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幕間6 ジョナスの逃避行

大陸歴一四〇七年三月九日


鐘は、すでに都市の空気そのものになっていた。


鐘の音が遠くで鳴り止んでも、人の動きは止まらない。


通りでは家の戸が次々に開き、荷を抱えた者たちが外へ出てくる。窓辺に立っていた者は家の中へ引っ込み、しばらくすると袋や箱を抱えて再び姿を見せる。


歩く速さはそれぞれ違う。


荷車を引いて急ぐ者もいれば、子供の手を引いて何度も振り返る者もいる。


それでも誰もが同じ方角へ向かっていた。


その中を、ヨシュア=ミュラーは歩いていた。


四十という年齢相応の落ち着きで、前を塞ぐ荷車を避け、人がぶつかりそうになれば半歩だけ身体をずらし、歩く速さだけは変えない。


止まらないこと、遅れないこと。


今はそれだけが必要だった。


「大切な物だけ持て。捨てられるものは捨てろ。ここに留まるな」


大声ではなかったが、近くを歩いていた者が何人か振り返る。


その言葉は命令というより、歩きながら何度も落とされる確認のようなものだった。


その隣を、ジョナス=ミュラーが歩いている。


まだ十歳の身体には、都市の速さは少し早い。


時折遅れそうになりながらも、それでも置いていかれないよう必死に歩幅を合わせ続けていた。


「俺がもう少し年長であれば、敵兵すべて槍で退治してやったのに」


言った声は、周囲の足音に紛れていく。


ヨシュアは叱りも否定もしない。


ただ一度だけ視線を落とし、それから何事もなかったように前へ戻した。


怒った様子もなければ、笑ったわけでもない。


その反応が許しているのか、聞き流しただけなのか、ジョナスにはまだ分からなかった。


一行の中には、さらに三つのまとまりがあった。


ヨシュアの前後に配置される四名の兵、そのさらに近くにはコンラートとユリアンがいる。


コンラートとユリアンは、ただの同行者ではなく、ヨシュアの息子であり、ジョナスから見れば従兄にあたる二人だった。


コンラートは少し前を、ユリアンは少し後ろを歩いている。


どちらもヨシュアから大きく離れない位置を歩いていた。


ジョナスには理由は分からない。


ただ、同じ家の人間なのに、自分とは立っている場所が少し違うことだけは何となく分かっていた。


「荷は最小限に。足の速い者を前へ。遅れる者は無理に引くな」


ヨシュアの言葉は兵にも、息子たちにも、そしてジョナスにも聞こえる声だった。


通りの先では、人の数がさらに増えていく。


すでに避難は個人の判断ではなくなっていた。


誰かが荷物を落とせば、その後ろの者が避け、そのさらに後ろも同じように避けていく。


立ち止まる者はほとんどいない。


ジョナスがその様子を見ながら言った。


「みんな、ちゃんと逃げてるな」


それは感想ではなく、見たままを口にしただけだった。


ユリアンが短く息を吐き、コンラートが一瞬だけ視線を上げる。


ヨシュアは歩く速さを変えない。


「人の流れに飲まれるな。我らは我らの速度で行く」


その直後、通りのどこかで叫び声が上がった。


しかし誰も振り返らない。


ジョナスだけが一瞬だけ視線を向けたが、それもすぐ前へ戻る。


「行くぞ」


その声に余計な言葉はなかった。


一行はそのまま、人の間を抜けるように進み続けた。


港に着くと、そこもまた騒がしくなっていた。


船へ積み荷を運ぶ者が走り、別の場所では縄を解く者がいる。


帆の状態を確かめている者もいれば、船へ積み切れなかった荷物を桟橋へ降ろしている者もいた。


皆それぞれ違うことをしているが、向かっている先は一つだった。


誰もがここから船を出そうとしていた。


その流れの中で、ヨシュアは一人の漁師に声を掛ける。


「すまぬが、我らを乗せてもらうことは出来ぬだろうか」


声を掛けられた男は、網を扱う手を止めなかった。


節くれだった指が、絡まった縄を慣れた手つきでほどいていく。


一度だけ視線を上げ、それからまた手元へ戻した。


