第21話 星を見上げる夜
大陸歴一四〇七年四月一日
夜は、早かった。
山を抜けて開けた場所へ出たはずなのに、光は思っていた以上にあっけなく落ちていく。西の空へわずかに残っていた淡い明るさも、山の稜線へ触れるとそのまま沈み、平地には長く伸びた影だけが残されていた。まだ完全に何も見えなくなったわけではないが、色はすでに薄れ始め、木々も石も、人の姿さえ輪郭だけをかろうじて残している。
そして、その暗さをさらに重くしていたのは、夜そのものではなかった。
火がない。
誰も口にはしなかったが、その事実だけは全員の中で同じ重さを持っていた。暗いことよりも、火がないことの方が、この場ではずっと大きかった。
荷は崩れた石積みの内側へ寄せられていた。少しでも風を避けられる場所を選んだ結果、人も自然とその周囲へ集まり、背を石へ預ける者、膝を抱える者、その場へ座り込んだまま呼吸を整える者が、それぞれ思い思いの姿勢で腰を下ろしている。
姿勢はばらばらだったが、誰も必要以上には離れなかった。
ここが安全だと誰かが言ったわけではない。
ただ、これ以上動けば、その先が持たないという感覚だけは、言葉にしなくても全員の中にあった。
ゼダンが、小さく息を吐いた。
「……今日は、ここまでにしておいた方が良さそうだな。まだ動けないことはないが、たぶんそのあとが持たない」
独り言にも聞こえる声だったが、それは誰かへ向けて判断を押し付けるものではなく、自分の中にある感覚へ線を引くための言葉だった。
誰も否定しない。
誰かが肩から荷を下ろすと、少し遅れて別の誰かも同じように手を離し、立ったままだった者がその場へしゃがみ込む。
膝をついた者は、そのまま動かなくなる。
明確な合図はなかった。
それでも動きは一つずつ止まり、気付けば誰も先へ進もうとはしていない。
止まる理由なら、すでに全員が持っていたからだった。
ティムは少し離れた場所へしゃがみ込み、片手を地面へついたまま指先で土を崩していた。暗さの中で目を凝らしているというより、感触だけを頼りに湿り具合を確かめているようだった。
指先へ付いた土を親指で擦り、しばらく黙った後で口を開く。
「水はあるな。しっかり湿っている。畑は作れそうだ」
一度手を払う。
乾き切った土ではなく、少し湿り気を帯びた粒が指先から落ちた。
「ただ、それ以外は何もねえな。食うもんも寝る場所も、このままじゃ長くは持たねえ」
断定というより、感覚をそのまま口へ出しただけだった。
レオンは少し後ろで立ったまま周囲を見回している。
森の縁、崩れた石積みの隙間、風で揺れる草の影。
何かを探しているというより、目に入るものを順番に頭の中へ並べているようだった。
「……余裕はなさそうです」
静かな声だった。
「ここまでの消耗も考えると、早急に手を打つ必要がありますね」
言葉はそこで止まる。
だが、その続きを聞かなくても意味は分かった。
ゼダンは座ろうとはせず、崩れた石積みの外側をゆっくり歩いていた。
足元を見て、少し先を見て、また別の方向へ視線を向ける。
暗くなっていても、不自然な音や影があれば見逃さないようにしているのだろう。
しばらくして振り返らないまま言う。
「人の気配はない」
一度言葉を切る。
「ただ、沢筋は通り道になる可能性がある。山を使う者が居ないとは言い切れんな」
それも結論ではなかった。
ただ、気にするべきことが一つ増えただけだった。
ヨアヒムは石へ背を預けたまま、ゆっくり息を吐く。
ここまで歩き続けてきた疲労が、止まった途端に身体へ落ちてきたようだった。
「……腹、減った」
ぽつりと呟く。
少しして、自分でも苦笑した。
「さっき魚いたのに……あれ、どうやって捕るんだろう」
誰も笑わない。
食わなければ動けない。
今は、その単純な事実の方がずっと重かった。
その時だった。
ぐう、と間の抜けた音が鳴った。
少し遅れて、ローザが顔を赤くする。
「……私じゃない」
誰も何も言っていないのに先に言い訳をする。
すると少し離れたところでティムが鼻を鳴らした。
「お前以外だったら逆に驚くわ」
ローザが不満そうな顔を向けるが、言い返す気力も残っていないらしい。
少しだけ空気が緩む。
ほんの一瞬だけだったが、それまで張り付いていた重さが少しだけ剥がれ落ちた。
アルスは、その全体を見ていた。
疲れている。
