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第25話 生き延びるために

 大陸歴一四〇七年四月四日


 狩猟班は、まだ戻っていない。


 だが今日一日、採集に回った者たちの状態もまた、いまは無視できる段階ではなかった。誰かを捜索へ送り出すとしても、それはただ動ける者ではなく、行って戻るところまで含めて余力を残している者でなければ意味がない。途中で動けなくなれば、探しに出た側をさらに探しに行かなければならなくなるだけであり、それでは状況を悪化させるだけで終わる。


 アルスは一度だけ目を閉じ、今日ここまで積み重なった消耗と、この先に必要になる動きを頭の中で重ね合わせるように整理したのち、ゆっくりと視線を開いて周囲を見渡した。


 座り込んだまま動こうとしない者もいる。肩で息をしながらも顔だけは上げている者もいる。そして、疲労は見せながらも、まだ立ったまま周囲を見ている者もいた。


 その差は、もう隠せるものではない。


 アルスは一人ずつ様子を確かめながら、落ち着いた声で口を開いた。


「狩猟班が戻っていない以上、このまま待っていても状況は変わらないと思う。何もなければそれでいいんだけど、もし何かあった場合に備えるなら、動ける時間を残しておく必要がある」


 言葉を置いたまま、今度は立っている者たちの顔を順に見ていく。


「ここから捜索に出るなら、行って戻れるだけの余力が残っている者に限るよ。無理に動いて途中で止まったら、助ける側を増やすことになる。それじゃ意味がないから」


 その言い方は、誰かを指名するためのものではなかった。


 誰を選ぶかではなく、条件だけを先に置くことで、自然と線を引く形になっていた。


 その言葉の後、最初に顔を上げたのはマティアスだった。


 普段から情報収集で共に動く兵も、それに続く。


 一方で、ヨアヒムは動かない。動こうという素振りすら見せない。


 動く者と、動かない者。


 その違いは、はっきりと形になって現れていた。


 アルスはその様子を見て、わずかに頷く。


「俺も準備をする。すぐ動けるようにしておいて。水も新しく汲んでおこう」


 それだけ言い残し、自分も泉の方へと足を向けた。


 風は絶えず動いている。


 だが、人の気配だけは、まだ戻ってこない。


 その事実だけが、何も変わらないまま静かに場へ残り続けていた。


 泉へ向かったアルスは、革製の水袋を手にしながら、水をゆっくりと満たしていく。


 その間にも耳へ入ってくる音は、驚くほど少なかった。


 風が木々の葉を撫でていく擦れ合う音と、背後でかすかに続いている人の動きだけである。


 本来ならば、この時間には一度くらい混じっていても不思議ではない足音や声が、いまだ何一つ入り込んでこないという事実が、言葉にするまでもなく状況の異常さを浮かび上がらせていた。


