第23話 火が消える前に
大陸歴一四〇七年四月三日
アルスは、まだ燻り続ける火の残る方角へ視線を向けたまま、昨夜のうちに頭の中で組み立てていた数字を崩さないよう、一つずつ順に確かめ直していた。人数も消費量も変わっていない以上、昨日の時点で立てた計算はそのまま当てはめられるはずである。少なくとも、何かを最初から考え直さなければならないほど状況が変化したわけではない。
その計算の先にある見立ては変わらない。
ここから先は、今日を含めて二日。切り詰め方次第では三日。
問題は、その数字が正しいかどうかではなかった。既に計算そのものは何度も頭の中で繰り返している。今はもう、自分の出した数字の正否ではなく、その数字通りに人が動くかどうかの段階に入っていた。
三日という猶予がある。
だが、その三日をどう使うべきかという問いについては、まだ答えを急がず、自分の手元へ置いたままにしていた。急いで結論を出すよりも、今はまず見えるものを増やす方が先だった。
朝のうちに割り振られた作業は、表面上だけを見れば昨日とほとんど変わらない形で繰り返されていた。
だが、その中身は僅かに違っている。
特に大工作業へ回っている者たちの動きは目に見えて変化しており、誰が何をするかをその都度言葉で確認する場面がほとんど消えていた。昨日までは手を止めてから周囲を見る時間があったが、今日は既に次の動きへ身体が先に向かっている。
アルス自身もまた、その流れの中へ身を置きながら、考えるより先に身体の側へ覚え込ませていく方へと意識を寄せていた。繰り返しの中で、迷う手間を消していく。
その結果として、作業の進み具合は僅かに早まり、そして何より途中で手が止まる場面がほとんど見られなくなっていた。
流れが流れとして崩れず定着し始めた、その頃だった。
アルスは材木を据えていた手を、一度だけ止められることになった。
呼びに来ていたのは、薪拾いへ出ていたはずの孤児の妹であり、その表情は何かを見つけた者の顔というより、見ておくべきものがあることを伝えるために来た顔だった。
アルスは周囲へ一言だけ残してその場を離れ、少女の後を追って山の裏手へと回り込んでいく。踏み固められていない斜面を登り切ったところで木々の隙間が途切れ、その先に足元を横切るように伸びる街道の姿が現れた。
そして、その上を一定の間隔を保ちながら進んでいく隊列が目に入る。
荷を積んだ車輪の軋む音がここまで届く距離ではない。人の顔を識別できるほど近くもなかった。
それでも、その列の長さと周囲につく護衛の配置を見るだけで、物資の搬送であることは疑いようがなかった。少なくとも、この街道が今も誰かにとって重要な動線として機能していることだけは確かだった。
それがどこから来て、どこへ向かっているのかまでは、この距離から断定できるものではない。エリクセンから送られている朝貢物資である可能性もあれば、ミュラー側で徴発した物資である可能性もある。もちろん、両者とは無関係の勢力が、偶然この流れに乗っているだけの可能性も否定はできなかった。
ただ、その終点として考えられる場所を一つ挙げるとすれば、それはフォーゲルだろう。
アルスはしばらく何も言わず、その列を目で追っていた。
視線は隊列だけではなく、街道との距離、そして拠点の裏手というこの位置そのものへも向けられている。
ここは、ただ身を隠すためだけの場所ではない。
下を流れていくものへ、手を伸ばせる距離にある。
その事実が、いま目の前に形として現れていた。
偶然なのか必然なのかは分からない。だが、それがどちらであろうと、この位置はこれから先の自分たちにとって生命線になり得る場所なのだと、アルスは理解していた。
やがて列の後端が視界の向こうへ消えていくと、再び街道の上には何も残らなくなった。
アルスはなおもしばらく視線を外さず、ここが喉元なのだという認識だけを、自分の中へ静かに定め直していた。
裏手から戻った後、アルスは再び作業の中へ戻っていた。
だが、先ほど目にした街道の流れが頭の内から消えることはない。とはいえ、今優先するべきものが別にあることも理解していた。今は考える時間ではなく、進める時間である。
やがて、外へ出ていた者たちが戻り始めた気配が伝わってきた。
最初に姿を現したのは採取へ出ていた組だった。
抱えられているものの量を見た瞬間、昨日と同じ顔ぶれであるにもかかわらず、成果の質そのものが明らかに変わっていることが分かる。単純に量が増えただけではない。種類ごとに分けられ、それぞれ扱いやすい形へまとめられていた。
「昨日より揃ってるね」
アルスがそう言うと、先頭を歩いていたローザは一度だけ肩で息を整え、抱えていた束を地面へ下ろした。
