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幕間5 カミルの逃避行

大陸歴一四〇七年三月九日


鐘は、まだ鳴り続けていた。乾いた音が何度も空へ響く。


その度に市場の人の動きが少しずつ早くなっていた。


市場では、店を畳み始める者が出ている。


樽を転がし、荷車へ麻袋を積み、売れ残った品を急いで抱え込む。


最初は数人だけだったはずなのに、気付けば隣の店も、そのまた隣も同じことを始めていた。


「おい、そっちも閉めろ!」


「先に子供乗せろ、急げ!」


誰かが叫ぶ。


別の誰かが荷縄を締め上げる。


道端では家から飛び出してきた女が、子供の肩を掴んだまま何度も周囲を見回していた。


敵の姿はまだ見えていない。城壁の上にも、街道の先にも煙は上がっていない。


それなのに、人々はもう荷物をまとめ始めていた。


街の空気はおかしくなっていたが、混乱しているわけではない。


だが誰も「まだ大丈夫だ」とは言わない。


鐘の音だけが何度も響き、その音に背中を押されるように、人の流れが通りへ出来始めていた。


家々の扉が次々に開き、背負い袋を抱えた男が出て来る。幼い子供を背負った女が出て来る。何も持たないまま早足で通り過ぎる老人もいる。


誰も立ち止まらない。


通りにはもう同じ方向へ進む流れが出来ていた。


周囲の顔を見ながら歩く者もいたが、それでも足は止まらない。


兵の姿は少なく、街の警備に立っていた者たちも、いつの間にか姿を消している。


代わりに見えるのは、避難民を誘導する使用人たちと、館の方へ走っていく伝令ばかりだった。


鐘が鳴る。


するとまた一つ店の扉が閉まり、一台荷車が動き出す。


そうしてローデンは、敵を見る前に少しずつ形を変え始めていた。


 


館の周囲は、不気味なくらい静かだった。


荷車の音や、人の声が風に乗って届いてくるのに、この辺りだけ妙に音が少ない。


正門は開いていたが門番の姿はない。


慌てて走る使用人の姿もない。


風だけが敷地を抜け、誰もいない石畳の上を通り過ぎていた。


玄関の扉だけが半分ほど開いたまま止まっていて、その隙間から薄暗い廊下が見えていた。


中へ入っても変わらず、机も椅子もきちんと並んでおり、壁際の棚も床の絨毯も乱れていない。


食器も片付けられないまま残っていた。


ほんの少し前まで、誰かがいたように見えるのに、人だけがいなかった。


窓から入った風が、机の上の紙を少し揺らした。


動いたのはそれだけだった。


外では都市が動いている。


荷車が走り、人が街を離れ、鐘が鳴り続けているのに、この場所だけ止まっているようだった。


人が抜けた後の静けさだけが残っていた。


 


