第22話 火を囲んで
大陸歴一四〇七年四月二日
朝の冷えは、夜よりもはっきりしていた。
火は残っているが、熱はない。灰の奥に赤が沈んでいるだけで、手をかざしても何も返ってこない。
誰もが目は覚ましている。だが、すぐに動き出す者はいない。体が重く、痛みが抜けていない。
ここが「そういう場所」だと、もう分かっている。
アルスは火を見てから、顔を上げた。
一人ずつを見る。
どこまで動けるか、何が出来るか――それを量るように視線を巡らせてから、静かに口を開く。
「ゼダン」
呼ばれた男は、すぐに応じる。
アルスはわずかに間を置いてから続けた。
「ティムとレオンを連れて出ろ。狩りだ」
意図ははっきりしている。
その言葉が落ちた直後、間を置かずにマティアスが口を挟んだ。
「一人、追加してもよろしいですか」
アルスが視線を向ける。
「……誰だろう」
マティアスは振り返り、短く言う。
「おい、来い」
呼ばれた兵が、一歩前に出る。
止めるのではなく、誘うと言い切った声。
アルスはその顔を見て、わずかに目を細めた。
あのとき、山賊に襲撃を受けたと思われる焼け跡の中で道を読むと言った男。止めるのではなく、誘うと言い切った男。
目立たないが、動きに無駄はない。
「……クラウスか。クラウスは、前に道を読んでいたな」
一瞬だけ、間が空く。
「ご存じないかもしれませんが、クラウスは私の弟です。御家では主に罠の設置と発見を任されていました」
クラウスは悩みながらも言う
「試したことは有りませんが、獣相手でも応用は利くと思います。即座に成果が出るとは限りませんが、仕掛けておけば後に繋がる。今の状況では、多少なりともお役に立てるかと」
一度、狩猟に出る三人へ視線を送る。
ゼダンがクラウスを見る。
「邪魔にはならないし、罠を使えるので有らば後々まで有用ですな」
アルスは一瞬だけ考え、頷いた。
「分かった。一緒に行ってくれ」
ゼダンがクラウスを見る。
「頼むぞ」
それで決まる。
ティムが肩を回しながら口を開いた。
「……まあ、やるしかねえな。昨日の状態でいきなり獲物が取れるとは思ってねえが、だからって何もしなきゃ四日で終わる。罠でも何でも、引っかかる可能性を増やすしかねえ。動きながら当たりをつけて、取れるもんがあれば拾う。それだけだ」
レオンが静かに続ける。
「沢の下流は見ておいた方がいいでしょう。水がある以上、獣も寄りますし、痕跡も残りやすい。逆に言えば、人が使っている可能性もありますが」
クラウスが地面に一度視線を落としてから言う。
「通る場所は絞れます。水に入る前か、出た後か。足を止める位置があります。そこに置けばいい」
説明は簡潔だが、足りない部分はない。
ティムがそれを聞いて小さく息を吐く。
「……なるほどな。闇雲に追うよりはよっぽど現実的だ」
ゼダンが短く締める。
「距離は取りすぎない。戻れる範囲で動く。無理はしない」
アルスは視線を移した。
「マティアス」
呼ばれた男はすでに顔を上げている。
「一人連れて周囲を見てくれ。地形だ。少しずつでも良いから、この周辺の地図を作り上げるんだ。それと人の痕跡だね」
マティアスは頷き、静かに言う。
「承知しました。道中賊の跡も有りましたし、南東方面の沢筋を中心に見ます。水がある以上、通過する者は避けられません。火の跡、踏み固められた土、枝の折れ方、そのあたりを見れば頻度は読めます。常駐か通過か、それだけでも分かれば判断材料になります」
それ以上は言わない。必要な分だけ、置く。
アルスはさらに視線を動かす。
「ヨアヒム、ローザ、……それからお前だ」
孤児の兄に目を向ける。
「食べられそうなものを探してきてほしい。判断は後でいい。見つけて、持ってきてくれればいい」
孤児の兄は力強く頷きつついう。
「任せて。そういうのは昔からやってる。色々採ってくる」
ローザは小さく頷くだけで、何も言わない。
ヨアヒムは少しだけ顔をしかめ、それから苦笑した。
「……屋台あるかなあ」
ティムが呆れながら答える。
「有るわけないだろう。色々拾ったり木の実や山菜を探すんだよ」
ヨアヒムは一度、周囲を見る。
「え……そんな木の実や山菜なんて……あまり好きじゃない」
いまいち現状を理解しているのか、非常に疑問に思う言葉だが、一応前に進むらしい。