「マティアスが教えてくれたところに、たくさんありました。同じ辺りを見ても、まだ当分は拾えると思います」
そう返した声に、何かを誇るような響きはなかった。
他の者たちも黙々と荷を下ろしていく。そこにあるのは成果を見せる空気ではなく、持ち帰れなければ詰むという感覚が、少しずつ全員の中へ定着し始めている空気だった。
「同じ場所で、しばらく続けるか」
アルスが続けて尋ねると、ローザは少しだけ考える間を置いてから、
「そうですね。取りすぎるのも問題かもしれませんけど、今はまず集めないと」
と答える。
その言葉が示していたのは、単純な量の話ではない。今の状況に対する危機感そのものだった。
アルスは小さく頷き、全体としてどれほどの嵩になっているかだけを視線で測る。
いま目の前に積まれているものは、偶然一度だけ上手くいった結果ではない。少なくとも再現可能なものとして考えていい程度には、形になり始めていた。
マティアスたちも続けて戻ってきたが、狩猟へ出ていた組だけはまだ姿を見せていなかった。
「遅いな」
誰に向けるでもなく落ちたその一言に、アルスもまた頭の中でいくつか理由を並べてみる。獲物を追って遠くまで入ったのかもしれない。罠の様子を見るのに時間が掛かっている可能性もある。あるいは単純に、足場の悪い場所を回っているだけかもしれなかった。
だが結局のところ、考えた先にある結論は一つしかない。
戻ってきた結果を見なければ判断はできない。
想像だけで決められる段階ではなかった。
やがて日が少しずつ傾き始め、木々の影が長く伸び始めた頃になって、最後の組が姿を見せた。
だが、その様子を見た瞬間、量が少ないことは誰の目にも明らかだった。
手に持っているものが小さい。近づいてくる姿だけで、昨日とは違う結果であることが伝わってくる。
「どうだった」
アルスが声を掛けると、先頭を歩いていたティムは手にしていた獲物をそのまま地面へ置いた。
「追ったが、深い所に逃げられて、大物は取れなかった」
その声に言い訳を探すような響きはない。悔しさを誇張するでもなく、失敗を隠そうとするでもなく、ただ事実だけをそのまま口にしていた。
狩猟というものには波がある。
その当たり前の現実が、飾りようのない形で目の前へ出てきただけだった。
「昨日より小さいかな」
アルスが続けると、ティムは僅かに視線を外す。
「狩りの当たり外れは仕方ねえ。こういう日もある」
その短い言葉だけで、何に依存しているのかがはっきり示されていた。
アルスはそれ以上何も尋ねず、地面へ並べられている成果へ視線を移した。採取組が持ち帰ったものと、遅れて戻ってきた狩猟組の成果が、同じ場所へ並べられている。
彼は単純な量の比較として見ていたわけではない。
明日以降をどういう形で回すか、その判断材料として見ていた。
同じ一日を使っているにもかかわらず、その確かさの質がまるで違う。そんな感覚が、頭の中で少しずつ形になり始めていた。
採取には、少なくとも同程度の成果を持ち帰れるという見通しがある。だが狩猟は違う。その日の巡り合わせによって結果が大きく左右される。同じ人数と同じ時間を使ったとしても、同じ結果が返ってくる保証はない。
そして、それは残された三日という時間の使い方へ直接繋がっていた。
どちらを軸に据えるべきなのか。
アルスの中では、既に答えが固まり始めていた。
日が完全に落ち切る前に作業は一区切りとなり、人々は火の周りへ集まり始める。
アルスは火の明かりが届く範囲にいる者たちへ視線を巡らせ、落ち着いた声音で口を開いた。
「今日の結果を見る限り、採取は明日も同じくらい持ち帰れる見込みがあるよ」
そこで一度言葉を切り、地面へ置かれた束へ視線を落とす。
「一方で狩りは、同じ人数と時間を使っても結果が揃わない。そのまま明日も今日と同じ成果を求めることはできないね」
そう言い切る。
その言葉に対して、すぐに反論が上がることはなかった。
やがてティムが口を開く。
「だが、狩りをやめるわけにはいかねえと思う。当たれば大きい」
アルスは小さく頷き、その言葉を否定することなく受け止めた。
「やめないよ。ただ主には置けない。いま必要なのは、外しても崩れない形だからさ」
その言葉は狩りそのものを軽視しているわけではなかった。
何を優先するべき状況なのか、その順番を示しているだけだった。
するとゼダンが続けて口を開く。
「なら、採取だけで回しますか」
そう問われ、アルスは首を横に振った。
「採取だけでも足りないかな。でも採取は底になると思う。同じ場所で、同じやり方で、同じくらい持ち帰れるなら、それは計算に入れられるからね。そこへ罠を重ねるのが今は一番いいと思う。採取と罠で底を作って、その上に余裕があれば狩りを乗せる形かな」
