない。だが否定する気配もなく、それぞれが似たような認識を持っていることだけは伝わってくる。
アルスは小さく頷き、そのまま言葉を続けた。
「実際、食べる分は足りてるし、採集も狩りも回ってる。保存も上手くいってるし、ここまではたぶん問題ないと思う」
一度言葉を切り、火の向こうへ視線を向ける。
「ただ、その“回ってる状態”が何で支えられてるのかって考えると、少し違って見えてくる気がするんだ」
押しつけるような言い方ではなく、自分の考えを静かに置いていくような口調だった。
「例えば塩だよね。保存に使ってる分は、使えばそのまま減っていくし、ここで新しく手に入るものでもない。今はまだ足りていても、続けていけば、いつかは足りなくなる」
ティムが小さく息を吐き、視線を火へ落とした。
アルスはその反応を見ながら、さらに言葉を続ける。
「火の家が出来れば、たぶん今よりもっと上手く回るようになると思う。でも、作業が増えれば、その分使うものも増えるはずなんだよね」
火の向こうで揺れる光を見ながら、静かに続ける。
「道具も同じかな。今はまだ使えてるけど、刃も縄も布も、使えば少しずつ傷んでいくし、それをちゃんと補えるほど余裕があるかって言われると、そこまでじゃないと思う」
ゼダンは腕を組んだまま、何も言わずに聞いていた。
アルスは少しだけ考える間を置いてから、続ける。
「畑もあるけど、あれはすぐ結果が出る話じゃないしさ。うまくいったとしても、それまでは今のやり方で繋ぐしかないと思う」
そして最後に、今まで並べていたものをまとめるように口を開いた。
「……今は回ってる。でも、このまま同じことを続けてたら、どこかで足りなくなる気がする」
言い切るというより、静かに置くような言葉だった。
場にはわずかな沈黙が落ちる。
火のはぜる音だけが、変わらない調子で間を埋めていた。
やがてゼダンが口を開いた。
「外に出る必要がある、ってことですか」
低く確認するような声だった。
アルスは少しだけ間を置いてから頷く。
「たぶん、それが一番現実的だと思う。ここに無いものは、ここに居るだけじゃ増えないし……どこかで手に入れない限り、減る分を埋める方法がない」
ゼダンは短く息を吐いた。
「動けば、当然危険も増えます」
「うん、それは分かってる」
アルスは素直に頷いた。
「でも、動かないでいると、もっと後になって動けなくなる気がするんだ。今ならまだ選べるけど、塩が尽きてからだと、たぶん選択肢そのものが減る」
ティムが小さく頷く。
「塩が無くなれば保存は続かない。そうなれば、今の形は維持できなくなるな」
レオンも腕を組んだまま口を開いた。
「行くなら全員というわけにもいかないでしょうし、人数の配分は考えないといけませんね」
それぞれの言葉は少しずつ同じ方向へ集まり、散らばっていた考えが、一つの形へまとまり始めていた。
アルスはその空気を確かめるように全員を見渡し、それから静かに口を開いた。
「急ぐ必要はないと思う。でも……逆に待つ理由も、あんまり無い気がする」
少しだけ考える間を置き、そのまま続ける。
「準備だけ整えたら、早めに動いた方がいいと思う」
そして最後は押しつけることなく、ごく自然に結論を置いた。
「……明日、バウムゼンに向かおうか」
その言葉のあと、小さく火が弾ける。
誰も、異を挟むことはなかった。
火の揺らぎが少しずつ落ち着いていく頃には、その場に残っていた空気は、すでに結論へ近いところまで進んでいた。
外へ出る。
その判断そのものに対して、誰も異を挟まなかった。
必要なのは、行くべきかどうかを決めることではない。問題は、その先だった。
誰が向かい、誰がこの場所へ残るのか。そして人手の減る拠点を、どう維持するのか。
アルスは一度だけ全員の顔を見渡し、それから静かに口を開いた。
「全員で動くのは、やめておいた方がいいと思う」
断定ではなく、確かめるような言い方だった。
「ここは、もう捨てる場所じゃないからね。食糧庫もあるし、火の家もまだ作ってる途中だし、畑もようやく形になってきてる。ここまで積み上げたものを全部空にするのは、ちょっと怖い」
ゼダンが小さく頷いた。
「そう思います。全員で移動するというのであれば、それは拠点ではなく、ただ移動しているだけになります」
「うん。だから、残る側と行く側は分ける」
そこまでは迷いなく言ったが、その後アルスは少しだけ間を置いた。
「……で、問題は誰がどっちをやるかなんだけど」
視線が、自然とゼダンへ向く。
「俺が行く」
間を空けず、そのまま続けた。