アルスは最後に残った者たちを見る。
「残りは俺と拠点をやろう。屋根を作る。休める場所を確保しよう」
視線を一度、全体に巡らせる。
「……戻る場所を見失わないようにね」
それで、その場はひとつの区切りとして静かに閉じられた。誰も明確な返事を口にすることはない。けれど、沈黙は否定ではなく、すでに次の行動へと移っている証だった。言葉よりも早く、理解は共有されている。
ゼダンたちは迷いなく外へと向かい、足場と周囲の確認に戻る。その背中を追うように、マティアスは言葉を挟むこともなく、すでに地面へと視線を落とし、次に拾うべきもの、整えるべき場所を探している。
少し遅れて、ヨアヒムは頭を軽くかきながら、それでも足を止めることなく歩き出した。その表情にはまだどこか拭いきれない戸惑いが残っているが、立ち止まる理由にはなっていない。ローザと孤児の兄がその後に続き、互いの歩幅を確認するように自然と列ができていく。
残された者たちもまた、誰に指示されるでもなく、それぞれの位置に戻り、手を動かし始める。木を運ぶ者、道具を整える者――役割は最初から決まっていたかのように、滞りなく再開されていく。
もう、その場に迷っている者は一人としていなかった。
アルスはそれらを一瞥すると、言葉を挟むことなくそのまま大工夫婦の方へ足を向けた。
二人はすでに場所を決めており、泉からわずかに距離を取った位置で足元の土を踏み固めながら、風の通りと地面の傾斜を見極め、どこに柱を立てれば無理なく形が保てるかを探っている最中だった。
「ここだな。このあたりなら水気を拾いすぎないし、風もまともに受けない。背を石に預ける形にすれば、夜はだいぶ楽になる」
夫がそう言って視線を周囲へ巡らせると、妻もそれに応じるようにしゃがみ込み、指先で土を削って硬さと湿りを確かめながら、小さく頷いた。
「屋根さえ掛けられれば、あとはどうにでもなる。ただし材料が問題だね。本来なら伐ってすぐの木なんて使いたくないんだけど、乾かす時間なんてないし、この状況で選り好みもしていられないね。多少歪んでも構わないなら、まずは形にしようか」
職人としての本音と、今の状況に対する割り切りが、そのままの形で言葉に混ざっている。
アルスはそれを聞きながら周囲の木立へと視線を移し、太さや高さ、幹の曲がり方を一つずつ追っていくが、どれが最適かまでは分からない。ただ、必要なものがそこにあるという事実だけははっきりと掴めていた。
「……あの辺りなら使えそうか」
独り言のように漏らすと、夫は一度だけそちらへ目をやり、軽く顎を引いた。
「差し当たり使う分には問題ない。太さも悪くねえ」
そこでアルスはわずかに間を置き、視線を戻す。
「運べばいいか」
問いというより、確認に近い言い方だった。
「最初はそれでいい。形はこっちで合わせる」
短く返される言葉に頷き、アルスはそれ以上何も言わずに足を向けた。
すでに一人の兵が木の前に立っており、幹に手を当てて感触を確かめ、軽く叩いて内部の響きを拾いながら、使えるかどうかの見極めを終えようとしているところだった。
「それ、使えそうか」
アルスが声をかける。
兵は一度だけこちらを見てから、すぐに幹へ視線を戻した。
「ええ、節が少ないです。割れも出にくいと思いますし、乾きすぎてもいませんから、粘りも残っています。伐ってすぐに使うなら、このくらいが一番扱いやすいと思います」
ただの判断ではなく、“使う前提”の言い方だった。
アルスはその違和感を拾う。
「……詳しいな」
兵は幹を軽く叩きながら答える。
「兵になる前は、山で樵をしていました。乾きすぎた材は軽く見えても折れますし、逆に水を含みすぎていると、今度は割れる。触れば、だいたい分かります」
そこで初めて、“経験の重さ”が出る。
その言葉を聞いた瞬間、アルスはわずかに目を細めた。
「……乾くと、締まりが抜けるか」
自然に口から出る。
兵は短く頷いた。
「ええ。先日の外れた車輪と同じです」
それだけだった。
だが、その一言で十分だった。
アルスはわずかに息を吐き、兵へ視線を向ける。
「……ヴァルター、だったな」
名を呼ばれた兵は、ほんの一瞬だけ視線を上げて応じる。
「はい」