 遅れている。


 その認識そのものは、もう誰の中にも存在している。


 だが、その遅れがどこまでを意味しているのかまでは、まだ誰も決め切れていない。


 ただ、このまま待っているだけで状況が好転する理由もまた存在しない以上、動けるうちに動くしかないという一点だけは、曖昧さを残さず全員の中へ定着していた。


 アルスは水袋が満ちるのを確認すると、零さないように口元を押さえながら拠点へ戻る。


 すでに立つと決めた者たちは、それぞれに準備を整え始めていた。


 余計な荷は持たず、水だけを確保しすぐに動ける形だけを作る。


 必要最低限に削られた支度である。


 その中で、不意に建設側の動きが変わった。


 耳に届いていた話の断片から状況を察したのか、ヴァルターがこちらへ視線を向ける。


 その視線は、事情を尋ねるものではない。


 ただ状況を確認するためだけの視線だった。


 そして、アルスが何も言わないまま立っている顔ぶれを見返した瞬間には、必要な判断はすでに終わっていた。


 ヴァルターは持っていた材を静かに地面へ置く。


 短く息を吐いたあと、そのままこちらへ歩き出した。


 後ろでは大工の男もまた動きを止め、一度だけ肩を回してから工具を下ろす。そして隣にいた妻と視線を交わしたのち、同じようにこちらへ向かって歩き始めた。


 建設作業は、その瞬間に静かに止まる。


 誰かが命じたわけではない。


 ただ、いま優先するべきものがどこにあるのか、その点についてだけは誤解の余地がなかった。


 ヴァルターが歩み寄りながら言う。


「狩猟班の捜索ですか。共に行きますよ」


 アルスはその言葉を受け、一度だけ頷いた。


「動ける者で行こう。遠くまでは行かない。まずは近場から見て回ろう」


 それは新たな指示というより、すでに揃っている認識を確認するための言葉に近かった。


 誰かを選ぶためではなく、立った者たちがそのまま動くことを前提とした確認である。


 マティアスが頷く。


 共に動く兵も、すでに準備を終えていた。


 ヴァルターはその様子を横目に見ながら、腰の辺りを軽く叩き、一度だけ足を踏み替える。身体のどこに疲労が残っているかを確かめるような仕草であり、問題ないと判断したのか、何も言わず列の中へ加わった。