結果を見た上での判断だった。
話を聞いている者たちの間にも、少しずつ理解が広がり始めている空気があった。
「罠は数を増やしますか」
クラウスがそう尋ねる。
「増やしたいね。ただ、見て回る手間を増やし過ぎないように、ある程度の範囲は決めようか」
アルスは間を置かずに返し、そのまま周囲へ視線を巡らせながら続けた。
「広げれば取れる量は増えるかもしれない。でも今は、拾えるものを確実に拾う方がいいと思う」
それは危機感や精神論としてではなく、あくまで作業効率の話として語られていた。
その後、アルスは一度息を置き、明日の動きへ話を移していく。
「明日はマティアスたちも採取へ回って。しばらくは情報を拾いながら、採取もするという形で頼むよ。狩猟組は罠を見て回りながら新しく増やして、もし獲物を見つけても深追いはしないで、そのまま採取へ合流してほしい」
具体的な形として指示を出していく。
それは一方的に押しつける命令というよりも、受け取る側からしても無理なく理解できる形だった。
しばらくの静かな間の後、レオンが小さく呟いた。
「それで……回るでしょうか」
アルスはその声の方へ視線を向ける。
「回すために、こうするんだよ。まずは崩れない形を採取と罠で作る。三日あるなら三日分を積む。その先は、それが出来てから考えよう」
その言葉は未来を広げるための話ではなかった。
火が消える前に、まず形を作らなければならない。
それだけを話していた。
それ以上反論が出ることはなく、それぞれが自分の役割を頭の中で当てはめるようにしながら、静かに頷いていった。
「それと、もう一つある」
アルスはそう言って、一度だけ言葉を切った。
火の揺らぎが顔の半分を明るく照らし、反対側を薄暗く沈ませている。その中で視線を少し持ち上げながら、昼間に見た光景を頭の中へ呼び戻していた。
これから話すものは、単なる報告ではない。
今日何があったかを共有するためだけの話ではなく、この場にいる全員の認識そのものを、少し先へ進めるための話だった。
「山の裏手の街道で、物資を運んでいる部隊を見たよ。護衛も付いていたし、たぶん一度きりじゃなくて、定期的に動いている列だと思う」
アルスは、それ以上踏み込んだことは言わなかった。
どこから来ているのか、どこへ向かっているのか、自分の推測を付け加えることもしない。あくまで、自分が見た事実だけを順番に並べる形に留めていた。
「今は直接手を出そうとは言わない。でも、あの流れはここのすぐ下を通ってる。つまり、ここから手を伸ばせる位置にあるってことだけは覚えておいて」
その言い方は、明確な指示ではなかった。
こうしろと決める言葉でもなければ、これからそうするという宣言でもない。可能性として提示し、その先は聞いた側が自分の中で考えられる余地を残していた。
だが、それでも聞いていた者たちの反応は同じではない。
言葉の意味するところへすぐに辿り着く者もいる。何を示しているのかまでは理解しながら、その先について考えようとする者もいる。一方で、まだそこまで結び付けられず、ただ話として受け止めている者もいた。
それでもアルスの中では、既に少しずつ形が出来始めていた。
あれが一度きりではなく、繰り返し流れるものであるならば、それは偶然現れたものではない。規則的に動く流れである以上、いずれそこへ手を伸ばすことは避けられない選択肢になる。
まだ決断しているわけではない。
だが、輪郭だけは静かに浮かび始めていた。
「明日は言った通り、採取を軸にして罠を増やそう。狩りは見かけたら狙うだけで、探し回るのはやめよう」
アルスはそう締めくくり、火の周りに座る者たちへ順番に視線を向けていった。
一人ずつ表情を確かめるように見て回り、それぞれがどう受け止めたのかを見ていく。
すぐに異論が出てくる様子はない。
全員の顔を見終えると、アルスは最後に視線を火へ戻した。
火はまだ消えてはいなかった。
だが、確実に小さくなりつつある。
揺れながら、それでも今はまだ、この場を照らし続けていた。
けれど、それがいつまで続くのかを保証するものは何もない。燃やすものが尽きれば消えるし、維持する手が止まれば弱っていく。
だからこそ、この火を繋ぎながら次を考えなければならなかった。
アルスはその揺れる光を見つめながら、自分がいずれ越えなければならなくなるかもしれない線について考えていた。
だが、まだそこへ名前は付けない。
今はただ、一つの選択肢として心の奥へ置いておくだけにする。
触れるにはまだ早い。
そうしてアルスは、その日の終わりを静かに受け入れていた。
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