「見ての通りでさぁ、今は皆、自分の船を沈めないことで手一杯ですわ」


断っているというより、今の港の様子をそのまま言ったような声だった。


ヨシュアは少しだけ間を置く。


「無理を承知で願いたい。せめてこの子だけでも頼めぬか」


押し出されるように、ジョナスが一歩前へ出た。


その瞬間だった。


漁師の手が少しだけ止まる。


今まで縄を見ていた視線が、初めて人へ向いた。


「その子だけ……? ……あんたら、もしやアルスの若様の身内か?」


アルスの名が出た瞬間、男の顔つきが少し変わった。


「アルス兄を知ってるのか? アルス兄は俺の兄だ」


ジョナスがすぐに言う。


漁師は小さく息を吐き、それからようやく縄から手を離した。


「……なるほどな」


そう言って視線をヨシュアへ戻す。


ヨシュアが続けた。


「お前はアルスを知っているのか?」


漁師は再び手を動かし始める。


「知ってるも何も、若様はな、こっちの顔を覚えてくださっていてな。港へ来るたび、ただの漁師にも声を掛けてくださる方でさぁ」


近くでは別の船で縄を引く音が響いていた。


だが誰も気にしていない。


港は変わらず動き続けている。


ヨシュアは短く頷く。


「アルスは別の方角へと逃避した。この子だけでも頼めぬか」


漁師は一度だけ空を見上げ、それから港へ並ぶ船へ視線を向けた。


「……そうですな。我々はここから北西へ、沖の小島を目指しますが、そちらでよろしいので?」


「どこであれ、この場を抜けねばならぬ」


ヨシュアはすぐ答えた。


漁師は少しだけ黙り、それから言う。


「その島には“紅鮭の頭領”というのがおりましてな」


「紅鮭の頭領……なんだか宴会でも開いていそうな名だな。急に『ごめんなさい』と言う言葉が頭に浮かんだぞ」


漁師の手が一瞬だけ止まった。


だが何事もなかったようにまた動き出す。


「……なんですかい、それは」


「さあな。何故か言わねばならぬ気がしたのだ」


しばらくして、漁師は小さく肩をすくめた。


そして船の方を見たまま言う。


「アルスの若様の身内となれば話は別です。皆に声を掛けます。分けて乗ってもらう形になりますが、それで構わんなら全員運びましょう」


ヨシュアの目が少し細くなる。


「……我ら全員か」


「ええ、任されましょう。アルスの若様は我々を大切にしてくだされた。そのお身内を嫌だと言う者は誰もおりますまい」


そう言うと、漁師はすぐ周囲へ向かって声を張った。


「おい、分乗させてくれ! 隙間を増やせ! アルスの若様の身内だ!」


港の空気が少しだけ変わるが、混乱したわけではない。


船の間を人が動き、荷物が移され、空いた場所へまた人が向かっていく。


なんとか乗せようと、皆が手を動かし始めていた。


その背を見ながら、ヨシュアは一つだけ問いを差し挟む。


「……その紅鮭の頭領とは、何者だ」


漁師は振り返らずに答えた。


「我らと同じ漁師ですよ。小島に百前後が住んでおりますが、その連中を束ねているだけの話でさぁ」


「誰の領地になるのだ。その頭領のものか」


「さて……そこまでは私にも分かりかねますな。ただ、皆あの人の指図で動いている。そういう場所であることは確かです」


ヨシュアは小さく息を吐いた。


「そうか……よく知っているな」


漁師はそこでようやく肩をすくめる。


「海の民には、海の民なりの繋がりがあるものですよ」


そう言うと視線を外し、そのまま歩き出した。


「さて、少し失礼しますよ。これだけの人数を急に乗せるとなれば、声を掛けねばなりませんので」


「お、おお……済まぬな、世話になる」


「島までは責任持ってお連れしましょう。ただし、その先は保証できませんがね」


「それで十分だ。そこからは我らでなんとかしよう」


ヨシュアはすぐに頷いた。


そして去っていく背中を見ながら、低く言う。


「アルスが繋いだ縁だな」


「アルス兄は、いつも皆の話を聞いて、それを父上に報告してたからな」


ジョナスの言葉は、自慢するような口調ではなかった。


ただ知っていることを、そのまま言っただけだった。


 