それ以上は続かない。言葉は少ないが、必要なことはすでに揃っている。
アルスは頷き、差し出された斧を受け取った。
斧を手に取り、幹へ振り下ろす。
刃が食い込むたびに、手に返ってくる衝撃が少しずつ重くなっていく。最初は問題なかった動きも、回数を重ねるごとにわずかに遅れ、呼吸と刃の軌道が噛み合わなくなっていく。それでも止めることはしない。止めれば崩れると分かっているからだ。
隣ではヴァルターが同じように斧を振るっている。動きに無駄はなく、刃の入りも安定しているが、それでも一撃ごとにわずかな間が生まれ始めていた。体力が尽きたわけではない。ただ、消耗を前提にした動きへと、確実に変わり始めている。
少し離れた場所で、孤児の妹が一人、黙々と枝を拾っていた。誰に言われたわけでもない。だが拾った枝は一本ずつ揃えられ、小さく束ねられて地面に置かれていく。手は土に触れ続け、汚れている。それでも迷いはない。やれることをやろうという動きだった。
アルスは一瞬だけその姿を視界の端で捉え、それ以上は見ないまま再び幹へと向き直る。
やがて木が小さく軋み、内部から応えるような音を返し始める。
「来ます」
低く落とされた声に合わせるように、アルスは最後の一撃を入れると、幹はゆっくりと傾きを増し、そのまま地面へと倒れ込んだ。
響く音の中で、ようやく腕の力が抜ける。
「……悪くありません」
ヴァルターの声は抑えられているが、否定ではない。アルスは短く息を吐き、倒れた木に手を置くと、そのまま持ち上げて運び始めた。
運び終えた木が地面に置かれたとき、視線を上げるとすでに大工夫婦は柱を立てる作業に入っており、掘った穴へ差し込んだ木を足で踏み固めながら角度を調整し、位置を決めていく。
「そこ、もう少し起こせ、倒れるぞ!」
「分かってる、押さえて!」
荒い言葉が飛ぶが、動きに迷いはない。ただの木だったものが位置を与えられ、支えられ、意味を持ち始めていく。
まだ屋根はない。壁もない。それでも、その場には確かに“場所”が生まれ始めていた。
アルスは一度手を見た。土と木の粉にまみれた指先には薄く血が滲んでおり、感覚も鈍くなり始めているが、不思議と嫌ではなかった。
視線を上げる。やることはまだあり、終わる気配はない。
だからこそ、止まる理由もない。
アルスは再び斧を取り、次の木へと向かった。
西の光が落ちきる直前、最初に戻ってきたのは、マティアスだった。
一人ではなく、連れていった兵とともに戻ってきているが、その足取りは疲労よりも、何かを整理し続けていた後の静けさを帯びている。
戻るなり作業に加わるかと思われたが、マティアスは一度だけ周囲を見渡し、全体の動きを確認してから、あえてアルスの近くまで歩み寄った。
「報告は、全員が戻ってからの方がよろしいでしょうか」
声は抑えられているが、配慮が含まれている。
アルスは木を担いだまま、短く答えた。
「そうしよう」
マティアスはそれ以上何も言わず、すぐに作業へ入る。
柱を支える位置に入り、わずかな傾きを足で修正しながら、周囲と呼吸を合わせていくその動きには、戦とは別の意味での“慣れ”があった。
遅れて戻ってきたのはヨアヒムたちだった。
三人とも手ぶらではないが、胸を張れるほどの成果でもない――その微妙な量を抱えたまま、少し気まずそうに足を止めるでもなく、そのまま作業の輪に入り込んでくる。
アルスは一度だけ視線を向けたが、何も言わなかった。
言葉を待たせるよりも、手を動かす方が優先されていることは、ここにいる全員がもう分かっている。
ローザは背中の袋を下ろしながら、難しい顔をしながら声を出した。
「……食べられるものは、いくつか見つけました。数は多くありませんが、毒のあるものは避けたつもりです。見分けが曖昧なものもあるので、全部をそのまま使うのは危ないかもしれませんが……それでも、何もないよりはずっとましです」
孤児の兄は袋の口を押さえながら、少し前に出る。
「これだけは確実に大丈夫。前に食べたことがあるやつだから。でも、それ以外は分からない。見たことないのが多かった」
短く断たれた言葉ではあったが、そこには逃げも曖昧さもなかった。必要なことだけを、余計な飾りを削ぎ落として差し出す、そういう言い方だった。