 大工の男もまた黙ったまま水を手に取り、その妻も余計な言葉を挟むことなく後ろへ続いていく。


 拠点の中では、動く者と残る者とが、誰かに振り分けられることなく、自然に分かれ始めていた。


 立ち上がる者はそのまま準備を進め、残る者は座ったまま息を整えている。


 アルスは地面へ置いた水袋の口元を確かめると、小さく息を整えながら山の裾野へ続く方向へと視線を向ける。


 風は相変わらず流れている。


 木々の葉を揺らし、枝先を擦り合わせながら、山の斜面を一定の調子で抜けていく。


 だが、その中には依然として人の気配が混じらない。


 先ほどから続いている静けさが、そのまま変わらず残っていた。


 アルスは最後にもう一度だけ周囲へ視線を巡らせ、確認するように小さく頷いたのち、足を前へ出そうとした。


 その瞬間だった。


 風の流れとは別の揺れが、視界の端へわずかに入り込む。


 葉の動きではない。


 もっと重く、もっと鈍い。


 風に流されているというよりも、何かが押し返しながら進んでいるような揺れであり、一定ではない間隔を伴って、現れては消えていく。


 アルスは足を止め、そのまま顔を上げた。


 同時に、周囲の数人も同じように動きを止める。


 誰かが何かを言ったわけではない。


 それでも空気の向きだけが一斉に変わり、人の意識が同じ方向へ寄せられていく。


 場の空気が、ほんの一瞬だけ張り詰めた。


 やがて、音が届き始める。


 土を踏みしめる鈍い響き、その合間に差し込まれる重さが擦れる低い音が、不規則な間隔で続いてくる。


 それらが、途切れながらも確かに近づいてきていた。


 人の動きであることは、疑う余地がない。だが、その進みは軽くない。


 アルスは数歩だけ前へ出ると、その場で足を止めた。


 迎えに行くほどの距離ではない。


 だが、ただ待っているだけでは見えない。


 その中間へ自分の位置を置くことで、何が来ているのかを確かめるための距離を取る。


 やがて、山の裾へと続く道の先、拠点の入口へ人影が現れる。一つではなく、複数。


 急勾配を上り切ったばかりなのか、その動きは身体を押し出すように重く、何かを支えながら前へ進んでいることが遠目にも分かった。


 四人が二人ずつ前後に並び、二組の間隔が揃わないまま進んでいる。


 誰かが足を取られれば後ろが詰まり、止まりそうになったところを押し出すようにまた前へ進む。


 重さに押し潰されないよう耐えているような歩き方だった。


 その中心にあるものが、遠目にもはっきりと見えてくる。


 棒へ括り付けられた、大きな影。


 そして、それだけでは終わらない。


 その後ろにも、さらにもう一つ、同じように重さを持ったものが続いている。


 周囲には、小さく束ねられた影もいくつか揺れていた。


 進みの遅さの理由は、それだけで十分だった。


 アルスはその光景を見据えながら、わずかに眉を寄せる。


 戻ってきた。


 そして、遅れた理由もまた、そのまま目の前に現れている。


 当たった。


 そして、当たりすぎた。


 持てるだけ持った結果、その重さがそのまま時間になって返ってきたのである。


 やがて距離が縮まり、姿がはっきりと見えるところまで近づいてくる。


 前に括られているのは鹿。


 後ろへ続いているのは猪だった。


 さらにクラウス以外の腰には、兎や鳥がいくつも括られて揺れている。


 中でもティムの抱えている量は、遠目にも明らかに多い。


 だが、それ以上に目を引いたのは――


 それらすべてが、四人で運んでいてもなお持て余すほどの重さを抱えていたという事実だった。


 アルスはそれを言葉にすることなく受け止めながら、ゆっくりと一歩だけ前へ出た。


 向こうが歩みをわずかに緩めたのは、ほとんど同時だった。


 完全に足を止めたわけではない。


 だが、重さを支えるための間を取るように、一歩ごとの感覚がさらに広がっていく。前へ進むというよりも、落とさないよう耐えながら距離を詰めていると言った方が近かった。


 やがて距離が縮まり、顔まではっきり見えるところまで近づいてくる。


 先頭を担いでいるクラウスの額からは汗が筋を作って流れ落ちていた。肩へ食い込んでいる棒の位置を何度も微調整しながら、歯を食いしばるようにして足を前へ運んでいる。


 後ろ側を支えているレオンもまた同じだった。


 呼吸は完全に乱れている。それでも止まることだけは避けようとしているのが、その足運びからはっきりと伝わってきた。


 やがて拠点のすぐ手前まで辿り着いたところで、前を担いでいた二人が短く声を掛け合う。


 そして、ほとんど同時に膝を折るように身体を沈めた。


 鈍い音が地面へ響く。


 少し遅れて後ろの組も荷を下ろし、四人ともその場へ手をついて大きく息を吐いた。


 誰も、すぐには口を開かない。


 肺へ空気を入れることが先だった。


 喉を鳴らすような荒い呼吸だけが、しばらくその場へ残り続ける。


 アルスはその様子を見ながら、すぐに問いを投げることはしなかった。


 まず受け取るべきなのは、戻ってきたという事実である。


 それから、どこまで余力が残っているかを見極める。


 数拍ほどの間が空いたのち、ようやくゼダンが顔を上げた。


「……遅れました」


 短い言葉だった。


 だが、その一言だけで十分だった。


 アルスは小さく頷き、そのまま視線を獲物の方へ落とす。


 鹿。


 猪。


 それに、括られている兎と鳥。


 量だけを見れば十分どころではない。


 むしろ、一日としては出来すぎていると言っていい。


 だが同時に、その結果がそのまま問題にもなっていることは、目の前の様子から嫌でも分かっていた。


「心配したよ。いったい何があったのさ」


 問いは短い。


 だが、求めているのは短い返事ではない。


 何が起きたのか、その流れそのものだった。


 レオンが呼吸を整えながら、ゆっくりと口を開く。


「最初は、小さいのだけでした。兎と鳥を三つ四つ、拾うように取って、これで戻れば一日以上は持つだろうと、そのくらいの見込みで動いていました」


 言葉は止まらない。


 起きたことを順に並べていく。


「無理はしない、深追いもしない。当たれば持ち帰る、それだけを守っていました」


 少し間を置き、続ける。


「合流するつもりで向かい、半ばまで来たところで鹿が出ました。単独で、ちょうど風下に入れたので、逃がさず取れる位置でした。見送るのも一つでしたが、ここで外すくらいなら当てて持ち帰ろうと判断しました」