路地へ出た瞬間、そこにはもう人の流れが出来上がっていた。


誰かが先頭に立っているわけではなく、怒鳴り声が飛び交っているわけでもない。


それでも人々は迷わず街の外へ向かって歩いている。


人々は荷物を選びながら進んでいく。


荷車へ積み切れなかった木箱が道端へ置かれ、重すぎた袋が建物の脇へ投げられる。


通りの端には、持ち出せなかった物だけが少しずつ増えていた。


必要だから持ち出した荷物でも、歩く邪魔になると分かればすぐ捨てられていた。



通りは、もう人で埋まり始めていた。


人の流れそのものが、街全体を外へ運んでいた。


鐘はまだ鳴っている。


その音に押されるように、ローデン全体が少しずつ街の外へ流れ始めていた。


そんな中で、カミルの周囲だけは少し違っていた。


「カミル兄さん」


後ろから声が聞こえる。


振り返ると、半弟のリドルがいつもの顔でこちらを見ていた。


周囲では大人たちが怒鳴り、荷物を抱えて走っている。


それなのに、リドルだけ妙に落ち着いていた。


「これ、どこに向かってるの」


焦った様子はなく、道を確認するくらいの軽い口調だった。


カミルは一度前を見る。


少し先では、ニコラスが同じ歩幅のまま人混みを進んでいた。


どこへ向かうのか正確には分からないが、それでも今は、あの背中を追うしかなかった。


「……どこへ向かってるかは、まだ分からない」


そう答えると、リドルは一度だけ瞬きをした。


「じゃあ、ついていけばいいんだね」


それだけ言って、また前を向く。


不安そうな顔はしていない。


答えを聞いて、そのまま納得したようだった。


その隣では、その弟のデニスが黙って歩いている。


人混みの中でも、半歩後ろの位置だけは崩れない。


カミルが少し歩く速さを変えると、デニスも自然に合わせてくる。


何も言わないが離れていく気配もなかった。


カミルは前を向いたまま、小さく息を吐いた。


この二人は慌てていない。


いや、周囲と同じものを見ているはずなのに、それを慌てることとして受け取っていないようだった。


「みんなすごいね。ちゃんと歩いてる」


リドルが周囲を見ながら言う。


感心しているというより、見たままを言っただけの声だった。


「止まると、押される」


デニスが短く言った。


考えを言ったというより、自分で分かったことをそのまま口にしたような言い方だった。


そんな中で、リドルが急にカミルの袖を軽く引いた。


「ねえ、離れないよね」


助けを求める声ではなく、ただ確認するような言い方だった。


カミルは少しだけ間を置く。


「離れない」


そう返す。


するとリドルは笑うわけでもなく、「うん」と小さく頷いて前を向いた。


デニスも変わらず歩いている。


周囲では街そのものが崩れるように動いているのに、この二人だけは普段と変わらない歩き方をしていた。


カミルはもう一度前を見る。


一定の距離を保って進むニコラスの背中。


その後ろを付いてくる二人。


崩れていく街の中で、その間だけ妙に変わらないものが残っている気がして、カミルは少しだけ目を細めた。


 


路地の人混みは、ある場所を越えたところで急に薄くなった。


肩を押され続けていた感覚がふっと消える。


前の人へぶつからないよう気を張っていた身体から力が抜け、何人かが小さく息を吐いていた。


気付けば、人の流れは街道へ出ていた。


街の中では、人に押されるまま進むしかなかったが、街道へ出るとその流れも少しずつ変わり始める。


歩く速さがばらけていった。


荷車に合わせて遅くなる者もいる。


先を急ぐように大股で歩く者もいる。


子供を抱えた女が道端で荷物を持ち直している横を、別の集団が追い抜いていった。


それまで一つに固まっていた避難民たちが、少しずつ分かれ始めていた。



背後には、まだローデンが残っていた。


だがもう、城壁や建物が見えているわけではない。


遅れて届く鐘の音と、風に乗って流れてくる人の声だけが、あの街がまだ動いていることを教えていた。


それでも振り返る者はいない。


街道へ出た人々は、ただ前を向いて歩き続けていた。


ニコラスが一度だけ歩く速さを落とした。


立ち止まるほどではない。


ほんの少しだけ速度を緩め、後ろへ視線を向ける。


カミル。


その後ろを歩くリドルとデニス。


三人の位置が変わっていないことを確かめると、ニコラスは何も言わず、また元の歩幅へ戻っていった。


それだけだった。


だが、それだけで列は崩れない。


カミルはその動きを視界の端で見ながら、小さく息を吐いた。


いつの間にか、自分たちは街の流れから少し離れ始めていた。


背後では今も避難民たちが街道へ出続けているはずなのに、その声は少しずつ遠くなっている。


街道は前へ続いているが、その先に何があるのかを口にする者はいなかった。


どこへ向かうのか分からないが、それでも足だけは止まらなかった。


一行は歩き続ける。


カミルは前だけを見ていた。


自分が何から離れ、どこへ向かっているのか。


まだ言葉にはできない。


ただ、自分たちがもう戻れない速さで前へ進み始めていることだけは、何となく分かり始めていた。


 