船は順番に岸を離れていく。


一斉ではない。


縄を解く順番も違えば、潮に乗るタイミングも違う。


先に出る船があり、その後ろからゆっくり動き出す船もある。


同じ港から出た船なのに、少しずつ距離が開いていった。


港を離れる時点で、分乗は終わっていた。


ヨシュア、ジョナス、コンラート、ユリアンの四人が同じ船に乗り、兵たちは別の船へ分かれている。


人数を分けるためでもあり、同時に全員を一つへ乗せないためでもあった。


船同士は近過ぎず、離れ過ぎず進んでいる。


近ければ互いの進路を邪魔するが、離れ過ぎれば姿が見えなくなる。


兵たちの姿はまだ見えていた。


だが声を掛けても届かないくらいの距離だった。


同じ方向へ向かっている。


それでも船は一つに固まらず、それぞれの間隔を保ちながら海を進んでいた。


やがて陸の音が消える。


残るのは風と波の音だけだった。


帆が風を受けて鳴り、船が水を切る音が繰り返し聞こえる。


さっきまでの騒がしさが、少しずつ遠くなっていく。


ヨシュアは船縁に手を置いたまま、しばらく海を見ていた。


やがて口を開く。


「単独の小島で生きているとは、余程豊かな島なのだろうか」


漁師は帆の張りを確かめながら答える。


「いや、全くですな。魚は捕れますが、それくらいで、水と葉もありますが、それも多くはない」


船は一定の揺れを繰り返していたが、身体も少しずつ慣れていく。


ヨシュアは少し眉を寄せる。


「よくそれで百名もの人が暮らしていけるな」


漁師は遠くを進む船へ視線を向けた。


「だからこそ、繋がっているんですよ」


「紅鮭の頭領は、紅鮭団という船団の頭領でもありましてな。他の島にも影響を持っており、時には通りかかった商船から、まぁ、色々と」


ヨシュアは途中で言葉を挟んだ。


「……それは、つまり海賊ではないか」


漁師は少し目を細める。


「さて、どうなんでしょうな。我々は海の上で、その色々と向こうの欲しいものを交換するだけなので」


ヨシュアは短く息を吐く。


「なんてことだ……交渉が纏まるだろうか。いや、やらねばならぬが」


その声は波の音へ消えていった。


ジョナスは船の縁から身を乗り出し、隣を進む船を見ていた。


そこには兵たちの姿が見える。


コンラートとユリアンは、その後ろで黙ったまま海を見ている。


視線は止まっていない。


風の向き、波、他の船との距離へと、時々動いていた。


この船には、大きな声を出す者はいなかった。


だが静かだからといって、不安なわけでもない。


船はそのまま進み続ける。


分かれたまま、同じ方向へ。


やがて水平線の向こうに、小さな影が見えた。


最初は点にしか見えなかったが、少しずつ形が見えてくる。


漁師がそれを見て、短く言った。


「……見えてきましたな」


その声に四人の視線が前へ向く。


そこにあるのは島だった。


逃げ場なのか、それとも別の何かなのか。


それはまだ誰にも分からない。


ただ一つ分かるのは、船がそこへ向かっているということだけだった。


島は少しずつ近付いていた。


引き返すという選択肢も、少しずつ後ろへ遠ざかっていく。


海は静かだった。


まだ何も決まっていない、そんな静けさだった。

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