アルスは差し出された袋に一度だけ視線を落とし、その重さと中身の質を確かめるように、わずかに時間を置いた。頭の中で数字と現実を照らし合わせ、判断が定まるまでの間だけ呼吸を止める。そして、ようやく口を開いた。
「……十分だよ」
それだけだった。
評価でもなければ、慰めでもない。良いとも悪いとも言わない。ただ、今この場で必要な基準に照らしたとき、それは“足りている”という事実だけを示した言葉だった。
ヨアヒムはその一言を受けて、一瞬だけ目を丸くする。予想していた反応との違いに戸惑いを見せたが、その驚きもすぐにほどけ、肩に入っていた力が静かに抜けていく。
「屋台無かったから、みんなに怒られるんじゃないかと思ってた……」
軽く吐き出すようなその言葉は、張り詰めていた緊張の余韻をかすかに残しながらも、どこかで現実に触れた者の安堵を含んでいた。
それ以上、会話は続かない。誰かがそれを遮ったわけではなく、必要なやり取りが終わったことで、自然と区切りがつく。
言葉の代わりに、全員がそれぞれの作業へと戻っていく。木材を運ぶ者、手を動かす者、その流れは途切れないまま、空気だけが静かに元の温度へと戻っていく。
やがて、時間を少し遅れて、ゼダンたちが戻ってきた。
その姿が視界に入った瞬間、明確な緊張が生まれるわけではない。ただ、その場にいる全員が同じ認識に到達する。「結果が来た」と。
アルスもまた、その空気の変化を感じ取るだけで、構えたりはしない。
ティムは肩で息をしながら前に出ると、持っていたものを迷いなく地面へと下ろした。そこに転がったのは、小さな獣が一匹。大きな成果ではない。だが、確かに“肉”であり、手に入ったという事実だけは揺るがない。
「……一匹だ。正直、上出来とは言えねえが、ゼロじゃないだけまだマシだと思ってくれ」
吐き出すような言い方だった。自分の結果に対する納得のなさと、それでも前に進むしかない現実が、その一言に混ざっている。
その隣で、レオンが一歩前に出る。
「沢の下流を中心に確認しましたが、獣の痕跡は残っているものの、動きは分散しています。特定の場所に留まる傾向は見られません。追えば捕らえられる可能性はありますが、待っていて取れるほど安定した状況ではありません」
淡々とした報告だった。感情を削ぎ落としたその言葉は、現実だけを正確に切り取っている。
少し遅れて、クラウスが口を開く。
「罠は仕掛けてきました。通り道はある程度絞れますが、設置数はまだ十分ではありません。明日以降に数を増やせば、捕獲の確率は上がります。今日の結果に直接は繋がりませんが、先のための準備にはなっています」
そこには、結果ではなく“時間”という前提があった。
最後に、ゼダンが短くまとめる。
「深入りはしていません。戻れる範囲で動きました。今の状態で無理をすれば、獲物より先にこちらが消耗してしまいます」
無駄のない一言だったが、その中に判断と制御がしっかりと組み込まれている。
全員の報告が揃ったことで、その場に小さな輪が自然と形作られる。作業の手は完全には止まっていない。それでも、この一瞬だけは、全員が同じ中心を見ている。
アルスは柱に預けていた手を離し、ゆっくりと全体を見渡した。視線を動かす速度は変わらないが、その内側ではすでに整理が終わっている。
「結果は出てる。……まずは、それでいい」
一度、場を受け止める。
「取れないわけじゃない。ただ、簡単に取れる状況でもない。時間はかかる」
視線が順に人へと移っていく。
「採取も同じだ。量は多くはないが、何もないわけじゃない。見つかる場所はある」
そこで一度だけ言葉を区切る。
「つまり――ここは“何もない場所”じゃない。ただ、“簡単に取れる場所でもない”」
それだけ言うと、アルスはそれ以上は何も付け加えなかった。
判断はすでに終わっている。あとは、それをどう積み上げていくかだけだった。
マティアスは、全員の視線が自然に集まっていることを確認してから、わずかに息を整え、そのまま静かに口を開いた。
「沢筋を下って、確認できる範囲まで見てきました。距離としては、それほど離れてはいませんが……途中で流れが変わっています」
一度、足元へ視線を落とし、指先で地面の土を軽くなぞる。