街道は北へ続いていた。


だがニコラスは、ある場所で急に進路を変えた。


足の向きを少し変え、そのまま何事もなかったように街道を外れていく。


踏み固められた道を離れ、草の生えた柔らかい地面へ入っても、歩く速さは変わらない。


最初からそこへ向かうつもりだったような歩き方だった。


後ろを歩いていた兵たちが、一瞬だけ足を止めかける。


「……ここは、少し開け過ぎています」


誰かが低く言ったが、ニコラスは振り返らない。


止まる様子もなく、そのまま平原へ向かって歩いていく。


前が止まらない以上、後ろも続くしかない。


そうして一行全体が街道を離れていった。


その時になって、兵たちもようやく気付き始める。


ニコラスが最初からこちらへ向かっていたのだと。


街道の先には、緩やかな起伏のある平原が広がっていた。


低い草が風で揺れていて、遠くには山の稜線も見える。


隠れられる場所は少ない。


本来なら、こういう場所は避けるべきだった。


追われる側ならなおさらだ。


それなのにニコラスは山へ向かわない。


何も遮るものがない平地を、そのまま真っ直ぐ歩いていくその背中は、逃げている人間のものには見えなかった。



背後を警戒していた兵の一人が、とうとう口を開いた。


「ニコラス様。いくら街道を外れているとはいえ、ここは見晴らしが良過ぎます。別の道を行きませんか」


声にははっきり焦りが混じっていた。


周囲には身を隠せる森もない。


少し進めば山へ入れる距離なのに、ニコラスはそちらを見る様子もない。


だが返ってきた声は、妙に落ち着いていた。


「儂に考えがある故、任せるがよい。何、悪いようには成らん」


ニコラスは振り返りもしない。


ただ前を向いたまま、それだけを言った。


何を考えているのかは言わない。


どうするつもりなのかも説明しない。


兵は口を閉じた。


だが納得したわけではないことは、その後も何度も周囲へ向く視線で分かった。


カミルたちも、そのやり取りは聞いていたが、リドルは気にした様子もなく前を向いている。


デニスも変わらず半歩後ろを歩いていた。


二人とも、ただニコラスの背中を追っていた。


対して兵たちは違う。


歩きながら何度も周囲を見回している。


何かあればすぐ動けるように、気を張り続けていた。


だが平原には何もない。


隠れる場所もない。


敵の姿も見えない。


そのせいか、兵たちの緊張だけが少しずつ重くなっていった。


 


やがて日が傾き始めた。


長く伸びた影が草の上へ落ち、一行の足元を引き延ばしていく。


それでもニコラスは山へ入らない。


平原は相変わらず広く開けたままだった。


そして最初に動いたのは、一行ではなかった。


遠くの地平線に小さな影が見える。


最初は揺れているだけに見えた。


だが少しずつ数が増え、形がはっきりしてくる。


馬だった。


さらにその後ろにも影が続いている。


隊列だった。


「……ニコラス様」


兵の声が低くなる。


遠くの影はもう馬の形になっていた。


数騎ではなく、その後ろにも列が続いている。


向かってくる速さと並び方を見れば、ただの避難民ではないことくらい誰の目にも分かった。


「我が軍ではありません。恐らくエリクセン軍の巡回か、進軍中の部隊と思われます」


兵は周囲を見ながら続ける。


「我らが少しでも時間を稼ぎますゆえ、急ぎ山へお入りください」


相談ではなく、敵を見つけた瞬間に出た、兵士としての反応だった。


だがニコラスは足を止めない。


「儂は任せろと言ったぞ。進路このまま。エリクセン軍と接触をする」


その言葉に、兵の顔色が変わった。


「そんな危険です。おやめください」


「うるさい。付いてこい」


短い言葉だった。


だが、それ以上何か言わせない強さがあった。


ニコラスはそのまま歩き続ける。


距離は少しずつ縮まっていった。


やがて向こう側もこちらへ気付く。


騎馬が左右へ広がり、槍が向けられる。


ゆっくりと、一行を囲む形が作られていった。


それでもニコラスは歩く速さを変えず、逃げる様子もない。


武器を抜く気配もなく、そのまま正面から歩いていく。


「止まれ! 貴様ら何者だ!」


鋭い声が飛んだ。


そこで初めてニコラスが足を止める。


だが止まったのは一瞬だった。


そのままさらに一歩前へ出る。


他の者たちは動かなかった。


いや、動けなかった。


何をすればいいのか分からなかった。


ニコラスは静かな足取りのまま、責任者らしい男の前まで歩いていく。


そして懐へ手を入れた。


兵たちの視線が一気に集まるが、取り出したのは武器ではなかった。


一通の書状だった。


それを見た瞬間、周囲の空気が少しだけ変わる。


ニコラスは何も言わない。


ただ、その書状を差し出した。


男は受け取り、封を確認し中を開く。


その間も槍は下がらない。


風が草を揺らし、馬が短く鼻を鳴らす。


やがて男が顔を上げる。


一度だけニコラスを見る。


「……気を付けて行くが良い」


それだけだった。


質問はない。


理由も言わない。


次の瞬間、包囲していた騎馬が静かに左右へ開いていく。


一行の前に道ができていた。


兵たちは戸惑った顔のまま立っていた。


何が書かれていたのか。


なぜ通されたのか。


誰も分かっていない。


カミルも黙って見ていた。


だが結局、分からないままだった。


ニコラスが軽く手招きする。


それを見て、カミルは前へ出た。


リドルも迷わず続き、デニスも変わらぬ歩幅のまま後ろへ付いて来る。


「はやくせんか」


ニコラスが振り返りもせず言う。


その声に押されるように、兵達もようやく動き出した。


警戒が消えた訳ではなく、背へ刺さるような視線も残っている。


それでも、開かれた道を通るしかなかった。


一行はそのまま、エリクセン軍の間を抜けて行く。


すれ違う兵達は無言だった。


槍を持つ手も、視線も、そのままこちらへ向けられている。


それでも誰も止めない。


やがて最後尾の兵まで通り抜けると、再び草原の風の音だけが戻って来た。


誰も振り返らない。


後ろで何が起きているのかを確かめる者もいないまま、一行はまた同じ速度で歩き始める。


遠くでは、まだ鐘の余韻が薄く空へ残っていた。


だがその音も、歩き続ける内に少しずつ遠ざかっていく。


やがて耳に残るのは、草を踏む足音だけになっていた。

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