 一度だけ息を吸う。


 視線は地面へ落ちていたが、記憶は途切れていない。


「仕留めるまでは早かったのですが、その後が重かった。血抜きと最低限の処理だけで時間を使い、解体は後に回すことにして、とにかく先に拠点へ戻る方を優先しました」


 そこで、クラウスが苦笑混じりに引き継ぐ。


「その途中で、今度は罠に掛かっていました。猪です。昨日見て回った場所の一つで、戻り道にも近かったので、少しだけ覗いたのです」


 肩を回しながら続ける。


「そうしたら、ちょうど暴れている最中でしてね。あのまま放置する訳にもいかず、結局そちらも仕留めることになりました」


 その言葉に、周囲の何人かが小さく顔を上げる。


 罠を設置していたことは、全員が知っている。


 そして、その成果がいま目の前に転がっていることも。


 クラウスは息を整えながら続けた。


「ただ、そこからがさらに重かった。二つとも、そのままでは運べません。棒を通して二人ずつで担ぐ形にしましたが、それでも歩幅が揃わず、進みが遅れる。途中で何度も下ろしては持ち替え、休みながらでなければ動かせませんでした」


 説明は続く。


 だが、この時点で聞いている側にも状況は十分伝わっていた。


 ティムがそこで口を開く。


「結果として、合流どころじゃなくなった。そのまま戻るしかなかったって流れだな。量は取れたけど、正直、もう一回同じことやれって言われても――まあ無理だ」


 最後の一言は感想ではなかった。


 評価でもない。


 結論だった。


 再現性がない。


 それこそが、この報告全体の中心にある問題だった。


 アルスはその報告を最後まで聞き終えたあとも、すぐには言葉を返さなかった。


 視線だけが、再び地面へと置かれた獲物へと落ちていく。


 鹿一頭。猪一頭。兎三羽。鳥四羽。


 数字だけを並べて見れば、途轍もない成果だった。


 十四人分という人数で考えるなら、むしろ多すぎる。昨日まで、あと何日繋げるかという計算ばかりを繰り返していたことを思えば、一日でこれだけの量が目の前に積み上がっている光景そのものが、十分すぎる成果として受け止められるものだった。