全員が疲れていた。
肩を落としている者も、座ったまま動かない者も、口数が少なくなっている者もいる。
止まったから楽になったのではない。
止まったことで、今まで動いている間は誤魔化せていたものが、一気に身体へ戻ってきているだけだった。
アルスはその全体を見ていた。
「……まだ決め切れないな。ここを拠点にするかも、何を優先するかも、材料が足りない。今無理に決めたら、多分どこか見落とす」
一度言葉を切る。
「でも、何もしないまま夜を越えるのは違う」
少しだけ周囲を見た後で、続けた。
「火を起こそう」
ティムが顔を上げた。
「……やるか。正直きついが、火が無いまま夜を越すよりはましだ」
アルスは頷く。
「全員でやる必要はない。動ける者だけでいい。残りは体力を温存してくれ。明日からの方がたぶん大変になる」
それで十分だった。
誰かがゆっくり立ち上がる。
崩れた石積みの隙間へ手を入れ、乾いた枝が残っていないか探す者が居る。荷を開いて火打ち石を探す者も居れば、周囲を見回しながら拾えるものを探しに行く者もいた。
動きは決して早くない。
立ち上がるだけでも、一度膝へ手を置いて身体を支えている者が多い。
疲労は隠しようがなかった。
だが、止まってはいない。
しばらくして集められた枝が地面へ置かれる。
細いもの、少し太いもの、半ば折れたものまで混ざっていた。
ティムが一本手に取り、軽く折る。
ぱき、と音はしたが、断面は白く乾いてはいない。
眉を寄せる。
「……湿ってんな」
別の枝も折るが、今度も同じだった。
雨が降ったばかりという訳ではないが、山の中の木は思った以上に水を抱えていた。
それでも、他に選べるほど余裕はない。
火打ち石を打つ。
火花が散る。
乾いた草へ落ちる。
何度か繰り返した後、ようやく小さな煙が立ち上った。
「あ、ついた」
ヨアヒムが思わず身体を乗り出したが、次の瞬間には細い赤がふっと消える。
誰かが息を吐きすぎたのか、枝の置き方が悪かったのか、それすら分からない。
少し間が空いた後、ティムが舌打ちする。
「……焦りすぎだ」
再び火花を散らす。
今度はゆっくりだった。
小さな赤が生まれるが、誰も手を出さない。
消さないように、ただ見ている。
しばらくして、その赤が細い枝の先へ移った。
煙が立ち上る。
また消えそうになる。
誰かが枝を近付けようとして、途中で手を止める。
今度は急がなかった。
少しずつ、少しずつ赤が広がっていく。
アルスはしゃがみ込み、拾ってきた枝を一本折った。
中まで少し湿っている。
しばらく火を見つめてから静かに言う。
「無理に大きくしなくていい。消えない程度でいいと思う」
大きくしたい気持ちはあった。
明るさが欲しいし、暖かさも欲しい。
けれど今は、それを欲張って消す方が怖かった。
焦りを抑えるための言葉だった。
やがて火は、ようやく形を保ち始める。
細い枝を組み、その内側へ残った火種を慎重に育てたことで、炎はまだ小さいながらも輪郭を失わなくなっていた。
湿った木が多いため煙は絶えず立ち上っていたが、先ほどまでのように少し目を離しただけで消えそうになる状態ではない。
誰かが付ききりで見ていなくても、すぐには消えない。
そこまで来て、ようやく人の肩から少し力が抜けた。
立ったままだった者が腰を下ろし、動き続けていた手が止まる。
何かが解決した訳ではない。
食糧も寝床も、何も増えてはいない。
だが少なくとも、次を考えるだけの時間は手に入った。
その中で、マティアスが荷の前へ座り込み、近くへ置かれた袋を一つ手元へ引き寄せる。
そして何も言わないまま、中身を地面へ並べ始めた。
干し肉が置かれる。
固く焼かれたパンが並ぶ。
布袋の口を解けば、乾燥した豆が小さく転がった。
数えているというよりは、散らばっているものを一度組み直しているような手つきだった。
袋の中身を出して終わりではない。
残っている量を目で見て、誰がどれだけ持っているかを思い出しながら、頭の中で何かを組み立てている。
その様子を、誰も口を挟まず見ていた。
火が小さく鳴る。
湿った枝がじゅ、と音を立て、煙が流れていく。
その音だけが妙にはっきり聞こえた。
量は、多くない。
数えているのはマティアス一人だが、結果を待っているのは全員だった。
何日持つのか。
もう全員が、それを聞かされる前から知りたがっている。