「来る道中見かけた沢は細いですが、下るにつれて本流に合流しているようです。幅も広がり、流れも安定している。あの規模であれば、短期間で枯れることはまずありません」
言葉は淡々としているが、その中に確信がある。
「周囲の様子ですが、水辺には踏み固められた跡がいくつか確認できました。人のものではありません。形から見て、獣です。一定の間隔で繰り返し通っている形跡があるので、水を求めて集まっていると考えていいかと」
そこで一度だけ顔を上げ、アルスの方へ視線を向ける。
「ただし、密集しているわけではありません。群れが留まっている様子はなく、流動的です。追えば取れる可能性はありますが、待って取れる状況ではない――その点は、先ほどの狩猟組の報告と一致します」
視線を戻し、言葉を続ける。
「さらに、その水辺から少し外れた場所ですが、同じ種類の実がまとまって生えている区域を確認しました。規模としては大きくはありませんが、点在しているわけではなく、ある程度まとまっているため、場所を把握して繰り返し見に行けば、継続的に採取できる可能性があります」
一拍置く。
「毒性については、現時点では断定できません。ただ、虫食いの跡があるものも見受けられましたので、全てが危険というわけではないと考えています。選別は必要になりますが、候補としては十分かと」
そこまで言ってから、わずかに間を置く。
報告というより、全体を組み上げるための最後の一手のように、言葉を選んだ。
「以上を踏まえると、この周辺で生活圏を組むのであれば――」
視線が、自然に全員へ広がる。
「水源としての安定性、獣の通過、採取の継続性、この三点が揃っています。距離も、現状の体力で往復可能な範囲に収まっています」
そして、静かに結論を置く。
「広げて探すよりも、この一帯を基点として整備した方が、結果として安定するかと考えます」
それ以上は言わなかった。
判断は委ねるが、材料はすべて出し切っている。
アルスはしばらく火を見てから、静かに言った。
「……広げる必要はなさそうだな」
誰に向けたわけでもないが、全員が聞いている。
「水を軸にする。範囲は絞る。戻れる距離で動こう」
視線がゼダンたちへ移る。
「罠は増やして。待てる形を作ろう」
ローザたちへ。
「採取も同じ場所を繰り返して。見分けを覚えないと」
そして全体へ。
「時間は掛かるかもしれないが、安定させよう」
ゼダンたちが持ち帰った獣は、火のそばへと運ばれると、自然にその周囲へ人が寄り、誰に言われるでもなく手が動き始めた。
ティムが膝をつき、獣の足を押さえながら刃を入れる。皮を裂く感触を確かめるように、ゆっくりと、しかし迷いなく刃先を滑らせていくと、血の匂いが熱を帯びた空気に混ざり、場の空気をわずかに変えた。
「……大した大きさじゃねえが、無駄にはできねえ。骨の周りも削げ。脂も落とすな。今は全部使う」
独り言のようでいて、周囲への指示にもなっている。
レオンがすぐに隣へ入り、枝を削って簡易の串を作りながら応じた。
「内臓は分けた方がいいね。傷みやすいものは先に火にかけるべきだ。火はまだ強くないけど、近づければ十分に通るはず」
ティムは一度だけ頷き、刃を動かしたまま言葉を返す。
「分かってる。火はまだ弱いが、弱いなら弱いなりに使うしかねえ。焼くってより、通すだけでいい。生で食うよりはましだ」
そのやり取りを挟みながら、肉は少しずつ切り分けられていく。量としては多くない。だが、確実に「食える形」へと変わっていく。
一方で、ローザは少し離れた場所に腰を下ろし、レオンの作業を不安そうに眺めながら、持ち帰った採取物を地面に広げていた。形や色の違う実や葉を一つずつ並べ、指先で触れ、匂いを確かめながら、使えるものとそうでないものを分けていく。
「……これは大丈夫。これは前に見たことがある。火を通せば食べられるはず。こっちは……似てるけど違う。形が揃ってないし、匂いも少し強いから、やめた方がいいと思う」
独り言のように続けながらも、その判断は慎重だった。
孤児の兄が横から覗き込み、少しだけ身を乗り出す。
「それ、見たことない。でもこっちは大丈夫。前に食べた。苦いけど腹は壊さなかった」
ローザは頷き、迷いなく分ける。
「じゃあ、そっちは使う。分からないものは混ぜない。量が減っても、その方がいい」