 だが同時に、その数字だけを見て判断できないことも、ここへ戻ってくるまでの経緯がすでに示している。


 これをここまで運び上げるために費やした時間。


 途中で何度も足を止め、下ろし、持ち替え、休みながらようやく戻ってきたという労力。


 それらを並べて見たとき、単純に喜びきれない現実も、同じように目の前へと置かれていた。


「……なるほど。まずはご苦労様。この成果はかなり大きいよ」


 そう言ってから、アルスは一歩だけ前へ出る。


 そのまま鹿の脚へ手を伸ばし、試すように掴むと、そのまま少しだけ持ち上げてみる。


 わずかに地面から浮く。


 だが次の瞬間には、その重さが腕へと一気に伝わり、そのまま上げ切ることなく、静かに元へ戻した。


 手に残る感覚だけで十分だった。


 頭では分かっていた。


 だが、実際に触れたことで、その量がそのまま運べるものではないという事実が、今度は身体の側からもはっきりと裏付けられる。


 アルスは鹿から手を離し、そのままゆっくりと立ち上がった。


「当たれば大きいな」


 視線はまだ獲物へ向いたまま、静かに言葉を落とす。


「だが、当たらなければ何もない。それに、当たったとしても毎回こうなるなら、時間も人手も揃えて動かなきゃいけない」


 誰か一人へ向けた言葉ではない。


 その場にいる全員へ向けて、いま見えている現実をそのまま整理しているだけだった。


「完全に博打だ」


 少し間を置いてから、アルスは続ける。


「これを軸にして考えるのは危ないね。頼れるものじゃない」


 結論だけが、静かに場へと落ちる。


 誰も反論しなかった。


 それが事実であることを、いま目の前に横たわっている成果そのものが示していたからである。


 そして同時に――


 これだけの量を、今日のうちにどう扱うのか。


 喜ぶより先に考えなければならない別の問題が、まだ誰も口にしていないにもかかわらず、ゆっくりと場の中へ姿を現し始めていた。


 荷が下ろされたあとの拠点には、先ほどまで響いていた荒い呼吸とは別種の静けさが落ちていた。


 誰もがまず優先しているのは、自分の身体を立て直すことである。


 地面へ腰を下ろしている者もいれば、膝に手をついたまましばらく顔を上げない者もいる。肩を回している者、足を伸ばしている者、それぞれが言葉を交わすこともなく、自分の身体に溜まった疲労を静かに受け止めていた。


 だが、その間にも視界の中から消えないものがある。


 目の前に横たえられた鹿と猪、その周囲へ並べられた兎と鳥。


 そこに積み上がっている成果だけは、意識を逸らしても自然と目へ入ってくる。


 ついさっきまで、あと何日保たせるかという計算を繰り返していたことを思えば、この量は十分どころではない。


 だが、その「余る」という感覚が、不思議なほど素直な安堵へとは繋がらなかった。

 

 足りないという問題が消えたはずなのに、別の何かが引っ掛かっている。


 アルスはその違和感を無理に言葉へ変えようとはせず、そのまま受け止めながら鹿の胴へ手を当てる。


 どこから手を入れるべきか。


 どこまで今日使い、どこを残すか。


 考え始めると、一頭だけなら問題にならないということがすぐに分かった。


 だが、二頭となると話が変わる。


 そこへさらに兎や鳥まで加わる。


 今日食べる量。


 明日に回す量。


 そのさらに先へ残しておく量。


 頭の中で順番に分けていくと、ある地点で確実に余剰が生まれることだけは避けようがなかった。


「……さすがに全部は食えないね」


 誰へ向けるでもなく落とされた言葉だった。


 近くにいた者が小さく頷く。


 反論はない。


 むしろ、すでに同じ結論へ辿り着いていた者の方が多いことが、その場の空気から自然と伝わってくる。

 