やがてマティアスが手を止めた。
並べた物をもう一度見てから、小さく息を吐く。
「……現状の備蓄では三日です」
一度だけ言葉を切る。
火が、小さく揺れた。
「かなり抑えて四日。ただ、それ以上は難しいでしょう」
誰もすぐには口を開かなかった。
思っていたより短いのか、予想通りなのか、それすら分からない。
ただ、その数字だけが静かに落ちた。
ヨアヒムが背を石へ預けたまま、小さく呟く。
「……三日か」
少し考える。
「いや、三日分なら三日で食いたいな」
冗談のつもりだったのかもしれないが、誰も笑わなかった。
腹が減るということが、今は笑い話にならない。
ティムが火の脇へ置いていた枝を一本手に取る。
指先で折り、断面を見て、そのまま火へ放り込んだ。
「四日じゃ足りねえな」
炎の向こうを見ながら続ける。
「狩りだって仕留められる保証はねえし、魚も同じだ。山の中なんざ、探したらすぐ見つかるほど都合よく出来てねえ」
レオンも静かに頷いた。
「戻るのも現実的じゃありませんね」
膝へ肘を置いたまま続ける。
「ここまで八日掛かっています。仮に戻るとしても同じだけ時間が掛かるでしょうし、その間の消費を考えると、途中で尽きる可能性の方が高いと思います」
可能性を並べているだけだった。
だが並べるたびに、選択肢が一つずつ消えていく。
少しして、ゼダンが口を開いた。
「ならば、確保するしかありませんな」
短い言葉だったが、その場の誰も否定しなかった。
「寝床も最低限は必要でしょう。食料だけあっても、人が倒れては意味がありません」
アルスは火を見つめたまま、その言葉を聞いていた。
何を優先するべきかだけは、少しずつ見え始めていた。
しばらく誰も口を開かない。
考えていることは、たぶん皆それほど違わない。
問題は何をやるかではなく、何を先にやるかだった。
アルスは足元へ落ちていた小石を拾い、指先で転がす。
少し考えてから言った。
「……全部必要なんだよね」
誰かへ向けた確認ではない。
頭の中で整理したものが、そのまま口から出ただけだった。
「食べる物も要るし、寝る場所も要る。周りがどうなってるかも知らないと駄目だと思う」
小石を地面へ置く。
「一つだけにした方が楽なのかもしれないけど、それで外したら終わる気がする」
狩りだけやる。
寝床だけ作る。
偵察だけ続ける。
どれも間違いではない。
だが、それ以外を止めた瞬間に足りなくなる。
ティムが腕を組む。
「まあ、狩りだけしても寝る場所無きゃ体力削られるしな」
レオンも頷いた。
「逆に寝床だけ作っても、食べ物が無ければ意味はありません」
ゼダンが小さく息を吐く。
「結局、手分けするしかありませんな」
アルスは頷いた。
他に方法が思いつかなかった。
余裕があるなら、一つずつ順番にやれたかもしれない。
だが今は違う。
止まって考える時間そのものが少なすぎる。
「……明日の朝、分けよう」
視線を上げる。
「食糧探す人、周りを見る人、それから寝る場所を何とかする人」
言ってから少し苦笑した。
「休めそうな感じはしないね」
その言葉で、少しだけ空気が緩む。
ほんの少しだけだった。
火が、小さく弾けた。
火の粉が夜へ浮かび上がり、すぐ暗闇へ消えていく。
誰もそれ以上は話さなかった。
決まったから安心した訳ではない。
明日から何をするかは見えたが、それで食べ物が増えた訳でも、寝る場所が出来た訳でもなかった。
問題は何一つ解決していない。
ただ、止まっていたものが少しだけ動き始めただけだった。
それでも、その差は大きい。
さっきまでの沈黙とは少し違っていた。
何をすればいいのか分からず黙っているのではなく、それぞれが明日のことを考え始めている。
火のそばに残る者もいる。
背を石へ預け、そのまま目を閉じる者もいる。
外へ視線を向けたまま、周囲の暗がりを見続けている者もいた。
やがて、一人、また一人と地面へ身を落としていく。
山の上の夜は深く、空には雲一つ無かった。
無数の星が頭上へ広がっている。
手を伸ばせば届きそうなほど近く見えるのに、そのどれもが何も答えてはくれない。
だが、それで良かった。
今は先の景色よりも、明日を迎える方が先だった。
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