「だからゼダンは残ってほしい。俺が居ないなら、全体を見る役が必要になるし、それはゼダンがやった方がいいと思う」
ゼダンはすぐには返さなかった。
少し考えるように視線を落としてから、ゆっくり口を開く。
「若様が向かわれるのは危険ではありませんか。ここに居るということ自体が、身を隠すという意味も持っています」
「うん、それは分かってる」
アルスは素直に頷いた。
「前回は暫く隠れ住む予定だったのに、急遽離脱してここに来たよね。だから改めてバウムゼンを見ておきたいんだ。それに、人づての話だけで決められるほど、今はちょっと余裕がない」
肩を軽くすくめる。
「ここに隠れてても、結局いつか同じところに行き着く気がするんだよね」
ゼダンは少し悩ましげな顔になる。
「それでしたら、私がバウムゼンへ向かい、若様がこちらに残る形でもよろしいのでは」
アルスも同じように困った顔をした。
「それは俺も考えたよ」
一度言葉を切る。
「でも、やめた」
短く言ってから、言葉を続けた。
「要は、俺とゼダンの差だと思うんだ。俺がここに残っても、出来ることはそんなに多くない。でもゼダンなら、その間にも色々進められる。今は、時間を無駄にしたくない」
ゼダンは短く息を吐き、やがて小さく頷いた。
「……分かりました。ならばこちらは預かります」
それで軸は決まった。
アルスは次に周囲へ視線を向ける。
「ティムは来てほしい」
今度は迷わなかった。
「道中の戦力として期待してる部分もあるし、それ以上に、ディーとの関係を考えると必要だと思う」
ティムは目を細め、それから軽く笑った。
「心得た。何も起きないのが一番だが、もし何かあれば任せてもらおう」
アルスも小さく頷く。
「マティアスも来てくれ。探索と情報集めは、向こうでも必要になると思う」
「了解しました」
返答はいつも通り短い。
「ヴァルターも頼む。人数は欲しいし、戦力としても期待してる」
ヴァルターは少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに頷いた。
「分かりました」
そして最後に、アルスは少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「……クラウスも来てほしい」
場の空気がわずかに動いた。
「正直、残ってもらうか迷ったんだけどね。罠の維持もあるし」
そこまで言ってから、小さく首を振る。
「でも、外で痕跡を拾える人がいるのは大きい。マティアスと近い部分はあるけど、見方が違うなら、それは意味があると思う」
クラウスは少しだけ目を細め、それから静かに笑った。
「……従います」
アルスは頷き、残る側へ視線を移す。
「レオンは残ってほしい」
レオンの眉がわずかに動いた。
「ゼダンと一緒に動きながら、オットーの手の空き具合も見て、狩猟と探索を回してほしい。マティアスが抜ける分、地図はレオンに頼ることになる」
レオンは少し考えてから頷いた。
「分かりました」
「ローザと孤児兄妹はそのままでいい。ここを離れる理由はないからね」
異論は出ない。
「大工の二人も同じ。バウムゼンへ戻るより、こっちでやることの方が多いと思う」
「オットーも残ってほしい。保存はまだ外せないし、手が空けばゼダンたちを手伝ってくれ」
オットーも短く頷く。
その時だった。
「久しぶりに屋台で何か食いたいので、俺も行きますね」
ヨアヒムが妙に軽い調子で口を挟む。
場の空気が、少しだけ揺れた。
アルスは即座に首を横へ振った。
「遊びに行くんじゃない。ヨアヒムは採集」
反論の余地をほとんど与えない言い方だった。
「ここを回せる人が減る方が困るし、それにローザと孤児兄妹だけで採集を回せって言うのは無理がある」
ヨアヒムは肩を落とす。
「駄目ですか……」
「駄目」
即答だった。
小さな笑いが少しだけ場に広がる。
アルスは最後にもう一度、全員を見渡した。
「行くのは、俺とティム、マティアス、ヴァルター、クラウス」
一度区切る。
「数としては少し不安だけど、今はこれが精いっぱいだと思う」
それから、今度は残る側へ視線を向ける。
「残る方は、出来る範囲で進めてほしい。人手が減る分、大変になると思うけど……皆で何とか回してくれると助かる」
命令ではなく、任せるような言い方だった。
火が小さく揺れる。
その場にいた誰もが、自分の役割と、明日からやるべきことをすでに受け入れていた。
もう迷う必要はなかった。
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