 食い切れない。


 その事実が、ようやくはっきりとした形を持って場の中へ沈み込んでいく。


 だが、残せば良いのかと言われれば、それほど単純でもなかった。


 火の近くへ置いておけば、時間と共に変わる。


 冷えれば安心というものでもなく、肉はそのまま放っておけば長くは保たない。


 どの程度で駄目になるのか、その感覚を知っている者と知らない者の差も、この場には混ざっている。


 誰かが口を開きかけて、閉じる。


 どうするのかという問いそのものは、誰の中にも浮かんでいる。


 ただ、その答えだけがまだ場に出てこない。


 その僅かな空白が、場全体を止めていた。


 判断が遅れているわけではない。


 手段が見えていないから、次の一手を置けない。


 そういう種類の停滞だった。


 その中で、一人の兵が静かに獲物の方へ歩み寄る。


 先ほどまでマティアスと共に動いていた男だった。


 荷を下ろしたあともすぐには座らず、獲物を見ながら何かを考えていた人物である。


 年の頃は三十代後半。


 前へ出たがるような人間ではないが、必要な場面で必要なことだけを言う種類の落ち着きがある。


 男は鹿の傍へ膝をつき、肉へ軽く手を当てた。


 指先で状態を確かめるように触れてから、静かに口を開く。


「このままでは、食い切れませんね」


 断定だった。


 アルスはその声へ視線を向ける。


 男は顔を上げないまま続けた。


「今の人数であれば、腹に入る量には限りがあります。無理に詰め込めば別ですが、それをしても、また明日には腹が減ります」


 声は淡々としている。


 だが、内容は驚くほど具体的だった。


「残りをそのまま置けば、いずれ腐ります。気温にもよりますが、早ければ数日で臭いも出るでしょう。虫も寄りますし、夜は冷えますが、それでも長くは持ちません」


 どれくらい保つのか。


 初めて、それが具体的な言葉として置かれた。


 場の視線が自然と男へ集まる。


 その瞬間、アルスの中で何かが繋がった。


 どこかで見た手つきだった。


 干し肉の塩加減を指で確かめ、燻しの浅さを匂いだけで判断していた姿。


 町で見た保存食を、一目見ただけで「今食うためのものじゃない」と言い切っていた視線。


 いま肉へ触れている指先の動きが、その記憶と一本の線で繋がる。


 ――そうか。


 何を見ている人間なのかは、その一瞬で十分に理解できた。


 その男はそこで一度だけ周囲を見回し、続ける。


「ただ、手はあります」


 言い切った瞬間、それまで止まっていた空気がわずかに動いた。


「干すか、燻すかです。水分を抜けば持ちます。干し肉なら数日は保つし、燻せばもっと延ばせます。煙を当て続ければ虫も付きにくくなるでしょう」


 簡潔な言葉だった。


 だが、それは知識ではなく経験から出てくる実務の話だった。


「塩があれば、さらに持たせられますが……」


 そこで言葉を切り、周囲を見る。


 だが誰も何も言わない。


 その沈黙だけで十分だった。


 十分な量の塩がないことなど、誰もが分かっている。


「……バウムゼンで多めに入手しましたが、それでも量は限られますね」


 その一言で、広がりかけた選択肢が現実へ引き戻される。


 それでも何もない状態とは違った。


 干す。


 燻す。


 やり方そのものは存在する。


 男はそこでようやく顔を上げ、アルスを見る。


「時間は掛かりますが、やれば延ばせます。今日取れた分を、明日以降へ回せる形にはできます」


 それは問題の解決ではない。


 だが確実な延命策ではあった。


 アルスはその言葉を受け取り、小さく頷く。


「オットーは詳しいのだな」


「一応、バウムゼンでも言ったように、元は輜重隊で食材管理をしていましたので」


 オットーは苦笑混じりに答え、再び視線を獲物へ落とす。

 

 アルスはその背中を一度見てから、改めて目の前の量へと視線を戻した。


 食い切れない分は腐る。


 だが、手を加えれば延ばせる。


 その二つが、ようやく一本の線として繋がる。


 手を加えれば延びる。


 もっとも、それは失われる速度を遅らせるだけであり、食料そのものが増えるわけではない。


 それでも――保存するという方法は、この場にいる全員にとって、初めて共有された新しい選択肢だった。


 アルスは息を一つ整え、次に何を選ぶべきかを、静かに組み直し始めていた。


 日が落ち始める頃には、拠点の空気は再び動き始めていた。


 戻ってきた直後の疲労に沈んだ静けさはすでに薄れ、代わりに今度は別の種類の忙しさが場全体へと広がっている。


 解体はすぐに始まった。


 だが、その動きは誰かが指示を飛ばして成立しているものではない。


 刃物を扱える者が自然と前へ出て肉へ手を入れ、血を落とし、骨から外していく。その流れに合わせて周囲の者たちが動きを変え、使える部位とそうでないものを分け、次に必要なものを先回りするように手渡していく。


 決められた役割ではなく、その場その場で足りない場所へ人が流れていくことで、作業は形を成していた。


 火の近くでは、すでに枝が組まれ始めている。


 煙を安定して立ち上らせるための場所が作られ、その上へ細く裂かれた肉が、一枚ずつ丁寧に広げられていく。


 そして、その煙を絶やさないための薪は、すでに十分な量が脇へ積み上がっていた。


 誰かが命じたわけではない。


 ただ、薪を集め続けていた孤児妹の小さな手の積み重ねが、気づけば目の前の作業全体を支える形になっていた。


 干す場所を整える者。


 煙の流れを見ながら肉の位置を少しずつ変える者。


 煙が弱くなれば薪を足す者。


 それぞれがオットーの言葉をなぞるように動きながら、手探りではありながらも、確実に形を作り始めている。


 保存するという行為そのものは、この場にいる多くにとって初めてのものだった。


 それでも、一度理解された手順というものは思った以上に素直に広がっていく。


 煙が立ち上る。


 それはただ暖を取るための火とは違う。


 明確な目的を持ち、肉へ向けて流される煙だった。


 その薄い煙は空気の中へ静かに広がりながら、拠点の隅々にまで届き、作業を続ける者たちの衣服や髪へ、少しずつ匂いを残していく。

 