ヨアヒムはその様子を見ながら、少し遅れて腰を下ろし、並べられたものを一つ手に取ってしげしげと眺めたあと、ぽつりと漏らす。
「……こういうのって、ちゃんと料理しても好きじゃないんだよな。いや、食えるかどうかの話なのは分かってるんだけどさ……」
誰も答えない。
それぞれが自分の作業を続けている。
やがて、切り分けられた肉が串に刺され、火の上へとかざされる。まだ弱い火だが、距離を詰めれば熱は届く。じわりと脂が滲み、火に落ちて小さく音を立てると、その匂いが空気を変えた。
誰も言葉にはしないが、意識がそこへ引かれる。
「……焦るなよ。外だけ焼けても意味がねえ。中まで通せ。時間はかかるが、その方が確実だ」
ティムがそう言って位置を調整し、火との距離をわずかに変える。
レオンもそれに合わせ、枝を足しながら火を維持する。
火は大きくはならなかったが、消えることもなく、細く続く炎がかろうじて熱を保ち続けており、その不安定な均衡の上で、ようやく最初の一串が火から外される。
完全に焼けているとは言えない。だが、表面の赤は消え、最低限火が通っていることだけは分かる状態だった。
ティムはそれを一度だけ確かめるように見つめ、小さく息を吐くと、
「……これなら食える。回せ」
とだけ言い、次の串へと手を伸ばす。
その一言で、誰からともなく手が伸びていくが、順番が決まっているわけでもなければ、声を掛け合うこともなく、それでも取り合いにはならないのは、量が限られていることを全員が理解しているからであり、足りないことを前提に動くしかないという現実が、すでに共有されているからだった。
アルスも一本を受け取り、しばらくそれを見てから口に運ぶ。
歯を入れた瞬間に分かるほど硬く、味付けなど一切ない。ただ火を通しただけの肉だが、それでも確かに肉の味であり、ゆっくりと噛み、時間をかけて飲み込んでいくうちに、それがそのまま体の奥へ落ちていく感覚だけは、はっきりとあった。
周囲でも同じように、誰も言葉を発さないまま食べている。量は到底足りず、満足には程遠いが、それでも手を止める者は一人もいないのは、それを食べること自体が、次に動くための前提であると理解しているからだった。
やがて食べ終えた者から順に、自然と手が作業へ戻っていく。誰かが水を汲みに立ち、誰かが火の位置を直し、誰かが残った材を寄せていく――指示があったわけではないが、それぞれがやるべきことを見つけて動いている。
アルスは手に残った脂を布で拭いながら、しばらく火を見つめていた。
昨日と同じように見える炎だが、よく見れば消えそうだった揺らぎは減り、誰かが付ききりで見ていなくとも維持できる程度には安定しており、それに合わせるように人の動きにも無駄な迷いがなくなっている。
まだ何も整ってはいない。
だが、それでも確かにここで動きが繋がり、途切れずに続いているという事実だけが、静かに積み上がっていた。
火の周りにはすでに人が集まり、その中心で薪が低くはぜる音だけが夜の空気をわずかに揺らしていた。
周囲はすでに闇だった、この場だけがかろうじて光を保っている。揺れる炎に照らされた人々の影が、地面や周囲の木材に長く落ちては、また揺らぎ、そして消えていく。その光景の中で、昨日と比べても明らかに言葉は少なく、必要なこと以外は語られず、それぞれが自分の位置で黙々と手を動かしていた。
アルスはその輪の少し外に立ち、火を見ながら静かに視線を落とす。
手が汚れている。
土と灰と、そしてわずかに残る脂の匂いが、皮膚に染みついているように感じられる手であり、洗えば落ちることは分かっている。それでも今日一日確かに使い続けた証としてそこに残っている。アルスはその手をしばらく見つめたあと、ゆっくりと握りしめる。
迷いはなかった。
ただ目の前のことを積み重ねた結果として、この手がここにあるのだと、そう確かめるように。
もう一度、アルスは火へと視線を向ける。
何もない場所ではない。
だが、完成した場所でもない。
その間にある、途中の場所。
アルスはその事実を静かに受け止めると、ゆっくりと手を開き、再び輪の中へと戻っていった。
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