 アルスはその光景を、少し離れた場所から静かに眺めていた。


 手は動かさない。


 口も挟まない。


 ただ視線だけを動かし、その場の流れそのものを頭の中へ積み上げていく。


 いまの自分に必要なのは、手を動かすことではない。


 全体がどう動いているのか。


 そこにどれほどの余白があり、どれほどの無駄が残されているのか。


 それを見極めることの方が重要だった。


 採集は、量に限りがあるとはいえ確実だった。


 時間を掛ければ、その分だけ確実に積み上がる。


 だが同時に、それは運べる量によって頭を押さえつけられている。


 持ち帰れる分以上を得ることはできない。


 狩猟は違う。


 完全に博打だった。


 当たれば一度で状況そのものを変えられる。


 だが外れれば何もない。


 そして当たり外れに依存する以上、同じ結果を続けて期待することもできない。


 そして――保存。


 保存は、延ばせる。


 今日得たものを明日へ回し、さらにその先へ繋ぐことができる。


 だが、それはあくまで「持たせる」という行為だった。

 

 量そのものを増やしているわけではない。


 アルスは一度だけ目を閉じ、その一日を頭の中で順に並べ直していく。


 人を増やせばどうなるか。


 運べる量は増える。


 だが結局は運搬という制約に縛られ続ける。


 狩猟へ寄せればどうなるか。


 当たれば大きい。


 だが、外せば何も残らない。


 保存へ回せばどうなるか。


 確かに持つ時間は伸びる。


 だが、それも終わりを後ろへ押しやっているだけで、不足そのものを埋めているわけではない。


 考えれば考えるほど、同じ場所へ戻ってくる。


 どれも間違っていないが、どれも足りていない。


 余計な言葉を削れば、残るのはその結論だけだった。


 アルスは目を開き、煙の向こうへ視線を流す。


 細く裂かれた肉が並び、ゆっくりと水分を失っていく。


 今日を明日へ繋ぐための行為として、それは確かに意味がある。


 間違いなく必要なことだった。


 それでも同時に、それが足りないものを埋めるための方法ではないという事実も、静かに浮かび上がってくる。


 ふと、記憶が過る。


 町の店先へ吊るされていた干し肉や、棚へ積まれていた燻製の魚、それに樽へ詰め込まれていた塩漬け。


 あれらは、その場で食うための量ではなかった。


 むしろ運ぶためにまとめられ、どこか別の場所へ流れていくためのものだった。


 その「どこか」は、ここではない。


 ただ、ある場所にはあるのだという事実だけが、ぼんやりと頭の中へ残る。


 アルスは、その像を追わなかった。


 いま決めるべきことは、そこではない。


「明日は、保存を中心に回そう」


 声へ出された言葉は、無理なく場へ落ちていく。


 作業を続けていた者たちの動きが、わずかに引き締まる。


「採集は続ける。狩猟は罠の確認だけだ。取れればいい。でも、それに頼らない形を維持する。今日取れた分は、できるだけ形を変えて残そう」


 誰かが頷く。


 それに続くように、いくつかの視線が動くが反対の言葉は出てこない。


 それは前進でも後退でもない。


 ただ持つ時間を延ばすための選択であり、同時に、この場で取れる最も現実的な一手だった。


 アルスはその反応を見て、小さく息を吐く。

 

 延びただけだが、その「だけ」が、いまは必要だった。


 夜は思っていたより早く訪れる。


 煙はまだ空へ向かって上がり続けている。


 そして、その煙の向こう側には、まだ埋まっていないものだけが、静かに残り続けていた。

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